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 最後のメールを送信して、真咲しずくは、ほっとわずかに嘆息した。
 月に一度とはいえ、どことなく気鬱な作業。忘れていた現実と、いやおうなしに向き合う時間。
―――寒……
 ふと気づくと、開け放っていた窓辺で、深海色のカーテンがゆらめいている。
 大学に入ってからずっと一人で暮らしていたマンション。父の遺産のひとつだが、自宅は処分しても、ここだけは残していた。
 帰国しない可能性の方が高かったのに、それでも未練のように残していたのは、楽しかった青春時代の思い出が、全てこの部屋に詰まっているからかもしれない。
 国道が近いせいか、外から車のクラクションが聞こえる。
 深夜二時。
 しずくはあくびをひとつしてから、騒音ごと窓を閉めた。
 さて、寝るか、明日もとことん忙しい。
 来客を告げるベルの音がしたのはその時だった。
 マンションのエントランスで、この部屋のボタンを誰かが押した音。
「………?」
 帰国して以来、一度も来客のなかった部屋。
 しかも、どう考えても有り得ない時間。
「はい……?」
 備え付けの受話器を取り上げる。そこから、階下の来客の声が拾える仕組みになっている。
「………俺だけど」
 機械越しに、くぐもった男の声が聞こえてきた。
 俺?
「うちに息子はいませんが」
 しずくはわくわくしながら、そう答えた。
 オレオレ詐欺だ!
 日本で流行ってるって聞いたけど、訪問販売もあったっけ?
「……つか、俺、」
「…………?」
 そこはかとなく、ろれつの回っていない口調。
 しずくは眉をひそめて受話器を持ちなおした。
「きりますよー、他あたってくださいね」
 と、受話器を置きかけた時、ようやくその声の主に思い当たった。
「………もしかしなくても、バニーちゃん?」
「………………」
「なにやってんの?こんな時間に」
 柏葉将だ。
 さすがにあきれた声がでた。
 現役アイドルが深夜をとうに過ぎた時間に、いくらマネージャーとはいえ、一応女の一人暮らし宅に。
「……ちょっと、……出てきて」
「はい?」
 出て来い?
 しずくは唖然として、再度壁にかかった掛け時計を見あげた。
「あのさ、バニーちゃん、もしかしてユー、時差ボケでもしてんじゃない」
「………そんな時間だっけ、」
「説教してほしいんなら、唐沢君でも呼んであげるわよ」
「………んじゃ、いいわ」
 少し怒ったような声がして、回線がそこでぶつっと切れた。
「ちょっ……、」
 なんなの、それ。
 むっとしつつ、それでもしずくは、敏捷に上着を羽織って玄関に向かっていた。


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「酔ってるの」
「酔ってる」
「アイドルの自覚は」
「とりあえず、ない」
「……………」
 しずくは、軽くため息を吐いて、自販機で買ったペットボトルを投げてやった。
 遊具に背を預けていた柏葉将は、それでも、しっかりとした手でボトルを受け取る。
「車じゃないでしょうね」
「……タクシー、そこまでバカじゃない」
 マンションに隣接している児童遊園。
 もちろん、無邪気に遊ぶ子供はおろか、猫の子一匹さえいない。
 小さなジャングルジムの前に立つ現役アイドルは、綺麗な喉をみせて、ミネラルウォーターを口にした。
「………………」
 マンションの明かりが逆光になって、男の横顔を翳らせている。
 伸びた影が、離れて立つしずくを追い越し、ブランコの方まで尾を引いていた。
「それにしても、子供の癖に深酒なんてね」
「子供じゃねぇだろ」
 怒ったような声が、返ってきた。
「……つか、いくつだと思ってんだよ」
 将は、ふてくされたように唇を尖らせる。
 もう、昔とは違う唇。誰かを愛し、愛されることを知った唇。
 目鼻立ちは昔のまま、どこか子供っぽさを残しているのに、首も肩も、腕も、いつの間にか男のものになっている。
 言われなくても分かってるけど。
 その言葉を飲み込み、しずくは軽く肩をすくめた。
「で、何の用?」
「……………」
 今度は、将が肩をすくめた。それからうつむき、少し難しそうな顔つきになる。眉を寄せて、それから何か言いたげに唇を開いて、そして閉じる。
「…………?」
「あのさ、」
「うん、」
「………あのさ、」
「…………?」
 ふいに影がしずくを覆う。
 ぎょっとして後ずさった時には、もう肩を抱かれていた。
「ごめん!!!」
「????」
 ばっと手が離される。
 刹那の、息詰るほど熱い熱から開放され、しずくは唖然と、少し前に立つ男の顔を見上げた。
「………そんだけ、」
「は?」
「んじゃ、おやすみ」
 きびすを返し、だっと駆けていく後ろ姿。
―――へ………?
 まったくもって意味不明。謝られるようなこと、何かしたっけ、この私。
 逆のことなら、沢山したけど。
 一人、月夜に取り残されて、しずくは、ただ、首をひねった。
 
 
                   8



「よう、元気してた?」
 大学の研究室、一人でパソコンに向かっていた男は、そう声をかけるといぶかしげに顔を上げた。
「……つかさ、学園祭の手伝いじゃねぇんだから」
 将は、パソコンデスクの端に腰を預け、差し入れの袋をその男――浅葱悠介の前に置いてやった。
「きまぐれで手伝うとか、やめるとか言うなって。お前推薦した俺の立場がねーじゃん」
「できねぇだろ、普通」
 悠介はそう言うと、黒縁めがねを指で押し上げた。
 ブランド物のシャツにジーンズ、何気に腕から除く時計はブルガリ。
 きっちりとセットされた短い髪からは、いつも仄かで、そして上品な香りがする。
「自分の女寝取られたのに、どこのお人よしが、そいつのコンサートスタッフなんかやってられるんだよ」
 悠介はそっけなく言うと、カチカチッとマウスをクリックして画面を閉じた。
「じゃ、俺、次、講義はいってるから」
 目さえ合わせないまま、すっくと立ち上がる。
 将はそれを足で遮ると、黙って、腕を組んだまま悠介を見上げた。
「聞きたくねぇの?」
「何を」
「俺と亜佐美が、どうなったか」
「…………」
 悠介の細い目がわずかにすがまる。
 が、それだけで、悠介は鞄をつかんで将の前をすり抜けた。
「あいつに泣きながら迫られたけどさ、悪いけど、パス。だってつまんねぇだろ、いっぺんやっちまった女なんて」
「……………………」
「つか、勘違いもいいとこだよ。なんだってこの俺が、パンピーの女にいつまでもこだわってなきゃなんねーのさ」
 固まっている悠介の背中に、将は立て続けに言葉を投げた。
「芸能界には、亜佐美程度の女なんて、掃いて捨てるほどいるんだぜ、そうだ、今度お前にも紹介してやろうか」
「………………」
「亜佐美なんてレベル的には結構下、お前には最高でも、俺には、なんつーか、ただの、」
 悠介が振り返る。将は襟首をつかまれていた。
 普段温和な友人の目が、今は怒りに震えている。
「……やっと、こっち見てくれたじゃん」
「もういっぺん言ってみろ」
「やめようぜ、たかが女のことくらいで喧嘩なんて」
 将が笑うと、悠介の顔色がさっと変わった。襟首を捕まれたまま、勢いよく壁に押し付けられる。
「お前に、亜佐美の気持ちがわかんのかよ!」
「……………」
「俺の気持ちがわかんのかよ!」
 激情に、手も声も震えている。将は黙って、そんな悠介をじっと見つめた。
「………俺が……亜佐美のこと好きだったから」
 わずかな沈黙の後。
 そう言って、先に目をそらしたのは、悠介だった。
「お前、それ聞いたから、………だから亜佐美と別れたんだろ、高二の夏」
「……………」
「言えよ、もういいだろ、亜佐美だって苦しんだし、俺だって苦しかった。それでも二人で乗り越えようとしてたんだ、限界だよ、いい加減」
「……………」
「言えよ、お前は飽きたとか重いとかテキトーなこと言ってたけど、本当は、俺のせいで別れたんだろ!」
「だったらどうだよ」
 将がそれだけを返すと、悠介の端整な顔が、目に見えて赤くなった。
「だったらどうだと?」
「つか、それが、そんなに大騒ぎするようなことなのかよ」
 ガン、と目の前で火花が散った。
 また殴られたのかと思ったが、そうではなかった。頭を壁にぶつけられた衝撃。
「そういうの、同情っつーんだよ!」
 ひきずられるように、床に押し倒される。
 将の上に馬乗りになった悠介は、そのまま激しく、将の身体をゆさぶった。
「顔もよくて頭もよくて、才能もあって、なんでもできるお前にな、俺の気持ちがわかんのかよ、なんにもわかってねぇんだよ!」
「わかんねぇよ、つか、わかるわけねぇだろ!」
 将は、痛みを堪えて反論する。
「なんだよ、その負け犬みてーな言い草は、お前がそんなだからな、そもそも亜佐美が迷ったりするんだよ!」
「てめぇに俺の気持ちが判るのかよ、亜佐美の気持ちがわかんのかよ!」
「だから、わかんねぇつってっだろうが!」
「じゃあ判れよ!」
 ふいに胸元を拘束する力が緩んだ。
 悠介が、ゆるゆるとうな垂れ、将の額に、その髪が触れるほど近くなる。
「……判ってくれよ……」
 すがるような声だった。
 将は、黙って、その肩越しの天井を見上げた。
―――莫迦悠介。
 てめぇこそ、判れっつーんだ。
「………判ってんのは、テメーがダチで」
 将は、静かな声で言った。
「俺にとって女なんかより、全然大切だってことだけじゃないか」
「……………」
 肩に悠介の額が触れる。
 それはそのまま押し当てられ、震えるような泣き声に変わった。
―――やれやれ、
 将は、その肩をぽんぽん、と叩く。
「亜佐美、いつもの店で待ってるから」
「………っ、うっ、……っ」
「あいつ、なんだかんだっつっても、お前のことしか話さねぇんだ、二言目には悠介がどうしたああした、結局、のろけられたんだよ、俺」
「………将……悪い……」
「三年も誰かとつきあえるのって、むしろうらやましいよ、俺」
―――そういう関係が、
俺にはまるで、わかんねぇからさ……。







この物語は全てフィクションです。実在の団体、個人に一切関係なく、
実団体、個人に対する作者の感情が、小説内にそのまま反映されているわけではありません。


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