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「うーっす」
 見慣れない色彩の靴がある。
 年齢的に凪ちゃんじゃねぇし、サイズ的に真白ちゃんでもねぇし、趣味的にミカリさんでもねぇな。
 と、思いつつ、柏葉将は、いつもどおりの挨拶をしてスニーカーを脱ごうとした。
「しょ、しょっ、将君!!」
 いきなり飛び出してきたのは、この部屋の正式な賃借人、雅之である。
「おう、びっくりしたよ、靴が綺麗に揃ってるし」
 脱いだスニーカーを揃えながら将は言った。
「俺の教育が徹底してきたのかな、いいか、雅、整理っていうのはな、人間の基本中の基本の」
「そんなことどうでもいいんだよ!!」
「………………どうでもいいってのはどういう意味だよ」
 襟首を掴んで壁におしつけると、雅之は泣きそうな顔をさらにくしゃくしゃにして悲鳴あげた。
「将君、憂也が分裂したんだ」
「へ?」
「あ、あのキャラが二人に増殖したんだよっ、もう俺、やだよ、こんな生活」
 なんの話だ?
 ようやく開放された雅之が、苦しげに息をあえがせる。
「あっ、嵐の十字架!」
 可愛らしい声がいきなりした。
「…………」
 将は黙って、目の前に立っている女を見下ろす。
 最近、どこへ行っても初対面時に言われる言葉。その割には視聴率の伸びが悪く、DVDの発売も見送られたと聞いているのに。
「あがってあがって、今、ご飯できたばっかなの」
 エプロン姿の女は、楽しげにそう言って、手にしたおたまを振り回した。
 キャラメル色の天然っぽいウェーブがついたショートカット。目がくりっとして、そこだけが、きらきらといたずらっぽく輝いている。美人というより可愛い感じ。
 小柄で――多分、流川凪と同じくらいだ。身長も雰囲気も、憂也と並ぶとお似合いだろう、多分。
 まだ玄関に立ちっぱなしだった将の背後で、扉が開いたのはその時だった。
「おう、将君、来てたんだ」
「ゆ、憂也っ」
 将が何か言うより早く、雅之が猛ダッシュで飛び出していく。
「お、お、おま、お前な、いいか、それがどんだけすげーことか、マジでわかってんのか」
 なんの話だ?
 どうも、雅之の展開についていけない将は、首筋をかきながら、憂也と、そして女を交互に見る。
「とにかく、こ、小泉ちゃんに相談しよう、あ、ま、真咲さんがいいかな、と、とにかくだな、こういうことは、その、慎重に」
 雅之一人が、なにやら興奮状態である。
 興味なさそうな目で、しばし玄関に立ったままだった憂也は、ちらっと女を見上げ、かすかに嘆息した。
「で?体調はどうなの」
「順調なり」
「だめじゃん、安静にしてないと」
「パパの顔が見たくってー」
「今日のメシ、何?」
「憂ちゃんの好きな、デミグラスソースたっぷりのハンバーグなのだ」
「あー、そんな気分じゃないんだよなー」
 将の傍をすり抜けた憂也は、女と肩を並べてキッチンの方に消えていく。
―――え………?
 夫婦?
 なんだ、このナチュラルに不自然な会話は。
 思わず、将は、玄関で呆けている雅之の顔を見る。
 扉の向こうで、人の気配がしたのはその時だった。
「お、みんな来てんの?」
 扉が開いて顔を出したのは、東條聡である。
「いやぁ、今日ラジオで、りょうと一緒だったからさぁ」
 周囲の不思議な雰囲気にこれっぽっちも気づかず、聡は呑気に靴を脱ぎ始めた。
「雅んち行こうって誘ったんだけどさ、ダメだね、なんか完全に欝はいってるよ、りょうのヤツ」
 大阪の舞台以来、りょうはずっと自宅のマンションにこもりっぱなしだ。ただ、将は、今回ばかりは放っておくことに決めている。
 今、りょうの精神のバランスが取れていないのは、決して悪い意味ではない。そして、それは、りょうの将来のためにも、自身で乗り越えなければならない壁だと思うからだ。
 ただ、気になるのは、最近メールしても返事がない、りょうの恋人のことで――
「って、そんなことゆってる場合じゃねーんだって!!」
 雅之が、形相を変えて二人の間に割り込んできた。
「ゆ、憂也が、パパに、その……とにかく、タイヘンなことなんだよ、これは」
 聡が、不思議そうに首をひねる。
「何、玄関でもめてんだよ」
 いったんキッチンに消えた憂也が、ひょい、と顔を出したのはその時だった。
 その背後に女の顔ものぞいている。
 全員の顔を見て、憂也は指で、背後の女を指し示した。
「こいつ、千秋、数字の千に季節の秋、えーと、俺んちのご近所さんで、」
 そこで、こりこりと頭を掻く、
「俺の兄貴の婚約者、来月には義理のねーさんになる人だから」


                 9


「え、じゃあマジで嘘だったの?」
 雅之は、まだ信じられないまま、呆然と呟いた。
「こいつ、嘘ばっかなんだ、もう口からでまかせ女だから」
 フォークでハンバーグをつつきながら、憂也が心から呆れた声で言う。
「ありえねーだろ、普通信じんなよ、なんだって俺が、そんなドジふまなきゃなんねーんだよ」
「軽い挨拶のつもりだったんだけどなー、だって素直に信じるから」
 聡にご飯をよそいながら、女――憂也が、千秋、と紹介した女は楽しげに言った。
「だって普通、有り得ないでしょ、こんなスレンダー美人が妊娠してるなんて」
 ねっ、と肩を叩かれ、にっこりと笑顔を向けられる。雅之は釈然としないものを感じつつ、はぁ、すいません、と謝っていた。
 いや、そういう問題じゃないような……。
 つか、それじゃ、買い物いかされたり、憂也に電話させられたり、挙句、せっかく上手くいきかけていた凪に誤解された俺の立場って……。
「雅君、おかわりいる?」
「あ、ハイ」
 なのに、即座に答える自分が情けない。
 が、憂也の幼馴染が作る料理は、全て、真面目に絶品だった。
 どこかの料理店に並んでもおかしくない味だし、製造過程に全てつきあわされた雅之は、出汁から全てが、千秋の手作りだと知っている。
「ま、そもそも信じる方がどうかしてるよ」
「憂ちゃんの言ってたとおりの子だったねぇ」
「言っとくけど、雅を泣かしていいのは俺だけだからな」
 絶対に似たもの夫婦だ。
「……………」
 雅之は、憮然として、グラスのお茶を飲み干した。
 いや、夫婦じゃないけどさ。
 それにしても似合いすぎだ、会話もそうだし、ご飯をよそうタイミングなんかも堂にいっている。いっそのこと、兄貴なんかじゃなくて憂也と結婚すればいいと思うほど。
「憂也の兄貴って……たくさんいたんじゃなかったっけ」
 ようやく口を挟んだのは、それまで不思議そうに二人を見ていた聡だった。
 ああ、そうだ、そう言えばそんな話、前にりょうがしていたことがある(ファンクラブ通信参照)。
「いんや、一人」
「だって前、教師とかエンジニアとか刑事とか、なんか、色々やってるとか言ってなかった?」
「頭いいんだ、もう目茶苦茶」
 憂也はひょい、と肩をすくめた。
「昔から頭よすぎて、しかも、何やっても長続きしない変人でさ、興味がかわるたんびに大学も入ってやめるの繰り返し、結局は弁護士になって、今はロスで生活してる」
「国際弁護士なんだよねー、もう超かっこいいの」
 と、嬉しそうに相槌を入れたのは千秋。
「いくつ?」
「俺よか、五つ上」
 憂也はそう言って、指で机の上に字をなぞった。
「そうじ……悲愴の愴に、数字の二、つか、莫迦だろうちの親、なんだって長男が悲愴で、次男が憂鬱なんだよ」
「二人とも、性格が思いっきり名前負けしてるしね」
「うるせーよ」
 食事が終わったので、千秋が立ち上がって片付けはじめる。憂也をのぞく全員がそれを手伝おうとしたが、「コーヒー入れるから座ってて、私、家事大好きなの」と、千秋は楽しげにそれを制した。
「ほんと、上手かった、もしかしてプロの料理屋さん?」
 それでも、カップを重ねながら聡が聞く。
「ううん、ずっと家事見習いのプータロー」
「結婚するするっつって、兄貴がずっと待たせてたからさ」
 座ったきり、相変わらず目の前の食器さえ片付けない憂也は、所在なげにテレビのリモコンを持ち上げた。
「千秋さん、そんなに好きなんだ、その悲愴さんが」
 と、そのリモコンを取り上げて、憂也をひと睨みしつつ、将が言った。
「愴ちゃん?だって、超かっこいいもん」
 キッチンから、ハミングまじりの声がかえってくる。
「憂ちゃんから聞いてない?愴ちゃん高校までは野球やっててねー、選抜大会で準優勝、ピッチャーでさ、ジャイアントにドラフト指名までされたんだよね」
「決勝で負けたからって二度と野球はしないって、兄貴ってそんなヤツ」
 千秋もそうだが、憂也の血縁者には絶対係わり合いになりたくない――雅之は内心そう思っていた。


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「やっと判ったよ、憂也のだらしなさの理由」
 将が背後からそう言うと、泡だらけの食器を手にした千秋は、不思議そうな目で振り返った。
「昔から君が、何もかもやってあげてたわけだ」
「家が隣だし、憂ちゃんのお母さん忙しい人だしね」
 洗った食器を受け取って、将はそれを丁寧に布巾で拭いた。
「メシ、マジで上手かったよ」
「わお、それが噂の青大将?」
「…………………」
 なんだよ、それ。
 将はむっとしつつ、リビングで聡と話している憂也を見る。
「憂也、君にはなんでも話してるんだ」
「お互い暇な時は暇だしねー、綺堂家の晩御飯は、大抵あたしが作りに行ってんたけど、結構だらだらしゃべってるよ」
「……………」
「また来てあげるねー、来月結婚式なんだけど、それまで暇してんだ、あたし」
「どこであげんの?」
「横浜のホテルプリンス。すごいよー、式場フロア貸しきりなの。愴ちゃんが顧問やってる会社の系列とかで」
「へぇ…」
「あ、青大将、コーヒーはブラック派?」
「…………あのさ」
 その言い方は勘弁してくれ。
 将は、再度背後を振り返り、そして言った。
「嵐の夜」
「………?」
 千秋が眉をひそめて振り返る。
「憂也の初体験の相手って知ってる?」
「………………」
 何度か瞬きした後、千秋はふいに手を叩いて笑い出した。
「ああ、あれ、知ってる知ってる」
「おい、何話してんだよ」
 リビングから、少しけげん気な憂也の声がした。
「どんだけドジなんだっつー話でしょ、聞いたのは随分たってからだったけど」
 よほどおかしいのか、目の端を拭いつつ、千秋は声をひそめて言った。
「大事な憂ちゃんのお初奪った女だからね。さすがにむかついて探し出してやろうじゃないって言ったんだけど」
「……………」
「それだけは勘弁してくれって、真っ青になってんの、よほどイヤだったんだろね、ある意味同情しなくもないけど、笑っちゃった」
「ふぅん……」
 もともと人懐っこい性格なのか、千秋はすっかり全員に懐いてしまったようだった。
 しきりにセイバーの話を聞きたがる千秋に、今は聡が相手をしている。雅之は部屋から出て行って、憂也はソファに背を預けたまま、雑誌か何かを読んでいるようだった。
「可愛いな、千秋ちゃんって」
 ベランダに立つ将に、そう言って背後から近づいてきたのは聡だった。
「あれで俺らより年上には見えないよな、なんか姉さん女房って感じ」
「憂也のだろ」
「あ……まぁ、」
 そこで、ちょっと気まずげに、聡でさえ口をつぐむ。
 月は、重く雲に包まれている。風にはわずかに春の匂いが混じっているような気がした。
「………嘘つき憂也の、嘘つき彼女か、」
 将は呟き、背後から聞こえる楽しげな女の声に嘆息した。






                     
                              
                    


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