6



「あの子……今、何してるのかしらね」
 終電の時間が近づいている。明日は――稽古がはじまって初めての休暇だ。
 佳世は、今、多分、一人きりで稽古場の二階にいるはずの男のことを、ふと思い出し、そう呟いていた。
「気になるんなら、いったったらええ」
 キッチンで冷蔵庫を空けている永輝は、いたずらっぽい声で言った。
「佳世に慰めてもらったら、少しはまともになるんちゃうか。あれ、どう見ても、お前のこと好きやと思うで」
「……………」
 片瀬りょうの眼差しが、時折射るように佳世を見る。
 うぬぼれているわけではないが、それは、明らかに恋をしている男の目だ。
 まるで覇気がない態度をとるくせに、浮ついた感情だけは一人前――そういう所も気に入らないが、確かにその眼差しは、佳世のペースを少しずつ狂わせているような気がした。
「それよりさ、永輝、マジでラビッシュ辞めるの?」
 あまりこの話題には深入りしたくない。気を取り直してそう聞くと、
「さぁな、今回の出来しだいやな」
 永輝は、まるで人事のように肩をすくめた。
 すでに大阪で名の売れた永輝には、東京の大手芸能事務所から引き抜きの声がかかっている。いつまでもアンダーグランドが色濃く残った劇団にいていいような人材ではない。それは、永輝自身が一番よく判っているだろう。
「……永輝が、アイドルの代わりになればよかったのに」
「あほ言うな、俺にはストーリーテラーちゅう、大切な役があるやないか」
「“運命”」
「それに立ち向かう“無垢な魂”か……いい脚本やと思ったけどな、今回は」
「…………」
 抽象的で、難解な表現が多いマリの作品の中にあって、「W/M」は、非常にわかりやすく、そして美しい情緒に満ちていた。
 互いを求め合い、ゆえに憎みあい、転生を繰り返す二つの“無垢な魂”
 それが、片瀬りょうと、そして佳世。
 2人を導き、次の転生へいざなう意思“運命”
 それが、梶原永輝だ。
 脚本を読み、期待したのは、佳世もまた同じだった。ゆえに――失望も、また大きい。
「賢也なんかに、“無垢な魂”はつとまらないわ」
 激しい野心や向上心が、演技にも表情にもにじみ出ている男には。
「……舞台は、失敗よ、アイドルが出ても、出なくても」
 佳世は天井を見上げて呟いた。



                  7



「はい、OK!」
 え?
 柏葉将は、少し驚いて顔を上げた。
 これで?
 嘘だろ。
「じゃ、五分休憩して、シーン35のカメリハいきます」
 どやどやとスタッフが移動を始める。
 将の周りに座していた出演者も、一斉に立ち上がった。
「メイク直して」
「悪い、ここのセリフなんだが」
「帯が緩んじゃった〜」
 先ほどまで一族だった者たちが、てんでばらばらに拡散していく。
 喧騒の中、ぼんやりと座ったままで入ると、
「柏葉君、ここ、撤去するから早くどいて」
 と、背後からスタッフの怒声が飛んだ。
 モニターチェックをしようと思って、カメラの傍に歩み寄ると、
「柏葉君、何ぼやぼやしてんの、次は学生服の場面でしょ!」
 と、次はタイムキーパーから怒鳴られる。
「あ、はい」
 そういやそうだ。
 将は、滑稽なほどかちっと整えた髪に、指をさしこんでかき乱した。
 速攻で着替えて、で、五分後には撮影だ。
 さすがにため息が漏れていた。
 自分の、納得できない演技を振り返る暇もない。
 ここは、月曜日から金曜日、一週間の内五日、三十分放送のドラマを作らなければならない、俗にいう「昼ドラ」の撮影現場なのである。
 製作発表から一週間後には、早くも現場入りだった。
 初回放送は、今週からすでにオンエアされている。
 大東海テレビ製作で、エフテレビ系列の全国ネット。柏葉将にとっては初主演ドラマ。
 昼の連続ドラマ「嵐の十字架」は、第二次世界大戦前後を舞台にした、没落華族の物語である。将演じる「桜井雅流」はその次男坊で、戦前は放蕩息子だが、身分違いの恋に破れ、自ら志願して戦地に赴くという役どころ。後半の台本は、まだできあがっていない。

エフテレビの奇策?昼ドラにアイドル起用。
昼ドラ春の陣は大荒れの予想。視聴率低迷の切り札にアイドル起用か。
解散前のパフォーマンス?ストームの柏葉、昼ドラに進出。
なにごとも経験です、ストームはアイドル未開拓分野のパイオニアですから。とはJ&M社長の弁。


「……やるしかねぇだろ」
 控え室で着替えながら、将は自分自身に向かって呟いた。
 正直、発表直後は、葛藤がかなりあった。色々な思いや不満もあった。
 台本を読み、滑稽なほど大げさなセリフや、有り得ない設定にも、失望を感じた。
「確かに最近の昼ドラは、若手俳優の登竜門ではありますが、……現役アイドルが手を出すジャンルでは……ちょっと、ないような気がするんですけどねぇ」
 と、テレビの芸能レポーターが、首をひねりながら言っていたのも当たり前だ。
 現在のテレビ界における昼ドラマのポジション、そこに出演する役者のポジション――あらゆることを考えても、J&Mという会社が手を出すジャンルではないことは明らかだから――。
「辞めろよ、会社」
 記者会見を見て、即座に電話してくれたのは、小学校時代からの親友、浅葱悠介だった。
「つか、そんなことやりてぇために、お前、芸能界入ったわけじゃねぇだろ、そんなクソみてぇな仕事すんな、お前にはすげぇ才能があるじゃないか!」
 電話の向こうで、親友が本気で怒っているのがよく判った。だから――逆に、将は冷静になれたのかもしれない。
 冷静になると、自分でも意外なほど、気持ちの切り替えはあっさりと出来た。
 逃げる気がない以上、やるしかない。やる以上、泣き言も文句も言いたくない。多少苦しくはあるだろうが、絶対に手は抜きたくないし、自身の代表作と言えるものにしたい。
 しかし、現場に入ってから、将は自分の見通しの甘さを痛感した。
「着替えオッケー」
「じゃ、柏葉君、そこ入って」
「カメラ、もう少し右」
 昼ドラの現場は、将が想像した以上の「慌しさ」だった。ドラマのテーマではないが、戦争、という表現がぴったりだ。
 すべてが、時間、時間、時間との戦い。そして出演者のスケジュール調整。朝も昼も夜もない。ひどい時には、明け方から深夜まで、ずっとスタジオに拘束される。
 当然、一人の演技、ひとつの場面にこだわる時間も余裕もない。
「お母様、僕は、伯爵家など継ぎません、僕はいずれ、ここを出て、一人で生きていく心積もりです」
 お母様なんて、ありかよ。
 心積もりなんて、言うかな、普通。
 読みに読み込んだ台本。将は、なるべく自然体で演技するように心がけることで、古臭い言い回しや、堅苦しい演出を、少しでも現代風に見せるようにしていた。
 が、それが、上手くいっているのかどうか、いまひとつ判らない。初回オンエアを観たが、自分が妙なほど周りから浮いているのが、悪い意味で印象的だ。
「はい、カット、オッケー」
「柏葉君、よかったよ」
―――本当かよ。
 将は、憮然としたまま、カメラから背を向けた。
 自分でも判る。まだ迷いがある演技、が、そんなことは、周りのスタッフには、もうどうでもいいことらしい。
 だからなんとなく、自分も、気を抜いた演技をしている。
―――最低だな、俺……。
 スタッフがジュースを差し出してくれたが、それは、首を振って断った。日が落ちれば、夜の撮影が始まる。ここからバスで移動して現場移動だ。それまであと一時間。
―――何が……噛み合ってねぇのかな。
 久し振りに着た学生服のせいでもない、もってまわった古臭いセリフまわしのせいでもない、なんというか――自分ひとりだけ、世界に馴染まず、浮き上がっているような奇妙な感覚。
「俺、どうでした」
「んー、よかったよ、セリフもかまずに言えてるしね」
 折に触れ聞いてみても、監督は、愛想笑いを浮かべてそう言うだけだ。
―――かまなきゃ、それでいいのかよ。
 確かにそつなくやれている。
 が、決定的に何かが足りない。
 その憤懣やるかたない気持ちは、自分に向けるしかなかった。
 まだ、他の出演者とも馴染めないまま、一人きりの控え室で、将は仰向けに倒れこんだ。
―――DVD、出んのかな。
 発売は、視聴率の推移で決まるという。
 初回放送の視聴率はまだ出ていないが、普通に考えても、普段よりは高いはずだった。それが、いつまで続くかわからないにしても。
―――出なきゃいいな、俺のクソ演技が、この先もずっと残るんなら。
「……将君、」
 囁くような声がしたのはその時だった。
 半分目を閉じていた将は、ぎょっとして跳ね起きる。
「わ、ごめん、寝てたんだ、もしかして」
「と、」
 将は、思わず瞬きをした。
 扉の向こうで、緊張しきった面持ちで突っ立っているのは、あまりに普段着が素朴だから一瞬スタッフかと思ったが――東條聡。
 ストームのメンバーの一人で、一応リーダーである。
 今日は確か、朝から九州に飛んでいたはずだ。
「東條?」
「ご、ごめん、連絡もなしに」
 聡は、わたわたと両手を振った。
 今、ほとんどフルで仕事をしている他のメンバーたち。5人で会わなくなって随分経つ。
 今、セイバーの仕事で全国を飛び回っている東條聡は、以前より少し痩せたような感じがした。
「きゅ、休憩?」
「まぁな、座れよ」
 まだ、旧制高校の学生服さえ脱いでいない。自分の似合わない格好に、将は苦笑して立ち上がった。
 ジャケットにジーンズ、現代の若者姿の聡は、そんな将を、どこか眩しそうな目で見あげている。
「なに」
「いやぁ、だって、かっこいいからさ」
「ばーか、きしょい」
「だって、マジかっこいいもん」
 そういうことを、真顔で素直に言えるのが東條聡の、――自分では意識していない才能だな、と将は思う。
 素直であること、余分な知識やプライドがないこと。
 これは、一般人としてはボケキャラの要素でも、役者としては大切な要素だ。
「どうだった、博多」
「暑かった!でも、超楽しかったよ、みんなもうノリノリでさぁ」
 顔を上げた、聡の目は輝いていた。
 東條聡は、今、「ミラクルマンセイバー」のイベントで、全国を回っている。舞台は遊園地か、テーマパーク、着ぐるみ怪獣相手の子供向けショーだ。当初の契約ではJ&Mが、絶対に出演させないとしていたショー。
「あんなにたくさんの人と握手したの、デビューイベント以来だよ。てゆっか、お母さん世代とか子供たちとか……そういう人たちと握手するなんて、俺初めてだからさ」
「そうだな」
「嬉しかったなー、俺一人でも、なんかちゃんとやってるじゃん、みたいなさ」
 セイバーは、伝統ドラマの成功をきちんと踏襲し、今、それを上回る勢いでファン層を伸ばしつつある。色物だと酷評されながらも、ひとつのドラマの主演として、見事な成功を果たした東條は、確かな自信を身につけつつあるのだろう。
「……最後にさ、あ、これ、社長には言わないで欲しいんだけど」
「いうかよ、俺が」
 苦笑して、冷蔵庫から取り出したペットボトルを差し出す。
「ミラクル歌ってんだ、俺、リリースが、流れたやつ」
「………………」
「その時、目茶苦茶もりあがるんだ、全員アカペラでフルコーラスだよ、なんかこう、涙出るくらい嬉しくてさ……俺、みんなにも見て欲しい、つか」
 そこで言葉を途切れさせ、聡は、もどかしげに髪に指を差し込んだ。
「やっぱ、俺ら、歌わないとダメなんだ、歌でしか、共有できないもんってあるだろ、判ってもらえないものってあるだろ」
「…………」
「俺、なんかそれが判った気がする……将君が、ずっと、曲にこだわってた意味が」
「…………」
 俺より。
 多分、今のお前の方が、深いところで、ずっと理解しているような気がするよ。
 将は、ペットボトルの水を一口飲んだ。
 理想は――まだまだ、手さえ届かないほど先にある。
 闇の中に見えた仄かな光、あれは、しょせん、現実には有り得ない幻だったのか――。
「オンエア、観たよ、嵐の十字架」
「そっか」
 東條はどう思ったろう。何気なく顔を上げた将は、対面に座る男の顔が、妙なほどそわそわして、落ち着きをなくしていることに気がついた。
「………なんだよ」
「いや、……その」
「………?」
「お、俺なんかが、言うことでもないし、その、その、なんていうか、でも、その」
「言いたいことがあったら言えよ」
 言葉じりがきつかったのかもしれない。そのせつな、聡が、びくっとしたのが判った。
「いや、アドバイスなら、マジうれしいよ。正直、煮詰まってんだ、どうしていいかわからない」
「あ、あのさ……これ、俺も、昔のミラクルマンシリーズとか見てわかったっていうか、思ったことなんだけどさ」
 聡は、もじもじと指を擦りあわせながら呟くように言った。
「様式美っていうのが……あるんじゃないかって」
「…………」
 様式美。
「その、………型に嵌った演技っていうのかな、ミラクルマンヒーローの役なんて、セリフも性格も、どっかで固定されてるんだ、もう様式として、ひとつの型になってんだよ」
「……………」
「その型をさ、だせーとか、ありえねーとかで、俺、結構自分なりにかっこつけてアレンジしてたつもりだったんだけど、それがさ、なんていうか、妙に恥ずかしい中途半端な存在になってたんだよな」
 将は無言で、目をすがめた。
「型にさ、徹底的にこだわって、ひとつの様式として極めることが、逆にすがすがしいっていうか、かっこいいっていうか……ほら、古典や歌舞伎なんかもそうだろ。ひとつの型を表現するって、結構すごいことだと思うんだ」
 しばらく考えて、将はようやく顔を上げた。
「ご、ごめんっ、余計なことだったら」
「いや、マジでありがとう」
 どうやら根本的に、この時間帯のドラマを勉強しなおさないといけないようだ。
 同時に将は思っていた。自分が何故、屈辱ともいえる、このキャスティングを、意外なほどあっさり受け入れられたのか。
「一人じゃないって、すげぇよな」
「え?」
「いや、……みんながいたから、結構平気だったんだなって思ってさ」
 セイバーの時の、東條の頑張りを知っていたから。
 一度は引退を決意した、雅の叫びを聞いたから。
 挫折して、いったんリタイヤしたりょうの後悔を知っていたから――。
 多分、一年も前の将なら、あっさり辞めていただろう。そんな気がする。
「雅は、元気にやってんのか」
「雅は大丈夫だろ、あいつなら」
「いっぺん地獄みてっからな」
「極楽じゃねぇ?」
 将も、雅之に関してはどこかで安堵していたし、聡の声も笑っている。
 将は苦笑して、空になったペットボトルを持って立ち上がった。
「ただ……りょうが、ちょっと」
「……………」
 聡の言葉に足を止め、将は無言で眉を寄せた。
「あまり、よくない噂を聞くんだ。一度、大阪に行ってみようと思ってんだけど……」



                  8


 母親に似て、うぬぼれの強い子供だ、将来ろくな大人にならないに決まっている。

―――父さん……

 澪!どうして稽古に出てこないの、1日さぼると、遅れを戻すのに三日かかるんですよ、さぁ、さっさと着替えてきなさい。

―――母さん……

 まるで娼婦だな、大人に媚びて自分をできるだけ高く売ろうとしている。

 澪、踊りなさい、何度でも判るまで、身体が覚えるまで踊りなさい。

 芸能界など、最低の人間が生きる場所だ。澪は私の子供じゃない、あいつ一人が生んで育てた子だ。

 澪、どうしてお前は、何もできないの、どうして私のいうとおりにできないの!

―――どうして?

 あなた、どなた……?

―――なぜ?

 お前は、もう片瀬の子じゃない、とっとと出て行け!二度と戻ってくるな!!



 お父さん、お母さん。


 何をすれば、俺は愛してもらえてたのかな。





「いい加減に起きなさい!」
 思いっきりゆすると、閉じた目が、ようやく物憂げな瞬きを繰り返す。
―――生きてる……
 佳世はほっとして、思わずその場に座り込んだ。
 本気で死んだと思っていた。目の前で仰臥したまま、まだ、瞬きを繰り返している男が。
「………あー……」
 うつろな声で何か言いかけ、そのまま片瀬りょうは、のろのろと起き上がった。
 一瞬だけ生気を見せた目は、今は、また、覇気のないものに戻っている。
 焦点さえあわない目。
「あんたね、こんなもの飲んでるの」
 緒さえ切れない苛立ちが、佳世の声を荒げていた。
 ばん、とささくれだった畳を叩き、そこに転がっている処方箋の袋を掴みあげる。
 稽古場の二階。片瀬りょうが寝泊りしている、物置を改造した狭い四畳たらずの間。
 今日は日曜日。稽古は終日休みだった。他の団員たちは、各々バイトに明け暮れているか、勉強のために他の劇団の舞台を観にいっている。
 佳世が、つい稽古場に脚を運んだのは、永輝に言われたからではないが、やはり、気がかりだったからだ。孤立したアイドルが初めての休暇をどう過ごしているか――もし、悪い意味で緊張の糸が途切れたら。
 そして、その杞憂は的中した。
「あの子、夕飯から降りてこないのよ、今朝もまだ起きてこないし」
 と、寮母代わりのスタッフの言葉に、反射的に階段を駆け上がっていた。
 鍵さえついていないから、入り込むのは簡単だった。何度かノックして、それでも返事がないから中の様子を伺ったのだが――。
 最初に目についたのは、枕の横に転がっている処方箋の袋。
 零れている錠剤を見て、すぐに判った。
 睡眠薬。そして精神安定剤。
 片瀬りょうは、ほとんどうつぶせのまま、乱れた髪で顔を覆うようにして眠っていた。
 上半身は裸。生気のない半透明な肌、深く寝入っている美貌の男は、実際、死んでいるように見えた。その刹那の嫌な動悸が、まだ佳世の胸の中に残っている。
「答えなさい、そんなもの、いつから飲んでるの!」
 片瀬りょうは、無言で、目をすがめたままだ。
 眉ひとつ動かさない。
「……あなた、……本当に、大丈夫なの?」
 佳世は、眉を寄せたまま、その袋を男の手元に投げ返した。そして、確かな気持ちで確信した。
 彼は病気だ。
 間違いなく、精神のどこかを病んでいる。それも、昨日今日はじまったことじゃない。
 神経質そうだから、もともとその素質があったのだろう。それが、この舞台稽古で完全に壊れてしまったのか……。
 あいつ、薬中ちゃうんか、とは、誰かが冗談まじりに言っていた言葉だが、それは、笑い事ではないのかもしれない。
「とにかく、今日にでも東京に戻りなさい。マリさんには私から説明するから」
 病休ということになれば、マスコミも納得するだろう。J&Mの報復が怖くもあるが。
 佳世は立ち上がろうとした。
 が、獰猛な力で腕を引き寄せられていた。
「……??」
 まるで別人のような荒々しさで、自分の上に被さってくる男が、さきほどまでうつろな目で空を見ていた男と、同じものとは思えなかった。
 それは単なる性欲というより、さらに獰猛な、原始的な行為に思えた。
 恐怖にかられ、佳世は叫ぼうとした。その口を手のひらで塞がれる。
「………っっ」
 唇ごと、喉を絞められたような気がした。
 全身の力で抗っても、やはりそれが男と女の違いなのか、細い体はびくともしない。
 顔が近づいてくる。ひどく荒い息遣い。
「きゃ……っ」
 指の隙間から悲鳴が漏れた。恐怖で全身が硬直する。反射的に目をつむる。
 額が触れる、体温が熱い――なのに、触れるとひどく冷たい。
 冷たい雫が頬に散った。一瞬、それは錯覚に思えた。
「………………」
 何度も同じ感覚が、佳世の頬ではじけて散った。
―――泣いてる………?
 おそるおそる目を開けた。近すぎて不明瞭な顔。瞳の黒さだけが、唯一確かな色彩になる。
 片瀬りょうは泣いていた。
 肩を震わせ、閉じた唇からは苦しげな嗚咽が漏れていた。開いた瞳、涙は尽きることなく溢れ、それが佳世の頬を濡らしている。
「…………どうしたの……」
 首筋に埋められた顔。佳世は無言で、その頭を抱いて、髪を撫でた。
「………何が悲しいの……」
 返事がないかわりに、強く抱きしめられていた。
 それは、セクシャルな行為というより、ひどくおびえて母親にすがる、小さな子供のようだった。
―――何を怖がってるの……?
―――何を……抱えてるの……?
 自身の激情におびえるように泣き続ける男の髪を、佳世は黙って撫で続けた。
 そして、思った。
 もう、ダメね。
 この子の神経は脆弱すぎる、多分、今の環境に耐え切れず、押しつぶされようとしているのだろう。
 マリさんに直訴してでも、この子を東京に返してあげないと。
―――彼が、完全に壊れてしまう前に。

 
 














       
                              
                    



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