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「綺堂にスタジオ・アプリからオファー?」
 唐沢直人は、思わず眉を上げていた。
「ええ」
 正面に立つ、美波涼二は、落ち着いた態で頷いた。
「宮原勲監督の来年度の新作、千年物語で、主役に使いたいと、内々で営業部に打診があったそうです」
「………ふむ」
 唐沢は、眉を寄せたまま、唇に指を当てる。
「一昨年の獣神姫では、貴沢ヒデへのオファーを、うちはにべもなく断りましたからね、どうしましょうか」
「……………」
 そして、結果として獣神姫は、アカデミー賞で長編アニメ部門の金賞を得た。逃した魚の大きさに、あの時はほぞを噛んだものだが。
「ヒデではなく、綺堂か」
「ゲーム版で、いたく綺堂の声が気に入ったようですね。アニメ版の放送を待って正式に契約したいとのことですが、明日にでも、綺堂に直に会いに、収録スタジオに出向くそうです」
「宮原監督が、か」
「そのようです」
「………………」
 アニメか。
 くだらなすぎて、視野にさえ入れていなかった分野。昨年、アプリからオファーがあった時も、冗談かと思ったほどだ。なんだってうちのトップアイドルが、アニメなんかの声をやらなければならないんだ。
 たかだか長編アニメが一本あたった程度で、のぼせあがるのもいい加減にしろ。
 と、面会に訪れた宮原監督に会うことさえなく、あっさりと門前払いしたのが一昨年のことだ。
 しかし、その時と今とでは、アニメのステイタスは天と地ほども違っている。こと、宮原監督というブランドに守られたアニメは、すでに世界レベルでのシェアを得ている。
「綺堂め、早速、成果を見せたということか」
 唐沢は、上機嫌の笑みを漏らして立ち上がった。
 むろん、この機会を逃すようなら、芸能事務所の社長職は勤まらない。
「こちらからも、出向かなければならないだろう、一昨年の非礼もある」
「営業部長を行かせようと思います。私も同行するつもりです」
 お前がか、
 と、唐沢は意外な気分で美波を見る。
 実質、経営も営業も、事務所の全てを掌握している美波だが、表立って動くことは滅多にない。
「……綺堂に啖呵をきった手前がありますからね」
 美波は、わずかに微笑した。そして、すぐにその微笑を消して顔を上げる。
「あと、成瀬の件ですが」
「ああ」
 唐沢は、嫌なことを思い出した気分で首を振った。
「ヒデと河合にも困ったもんだ。あれは、あいつらが言い出したことらしいな」
「まぁ、予想以上に視聴率が伸び悩んでいますからね。彼らにしても、絶対に失いたくない看板番組だ、企画としては悪くないと思います」
「で?」
「お指図のとおり、試合直前で降板させることになりました。敵前逃亡――まぁ、成瀬にしてみれば、不名誉な顛末ですが」
「たかだか、バラエティで、髪を失うよりはマシだろう」
 しかし。
 唐沢は、苦い気分で腕組みをした。
「あれだけ素直な優等生だった、ヒデと河合が……一体最近はどうしたんだ、まさかストームに、妙な影響を受けているんじゃないだろうな」
「…………」
 顔を上げた唐沢は、対面に立つ男の顔に浮かんだ表情を見て、一瞬言葉をなくしていた。
「もうひとつ、緋川のハリウッドデビューのことですが」
 が、その表情はひと時で、すぐに美波は、いつもの怜悧な表情に戻る。
「うちが全額出資して新たな会社を設立し、企画、製作、配給は、全てその会社で進めていく予定です。ドリームリンクス、日映との契約も順調に進んでいます」
「判った。その件はお前に任せる」
 ありがとうございます。
 美波は神妙に一礼し、退室する。
「………………」
 一瞬ではあったが。
 あんな楽しそうな美波の顔を見たのは、随分久し振りのことだ。
 昔は、よく、あんな目をして笑っていた。
 仲間と、そして大切な人と、ひと時の青春を楽しげに過ごしていた。
 それを――
 唐沢は、表情を消して、受話器を取り上げる。
「俺だ、営業部へ繋いでくれ」
 過ぎたことだ、そして、二度と戻らない過去。
 例え、それをどんなに悔いていたとしても――。


                26


「綺堂君、」
 来たよ来たよ、いつものチェック。
 憂也は、そ知らぬ顔で台本から顔をあげた。
 本番前の最初のテスト。
 ため息まじりに近づいてくる監督には悪いが、もう、迷いはひとかけらもない。
「どうしたの、今日は、いつもとノリが違うじゃない」
「いやー、なんか妙に声がのっちゃって」
「演技しすぎ」
 水嶋監督は、そう言うと、そっと顔を近づけてきた。
「知ってるんでしょ、今日はあの宮原監督が視察にきてるって」
 憂也は顔を上げ、隣室の音響ルーム、そのガラス張りの窓ごしに立つ、小柄な男の姿を見た。
 ふぅん。
 あのおっさんが、この世界のてっぺんで神様か。
 ぼさぼさ頭に、どこにでも売ってそうな長袖シャツとチノパン。
 どこにでもいそうなおっさんじゃねぇか。あんなもんかよ、神様の実態なんて。
 が、藤村トオルなど、ここにきたしょっぱなから、もう緊張の極みである。さしもの保坂圭一もとちってばかりで、ここにいる全員が、アニメ界の神様、宮原監督をがんがんに意識しているのが伝わってくるようだった。
 再度、宮原を見上げた憂也は、その隣に、ふいに姿をあらわした人をみて、さすがにげっと、息を引いていた。
 すらりとした長身、ブラックスーツ姿の際立って美貌の男。
「………み、」
 美波さん??
 な、なんだってあの人がこんなとこに。
 宮原と美波は握手をして、何事か声をかけあい、二人して席を立つ。
「宮原監督は、わざとらしい声優の演技を何より嫌う人だから」
 口をあけたままの憂也の耳元で、水嶋がしつこくささやいてきた。
 その時にはもう収録室の扉があいて、その宮原監督と、そして美波涼二が憂也の傍に歩み寄ってくるところだった。
 全員が、しんとして、憂也と、そして世界の宮原の邂逅を見守っている。
「綺堂君」
 かすれて、すこし聞き取りにくい声。
 小さな男だ、が、目の前に立たれると異様なまでの迫力がある。
 これが、世界を手に入れた人だけが持つ、貫禄というか、オーラのようなものかもしれない。
「君の声を聞かせてもらった、いくつか、僕の立場からアドバイスしたい点があるんだが、かまわないかね」
 憂也が何か言う前に、
「お願いしますっ、ね、願ってもないことです、監督っ」
 と、水嶋がへどもどと頭を下げる。
 宮原はかすかに笑い、その視線を憂也に戻した。
「昔のアニメーションは絵もひどく、声優の演技で表現をカバーしなければ追いつけなかった。しかし今は違うんだ、綺堂君」
「………」
「今、日本のアニメーションは、世界でもトップレベルの技術を誇る。そこに、不自然な演技など必要ない、普通の生活を、そのままの声で吹き込めばいいんだよ」
 憂也は黙っていた。 
 背後に立ったままの藤村は、今どんな気持ちでその言葉を聴いているのか。
 不思議なくらい、頭に浮かんだのは、そのことだけだった。
「昔ながらの声優は、観客に媚びたしゃべり方しか学んでいない。観客の耳を信じていない。今の声優養成所にも問題がある、が、君まで、その悪習に毒されてはいけないな」
「………俺さ、悪いけど、その昔ながら声優学校の生徒だから」
 憂也は、台本を投げて、自分より小柄な、けれど見上げるほど巨大な男を見下ろした。
「つか、これからは俺のやり方でやらせてもらうよ、この役は俺が作るキャラなんだろ、監督」
「き、ききき、綺堂くんっ」
 と、水嶋が青ざめて両手を振る。
「自分が納得できなきゃ、五十話もこんなもんにつきあえるかよ!」
 その場の全員が、しん、となった。
 憂也は目を据えて、水嶋と、そして背後に居並ぶスタッフを見回した。
「おたくらさ、一体俺に何求めてるんだよ、俺、悪いけど、ちゃんと一般オーディション受けて、ごく普通の新人声優としてここにいるだけだから」
 青ざめているもの、ぽかんと口を開けているもの、全くの無表情の者――。
 美波が漏らしたため息だけが、わずかに聞こえる。
「J&Mの綺堂憂也使いたいならな、相応のギャラ払って呼びやがれ!」
 そして憂也は、にっと笑った。
「ただし、かなり高くつくけどね」


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「あ、成瀬君、」
 最初に声をかけたくれたのは、相方に逃げられたボケ芸人こと、おはぎだった。
「よかったー、もう来ないんじゃないかって、プロデューサーさんも心配してたんだよ」
 ぼっちゃん刈りのおかっぱ頭がトレードマークのおはぎは、心底ほっとした顔で、雅之の肩を叩いてくれる。
 気が優しくて、気の毒なほど押しの弱い男。まぁ、雅之も、人のことを言えるほど強気な性格ではないのだが。
 崖っぷち芸能人サッカー部の部室。
 他の連中は、一番遅れて来た雅之をまるで無視して、麻雀、そして漫画に熱中している。
 元サッカー選手、神尾と仙波の姿は見えなかった。
「………成瀬君さ、まぁ、不本意なのは判るけど、みんな仕事でやってることだから」
 おはぎが、ちょっとためらったように耳元で囁いてきた。多分、集音マイクに声を拾われないように意識しているのだろう。
「もうちょっと我慢しようよ、誰も本気で、アイドル丸坊主にしようなんて思ってないし、ぶっちゃけ、試合前に降りるんでしょ、君」
「………………」
 雅之は無言で、おはぎの肩を押すようにして前に出た。
 失うもんなんて最初から何もない。
 そうだよな、みんな。
「おっ、ロン、ツモ、親上がり」
「やられたー」
「オーバーヘッドキック〜、いけー、翼君」
「やりましょうよ」
 その声は、周囲の喧騒にかき消された。それでも雅之は、再度声を大きくして言った。
「やりましょうよ、みなさん、勝ちましょうよ、イーグルスに!」
 何人かが、視線だけ雅之に向ける。
 なに言ってやがんだ。
 寝ぼけてんじゃねぇの。
 そんな目をして、再び自分たちの楽しみに戻っていく。
「できねー話じゃねぇっすよ、モギーさんは帝協で、全国高校サッカーの準決までいったじゃないっすか、おはぎさんは、社会人サッカーのエースだったじゃないっすか、カズシさんはサンプラス広島ユースに所属してたじゃないすっか!」
「………控えの控えだよ」
 自虐ネタに飽きられ、すっかり出番のなくなったソロ芸人、カズシが呟く。
「元イーグルスの神尾さんも仙波さんもいるし、俺だって、しょ、小学校の地域リーグじゃエースでしたよ、勝てないって、頭から決めることはないっすよ!」
 それでも、全員が、へらっと無気力に笑い、それから呆れたように肩をすくめるだけだった。
「………………」
 そうかよ。
 ま、判ってたことだけど。
「………俺は、一人でもやりますから」
 雅之は肩にかけていたバックを下ろし、中から用意していたものを取り出した。
「おっ、っっ」
 最初に、悲鳴にも似た声を出したのはおはぎだった。
「まっ、まま、待てよっ、成瀬君っ!」
 みっともない逃げ方をするくらいなら。
 この程度のことなんて、なんでもない。
 ざきっ、と耳元で嫌な音がして、茶褐色の髪の塊が足元に落ちてきた。
 雅之は躊躇せずに、二度、三度、同じように、自らの髪にはさみを入れる。
 耳元が涼しくなる。側頭部も部分的に涼しい。つか、かなり面白い頭になってんだろうな、今の俺。
 全員が、――今は、唖然として雅之を見上げている。
「バリカン、持ってきてるんで」
 てっぺんの髪を手でつかみ上げ、そこにもはさみを入れながら雅之は言った。
「誰か、最後の仕上げ手伝ってもらえますか」
「……な、成瀬君」
 おはぎが、口をぱくぱくさせている。
「俺にしてみれば、命より大事なビジュアルなんで」
 雅之は、腹をくくった笑顔を、隠しカメラに向かって見せた。
 見たか、ヒデ。
 ざまぁみろ。
「視聴率稼ぎ程度に使われたくないんだよ!」



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「………そっか」
 話を全部聞き終えても、助手席に座る美少女は、表情を変えたりはしなかった。
「一応、俺が調べたことは、これで全部」
 将は、周囲を見回しながらそう言った。
 とは言いつつ、ひとつだけ隠していることがある。それは、将も、今日になって初めて聞かされたことだった。
 春の日の入りはまだ早い。6時だというのに、周辺はもう薄暗かった。
 凪はまだ黙っている。
 将は嘆息し、シートに背をあずけ、空を見上げた。
(ホントはね、柏葉将)
 つい一時間前に別れた、九石ケイの言葉が蘇る。
(成瀬君から、彼女の写真見せられたとき、かなり動揺したよ、私)
「……………」
 やっぱ、俺もまだまだだ。
 女心なんて、完璧に判ってるようで、実は全然見えてなかった。
(あの時のこと、一番知りたくないと思ってるのは、私なのかもしれない。美波君の婚約発表にあわせたスキャンダルのリーク、結局、リークの出所は判らなかったんだけど)
「……………」
 うちの事務所ならやるだろう。
 憂也とモーニングカールがいい例だ。
 あれは、間違いなくJ&Mの意向で、あえて発売させた記事だから。
 でもなんで、それでもなお――美波さんは、唐沢社長の腹心としてその傍にいるんだろう。フェイクにしては、真摯すぎるし、実直すぎる。
 美波涼二。
 最初は嫌な人だと思った。美波にしろ、唐沢にしろ、ただ若いタレントを食い物にしているだけだと思った。
 が、最近になって思う。
 この芸能界で生残るある種の哲学――それを、全て納得したわけじゃないけれど、彼らには彼らの、おそらく経営者の哲学がある。美波の態度に冷たさだけでない何かを感じたのは、雅之の事件が初めてだが、あれから――少し、将自身も、美波を見る目を変えつつある。
 唐沢社長のことだけは、いまだによく判らないが。
(……バカみたいだけどさ、心のどっかで、直人のこと、そこまで悪人だと思いたくないんだろうね、私)
 とは、今日、九石ケイが漏らした呟きだった。
―――つか、それ、もしかしなくてもコイゴコロかよ。
 かーっ、信じらんねーよ、あの九石さんが、あの、唐沢社長に。
「………切ないね」
 ふいに、助手席の流川凪が呟いた。
「ただ、好きだっただけなのに、どうしてそんなことになっちゃうんだろうね」
「………………」
 将は黙って、前髪を指で払った。
「アイドルだから、かな」
 それから、少し迷ってからそう言った。
 そうひと括りにするのもされるのも、内心、結構むかつくんだけど。
「ファンにとっての擬似恋愛の対象が、俺らの商品価値だから、……そこに利権や利益が絡む以上、残念だけどそういうことは」
「……………」
「昔話じゃない、今だって有り得るよ。雅は……美波さんとは比べモンにならないけど」
 雅之の名前を出すと、横顔だけを見せていた凪の表情が、わずかに硬くなった気がした。
「それでも普通のカップルと同じような付き合い方はできないし、してないだろ。それって、万が一ばれたら傷つくの、雅だけじゃなく、凪ちゃんもだからだよ」
「……………」
 しばらく黙った後、凪はわずかに笑って顔を上げた。
「面倒だね」
「だから俺は、その分サービスしてるんだけどね」
「柏葉さんなら、ある意味楽そう」
「よく言われるよ」
 絶対、本気になりそうにないからって。
「好きな人、いないの?」
「……いないかな」
「好きになった人は?」
「何、それ、将来冗談社にでも入るつもり?」
 将は笑って、ステアリングの上に肘を預けた。
「切ないなって思って」
 しばらく黙っていた凪が、ぽつりと呟いた。
「私がじゃないよ、……アイドルって、なんか切ない存在だなって、思って」
「………………」
 わずかに苦笑し、将は背後から近づいてくる車のライトを見た。
 そろそろ時間だ。
 彼女の結論が、俺の想定内だったらいいんだけど。
「今、一番、誰に会いたい?」
 将はそう言って凪を見下ろした。
 凪は、いぶかしげに瞬きをして、将を不思議そうに見る。
「最後のサービス、今、一番会いたい人のところに連れてってあげるよ、お姫様」

















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