4


「よう」
「久しぶりね、将」
 さらりと伸びた髪に、夜の街が乱反射している。
 わずかにずらしたサングラスをかけなおし、将は、微笑している女の傍らに歩み寄った。
「同じ大学なのに、会わないもんだな」
「将が来ないからよ」
 金曜日、どこが華やかな大通りを、肩を並べて歩き出す。
 ヒールを履いた長身の女は、将と目線が変わらなかった。
 服の好みも、髪の長さも、変わらない。ただ、フレグランスだけはあの頃とは違う。
 将は、横目で女を見て、それから少しだけ歩調を速めた。
「忙しいんだ、やっかいなことに」
「見てるわよ、嵐の十字架」
「オイオイ、嘘だろ」
「正確には、ママがはまっちゃってるから」
 そう言って将の顔をのぞきこむようにして、女は笑った。
 作り物のような左右対称の精巧な顔だち。
 目が細く、一見地味目だが、八頭身のスレンダーな体型や長い黒髪、びっくりするほど小さな顔は、並の女優以上に女の全身を美しくみせている。
 観月亜佐美。
 付属小学校時代からの級友は、学校でいつもそうだったように、今も、道行く人が振り返るほどの、目を引く美貌の持ち主だった。
「ひどくやられたのね」
「そうでもないよ、ぎりぎりメイクで隠せる程度」
 それでも笑うと、少しだけ内頬が痛む。
「まだ青みが引いてないわよ」
 通り過ぎざま、女子高生らしき女連れから、「えっ、今の似てない?」という声が聞こえた。
 ちょっと――まずかったかな、と今更ながら、将は軽く後悔する。
 まだ明るいアーケード街は、週末を過ごすカップルや、大学生らしき若者たちで溢れている。
「馬鹿よねぇ、悠介も」
 将からわずかに距離を置き、女は楽しげにくすくすと笑った。
「でも、誤解させた将も悪いのよ」
「……まぁ、あの夜は、酔ってたから」
―――つか、誤解ねぇ。
 将は、軽く嘆息して髪に手を当てた。
「誤解っつーか、曲解だろ」
「悠介は複雑なのよ、単純な将と違って」
 亜佐美は長い髪をさらりと指で払い、笑った。
「ずっと好きな女がいる、いまでもそいつのことが忘れられない――将らしくもない、何人前で、子供みたいな泣きごといってんのよ」
「つか、本当にそれ、俺が言ったセリフかよ」
 振り返った将は、少しだけムキになっていた。
 先週のオフ、悠介や大学の連中と久しぶりに行った新宿のクラブ。
 音楽よりも、久々に話で盛り上がってしまった。
 仲間で一人、卒業したら――という前提つきで婚約した奴がいて、そこをきっかけに、失恋自慢話、みたいな感じになったのは、覚えている。
 が、その後のことは――
「俺、ぜんっぜん、記憶にないんだけど」
 翌日、大学で同席した友人にひやかされて初めて知った。
(感動したぜ、俺)
(面倒だからマジな恋愛はしないって豪語してる将ちゃんが、そんな切ない片思いしてたなんてさ)
 驚いたなんてもんじゃない。むしろ、蒼白になっていた。最近、自分の苛立ちみたいなもんがピークになっていたのは感じていたが、そこまで自棄になっていたとは――。
 頼むよ、自分、つか、それじゃ、雅やりょうとかわんねーだろ!
「私は悠介に聞いたのよ」
 ハスキーな女の声が、将を現実に引き戻した。
「…………」
「でもそれ、私のことじゃないんでしょ」
「誰のことでもないよ」
 悠介は、隣の席だった。
 あの席で、唯一ノンアルコールドリンクを飲んでいた悠介に、結局あの夜、将は自宅まで送ってもらった。もちろん、その間の記憶は曖昧だし、悠介と何を話したかさえ、うろ覚えだ。
「でも、悠介は、そうは思わなかったみたい」
「……………」
 やれやれ。
 殴られた時は、わけがわからなかったが、すぐに電話があって納得した。
 そして、その電話をくれた相手と、将は今、何年かぶりに二人きりで会っている。
「つまり俺が、昔つきあってたお前に未練たらたらで」
 髪をかきあげながら言うと、
「その上、自分のために、別れてくれたんじゃないかと思い込んでる」
 亜佐美が面白そうに言葉を繋ぐ。
「オイオイ、俺らが別れたの、高校ん時の話だぜ?何年前の話だっつーの」
「悠介には、昨日の出来事と変わらないのよ」
「…………」
 はぁっ、と嘆息し、ジーンズのポケットに手を入れたまま歩き出した将は、少し考えてから振り返った。
「もちろん、誤解は解いたんだろうな」
「解くのは将よ、私じゃないわ」
 命令に命令できりかえす。
 この女の、昔から変わらない癖。
「……あのさぁ」
 将は、困惑しつつ頭を掻いた。
「つか、誤解されて困るのは、お前だろ」
 それには答えず、ふいに足を速めた亜佐美は、将と再び肩を並べた。
「飲みにいかない?」
「いっけど、……今から?」
 将は時計を見る。
 今夜はオフだから、時間があればこの後タクシーで移動して、雅之のサッカー練習につきあうつもりだった。
「つれてって、昔よく一緒にいった店」
「……………」
 真意を測りかねて眉をひそめた将の腕を、亜佐美はなんでもないように取った。
「元カノの悩みくらい聞いてくれたっていいじゃない、心配しなくても、アイドルとの恋愛なんてこっちからお断りよ」



                   5



「やさしすぎるのよね、悠介は」
 アルコールには強いはずなのに、たった一杯のカクテルで、亜佐美の目はもう熱を帯びていた。
「人の事情ばかり考えすぎるの、もっと自分のエゴを通したっていいのに」
「まぁな」
 そこが、あのバカのいいところだけど。
 一見大人し気な、大企業の御曹司は、けれど、週末、ステージに立つと人格が変わる。
 髪をガンガンに立てて、般若みたいなメイクをして、がなるように歌い、跳ねる。
 それでも素顔の悠介は、三年近くつきあった女の言うとおり、お人よしで、一本気で愚直、そしてじれったいほど心優しい男だった。
「頭で考えすぎなのよ」
 亜佐美は、グラスのポッキーを指先でつつきながら呟いた。
 こんな場所でも、亜佐美の美貌は注目を集めている。先ほども、カクテルを運んできた若い店員が、どこか意味あり気な目でじっと亜佐美を見つめていた。
「私の気持ちとか、将の気持ちとか……深読みしすぎ、考えすぎて、一人自爆状態よ、いい人だとは思うけど」
「……………」
「ちょっと、重いの、正直言うと」
 まぁ、それは。
 半分は俺のせいだろうな、と将は思う。
 将と、隣に座る女がつきあっていたのは、高校二年のはじめから夏の間まで。
 別れて、一年以上たった高校卒業間際、悠介の口から、「亜佐美とつきあうことになった」と聞かされた。
 あの日の悠介の、まるで東京タワーのてっぺんから飛び降りるみたいな覚悟めいた眼差しと、どこか気まずそうな表情を、将は今でもよく覚えている。
 将は、嘆息してグラスに残ったカクテルをあおった。
―――つか、だからって殴るかよ、普通。
 俺が亜佐美と浮気してるとか、やっちまったとかいう疑いならともかく、酔っ払った愚痴を聞いただけで。
―――ま、まさか、亜佐美の名前なんて、出してねぇよな、俺。
 そこは、微妙に自信のない将だが、今回のことは、間違いなく悠介のフライングというか、思いっきり深読みしすぎの勘違いだ。
 一本気な悠介の直情型性格は、時に予想を超えた行動をとることがある。
 今回も、また、一人で何か思い込んじまったんだろうが。
「俺さ、そこまで恋愛に深刻になる性格じゃねーって、言っといて」
「将のことなら、悠介が一番よく知ってるでしょ」
「あのさ、お前、悠介に」
 誤解されっぱなしでいいのかよ、と、言いかけた時だった。
「男にふられたのは、これで二回目」
 亜佐美は、熱で潤んだ目で将を見上げた。
「一人目は将、二人目は、昨日まで彼氏だったバカ男」
「……………は、」
「だから、誤解とく必要なんてないの、もう」
「………………」
 さすがに、将は唖然とした後、深いため息を吐いていた。
 別れてたのか。
―――あの、バカ野郎。
 やっと分かった。
 殴られた意味も、こうして亜佐美に呼び出された理由も。
「いいのよ、私、これで本当にすっきりしたから」
 亜佐美は、グラスのチョコレートをつまみあげた。
「だから悠介の思惑どおり、将を誘ってあげたのよ」
「………………」
 じゃあ、悠介は。
 今夜のことを、知ってるってことか。
 殴ってまで友情を切って、恋愛の方を選べという。いや……そういうの、確かに嫌いじゃないんだけど。
 その根底が、そもそも誤解からきてるって、どう言や判ってもらえるんだろう。
「もううんざりよ、何をしたって、何を言ったって、悠介はいつもこう思ってるの。まだ将のことが好きなんだろう?将に比べて、俺って情けないだろう?」
「……………」
「できすぎた親友って残酷ね、悠介は、きっと一生、将にコンプレックスを抱いて生きていくわ。それでも、将の傍を離れられないの。昔からそうよ、いじめられっ子だった悠介は、いつも将の背中にくっついてたから」
「酔ってんのかよ」
「羨望と嫉みと、――友情、ねぇ、どっちが勝ってると思う?女同士なら間違いなく決裂してるパターンだけど、男同士って、そんな主従関係ひきずったまま、友達なんてやっていけるの?」
「よせよ」
「美人はブスとしか友達にならないっていうじゃない?将はどう?自分より、格下の男を、本気で親友だなんて思ってる?」
「…………………」
 完璧に酔っている。
 まぁ、それも。
 もしかして、俺のせいかもしれねぇけど。
「この店も変わったよな」
 将は、話題をきりかえて、すっかり内装の変わった店内を見回した。
「もう、高校生なんてお断りって感じだな、昔はよく、みんなで遊びに来てたけど」
「かかってる曲は同じよ、将の好きなソウルナンバー」
「……………」
 照明が落ち、どこか切ない、甘い旋律が流れ始めた。
 正面では黒人のピアニストとシンガーが、演奏を始めている。
「忘れられない女って、……その頃、将が話してた人でしょ」
「忘れたなぁ、俺ってほら、移り気だから」
「パーシースレッジが好きだって言ってたじゃない、その人に初めて教えてもらった洋楽だって」
「………………」
 よりそってくる柔らかい温み。
「私にとっては、初めて将の気持ちに触れた曲だからかな、………ずっと好きだったのよ、私も」
「曲が、だろ」
 照明が淡くけぶる。
 周辺のボックス席は、ほとんどが二人連ればかりだった。
 ほの暗い照明とムーディなメロディ。自然と寄り添い、キスさえ交わしているカップルもいる。
 つか。
「………………」
 将は困惑したまま、視線を下げた。
 と、膝上のタイトなワンピース、滑らかな腿の半ばまでが視野に入る。
―――め、目茶苦茶まずい状況なんだけど、今。
 髪から、あの頃と変わらない香りがかすかにした。
 長い髪がいつも邪魔で、それを手で払ってやったことや、
 耳が悲しいほど薄くって、そこに何度も唇をあてた時の感覚が、ふいに生々しく蘇る。
「亜佐美」
 将は、やんわりとその身体を避けるように立ち上がった。
「悪い、ちょっと事務所に連絡いれないといけないんだ、すぐに戻るよ」
「どうぞ」
 用事なんて特にないけど立ち上がる。
 トイレを目指して歩きながら、どう言い訳してこの場をお開きにすべきか考えていた。
「………………」
 バタン、とサニタリーの扉を閉めた途端、がーっと動悸が襲ってきた。
 つか、マジやべーだろ、この状況!
 さ、最近、不思議なほど余裕がねーから、かつかつの理性が持つのかどうか。
 携帯を取り出し、いつもの番号をアドレスから呼び出す。
 呼び出し音の後、いきなり切り替わったのは無機質なメッセージだった。
「お、おいおい、着信拒否かよ」
 頼むよ、悠介……。
 その直情型性格を、頼むから俺に向けないでくれ。
「お客様、」
 とにかく冷静さを取り戻し、席に戻ろうとした時だった、将を呼び止めたのは、先ほどカクテルを運んできた際、亜佐美を見つめていた若い店員だった。
「あの、……お連れの方が、」
「…………」
 おどおどとかけられた声に、将は自分がいた席の方を振り返っていた。
「すいません、出すぎた真似をしまして、先日来られた時も、確かこの曲で」
 いかにも大学に入ったばかりといった感じの、優しい顔をした店員は、そう言って頬をわずかに赤らめた。
 店内から流れてくる曲。
 男が女を愛する時。
「お連れの方が急に泣き出されたから、お綺麗な方だったので印象に残ってて」
「……ありがとう」
 それ、多分、男の方は俺じゃねぇよ。
 悠介と亜佐美。
 つか、……なにやってんだよ、こいつら二人、なんだかんだっつって、三年もつきあってたくせに。
「……亜佐美、」
「将……」
 よりそってくる女の肩を、将は引き寄せて髪を抱いた。
「……ごめんね、」
「……………」
「悪いのは私……、ずっと未練残してたの、悠介、そういうの判ってたと思うから」
「……………」
「将には、」
 泣きじゃくる女の髪を、将は黙って撫でていた。
「将には、たくさんつきあった女の子の中の一人でも」
「……………」
「私には………、何もかも、初めてで………」
 唇を開きかけて、それでも将は、黙ったまま、眉だけをわずかに寄せた。
 どう言っても言い訳だし。
 何を言っても、この先はない。
「………最近、よくテレビに出るんだもん、……辛くなっちゃった、色んなこと思い出して」
「俺より、悠介の方が、男としては何倍もマシだよ」
「わかってる」
 亜佐美は素直に頷いた。
「……でも、今日だけは、傍にいて………今夜だけ、」
「……………」
「それで………本当に、忘れるから」








この物語は全てフィクションです。実在の団体、個人に一切関係なく、
実団体、個人に対する作者の感情が、小説内にそのまま反映されているわけではありません。


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