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 現役アイドルが、マイナー劇団に客演の謎。
 わずか二百人収容の小舞台、公演チケット入手は超激戦。
 なにごとも経験です、ストームはアイドル未開拓分野のパイオニアですから。とはJ&M社長の弁。

 

「我ながら名言だな」
 集めた各社スポーツ紙を隅に押しやり、J&M社長、唐沢直人は皮肉をこめて呟いた。
 六本木。
 J&M本社、四階にある唐沢専用のオフィス。
 抑えに抑えた感情が、主のこめかみを震わせた。
―――あの……クソ女め。
 真咲しずく。
 大切な商品に、ついに、取り返しのつかない汚点をつけやがった。
 これでトップ記事なら誉めてやる。しかし、芸能記事欄のさらにさらに隅っこの、まさにどうでもいい記事扱い。
 残酷なようだが、これが今のストームの、芸能界でのポジションだ。
「成瀬も柏葉も撮影か、東條はどうした」
 煙草を点けながらそう聞くと、唐沢のデスクの前――直立不動で突っ立っている男は、わたわたと視線を泳がせた。
「あー、……今頃、ひ、飛行機で移動中だと」
「売れっ子のマネージャーも大変だな」
 最大限の嫌味を込めて言ってやる。
 いっそのこと、クビにしてやろうかとさえ思った裏切り者、片野坂イタジは、泣き笑いのような顔のまま、ずずっと、数歩後退した。
「ぼ、ぼ、僕は反対したんです、ス、ストームのですね、ブランドを壊さないでくださいと、あの目茶苦茶な人にですね、その」
「……ストームのブランド?」
 こいつ、本当にわかってるのか。
 自分らがしでかした愚行がもたらす、真の意味を。
「そんなものはどうでもいい、問題はうちのブランドだ!」
 抑えていた怒りが唐沢の手元を狂わせ、スポーツ紙がばさばさと床に落ちた。
「あ、ああ、わ」
 と、慌ててしゃがみこもうとするイタジを、
「いいですよ」
 立ち上がって手で制したのは、ずっと無言のまま、傍らのソファに座っていた男だった。
 美波涼二。
 タレント兼取締役。このJ&Mを、ある意味誰よりも掌握している美貌の男。
 無言で立ち、かがみこんで、新聞を拾う姿さえ美しい。
 ずっと舞台で仕事をしてきた美波は、姿勢も、声も、立ち振る舞いも、日常生活の所作のひとつひとつが、全て演技のように様になっていた。
「海老原マリ氏は、」
 美波は、視線を紙面に落としたまま、玲瓏とした声で言った。
「僕もよく知っている方ですが、一種の天才であると同時に、役者にハイレベルな演技を要求する人でもある、使えない役者は容赦なく切り捨てられます」
「……はっ、は、はぁ」
 視線を向けられ、ようやくそれが、自分に向けられた言葉と判ったのだろう。片野坂が緊張するのが判る。
 美波は淡々とした声で続けた。
「片瀬はKids時代、ステージで倒れたこともある。精神的に不安定で、決してタフなタイプではない、なにより彼は役者として、海老原氏の求めるレベルの、足元にさえ及ばない」
「……………」
 うつむいたイタジの苦しげな顔が、片瀬の今の現状を物語っているようでもあった。
 劇団「臨界ラビッシュ」、その新作公演「W/M」初顔合わせ日の騒ぎは、唐沢も知っている。
「今、片瀬は大阪ですか」
「……あちらとの約束で、」
 イタジは、いいにくそうに言葉を詰まらせた。
「二週間は、面会禁止です。連絡さえ取れないので」
 美波はわずかに黙り、そして静かな所作で新聞を唐沢のデスクに戻した。
「舞台はしょせん、終われば何も残らない。チケットは評価さえ判らない時点で完売、興行的には成功だ。あちらはそれでいいのでしょうが」
「……………」
「片瀬につけられた傷は、この先ずっと残っていくでしょうね」
 イタジには、返す言葉もないらしい。
 唐沢直人は嘆息して、回転椅子を回して横を向いた。
「片瀬のことはもういい、それより綺堂は何をしてる」
「え、は……、き、綺堂は、幸いにして、その、これといったオファーがなくて」
「綺堂にないはずがないだろう。あのパカ女が希望する仕事が、なかったということか」
「………………」
 イタジは、曖昧な目をして曖昧に頷く。
 横目で一瞥し、唐沢は唇に指を当てた。
 それが救いか。
 が、もう手遅れには違いない。
「ま、お手並み拝見といこう」
 気を取り直した唐沢は、微笑して立ち上がった。
 怒るだけ時間の無駄だ。そして精神力の無駄。
「帰ってお前の上司に伝えろ、あなたのサプライズは受け取った。今度は、俺が」
 もう、戦略はあらかた決まっている。あのバカの意図を逆手にとって、最高の舞台を演出するための。
「お嬢様に、最高のサプライズをプレゼントするとな」
 


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「あ……」
 掠れた息を、奪うように塞がれる。
 満たされたキスを交わし、佳世は逞しい男の首に、額を預けた。
「なんかいつもと違うんちゃう」
 からかうような声が耳元で聞こえる。
「そう?」
 逆に、その声で冷めている自分がいる。
「アイドルのせいやろ」
「なんで?」
 佳世はそっけなく言って、男の腕をふりほどいた。
「今日も稽古の間、ずーっと見とったな、他の誰も見みんと、お前ばっかや」
「嫉妬?」
「して欲しいんなら、なんぼでもしたるけど」
「いい、本当の恋人じゃないもの」
 佳世は薄く笑ってそう言い、ベッドから降りた。
「恋人じゃなかったらなんやねん」
 暖房の効いた室内は暖かい。
 市内にある賃貸マンションの一室。決して豪勢ではないが、舞台役者にとっては夢のような住処。
 不平気に両腕を首の後ろの回すこの部屋の主――梶原永輝は、着替え始めた佳世を見て大げさに肩をすくめた。
「かれこれ三年やで、俺ら」
「いつも、恋人役ばかりだから、なりゆきじゃない」
「三年たってもなりゆきなんか」
「…………」
 男は嫌い。
 束縛されるのもするのも苦手。
 でも、
「セックスも芸の肥し、ね」
 永輝は、心底呆れたように眉を上げた。
「マリさんの熱烈シンパのお前らしいけどな、形だけの官能なんて、観たってなんの感動もあれへんよ」
「ちゃんと感じてるわよ、永輝が上手だから」
「……ちゃうんやけどなぁ」
 軽く舌打したものの、永輝は、そこが彼のいいところで――なんだかんだと三年間、関係を切れない所以でもあるのだが――すぐに気を取り直したように起き上がった。
「ま、ええわ、メシでもいかへん」
「また今度ね」
「三日に一度はそのセリフ聞いとる気ぃするで」
 そのぼやきに、佳世は思わず笑っていた。
 根っからの楽観主義者で、演技は重いのに性格は軽い男。深くはつきあいたくないけど、このまま、気楽な関係を続けてはいたい。
「………永輝こそ、おかしくない?」
 帰り支度を終えた佳世は、この舞台の稽古中からずっと気になっていたことを、初めて口にしていた。
 すでにシャツとジーンズを身につけた男は、あん?と、いぶかしげに振り返る。
「イライラしてたのはわかるけど、あんなに怒るなんて初めてよ。新人に甘い永輝らしくないじゃない」
「アイドルか」
 永輝は、即座に苦笑を浮かべた。
「だったらお前がなぐさめたらええねや、今回はあいつが恋人やないか」
「冗談でしょ」
 佳世も即座に眉を上げる。永輝は笑ったが、すぐにそれは真顔になった。
「ま、正直、あのガキには、マジでむかつく時があるねや」
「それ、本当に嫉妬じゃないわよね」
 それには答えず、永輝は黙って肩をすくめる。
「……ま、確かに、ひどい態度だけど」
 佳世は呟いて言葉を濁した。
 確かに永輝のそれは、嫉妬ではないだろう。芸に私情を持ちこむ男では決してないことを、佳世はよく知っている。
「若い子って、あんなものなのかしらね。一度失敗しただけで、簡単にやる気をなくして、自分の殻に閉じこもっちゃうのね」
 言葉にも、態度にも目にも覇気がないアイドル。
 稽古の初めから終わりまで、空虚な目つきで、黙って座っているだけの存在。
 かつても、マリの厳しい要求に耐えられず、逃げるように劇団を辞めた若者はいくらもいたし、佳世にしてもたくさん見てきた。しかし、片瀬りょうのように、逃げることなく、が、やる気を見せることもなく、ただぼんやり座って稽古を眺めているだけの反応も初めてだ。
 逃げることが――立場上、できないだけなのかもしれないが。
「なんとかしてくれませんか、あれ」
「黙ってぼーっと観てるだけでしょ、俺、全然集中できないんすけど」
「はっきりいって、ものすごい迷惑なんですよ」
 今日も帰り際、若手たちに詰め寄られたばかりだった。
 今や片瀬りょうは、研修生からも完全にシカトされ、バカにされているのである。
 佳世は嘆息して、永輝愛用の肘掛けチェアに腰を下ろした。
「ちょっと、今のままじゃ、全体の雰囲気が悪くなってる感じがしない?」
「知らん、それはマリさんが決めることやし」
 永輝の言葉は冷めていた。
「辞める辞めんは、あのガキ決めることや。俺には関係ないしね」
「ま……そうなんだけど」
 ここまでくれば、そうして欲しいのは佳世も同じだ。
 ただ、佳世の見るところ、一部の団員が、片瀬バッシングを必要以上に煽動しているきらいがある。
 片瀬の代役として、今、稽古に出ている――蓮城賢也とその取り巻き。
 もし、本当に片瀬りょうが降板したら、賢也にとっては、実質これが、初主演になるからだろう。
「ま、なんにしても、今回ばっかは、マリさんの頭ん中、さっぱりやわ」
 永輝は口をへの字にして大げさな息を吐いた。
「そもそも天下のJさんが、なんだって俺らの劇団にアイドルねじこんでくるんや、なんのメリットもない冒険やで、マジで」
「……………」
「なんでマリさん、そんなアホな企画受けたんやろ」
「……………」
 それは――確かにいまだに、佳世にも納得できないままだった。
 永輝の言うとおり、J&Mにしても、かなりの冒険ではあっただろう。六十年代のアングラの名残を残した「臨界ラビッシュ」は、演劇マニアの間では有名でも、全国的にはほぼ無名の存在なのだ。
 そこに、何故か派遣された人気アイドルは、――こういう言い方をしていいなら、初顔合わせの日、まだ、「まとも」だった。
 あの日、彼のプライドはずたずたにされたのだ。そして、二度と、さわやかな笑顔を見せることはなくなってしまった―――。



                ※


「舞台は初めてで、皆さんにも色々ご迷惑をかけると思いますが、よろしくお願いします」
 ゴキブリによく似たマネージャーを同伴して、そう言って丁寧に頭を下げた片瀬りょうは、笑顔の可愛い美少年、といった感じがした。
「ひゃー、綺麗やなぁ」
「ホンマに同じ人間か?」
 稽古場のあちこちからそんな囁きが漏れた。
 芸能人を見慣れている永輝でさえ、口をぽかん、と空けて感嘆している。
 舞台「W/M」の初顔合わせの日。
 何人かの芸能記者を引き連れて、はじめて劇団の稽古場を訪れたアイドルは、まさにアイドルという形容詞がぴったりの、輝くばかりのオーラを発していた。
―――本当に……きれいな子だわ。
 絹よりも滑らかな白い肌。艶めいた黒い髪。大きく潤んだ漆黒の瞳。
 片瀬りょうの、外見の美しさには、佳世でさえ気持ちを揺らされた。むろん、恋愛感情とは程遠い所で。
 それは、ひとつの芸術だとさえ言えるからだ――鑑賞用に磨き抜かれた美貌。異性であっても嫉妬さえ覚えるほどの。
「じゃ、アイドル」
 カメラのフラッシュが瞬く中、彼を最初にそう呼んだのは海老原マリだった。
 その刹那、確かに片瀬りょうの表情は翳ったし、傍らのマネージャーも、はっきりと嫌悪を浮かべていた。
「まずは、アイドルらしく、歌でも歌ってもらおうかね」
 マリの性格が、他人の心の機微まで頓着しないことはわかっている。が、佳世ですら、その言葉には嫌なものを感じていた。
「ちょっと、」
 と、傍らのマネージャーが何か言いかける。
「イタさん、いいよ」
 それを手で制し、片瀬りょうは、やや、硬い表情で、それでも精一杯の笑みを浮かべているようだった。
「何を歌いましょうか」
「んーとねぇ、……あー、だんご三兄弟!」
「…………は」
「それでいこう、知ってるだろ?それ歌ってみな」
 佳世には、それで、マリの要求しているものが理解できた。新人の研修生がやらされる感情表現の稽古の一つ。
「あんたは、悲しくてやりきれない。辛くて辛くてしょうがない。そんな感情こめて歌ってみな」
 そこには、ラビッシュの研修生を初め、マスコミも、そしてスポンサー企業の役員も何名か来ていた。
 むろん、事前の打ち合わせも何もない。
 しばらくの沈黙の後、ようやく口を開いたアイドルの歌声は、本人の迷いと戸惑い、そして隠し切れない羞恥を反映した、聞くに堪えないものだった。
「じゃ、次、目茶苦茶楽しい気分で、同じ曲」
「次は、怒り狂った気分で」
 実際、よく歌いきったな、と佳世は思った。
 居合わせたマスコミからも、失笑が漏れていた。研修生など、すでに肩を震わせている。
 自分だったら、恥ずかしくて死んでいるだろう。自らの表現力のなさを、全員の前で暴露されたも同然だから。
「ちょっと、いい加減にしてくださいよ、あんた、うちのタレントに恥かかす気なんですか」
 さすがに顔色を変えたマネージャーの抗議も、マリはあっさりと無視した。
「じゃ、次はパントマイムやってみな、今から課題言うから、即興で」
 むろん、その技術を、舞台初挑戦のアイドルが知っているはずもない。
 彼が必死だったのはよく判ったが、必死なだけに、むしろ、その素人芸は滑稽に見えた。救いは、立ち姿が凛として美しいこと。だからかもしれないが、目を離し難い――観る者をひきつける、魅力だけは確かに持っているような気がした。
 しかし、結局はそれだけだった。
「つーか、最悪だな」
 と、笑い交じりに囁いたのは蓮城賢也で、それは、佳世も同感だった。
 マリの要求は、新人には厳しすぎる。が、それを差し引いても、片瀬りょうが「大根」だというのは、誰の目にも明らかだった。己一人すら演出できない、役者としては、素質さえない最低レベル。
 哀れむと同時に、佳世は、強い失望を感じていた。こんな素人と私が、――同じ舞台にあがる。
 しかも、恋人役で。
 劇団「臨界ラビッシュ」の最新作である「W/M」
 この舞台は、片瀬りょうと佳世の二人が演じる、互いが幸せになることを決して許さない男女の愛憎劇なのだ――。
 全てが終わり、打ちのめされた顔をした片瀬りょうは、無言のまま頭を下げた。額には汗が浮いている。もう、最初の笑顔は跡形もなく消えていた。
「これを、一ヶ月でまともにしろってか?」
 マリは、その場にいた全員に向けてそう言った。
「やれやれ、とんでもないこと引き受けちゃったねぇ、私も」
 その後、片瀬りょうのマネージャーと海老原マリが、ほとんど喧嘩ごしで何か言い合っていたことまでは知っている。
 片瀬りょうが、単身で稽古場に寄宿することになったのは翌週からで、その時には、もう彼は、すっかりやる気をなくしていた。




 
 


    
                              
                    


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