4



「あれ、一人?」
 リビングに入ってきた凪は、そう言って周囲を見回した。
「あ、ああ、な、なんかまぁ、たまたまっつーか、なんつーか」
 信じられないのは、雅之もまた同じだった。
 一人?
 本当に本当に一人かよ。
 思わず、部屋中を探索したくなるほどだ。
 が、雅之に痴呆が入っていない限り、この部屋は、今日の夜まで、自分一人きりのはずだった。
「受験の方は、どうなってんの」
「んー、後は面接だけだしね、国立だめだったのは痛いけど、終わったなって感じ」
 凪はさばさばと言って、学生鞄をソファの上に置くと、所在無く部屋の中を見回した。
 セ、セーラ服!
 雅之は、あやうく鼻を押さえるところだった。
 い、いや、俺、変態じゃねぇし、で、でも。
 可愛すぎる!!
「なんか散らかってるね、男の子の合宿所って感じ」
「時々、将君が片付けてくれるんだけど」
「彼、潔癖そうだもんね」
 横顔に浮かんだ笑顔がまぶしい……
「い、いやいいよ、俺がするから座ってて」
「そう?」
 落ちていた雑誌を拾い上げた凪は、少し居心地悪そうに腰を下ろした。
「散らかしっぱなしにすると、マジで将君切れるんだ」
 雑誌をラックに戻しながら雅之は言った。
 散らかし役は、大抵憂也と相場が決まっている。憂也には物を片付けるという観念が欠落しているのか、今も部屋のあちこちに散らばっているのは、憂也が読んでいた雑誌や漫画のたぐいである。
「将君のキレるポイントって、時に思いもよらねーからさ、ホント、一緒にいてドキドキするよ」
「柏葉さんって、昔からそんなとこあったよね」
 結局凪も立ち上がり、散らかった雑誌を片付けはじめた。
「トイレ掃除の時、覚えてる?」
「あ、あれ、おっかしかったー、柏葉さんったら、マスクに手袋に割烹着だっけ、とにかく宇宙人みたいなカッコで掃除してるんだもん」
 くすくすと笑い、凪は、ふと顔を上げた。
「嵐の十字架、もうすぐじゃない?」
「観てるんだ」
「ビデオ撮ってる。試験終わったらまとめ観するけど、時々は観てる。すごいよー、あれ」
「へぇ」
 まったくいつも通りの二人の会話。
 再会当時のぎこちなさもすっかりとれて、今は昔からの友達みたいに(実際昔からの友達である)会話が弾んで止まらない。
 が、これがいけないのかも、――と、雅之は内心思っている。
 なんか楽しくトークしている間に、「あっ、もう帰らなきゃ」「ごめん、塾だった」みたいな感じで、核心に触れることなく二人のタイムが終わってしまうのである。
「うちのお母さんもはまってるし、学校の友達も、結構みんな話題にしてるよ」
「でも、視聴率的には標準程度だって言ってたけどな、将君は」
 再び席についた凪に、雅之はかいがいしくジュースを用意し、ウエイターよろしく差し出した。
「昼ドラって、今までもヒットしてるもんはヒットしてるらしいけど、今回の嵐も、その程度かそれ以下の視聴率しかないらしいよ」
 アイドルを起用して、爆発的に成功した。
 というおめでたい結末ではなかったようだ。
 雅之は、軽く唇を尖らせつつ、自分もカップを持って凪の隣に座った。
「設定重いし、話が暗いせいなのかなぁ、男が主役ってのが、そもそも主婦受けしないってなんかの週刊誌に書かれてたけど」
 それでも、俺たちのキング将主演のドラマである。
 なんていうか、絶対いけるはずだと思っていた分だけ、世間の評判がかなり悔しい。
「……そっかなー、暗いって言うか、むしろ笑えるってみんな言ってるけど」
 凪は、得心いかなげに首をかしげた。
「笑えんの?」
 それには、雅之が目を丸くした。
 嵐の十字架は、第二次世界大戦をまたいだ、壮大?な恋物語である。
 伯爵家の次男坊、桜井雅流、こと柏葉将が、婚約者がいる身でありながら、屋敷の下女に恋をすることから始まる悲劇。
 今、物語は、将演じる雅流が愛した下女の志乃が、幸か不幸か、主人公に愛されたばかりに、徹底的に周りの使用人にいじめられるという、目もあてられない展開を迎えているのである。
「だって、柏葉さんもそうだけど、みんな演技が大げさっていうか、……なんていうか、もう全員目がいっちゃってるんだもん」
 凪は、くすくす笑いながらそう言った。
「私さ、ある意味柏葉さん見直したよ。歌番とかだと、なんかかっこつけてるイメージしかないんだけど、結構バカもやれるんだなって」
「………将君はバカだよ」
 これまでのことを思い出し、雅之はしみじみと呟いた。
 外務官僚の家に生まれて、子供の頃から英才教育。それが、そもそも、なんだってアイドルなんて目指したんだろう。
 国家に貢献すべき頭脳?は、全てしょうもない奇策に費やされている。まず発想からして結構子供じみていて、なんとなく――これを言ったら将にマジギレされそうだが、新任マネージャー真咲しずくと似通った匂いを感じてしまう。
 そう、ある意味、一番。
「バカなんだ、柏葉さんって」
 凪は何がおかしいのか、そこがツボのように大爆笑した。
「……え…??」
 一体何が、その琴線に触れたんだろう。雅之は唖然として、笑い続ける凪を見下ろす。
「だって、そんなこと、ドまじめな顔で言うんだもん」
「言ってねーよ、つかお前、受験終わってハイになってっだろ」
「なってないなってない」
 いや、絶対なっている。
「いいかげんやめろって」
「だって、止まらないんだもん」
 笑いながら、凪が身体を傾けてくるから――なんていうか、こう自然に。
 押し倒していた(いや、本当になりゆきで)。
「は…はは」
 目に涙と笑いを浮かべたまま、凪が視線を向けてくる。
「…………」
「…………」
 し、心臓が。
 雅之は、ばっくばっく鳴り響く自分の心臓だけを感じていた。
 両手で掴んでいる手首が細い。力を入れると折れてしまいそうだ。
 自分の足の間に、凪のすんなり伸びた足がある。腿の弾力が、妙に生々しく伝わってくる。
 お、俺、別に、昔のことにこだわってないし。
 だ――だから、受験も終わったし、こうやってきちんとつきあってるし、その――少しは自分に正直になってみても、その。
「………ごめんね」
 ふいに、小さくて綺麗な唇がそう呟いた。
「えっ、えっ」
 殆どキスの体勢に入ろうとしていた雅之は、ぎょっとして顔を離した。
 つか、この状況で謝るのはむしろ、自分……。
 凪は、もう笑ってはいなかった。どこか思いつめた目が、じっと雅之を見上げている。
「………前……成瀬の家に行った時、」
「………………」
「へんなこと聞いて、ゴメン」
「………………」
 美波さんのことだ。
 迂闊にも、綺麗に忘れていた――基本、能天気で、悩みが長続きしない性格だから。
 が、思い出せば、思い出したで、なんだか息苦しい感情が蘇ってくる。
「……いや、俺こそ、へんな言い方して」
 あの日、最後はろくに口も聞かず、そのまま別れたような気がする。
 あれから、悶々と悩んだ挙句、雑誌を抱えて冗談社に行った。が、そのことは、まだ凪には話していない。
「私、あの人さ、……あの写真の女の人のことだけど」
「あ、ああ」
 この体勢で、緊張したまま話すのは辛い。が、いまさらのこのこ起き上がるのも、すでに身体の一部が許さない。
「もしかして、美波さんの恋人かなって思ったんだ」
「……なん、で?」
 ビンゴだ。それはもう、九石ケイに聞いて知っている。もう何年も前に破局したという恋人。
「まぁ……なんとなくだけど」
 それだけは曖昧な言葉でいい、凪は所在無く視線をそらした。
「一応謝っとこうと思って、成瀬がつまんなそうにしてるの判ってたのに、私」
「………い、いいよ、そんな」
「…………」
「…………」
 というより、今の体勢でその話をされる方が、よほど残酷だと思うんですが。 
「しないの?」
「えっ」
 起き上がろうとしていた雅之は、大慌てで元に位置に戻った。
 していいの?
「…………」
「…………」
 わずかに顔を上向けた凪が、覚悟したように目を閉じる。
 雅之は、自分の中の男度がマックスになるのを感じた。
 い、いいのかよ。
 いいんだよな。
 こ、この瞬間を――俺は、
 ピンポーン。
「…………………」
 どれだけ夢に観ただろう。
 玄関のチャイムが鳴ったのは、キスまであと一センチという所だった。



                    5



「ハイハイハイハイ、」
 これが新聞の勧誘とかいうオチだったら、拳が炸裂すること間違いなしだ。
 半ばやけくそで扉を開けた雅之は、かなり目下に見えるふわりとした髪の毛に、ん?と、瞬きを繰り返した。
「雅くん?」
 涼しげに澄んだ可愛い声。
 え?
 確かに俺は、雅君だけど――。
 半分サンダルを履きかけたまま、雅之は、唖然として、初めて見る女の顔を見下ろした。
 年は、少しばかり上に見える。くりっとした愛嬌のある目に、ふんわりとした栗色のショートカット。緑と茶色のアンサンブルに赤いラインの入ったフレアスカート、色彩は目茶苦茶だが、不思議に洗練されたセンスを感じさせる女性。
「あの……」
 物覚えは悪い方だ、が、正真正銘見たことのない女。
 が、
「雅君、会いたかったぁ!!」
 が、その初対面のはずの女に、雅之はいきなり正面から抱きつかれた。
 え?
 状況が理解できず、ただ、なすがままである。
 女は、雅之の胸に顔をすりつけたまま、甘えるような声で言った。
「ずっと探してたの、ひどい、私に何も言わずに消えちゃうなんて」
 え?
―――え?
 ファン……?え、でも、そんな。
 女を見て、リビングにいるはずの凪を振り返る。むろん、凪が出てくる気配はない。
「ちょ……悪い、あの、人違いだと」
 逃げようとした雅之は、さらに強く抱きしめられた。ぐえっと息が詰まるくらい。
「あんなに大事にしてくれたのに、何があったの、どうしたの?」
「いや、その、……え?」
「そっか、私に子供ができたのが、そんなにショックだったんだ」
「………………」
 へ?
 雅之は凍り付いていた。
 ちょっと待てよ、おい。
 呆けていると、女は顔をあげ、雅之を正面からじっと見つめた。
 きらきら光る、猫のような魔性の眼差し。どっかで、……ものすごく身近で見たような。
「安心して、ベビーは一人で生んで一人で育てる。雅君に迷惑は絶対かけない」
 いや……つか、そういう問題以前に、俺はあなたを知らないわけで。
 女は、そっと、自分の目を指で拭った。
「でも、心の中では、ずっとこの子のパパでいてやってね」
 背後から、氷よりも冷ややかな冷気がしたのはその時だった。
「ごめんなさいお邪魔して、私、彼の親戚みたいなもので、たまたま寄っただけだから」
 他人の笑顔に、ここまで恐怖を感じたのは初めてだった。
 にっこり笑ってそう言った凪は、「じゃ、さようなら、成瀬君」
 と、優しい口調でいい、ごうっと殺意のような冷気を渦巻かせたまま、雅之の傍を通り過ぎていった。
 呆然としていた雅之は、はっとして我に返る。
「ちょ、ちょっ、」
 ぱくぱくと口を動かしても、肝心の言葉が出てこない。
 怒りのオーラがマンションの天井を突き抜けている。追いかける度胸はさすがになかった。
「あれま、怒らせちゃったかな」
 凪が消えた途端、ぱっと手を離した女は、こりこり眉をかきながら楽しそうに笑った。
「青春してるねぇ、よしよし、若い若い」
 ぱしん、と尻を叩かれる。
「……………って」
「うん、いい感触」
 そ、そういうあんたは、なんなんですか。
 もう怒る気力も尽き果て、ずるずると膝をつく。
「あー、疲れちゃった、なんか飲むものないかなー、雅君」
 女はずけずけとそう言うと、勝手知ったる足取りで、すたすたと部屋の中に入っていった。
「わお、掃除しがいのある部屋だこと」
「……………あの」
「え、やだ、何、この冷蔵庫、空っぽ?」
「…………………」
「ちゃんと食べてるの?アイドル君たち、身体が資本の割りにはいい加減だなぁ」
 つか、誰?
 ようやく部屋にもどった雅之が、呆然としつつ立っていると、冷蔵庫の前でしゃかんでいた女は、いたずらっぽい目で振り返った。
「私、ゆうちゃんの恋人」
「……………………え」
「ゆうちゃんったら、憂也、君らの友達の綺堂憂也」
「…………………」
 え?
「言っとくけどこの子、憂ちゃんの子供だから」
 女はよいしょ、と立ち上がり、ぺったんこの腹部を愛しげに撫でた。
―――え………?
「憂ちゃん戻るまで、ここにいていいわよね。あー、疲れた疲れた、憂ちゃん、急に消えたと思ったらこんなとこで生息してたのねぇ」


                6

 
「拙者親方と申すは、お立会いの中にご存知の方もおられましょうが、お江戸をたって二十二里上方、」
………またやってるよ。
 憂也は、鼻の横を掻きながら、声の傍を通り抜けた。
 渋谷のスタジオ。
 入り口からロビーを抜け、スライド式の防音扉を通り抜ける。
 副調整室。そこにはもう、アニメ「All The Pretty Mens」の製作スタッフが勢ぞろいしていた。
 コミック版が連載されている雑誌社の編集者、映像、音楽プロデューサー、テレビ局のプロデューサー、広告代理店の営業、タレント所属事務所のマネージャー、音響、演出、総監督……そうそうたる顔ぶれである。
「あ、綺堂さんっ」
 その中に、自分のマネージャーの姿を認め、憂也は足を止めて手招きされた方に歩み寄った。
「よかった、綺堂さんからもお願いしてくださいよ」
「は?」
 いきなり腕をつかまれても意味がわからない。
 小泉旬。
 若白髪がひどいので年齢不詳だが、まだ三十前のどこか頼りないストームの現場マネージャー。その小泉が今、プロデューサー、監督連中に囲まれて、とにかくひどく焦った態なのである。        
 そこだけがアイドルチックなつぶらな眼を潤ませて、必死で憂也に助けを求めている風ではあるが、憂也にも何がなんだか判らない。
「だって困るんですよ、今になって」
「当初の予定では、アニメ版初回のエンドロールから、綺堂君の名前を入れる約束でしょう」
 テレビ局のプロデューサーと監督が、苦い顔で腕組みしている。
 ようやくそれが何の話か、憂也にも納得がいった。
「や、約束は、その、ただの口約束にすぎないって、」
 小柄な小泉は、しどろもどろに言って、媚るような目でスタッフを見あげる。
「はっ?」
「口約束??」
「天下のJさんが、何言ってんですか!」
 全員の鬼気迫った表情に、小泉は慌てて憂也の後ろに身体を隠した。
「ちち、ち、違うんです。僕はただ、そう言えっていわれただけなんです、僕はただ」
 スタッフ全員は呆れ顔だが、憂也には、それが誰の言い草かすぐに判った。
(まさかと思うけど、J一の演技派をきどってる君が、まさかと思うけど、そんなちっちゃなオーディション受けるのが怖いなんてことないわよねー)
(で、まさかと思うけど、落ちるなんてことは絶対にないよわねー)
 うっせぇよ、クソったれ。
 落ちたら、マジで辞めるつもりだった。それくらいの激しい感情を、ぎりぎりで抑えて受けたオーディション。
 声優独特の感情表現の方法、息の継ぎ方、画面への声の合わせ方、短い時間ながら、徹底的に勉強したつもりだった。
 それでも――最終的に「合格」できたのは。
「と、とにかくですね、綺堂の名前を出すタイミングは、う、うちの事務所に一任させてもらいます!」
 最後に小泉は、両拳を握るようにして言い切った。
 追い詰められた風ではあったが、なんだかんだ言っても絶対に引かないところが、腐ってもJ&Mのマネージャーだ。そこは小泉も、所属事務所の権威をよく知っている。
「うちだって、で、――出方によってはですね、綺堂を今回の役から降板させることも有り得るんです。アニメ版は、他の声優さん使ってもらってもいいんですよ」
 うわー、出したよ、J&Mの天下の宝刀。
 憂也は思わず鼻で笑っていたが、今度引いたのは、小泉を取り巻くスタッフたちのようだった。
 小泉が口走った「出方によっては」の対象が、まさか同じJ&M事務所の社長だとは、さすがに想像もしていないのだろうが。
「しかし、いつまでも隠し通すのは無理ですよ、スタッフ全員にかん口令引くって言っても限界がありますし」
「こんだけ騒がれてちゃなぁ」
「と、とにかくご協力お願いします」
 小泉はようやく開き直ったように、顔をあげた。
「うちにしても、看板スターを新人扱いで出演させてるんです。一本あたり四時間拘束されて、ギャラが一万五千円ですからね、多少の我侭はきいてください」

 
                  7


 副調整室を抜けたさらに奥。
 特別な防音設備が施された収録ルームには、隅にベンチ、そして飲み物が並んでいる机。部屋の中央には六本のスタンドマイクが用意されている。
 通常、一回のアフレコに使うマイクは多くて四本程度と聞いているから、六本という本数の多さは、ある意味異例なことなんだろう。
 それもそうだ。
 憂也は、キャップを脱いで、くしゃくしゃになった髪を手で直しながら、自分専用に設けられた特設マイクを見あげてみた。
 初めて知ったことだが、アフレコマイクとは、通常は、何人かで共有して使用するらしい。一人一本、当然用意されているものだと思っていた憂也には驚きだったが、プロの声優にはそれが当たり前なのか、なんでもないように数人でマイクの前に立ち、入れ替わり立ち代りで、セリフを吹き込んでいる。
 その貴重なマイクを一本、当然のように「新人」一人が所有しているのである。多分、周りのベテラン声優の中には、面白くないと思っている輩もいるだろう。
「おはよう、綺堂君」
 そう声をかけてくれたのは、一番上座に座っている主演の保坂圭一だった。
 憂也以外で、唯一、――これは、特別な意味で専用マイクを使っている、超人気声優。
 近年ヒットしたSFアニメの主役は殆ど彼が演じている。年齢は憂也よりいくつも上だが、可愛らしい少年声は、いかにも主役のオーラを振りまいている、という感じだ。
 ちらっと聞いた話では、ギャラはノーランク、つまりギャラの上限がないらしい。舞台俳優としても活躍しているらしく、体格のいい――見ようによっては美形とも取れる、のっぺりとした優男だ。
「藤村のトオルちゃん、もう来てた?」
 保坂は、憂也にお茶の入ったカップを差出しながら、にこやかに聞いてくる。
 正直憂也は、この男の、妙な馴れ馴れしさが苦手だった。馴れ馴れしさ――というか、自分を見る余裕に満ちた眼差しが。
「ロビーに、来てたんじゃないかと思います」
 憂也は、素っ気無さをぎりぎりで抑えてそう答えた。保坂が言うところの藤村のトオルちゃん――顔は見ていないが、ロビーで、声だけは聞こえたから。
「またやってたでしょ、外郎売」
「みたいですね」
「青物町を登りへおいでなさるれば、欄観橋虎屋藤右衛門、ただいまは剃髪いたして」
 冗談めかした声で保坂が「外郎売」の一節を朗読すると、その場にいた数人から失笑が聞こえた。
「ぶっちゃけ、少しうざいんだけどね」
―――おっさんが、妙な言葉使うなって。
 憂也は特に相槌を打つでもなくベンチにつき、昨日もらったばかりの台本を開いた。
 背後の扉がスライドしたのはその時だった。
 全員の空気が妙なほど固まったので、思わず憂也も振り返る。
 ずかずかと入ってきた男は、この現場で、おそらく最年長の藤村トオル。
 スタジオのロビーで、「拙者親方と申すは、お立会いの中にご存知の方もおられましょうが、お江戸をたって二十二里上方…」と、朗読していた声の持ち主である。
 実年齢は聞いていないが、四十後半か五十くらい。
 がっしりとした長身、体格だけは俳優にしてもいいくらい見事だが、目と目の間が妙に寄っていて、鼻がやや上向いている。異相といってもいい顔つきだ。
 自分のことが話題になっていたのを知ってか知らずか、藤村トオルは、むっつりしたまま、全員の間をすり抜けて、憂也の隣に腰掛けた。
「藤村さんくらいになって、外郎売りってのもね」
 そんな藤村を横目で見て、苦笑しつつ憂也に囁いたのは、保坂だった。
「後輩の僕らの立つ瀬がないじゃない、仕事熱心も、時には迷惑なんだよね」
 そのひそひそ声も、超マイペースな藤村トオルには、まるで届いていないようだ。
 外郎売り。歌舞伎十八番のひとつだという。聞いていると、まるで早口言葉かお経のような妙な講釈。
 最初は、落語の練習でもやってんのかと思ったが、そうではなかった。
 外郎売の朗読は、声優が養成学校で必ず学ぶカリキュラムのひとつ、発生や発音の練習のための「基礎レッスン」だという。
「それより、綺堂君、今日の喉の調子はどう」
 いまだ、憂也の傍らに張り付いている保坂が、にこやかに話しかけてきた。
「君の声って、いいね、なんかナチュラルで僕は好きだな」
「……どうも」
 どうリアクションしていいか判らず、憂也は目礼をそれに返す。
 今日がアニメ版「All The Pretty Mens」のアフレコ初日。ばらばらで収録したゲーム版と違い、メンバー全員で顔を合わせるのは、これが始めてのことだった。
 ゲーム版の時一緒だったのは、ここにいる保坂と、そして藤村の二人だけ。役柄で言えば、憂也演じる「潤夜」の兄「紫陽」が藤村トオルで、主役の高校生「雷人」が、保坂圭一である。
 ふいに隣で、ごほん、とものものしい咳払いがした。
 そして始まる、声たからかなアイウエオの回転運動。
「アイウエオ、イウエオア、ウエオアイ、」
 超が何度ついてもおかしくないマイペース人間藤村の、いつもの喉のウォーミングアップである。
 保坂が肩をすくめて目配せする。またはじまったよ、と言わんばかりに。
 実際、本番前の収録スタジオで、藤村の傍若無人な発声運動は、確実に声優たちの集中を乱しているようだった。誰も何も言わないのは、藤村が最年長であり、この世界ではそこそこ重鎮だからだろう。
「綺堂君、」
 背後から、ふいに番組プロデューサーに呼ばれたのはその時だった。
 憂也は立ち上がって部屋の隅に向かう。
 そこに設けられた長机の前に、演出兼総監督の水嶋吾郎と小沢プロデューサー、その二人が立っている。
 いつ見ても笑った顔の水嶋監督が、垂れそうな頬肉をひくひくさせて憂也に歩み寄ってきた。
 年齢は三十過ぎか、それより若いくらいだろう、新鋭、奇才と呼ばれているようだが、ふくよかに肥えた顔つきからはそんなムードはこれっぽっちも感じられない。
「ゲームの時と同じで、君には極力ナチュラルさを出してもらえれば、それでいいからね」
 水嶋は甲高い声で言った。
「とにかくナチュラルに、それだけを心がけて」
「はい」
 ナチュラルね。
 その言葉、こっちの業界じゃ流行ってんのかよ。
「下手に演技しようとか思わなくていいからね。普通にいこう、普通に」
「……………」
 汗でしめった手で肩をぽん、と叩かれる。
 それを払いのけたい衝動を、憂也は視線を下げることでかろうじて耐えた。
「声質は最高だから、とにかく、今日がアニメ版の初日だからね、気負わずにがんばって」
―――何が言いてぇんだよ。
(――君に求められてるものって、僕らに求められてるものとは違うんだよね)
 ゲーム版収録の初日。
 水嶋監督の演出の意図が判らず、ふと漏らした疑問に、保坂圭一が返してくれた言葉だったが、憂也は、それを今でも忘れていない。
(――君はさ、存在感で勝負できる素材なんだよ。僕らみたいに演技力を買われてるわけじゃないの、演技なんていいからさ、とにかく綺堂憂也として、自然に喋ればそれでいいんじゃないかと思うよ) 
 それで判った。
 いくたのベテランや人気声優がこぞって参加したこのオーディションに、何故素人の自分が合格したのか。
 J&Mのタレントを起用して、1日あたりのギャラが交通費含め二万以下。そんな有り得ない条件を掲示したのは真咲しずくだろうが、冗談みたいな好条件を突きつけられて、企画サイドが飲まない方がどうかしている。
「………………」
 憂也は無言で席につき、書き込みで汚れた台本を開いた。
 どこかで理解はしていたが、実力を買われたのではなかった。
 いや、それどころか、実力さえ必要とされてはいない現場。
「綺堂、携帯」
 ぶっきらぼうな声がした。
 ぎょっとして顔をあげる。声の主は外郎売の藤村トオルだった。この現場で――唯一、憂也を綺堂と呼び捨てにする男。
「現場では切るのが常識」
 冷たい声には、あきらかな嫌悪が交じっている。
 この男に憂也は、初顔合わせの最初から、はっきり態度で一線を引かれている。
 俺はアイドルなど認めないと。
「すいません」
―――つか、常識って、あんたにだけは言われたくねーんだけど。
 そう思いつつ、ベンチの背にかけていたリュックから携帯を取り出す。マナーモードにしていたから、ごくわずかな振動音がしただけなのに――。
 よく気づいたよな、このおっさん。
 そう思いながら、室外に出て、携帯を耳にあてた。
 いきなりがなりたてられる。声の相手は出る前から判っていたが、よほど興奮しているのか、何を言っているのか判らなかった。
「あー?雅、何?今ちょっとまずいんだけど」
 片耳に手をあて、迷惑気に言ってみても、相手は一方的にまくしたてるだけである。
「……は?ああ、」
 きれぎれの単語で、憂也はようやく理解した。
「千秋がきてんの?うん、いいよ、そのまま待たせてて、え?ガキ?俺の?」
 背後から、プロデューサーの呼ぶ声がする。
 そろそろ試写がはじまる時間だ。憂也は少しだけ声を大きくした。
「あいつがそう言うなら、俺のガキなんじゃねぇの?どうでもいいから、もう切るよ」













                         
                              
                    


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