9


「………」
 稽古場の隅。
 いつもの「定位置」に腰掛けているアイドルを見て、佳世は眉を寄せていた。
―――マリさん……東京に帰さなかったんだ。
 稽古場を見回す。マリはまだ来ていないようだった。
 昨日――片瀬りょうが落ち着きを取り戻した後、佳世は海老原マリのマンションを訪ねた。
 彼が薬を常用していることを説明し、すぐに東京に戻すべきだと、説得した。
 寝起きだったせいかマリは終始不機嫌そうだったが、黙ってうんうんと頷いて、
「明日で片がつくから、あんたは心配しなくてもいいよ」
 少しうるさげに、それだけ言ってくれた。
 それから、すぐにマリは稽古場へ向かったようだし、それで佳世も安心していたのだが――。
 片がつくってどういうことなの……?
 いつものように白いシャツ、ぶかぶかのジーンズを穿いた片瀬りょうは、再開した稽古場の片隅で、やはりいつものように、死んだような目をして座っているだけだった。
 佳世が稽古場に入っても、うつむいた顔を上げようともしない。
 まだ、ふいに泣き出した昨日の方が、まともだと思えるほどだ。もう、完全に心を殻に閉じ込めてしまっている。
「なんや、来た早々、何怒ってんねん」
「マリさん、完全に今回の舞台壊す気ね」
 きょとん、とした顔の永輝を無視して、その傍をすり抜ける。
 さすがに腹がたっていた。今回の舞台も、舞台人になるには脆弱すぎる少年も、マリは両方壊そういうのだろう。
 永輝のいいぐさではないが、今回だけは理解できない。
 というか、もう我慢できない。マリをとっつかまえて、無理にでもうんと言わせてやる。
「マリさ、」
 苛立ちながら、マリも使う女子更衣室の扉を開けようとした時だった。
「あの、しんきくせぇ顔とも、今日でオサラバだな」
「はっきり言って邪魔っちゅうねん、アイドルなんて、やっぱ顔だけやん」
 背後のトイレから出てきた研修生の一団。
 賑やかな談笑と共に、そんな声が聞こえたのを、佳世は聞き逃さなかった。
「今日でオサラバってどういうこと」
 彼らの前に出て、静かに問いただすと、全員が、わっ、やば、みたいな顔になる。
 が、顔を見合わせた研修生たちは、すぐに開き直ったように目配せしあった。
「蓮城さんが、……今日で、マジ、あいつ追い出すって」
 蓮城賢也。
 片瀬りょうの代役だ。
「追い出すってどういう意味なの」
「それは……」
「なぁ」
 研修生たちは曖昧に口ごもる。
「何するつもりか知らないけど、そんな勝手なこと、マリさんが許さないわよ」
 佳世が強い口調でそう言うと、はじめて彼らは反抗的な目になった。
「ていうより、蓮城さん、そもそもマリさんから言われてるんです」
「なにを、」
「片瀬いじめて自分から出て行かせるようにしろって、最初にそう言われてるみたいなんですよ」
「…………」
 マリさんが。
 佳世はただ、唖然としていた。
 有り得ない。
 マリさんが、賢也なんかにそんなことを。
 そんなこと、――普通に考えて、有り得ない。
「ま、俺らにしてもそれ知ってたから……結構、見えないとこで、ひどいこと言ったりしたりしましたけど、なんだかなー」
「暖簾に腕押し、みたいな?ぜんっぜん無反応だし、反抗しないし」
「あいつ、マジで頭のネジいかれてんじゃないっすかね」
 明日で片がつく。
 昨夜、マリが言っていた言葉。
 それが、今日――?
 きびすを返した佳世は、急いで元来た稽古場に戻った。
 が、稽古場では、すでに異変がはじまっていた。
「つか、出てけって言ってんだよ」
「俺らの邪魔する気なら、もう十分だろ、やる気ないのは判ったから、いい加減出て行けよ」
 いつもの低位置で、ぼんやりと座っている片瀬りょうを、蓮城賢也と、そして2人の中堅俳優が取り囲んでいる。
 全員が、それに気づいているのに、気づかないふりをしている。
 そもそも中央に立つマリが、まるで無視して演出の説明をしているから、誰一人気にもしていない。
 出入り口に立ったままの佳世が眉をひそめると、マリの傍に立っていた永輝だけが、ひょい、と肩をすくめてみせた。
 ほっといたらええ、その目はそう言っている。
「おい、聞いてんのかよ」
 あまりの反応のなさに、苛立ったのか、賢也の声がきつくなった。
 ガンッと、音がした。重いものが倒れる音がそれに被さる。
 佳世も息を引いたし、さすがに全員がそれには、振り返っていた。椅子の脚を払われた片瀬りょうは、床に腰を落とし、うつろな目で空を見上げている。
「てめぇ、俺を舐めてんのか!」
「おい、賢也、やりすぎだって」
 傍らの仲間の制止も及ばず、賢也は再度、転がった椅子を蹴り上げた。
「頭からっぽのアイドルが、えらそうに舞台にしゃしゃり出てんじゃねぇよ。どんだけ金つんだんだよ、下積みから必死にやってきた俺らに、恥ずかしいとは思わねぇのかよ」
 いったん足を踏み出した佳世は、しかし、ある事に思い至り、その足を止めていた。
 片瀬りょうは、相変わらずの無表情のまま、今は、床の一点を見つめている。
「てめぇの仲間んとこに、さっさと戻れよ、アイドル」
「そうそう、悪いこといわねぇからさ」
「顔だけしか取り柄のねー、ノータリンの赤ん坊グループん中によ」
 賢也は笑いを浮かべた目でそう言うと、座り込んだままの片瀬りょうの襟首を掴み、自分の目線まで引きずり上げる。
「バカまるだしで笑って歌って、努力もせずに金もらってるお仲間が、お前にはお似合いだよ」
「……………」
「消えやがれ、くそったれアイドル」
 そのまま、片瀬を壁に押し付け、賢也はようやく手を離した。
 全員が、しん……としている。
 ふいに、耳に響く高音がその沈黙を切り裂いた。
―――え?
 ホイッスル?
 驚いた佳世だけでなく、全員が、その音に気をとられた時だった。
「……アイドル、アイドル、うぜぇんだよ」
 地から滲み出すようなその声が、誰の口から発せられたものか、一瞬佳世には判らなかった。
「そんなにアイドルがバカならよ、じゃあ、てめぇがいっぺんやってみろよ!!」
 それは、まるで、野生の獣のように見えた。
 賢也がその刹那、本気で恐怖を感じたのが判った。
 一転して身を翻し、立ち上がった「アイドル」は、賢也の胸倉を掴みあげ、獰猛な勢いで壁に押し当てた。
 一瞬逃げようとした賢也の額に、片瀬りょうは、自分の額を叩きつける。骨と骨がぶつかる生々しい音がした。
「くそったれ俳優、てめぇのやってることがなんぽのもんだよ」
「…………」
「言っとくけどな、アイドルを二度と舐めんなよ!」
 腹の底に響くような、怖いものを含んだ声。
 ようやく開放された賢也は、呆けた顔のまま、ずるっずるっと、壁にもたれるように腰を落とす。
 何、これ。
 佳世は、激しい動悸を感じたまま、一転して氷のように冷ややかな目をして立っている男を見あげた。
 信じられない。
 これ……本当に、さっきまでのアイドルなの?
 息が止まったような沈黙の中、最初に手を叩いたのは、海老原マリだった。
 その片手には、先ほど高らかに吹き鳴らしたホイッスルが握られている。
「そこまで、片瀬」
―――そこまで……?
「合格だね、これであんたは、正式にうちの劇団のメンバーだ」
 賢也の態度が、どこか演技がかっているのを感じた時から、何か、裏があるのだと察しはついていた、でも。
「片瀬りょうです」
 再び振り返った時、片瀬りょうは、白い歯を見せて笑っていた。
 初顔合わせの日と同じ、爽やかな顔で。
「舞台は初めてで、みなさんに色々迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」



               10


「ほんっと、彩奈ちゃん?マジでびっくったよ、俺」
 慌てて駆け込んできた男は、額から滝のように汗を滴らせていた。
「ほんっと、びっくった、何年ぶりかなー、高一ん時以来だよね」
 びっくった、を連発する男は、そう言って慌しく、対面の席に腰掛ける。
「あ、俺コーヒー、アイス、氷特盛で」
 なじみの店なのか、手を上げて、大声で奥のカウンターに向けてそう言うと、
「あ、はじめまして、俺、こいつの高校時代の友達で、えと」
「小菅優一君、彩奈の元彼でーす」
 と、黙ったままの真白をここに無理に連れてきた彩菜は、にっこり笑ってそう言った。
 大阪市内を大きく外れた郊外。
 劇団「臨界ラビッシュ」の稽古場兼寄宿舎は、マンションの立ち並ぶ住宅街の片隅にあった。
「え、俺元カレ?」
「うん、彩菜、久し振りに優ちゃんの顔みたくなっちゃって」
 目茶苦茶調子のいい彩菜。
 ちなみに、ここまでの道中も、彩菜の友達だとかいう大学生の車に乗せてもらっている。
―――一体、何人キープしてるのよ、
 と、真白は半ば呆れもしたが、お嬢様風ぶりっこで通されていた時よりも、本性むき出しの今の方が、どことなく嫌味な感じがしなくなったような気もした。
「いやぁ、元彼って……えーっっ、マジかよ」
 と、単純なのか、純情なのか、小菅優一と紹介された男は、赤くなったりにやついたりしている。
 平日のせいか、小さな喫茶店は閑散としていた。
 真白は、自分も簡単に自己紹介し、後は、彩菜と優一の思い出話になった。
 しきりと優一の今の現状を聞きたがる彩菜の本音が、まさかラビッシュに滞留中のアイドルに会いたい――だとは想像もつかないのだろう。頬ににきびあとが強く残る素朴そうな青年は、熱心に芝居のことを語っている。
 真白は、黙ったまま、窓から見える植え込みの濃い緑に視線を移した。
 木々の向こうに、わずかにのぞいている灰色の建物。
 そこに――りょうがいる。ほんのわずかの距離と壁を隔てた場所に。
「どっから情報はいったのかなぁ、すごいなぁ、ファンの子たちって」
 気がつけばいつの間に本題を切り出したのか、優一は両腕を組み、しきりに首をかしげていた。
「彼女、末永真白さんっていってー、その片瀬君の、高校の時の先輩なんですよ、しかも同じクラブ」
 彩菜は、そう言って、真白の背中を押すように前へ突き出した。
「彼女の名前言ったら、ぜーーーったい、片瀬君、出てくるから、ね、真白さん」
「…………さぁ、」
 真白は曖昧に言って視線をそらした。
 なんだって、私、こんなところにまでついてきたんだろうと思いながら。
 普段なら、絶対、彩菜の誘惑にも口車にも乗らない自信があるのに。
 どこかで弱気になっている。どこかで――頼りなくなりかけている自分の心。
 ふと思う、りょうと付き合いだして、どれくらいになるんだろう。
 2人きりで過ごせたのは、ほんの数日……たぶん、一週間にも満たない時間。
 よくて、週に一回か二回の電話だけ。今はそれも、全然ない。
 テレビで、綺麗なタレントとはしゃいでいるりょうを見ると、本当によく判らなくなる。彼が、どうして私を選んでくれたのか。本当に今でも――好きでいてくれるのか。
 去年の冬にもらったピアス。
 まだ、耳に穴を開けてはいない。その勇気が持てないまま、シルバーのピアスは、引き出しの中で眠っている。
「つか、あいつ、けっこう素直で気さくなヤツでさ、サインなんかもバンバンしてくれっし、そういうのは頼みやすいんだけど」
 優一は、少し難しい顔をして首を振った。
「多分、ダメだね。外部との接触は一切禁止されてんの。それにさー、なんつーか……、あ、これオフレコにしといて欲しいんだけど」
「なになに、絶対に言わない」
 と、彩菜はもう、身を乗り出さんばかりにして優一の言葉を待っている。
「片瀬さー、今、共演してる女の人の傍から離れねーの。もうべったりっつーか、なんつーか、役作りなのかもしんないけど、どこ行くのも一緒」
「……………」
 彩菜が一時言葉をなくすのがわかった。
 真白は、自分がどんな顔をしているのか判らなかった。
「うちの劇は、リアリズムを追求してるからね、キスもセックスも、ある程度までマジでやんの。片瀬とカヨさん……あ、その相手役の人なんだけどー、かなりハードなラブシーンがあるからさ、なんてっか……いいのかよ、アイドルがそこまでやってって感じではあんだけど」
 台本を読んで、真白もそれは知っていた。
 キスシーンだけで、七回もある。
 信じられなかったのは、その内容より、それを――りょうが、嬉々として、「絶対観にきて、最前列用意するから」と言ってくれたことだった。
 判っている。彼にとっては、仕事で、演技で――、それを、現実の恋愛に置き換えて考えるのは、ばかばかしいほど愚かな杞憂であることも。
 頭では――判っている。
「……片瀬さんに、がんばってくださいと、伝えてください」
 真白はそう言って立ち上がった。
「ファンとして応援してますから……私」
 頭では、判っているのに。
 いっそのこと、本当にただのファンだったら、どれだけ楽だったろう。



                 11


「ま、マリさんが、賢也つこうて、何かたくらんでんのだけは判ってたけどな」
 1日の稽古がはけて、夜――沢山のタオルやシャツが風に揺られている稽古場二階のベランダで、佳世は永輝と、缶コーヒーで喉を潤していた。
 春の初め、夜風はいつになく暖かかった。ぬるい風が、それでも心地よく稽古の汗を乾かしてくれる。
「一週間で片瀬追い出したら、役をやるって……そりゃ、賢也も必死になるやろ」
「賢也、かなりへこんでたわね」
 あの自惚れ屋が、しばらく稽古に出てこなかったほどだ。
「そらそうやろ、演技っちゅうだましあいで、アイドルに負けたんや。片瀬も片瀬で、マリさんに指示受けとったみたいやし」
 そう。
 一週間、何があっても感情を殺せ、とだけ。
 最後の瞬間、マリが吹いたホイッスル。それは、リハーサルなどで、ダメだしを出す時の合図だが、あのホイッスルが、片瀬りょうを開放する合図代わりだった。
「あん時は、俺、マジで鳥肌たったわ、マジで賢也、しょんべんちびりそうな目ぇしとったし」
 永輝の声は楽しそうだった。
「あんなの……演技じゃないわ」
 佳世は、眉をひそめたまま呟いた。
「ただの感情の垂れ流しよ、誰にだってできるじゃない」
「そうやろか」
 永輝の横顔に、月が暗い影を作った。
「でもな、それまでってマリさんがゆうた途端、あいつ、確かに笑ろうたんや、あれは演技やね、ちゃんと計算された上の」
「……………」
「あいつはな、この一週間、色んな感情を自分の中にためこんで、それを演技のレベルに持っていけるまでにイメージしてたんやないやろか。マリさんシンパのお前ならわかるやろ」
「……………」
 判る。
 だからこそ、マリが合格だといったことも。
「リアルな感情は、自分の体験という引き出しから出していくしかないんや。ただ、感情に任せたらそれは演技やない、ストックされた感情を、瞬間、自在に引き出せるのが俳優や」
 そんなこと、わかってるわよ。
 佳世は、呟き、ほの暗く翳った月夜を見あげた。
「………片瀬が怖いのは」
 永輝は、いつになく沈んだ口調になった。
「その感情の引き出しが、かなり深い……ちゅうか、底なしに暗い気がするとこやな」
「どういう意味?」
 佳世の問いに、永輝は、さぁな、と肩をすくめた。
「アイドルやってくには、ちょいと重いもん抱えとるっちゅうことやないか。マリさんが、あいつを起用したのも、そこに惹かれたんやないかと思う……今にして思えばやけど」
 佳世は、無言で目をすがめた。
 あの夜、佳世の首に顔を押し当てるようにして泣き続けた片瀬りょう。
 あれは、演技だったのだろうか、それとも――。
「時折、片瀬の表情から、怖いものが透けて見えるねや、それが俺が――あいつにむかついた理由なんかもしれへんけどな」
 永輝はそう言うと、ふいに背後に向かって顎をしゃくった。
「俺は退散やな、今は、あいつが、お前の恋人やし」
 永輝の肩越しに、白い顔が浮かんでいる。
 遠目で見るとまるで女性のようだ。けれど、稽古で、何度も素肌を重ねあった今では知っている。その身体が意外なほどバランスよく鍛えられ、男らしい骨格を備えていることが。
「……どうしたの」
「寒いから」
 2人きりになると、綺麗な目をした男は、猫のように身体をすりつけてきた。
「今夜は暖かいわよ」
「ここ」
 と、いたずらっぽく、自分の胸を指で指し示す。
「………莫迦ね」
 それでも身体を寄せ合って、自然に腰に腕を回している。
 肩に顔を預けると、彼の髪の香りがした。
「これも、感情表現のレッスン?」
「………だと思うけど」
 曖昧に呟く横顔に、月光が綺麗に映えていた。
「好きな子はいないの?恋愛くらい、経験したことあるんでしょ」
「………人を、憎むくらい」
「…………」
「好きになるってどんなかな、それはちょっと経験ないから」
 子供なのか、大人なのか、いつも掴みどころのない喋り方。佳世は黙って視線を夜の闇に戻した。
「莫迦ね、憎むのは、思い通りにならないからよ」
「……………」
「その人を失った時に、君にもわかるわ、憎悪っていうのはね、強烈な愛情の裏返しなのよ」
 片瀬は唇に指をあて、わずかに思案してから呟いた。
「それは、……経験したくない」
 その刹那、多分、誰かを胸の内に思い描いていたのだろう。
 少しだけ優しい目になった男から、佳世は視線をそらしていた。
「なんにしろ、経験は大事よ。人生の修羅場を知らない人間は、いい役者になれないわ」
「……じゃ、いいよ、今経験するから、佳世さんと」
「あのね」
 言い返そうとしたものの、佳世はそのまま言葉を呑んだ。
 見下ろしている男の眼差しに、そのまま飲み込まれそうになっていた。黒く深い――静かな情熱をたたえた瞳。
「さっき、かなり嫉妬してた」
「……なんで?」
「永輝さんと2人でいたから」
「…………あなたって莫迦ね、本当に」
 本気――?
 それとも演技?
 なんでそんな目ができるの――。
 佳世は反射的にうつむいていた。
 が、すぐに思い返し、真っ直ぐに男を見つめ返す。
「きれいな目ね」
「ありがとう」
 彼の情熱が演技なら、自分はそれ以上で返さなければならない。たかがアイドルに――俳優として最高位に立つ、舞台人が負けるわけにはいかないから、絶対に。
「佳世さんって、すごいね」
 額をあわせ、片瀬りょうは囁くような声で言った。
「なにが」
「呼吸がみんな一緒なの、毎日同じタイミング、絶対に狂わないね、セリフいう時も、キスする時も」
「無意識に計算してるの」
 佳世は、苦笑して、男の腕を振りほどいた。
「マリさんには、それがあんたの致命的な欠点だってよく言われるわ。悪い意味で完璧主義だから、私」
「頭いいんだ」
「そうでもないわよ」
「俺、高校出てないし、結構バカだから尊敬する」
「そうでもないでしょ」
「さっき、バカって2回も言ったじゃん」
「3回よ」
 そうだっけ。
 互いに笑って、そのまま再び身体を寄せ合った。
「計算してよ」
 耳元で男が囁く。
「こんなに短期間に、誰かと何度もキスすんのって、俺はじめて。一体何回キスしてんのかな、俺たち」
「……公演が、一日二回の、二十六回、リハーサルも含めて、稽古が予定どおり行くといたら」
 佳世の中に、機械的に答えが出てくる。
「三百六十五回」
「マジ??」
「彼女は、呼ばない方がいいわよ」
「仕事だから関係ない」
 片瀬はあっさり言うと、佳世の髪に頬を寄せた。薄情な性質なのか、生来の浮気者なのか――それとも、これも演技なのか。
「……悪いけど、これからランニングに行くから、私」
「もうちょっと……一緒にいようよ」
「……………」
 大きな赤ん坊か犬みたい。
「じゃ、一緒に走ろうか」
「うん!」
 頼りなくて――無邪気で、不安定で、野生的、そして、可愛い。
 愛しくて、放っておけない気分になる……。


 
 














       
                              
                    


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