14


「舞台に興味あるんだ」
 ふいに背後から声をかけられ、記事に見入っていた憂也は、少し驚いて顔を上げた。
「最近、アイドルの舞台進出がさかんだもんねー、綺堂君も予定あるの?」
 にこやかな笑顔で背後に立っているのは保坂圭一である。
 憂也は、いや別に、と曖昧に答えたが、保坂はうんうん、訳知り顔でうなずいた。
「やっぱり舞台は、俳優の最高峰だからね。君らがあこがれる気持ちはよく判るよ」
 その言葉には、自身がすでに舞台人であるという、微妙な自慢が含まれているような気がする。
「それ、片瀬君の記事?僕は観てないんだけど、今回のラビッシュの新作」
 アニメ「All The Pretty Mens」の二回目のアフレコ。
 試写まであと少しだった。放送分の試写があって、テスト、ラストテスト、本番、その流れで収録は進行していく。拘束時間は正味四時間、今からだと、夜の七時くらいまでかかる計算になる。
「観劇した友人の話だと、終盤あたり、声が殆ど出てなかったみたいだねー、あれじゃ、本業は当分無理だろうって気の毒がってたよ」
 本業ね。
 憂也は、適当に相槌を打って雑誌を閉じた。
 言っとくけど、俺らの本業が歌だと思ったら大間違いなんだけどな。
「でも余裕だねー、さすがは綺堂君」
 保坂はふいにそう言って、憂也の隣のベンチに腰掛けた。そこは、通常であれば、まだ来ていない藤村トオルの席だった。
「二回目にして、もう緊張のきの字もないからね。普通は必死で台本読んでる時間なんだけど」
 アニメの台本とは、基本的に本番当日手渡しである。
 だから声優の誰もが、短い待ち時間、必死になって台本のチェックをする。書き込んだり、イキと呼ばれるアドリブを入れるタイミングを計ったり、今も、余計な軽口を叩いているのは保坂くらいだ。
「……普通にいけって言われてるんで」
 憂也は所在無く言って首筋を掻いた。
 実は憂也一人だけ、特別に台本を前日に渡されている。おそらく、ベテランの中に混じる唯一の素人に対する温情だろうが、その特別扱いを、ことさら口にするのもしゃくに障った。
「そうだよね、綺堂君のよさは、演技っぽくないナチュラルなセリフ回しだからね」
「……………」
 いつも思うが、この保坂というのは、実に「ナチュラル」に嫌味を言う。親切面を気取っているが、その内心で、初参加したアイドルにあまりいい感情を抱いていないのがよく判る。
「最近は、スタジオアフリの宮原アニメでも、それが主流になってるからね。宮原監督は、俳優を好んでキャスティングしてるじゃない」
 知ってる?
 と、繰り返されるまでもなく、憂也もそれは知っている。
 世界の宮原、とまで呼ばれている日本アニメ界の巨匠、宮原勉。
 近年、莫大な予算をかけた長編アニメ映画を次々とヒットさせ、昨年ついに、アカデミー賞長編アニメ部門で金賞受賞という偉業をなしとげた。
「宮原さんが人気俳優を使ってそれが当たったから、ちょっとした大作アニメでは、声優よりむしろ俳優、それが、流行みたいになっちゃってるじゃない、まぁ、僕らにしてみると、そういう流行は、おまんまの食い上げなんだけど」
「俺は認めないね」
 ふいに太い声が、割って入った。
「短いセリフならいい、短い間なら、声から透けて見えるタレントの存在感だけで、新鮮な驚きを演出できる、しかし、長いものはだめだ」
 というより、この男の、こんなに長い言葉を初めて聴いた。
 憂也は、少し驚いて、背後に立つ藤村トオルの異相を見あげる。
「勉強しないヤツはもっとダメだ」
 藤村は吐き捨てるような声でいい、慌てて立ち上がった保坂が座っていたベンチに腰を下ろす。
 それは、あきらかに憂也に向かって吐かれた言葉だった。


                 15


「………、」
 おっと。
 と、憂也は、思わず足を止めそうになっていた。
 休憩時間にふらりと入った自販機コーナー、そこに、ぬっとした長身の背中がそびえている。
 黄色と緑の横じまシャツ。裾の部分が締まったジーンズ。
 ちょっと腰くだけになりそうなセンスでわかった、藤村トオル。
「どうも」
 一声だけかけて、憂也はその脇をすり抜けた。どうも嫌われているらしいが、元々関心のない男だから、別にどうこういうこともない。無視していればいいだけだ。
 本番前の休憩時間。やたら大声で叫ぶシーンが多かったため、微妙に喉がいがらっぽかった。ポケットから小銭を出して、適当にボタンを押す。
「お前、宮原アニメ目指してるのか」
 絡んできたのは意外にも藤村の方だった。
 憂也は驚いて、同時に取り出し口に落ちてきた缶ジュースに視線を戻す。
「いや……べつに、そんなだいそれた野望は」
 宮原アニメ?
 つか、全然興味ねーし。
「………棒読みのセリフ、自分が演技しているつもりの声、なっちゃぁいない、声優には声優の、独特の表現手法がある、それを俳優のイメージでカバーするのは勘違いもはなはだしい」
 つか、俺に言ってもしょうがねーだろ。
「演技してるのは、アニメのキャラだ、俺らの仕事はそこに声を合わせること、俺らが俺らの身体で演技してるんじゃない、出せるものはただ、声だけだ」
「はぁ」
 買ったばかりのコーラを片手に、憂也は立ちすくんでいた。立ち去るべきか、とどまるべきか。
「そして、アニメは人間じゃない、絵で細かな感情を表現するのは限界がある、それを補うのが声の演技で、だから普通の演技より、オーバーなアクションが求められるんだ」
「……………」
「お前の棒読みは、話の流れをだいなしにしている」
「……そうしろって言われてるだけなんすけど」
「最初の数回はよくても、いずれインパクトは消えて、あとは素人くさい印象だけが残るものだ。しょせん、俳優のやる声優の真似事なんてそのレベルだ」
 なんなんだよ、一体。
「はっきり言えば、お前の存在は不愉快だ」
「……………」
 変人だ。
 こんなヤツいたよ、クラスに一人。
 放っておけばいいんだ。
 憂也が黙っていると、藤村はふん、と鼻でわざとらしい音を立てた。
「アイドルならアイドルらしく、歌でも歌っていればいい」
「……………」
 その歌が、
「藤村さんの勉強とか、努力って」
 歌えねーんだよ、クソったれ。
「人前で、わざとらしく発声したり、基礎練習したりすることっすか」
 アイドルの反撃に、藤村の異相が、さっと険しくなるのが判った。
 憂也は髪をかきあげて、上目づかいに男を見上げた。
「かっこわりーなー、つか、俺には真似できないですね、一応、良識あるもんで」
「…………………」
 じゃ、本番で。
 と、背を向けかけた時だった。
 獰猛な力に襟首をつかまれ、憂也はそのまま、肩が軋むほど強く、壁に押し付けられていた。
「アイドル、お前に何がわかる」
 というより、今の状況からして理解できない。
「俺はな、この喉一本で、女房と子供三人を養ってるんだ、この声が俺の命で、俺の唯一の財産なんだよ!」
 喉が痛い。
「そんないかれた喉でのこのこアフレコにきやがって、夕べ何時まで夜遊びしてた、カラオケか、煙草か、俺の耳はごまかせねぇんだよ、甘え腐ったクソガキが!」
 知るかよ、その喉を、おっさんが、がんがん締め付けてんじゃねぇか。
「挙句が本番前に炭酸か、なめてんのか、この仕事を!」
「な、なにやってんだ、藤村さん!」
 泡を食った声がしたのはその時だった。
 保坂圭一である。背後から数人のスタッフが血相を変えて駆け寄ってくる。
「声優のなんたるかもわかってねぇお前にな、俺のやり方をとやかく言う資格なんてねぇんだよ!」
 最後に激しい口調で言われ、憂也はそのまま突き放された。
 ごぼごぼと咳き込んだ憂也の傍に、慌てて保坂が駆け寄ってくる。
「百万年早いわ、ボケ!」
 頭上で、まだ、藤村の暴言は続いている。
「ふ、藤ちゃん、まずいよ」
「相手はJのアイドルだよ、怪我でもさせたらどうすんのさ」
 憂也は痛む喉を押さえたまま、ただ、あえぐように咳き込み続けた。
 つか……
―――普通にサイテーじゃん、俺。


                16


 
演劇界に生まれた光と影、二つの新たな新星に迫る。
 この春、非常に興味深い舞台を見る機会に恵まれた。
 一人は、ご存知、貴沢秀俊である。
 世界を舞台に活躍する演出家、仁川達郎演出の舞台で、この春、華々しく舞台人としてのデビューを飾った。
 その初々しい純粋さ、ひたむきさ、儚さと可憐さ。仁川氏は、その独特の手法で、見事にアイドルタレントを料理したといえよう。貴沢秀俊の魅力がいかんなく発揮された、稚拙ではあるが――その稚拙ささえ愛しいような、そんな世界が、まさに「薔薇の掟」だったのである。
 それはまた、俳優としての貴沢秀俊の、決して凡庸ではない才能の片鱗を垣間見せるものでもあった。三島由紀夫賞は、話題と人気に助けられた感もなくはないが、貴沢の演技は、それを受賞するに足るものであったことも、また事実であったと著者は思う。
 間違いなく、近い将来、日本芸能界を背負って立つであろう貴沢秀俊。彼の成熟した演技が見られる日も、そう遠くないかもしれない。
 そしてもう一人。
 表立った批評家からはまったく無視された感があるが、同じくJ&M事務所から舞台人としてデビューした、片瀬りょう(ストーム)である。
 劇団ラビッシュは、全共闘時代のアングラを色濃く残した劇団で、どちらかと言えば、メジャーから一番遠い場所に位置している。正直、片瀬の起用は、彼の所属する事務所にとっても、コアなファンを持つラビッシュにしても、共倒れになりかねない危険をはらんだものだった。
 実際、片瀬りょうの演技は、こういっていいなら、まるで素人の域を抜けてはいなかった。いや、むしろ、演出の海老原マリが、あえてその素材を野生のまま放置した感がある。そして、その代償にとてつもない可能性を、――かつて仁川達郎と恋人関係にありながら、演劇感の違いから袂をわかった海老原マリは、見出すことに成功したのである。
 この素材の持つ可能性を、どう表現したらよいのだろうか。彼の抱える感情の深さ、暗さ、激しさは、ブラウン管から見せる笑顔からは程遠い。それは怖いほどリアルである。
 なのに、彼は舞台の上で、その生来の美しさをひとつも損なってはいなかった。このアンバランスな存在感は、むしろ奇跡と言ってもよく、


「おい、憂也」
 憂也は、雑誌から顔を上げた。
 掃除機を抱えたまま、リビングの隅で、雅之が片手を挙げている。
「あ……と、携帯鳴ってるみたいだけど、鞄の中」
「ああ、」
 ものうげに起き上がる。まだ喉がひりひりしていた。収録は明後日に延期になった。当然、藤村はプロデューサーに呼ばれ、散々叱責を受けたらしい。
(もしかして、藤村さん降ろされるかもよ)
 とは、保坂が囁いた言葉だったが、憂也には何も言えなかった。
 どこに、この感情を持って行っていいのか判らないまま、気がつけば、また雅之の部屋に戻っている。
「お前さ、時々……夜とか、どこ行ってんの」
 鞄をごそごそ探っていると、ためらうような雅之の声がした。
「ちょいちょいバイクで出てるみたいだけど、……事務所にバレたら」
「雅君みたいなドジは踏まないよ」
 ようやく見つけた携帯。
 着信を見て眉を寄せる。
 が、感情はすぐに切り替え、憂也は携帯を耳にあてたまま、ソファに背を預けた。
「なんだよこんな時間に、つか携帯にかけんなっつってんじゃん」
『………………』
「………千秋?」
 携帯からは、沈黙しかかえってこない。
―――?
 再度、相手の名前を呼ぼうとした時だった。
『…………憂ちゃん…?』
「………俺だけど、」
 探るような声、低くて、いつもの千秋とは別人のようだ。
『…………お願い、あるんだけど』
「……なんだよ」
『明日か、明後日、暇?』
「……………?」
 様子がへんだ。
 憂也は携帯を持って立ち上がった。傍らでは、雅之が心配そうな目を向けている。それを制して、声をひそめて玄関に向かった。
「つか、アイドルにそうそう暇なんてねーよ、なんなんだよ、一体」
『………一緒に………行ってほしくて』
 かすれて、消えてしまいそうな声。
「どこへ」
『………………』
 しばらくの沈黙の後、千秋が呟いた言葉に、玄関で靴を履きかけていた憂也は足を止めていた。
「……って、お前、どっか悪いのかよ」
『…………悪いといえば、悪いかも』
「わかんねーよ、はっきり言えよ」
 苛立って携帯を持ち直す。
『赤ちゃん、できたみたいで』
「…………………」
 は?
『………ついてってほしい、病院』
「……………は?」
 一瞬、白く固まった時が動きだす。
「つか、……意味わかんねーんだけど」
『…………一人じゃ、なんか怖くて』
「何いってんの、お前」
『…………………』
「ちょっと待てよ」
 意味わかんねーし。
『だってもう会えなくなるじゃん!』
 電話の向こうで、感情が壊れたような声がした。
『子供ができたら、もう会えなくなるじゃん、ご飯つくりにいけなくなるじゃん!』
「………ちょっと待てよ、つか、意味わかんねーよ」
『……憂ちゃん、』
 泣いている。
『憂ちゃん、私……、』
 声も、多分手も震えている。
『私、本当は、』
「知らねぇよ!」
 憂也は声を荒げていた。
「お前、自分が何いってんのか、マジで理解してんのかよ!」
『…………………』
「どこの莫迦が、自分のガキでもない子供のために、病院に付き添ったりするんだよ、ありえねーだろ、普通」
 ありえねーだろ。
 電話の向こうから、すすり泣きだけが聞こえてくる。
「…………もしも、だけど」
 激情を奥歯でかみ締めて、憂也は低く呟いた。
「あの時、どっかの莫迦が、照れたり怖がったりせずに、告白してたとしても、」
『………………っ』
「どっかの莫迦女が、ふざけたりごまかしたりせずに、ちゃんと認めたとしても、」
『……ひっ……くっ……』
「無理だよ………」
『……―――っっ』
 いまさら。
「……無理だよ、……千秋、」
 どうにもなんねーよ。
 電話の向こうから、せきを切った泣き声だけが聞こえてくる。
 憂也は壁に背をあずけたまま、片手で目を覆っていた。








                     
                              
                    


 >back  >next