1


「真白先輩」
 真白は、はっとして顔を上げた。
 どこかで誰かが何か言っている。それが漠然と判っているのに、人の言葉として入ってこない……。
「どーしたんですか、さっきから」
 真白はぼんやりと、自分の前にある顔に焦点を合わせた。
 不思議な目で、真白をのぞきこんでいるのは、宮原彩菜。真白の通う大学の後輩である。
 一見清楚で、お嬢様風。守ってあげたくなるほど潤んだ瞳。
 が、その性格が、外見を大きく裏切ってあまりあることを、真白はよく知っている。
「……ごめん、ちょっと眠くて」
 午前中最後の講義。それがいつの間にか終わっている。
―――いけない……
 真白は、嘆息しつつ、机の上に出しているものを片付け始めた。同じ講義を受けていた者たちは、もう大半が席をたって学食に向かっている。ランチメイトはバイトで、今日はたまたま一人だった。
「最近、元気ないですよねー、先輩」
 どこか意味深な口調で言う彩菜は、学年が違っても学部が同じだから、この講義で、時々顔を合わせることがある。同じクラブで、あからさまに無視はできないが、正直、あまり話していたい相手ではない。
「ランチ、一緒に行きます?」
「いい、また今度誘ってね」
 それだけを答え、真白はショルダーバックを持って立ち上がった。
 彩菜はそれでも、しつこく後をついてきた。
「ストームの片瀬ですけどぉ」
 真白は無言のまま、講堂を出て階段を下る。
「今度、舞台に出るそうじゃないですかー、今、大阪に来てるって本当ですか?」
 歩き続ける真白が黙ったままでいると、「もうーっ」と、どこかしびれを切らしたような声がした。
「後で聞いて知りましたよ、真白先輩と片瀬りょうって、高校一緒だったんですよね。ねぇ、もしかして、あの時の」
「タクヤなら」
 真白は、ため息をついて振り返った。
「昔から、その人に似てるって言われていたし、完全な勘違い。てゆっか、ありえないでしょ」
 もう、半年以上も前になる。
 りょうが――アイドルユニット「ストーム」の一員である片瀬りょうが、初めて真白の部屋に泊まった夜。
 よりにもよって、この底意地の悪い後輩に、りょうは顔を見られているのである。
「俺、タクヤ、ストームの片瀬に似てるってよく言われまーす」
 と、今思えば、完全にやけくそで演技していたりょう。
 その時は彩菜にしても、まさか片瀬りょう本人だとは、想像もしていなかったらしいのだが。
「そんなに、怒らなくてもぉ」
 真白の剣幕に気おされたのか、後輩は瞳を潤ませて唇を尖らせた。
「だって、彼氏に似てるアイドルのことなら、気になりません?」
「気になりません」
 どこで疑念を持つようになったのか、今年に入ってから、彩菜は、妙に遠まわしに、片瀬りょうの話題を持ち出すようになったのである。
「なんか週刊誌でぇ、色々書かれてますけどぉ、ストームのこと」
 と、今も、真白の迷惑など顧みずに話を続ける。
「解散するってマジなんですかねぇ、でも、今やってること、アイドルの仕事じゃないっていうか、言っちゃ悪いですけど、安売りしてるって感じはしますよね」
「……………」
「特に柏葉将には、笑っちゃったっていうか、あり得なさすぎてびっくりしちゃった、あ、結構好みなんですよ、あの子」
 あっそう。
「てゆっかぁ」
 ほとんど青筋のたっていた真白の腕を、彩菜はじれったそうに掴んだ。
「絶対へんですよ、最近の真白さん、何カリカリしてんですか」
「…………」
 別に。
 それだけを言い捨て、真白はさっさと足を速めた。
「で、片瀬りょうですけどぉ」
 彩菜はまだ、あきらめないのか追ってくる。
「あの子が出る舞台、私、その劇団の人知ってるんですよ、高校の時ちょっとつきあった彼氏が入っててぇ」
「……………」
「まだいるのかなー、ね、いるんだったら、片瀬に会えないかどうか聞いてみましょうか」
「……………」
「もうっ、真白さんったら、いい加減口割ってくださいよ、私、絶対誰にも言いませんから!」
「……………」
 真白は無言で足を止めた。
「じゃ、言うけど」
 振り返ると、後輩は、期待で目を輝かせている。
「片瀬りょうなんて、知らないし、関係ないし、興味もない」
 唖然とした顔の彩菜を振りきり、真白はそのまま歩き始めた。
 言えるわけがない。
 言える相手でもない。
 でも――。
 ようやく、気持ちが静まってきた真白は、足を止めて時計を見る、正午少し過ぎ、今頃りょうは、何をしているだろう。休憩しているだろうか、それとも。
「…………………」
 先週から、片瀬りょうは大阪入りしている。
 大阪を本拠地としている劇団「臨界ラビュシュ」。そこで寝泊りしつつ、来月から始まる舞台「W/M」の公演に備えているのだ。
(俺がみんなに合流できる時間って、限られてるから。)
(短期合宿みたいな感じで、劇団の寮に、泊めてもらうことになったんだ。)
 束の間の逢瀬。その時に見せてもらった脚本。
 すでに、りょうの書き込みで真っ黒になっていたそれは、正直、真白にとっては、信じられない内容だった。
(色々言われてるけど、ここでヘタなもの見せたら、本当に最後になるから。)
 これが、自身にとって初舞台・初主演になるはずのりょうは、マスコミの酷評にも関わらず、意外なくらいさばさばしていた。
(稽古の間は連絡取れないけど、真白さんには、初日最前列のチケット用意しとくよ。)
(ファンクラブなら、プレミアもんだね。)
 楽しげに笑ったりょうは、その時の真白の感情など、何も判っていないようだった。
―――りょう、ごめん。
 学食で、ぼんやりとランチをつつきながら、真白は、ずっと沈黙したままの携帯を見つめた。
―――私、いけないよ。
「……………」
 これだけは――がんばれない、絶対に、観れない……。



                  2



「おはようございます」
 いつも思うけど。
 ふらふらと頼りない足取りで、自分の前を通り過ぎる男を、織出佳世は冷めた目で見送った。
「アイドルー、お茶」
「俺にもくれへん?」
 はい、と、素直に頷き、この現場に入ってからずっと、一度も、誰からも、本名で呼ばれたことのないアイドルは、湯のみが重ねてあるトレーに向かう。
 劇団「臨界ラビッシュ」
 何十年も前に使われていたという銀行の寮を買い取った、木造二階建ての小汚い建物。
 ここは、その一階をぶち抜いて作った、劇団の稽古場だった。
―――ほっそい腰……。
 佳世は、片手で顎を支え、今、通り過ぎたばかりの男の背を、再度見た。
 肉体も、舞台ではひとつの抽象としての意味を持つ。
 朝の支度を終えた団員たちが、ストレッチや発声を始めている――いつも通りの朝の光景。
 鍛え上げられた肉体美を誇る男女の中で、最後に紛れ込んできた男の背は、ひどく異質なものに見えた。
 片瀬りょう。
 先週から、この建物の二階にある、研修生用の寮に泊り込んでいる現役アイドル。
 ストームだか、ストーブだか知らないけど、あの「J&M」に所属している売れっ子タレントだという。悪いが、製作発表のその日まで、佳世には全く認識のなかった存在。
 ノンブランドのシャツ、褪せたジーンズは、腰周りも腿周りもぶかぶかだ。まだ十代、こんなに線が細くて頼りないもんだっけ、最近の若い子ってのは。
「おい、アイドル」
 ひどく冷たい声がした。言葉どおりの侮蔑がこめられた口調。
「新入りのくせに、先輩より遅く起きるってどういう了見だよ?」
 佳世が顔を上げると、湯のみを持つ片瀬りょうの前に、一人の男が立ちふさがっていた。
 若手実力派として、今、めきめきと頭角を現している蓮城賢也。演技も踊りも秀逸な男だが、この舞台で与えられた役は、片瀬りょうの「代役」である。
 片瀬より十センチ以上長身の賢也は、目下の少年を威嚇するようにねめつけた。
「どうせ今日も見学だろ、暇なら、稽古場の掃除でもやっとけよ」
 代役――という立場のせいかどうかは知らないが、賢也の片瀬に対する態度は誰よりも厳しい。厳しいというか、見苦しいほど感情的だ。
 が、どこか反応の鈍い目で顔をあげた片瀬りょうは、ただ、空虚な目つきのまま、はぁ、と呟き、そして再び、湯のみに茶を汲み始めた。
「おい、ちょっと待てや」
 まだ何か言おうとしている蓮城を遮って、ふいに口を挟んだ男がいた。佳世はつられて振り返る。そして眉を上げていた。このラビッシュではトップスター格の男優、梶原永輝。
 稽古場の隅で、ずっとストレッチをしていたトップスターはバーを離れ、つかつかと片瀬りょうの前に歩み寄る。
「アイドル、お前、先輩が話しとるんに、その態度はないやろ」
 梶原永輝の声を聞きながら、佳世は無言で眉をひそめた。
 実質、ラビッシュのリーダーである梶原永輝、ここで怒るなら、相手は理由もなく因縁をつけた蓮城賢也の方だと思うのだが――。
「お前の態度に、みんなイラついてるのが、まだわからへんのか、お前一体ナニサマのつもりや」
「……………」
「おい、ものが言えへんのか」
 片瀬は無言で、永輝を見上げる。そこだけは、ぞくっとするほどなまめかしい黒い瞳で。
「そもそもお前、一体なにしにここきとるんや、この現場、なめとんのか」
 反応のない相手の態度に苛立ったのか、永輝は力いっぱい、壁を叩いた。
「アイドル、その口はなんのためについとんや!!」
 普段陽気なスターの剣幕に、すでに研修生などは凍り付いている。
 が、片瀬りょうは、それでもまるで無気力なまま、ぼんやりとつっ立っているだけだった。いつものことだが、何も言わない。眉ひとつ動かさない。
「やる気ないなら出ていけや、恥かく前にやめたらええんや!!」
 殆ど片瀬に掴みかからんばかりの永輝を、隣にいた古参団員らが、さすがに苦笑して止めに入った。
「英ちゃん、しゃあないやん、アイドルさんやし」
「ほっときほっとき」
 決して庇っているのではない。
 ここにいる団員の誰もが、すでに、怒りさえ超えて、J&Mからやってきた客演スターに全くの無関心を決め込んでいるのである。
 が、あからさまな嫌味を言われても、人形より綺麗な顔をしたアイドルには、何一つ響いてはいないようだった。
 すでに先輩らの叱責にも関心を失ったのか、無表情のまま湯のみを取り上げ、そこに茶を注ぎ始めている。
「止めなくていいんすか」
 佳世に囁いたのは、いつの間に近づいてきたのか、最初に片瀬りょうに難癖をつけた蓮城賢也だった。
「永輝さんが、マジで怒るのって珍しいっすね、佳世さんが止めてやらないと、あいつ、ちょっと可哀想かも」
 と、賢也は片瀬りょうを親指で指し示す。
「……誰にも無関心決め込んでるヤローだけど、ほら、佳世さんには関心あるみたいだから」
「…………」
 自惚れの強い後輩に言われるまでもなく、それは佳世も気づいていたし、他の団員の噂にもなっていた。
「稽古の間中、ずっと佳世さんのこと、熱っぽい目で見てますからね。どうですか、あんな美少年に見つめられて嫌な気持ちにはならないでしょ」
 佳世は黙って賢也を見つめた。そして笑った。
「すごいわね、賢也君」
「え、」
「私なんて余裕なくて、ギャラリーにまで目がいかなかった、代役なのに本当に余裕ね」
「……………」
 それだけ言って、佳世は冷ややかに視線をそらした。
 むっとした賢也が、肩をいからせてきびすを返すのが視界の端に見える。
 自身の冷たさが、周囲から浮いている原因だと知っている――が、それでもいいと、佳世は常々思っていた。ここにいるのは仲間ではなくライバルだ、和気藹々と迎合する気はまるでない。
「みんな、揃ってるか?」
 ふいに、ひどくしゃがれたハスキーボイスが響き渡った。いつもの、稽古開始を告げる声。佳世は、台本を置いて顔を上げた。


                  3

 
 扉を足で蹴るようにして入ってきたのは、長身の――みるからに一般的な老婦人とは一線を画した、豹柄のジャージを着た老女だった。
 ストレッチをしていた研修生が、慌てて立ち上がり、居住まいを正す。
 立ち上がったのは佳世たち正規団員も同じで、いっせいに「おはようございますっ」と、気合の入った声が飛んだ。
「っす」
 このカンパニーの主催者にて、脚本家、そして演出家でもある海老原マリ。
 今回の新作舞台「W/M」。その原案、脚本、演出の全てを手がけるのも、この女である。
「今日は通しで二部までいくよ、同じとことちった奴はクビだからね」
 地声というより、間違いなく煙草とアルコールでいためた声。それだけ聞くと、絶対に男としか思えない。
 海老原マリは、すたすたと全員の間を縫って歩き、そして、自ら用意した専用チェアに、どかっと腰を下ろし、脚を組んだ。
 七十年代を代表するアングラ一派の代表。知る人ぞ知る名女優にして、名演出家。
 短く刈られた見事な白髪。すらりとした長身。顔だけ見ればセレブ風の老婦人だが、その性格の激しさと過酷さは、業界でも有名だ。
 マリは、そこだけが往年の美貌の名残を残す目で、ぼんやりと突っ立っているアイドルを一瞥し、それから、パンパン、と手を叩いた。
「じゃ、昨日のシーンの入りからいこかー、みんな、定位置ついて」
「マリさん」
 その傍らに駆け寄って囁いたのは、梶原永輝だった。
「ええんですか、あいつ」
 苦りきった顔で、永輝は壁際を顎でしゃくる。
 その先には、隅のベンチに腰を下ろし、所在無く自分の指を見ている片瀬りょうの姿がある。
「主役なんに、今までまともに稽古したの、初日くらいでっしゃろ。あれじゃ、初日に間に合いまへんで」
「だから、代役立ててるだろ」
「あいついると、他の連中の士気に影響せぇへんですか」
「そんなもんで影響されるような士気なら、そのへんの犬にでもくれてやりな」
 マリはあっさり言うと、まるで蝿でも追い払うように片手を振った。
「ぼやぼやしないよ、とっとと位置につく」
 首をかしげながら指示通りに動く永輝は、憤懣やるかたない、といった顔をしている。
「……………」
 佳世もまた、釈然としないものを感じつつ、用意していた台本を片手にセンターに立った。
 永輝の不安は、そのまま佳世の不安でもあった。
――― 一体、どうなるの、この舞台。
 すでに海老原マリは、完全に片瀬りょうの存在を無視している。稽古に出ているのは彼の代役で、その間、片瀬はずっと、稽古場のベンチに座らされているからだ。
 が、その片瀬りょうを、客演として呼ぶことに決めたのは、そもそも海老原マリなのだ。おそらく、約束された興行収入と引き換えに。
(―――商業主義に転んだ、ちゅうことやな。)
 先日、研修生を囲んだ飲みの席、話が今回の舞台に及ぶと、すぐに怒りはじめたのは、やはり梶原永輝だった。
(―――今回ばかりは理解できん、俺、マリさんが信じられへん)
 その個性がテレビ受けし、すでに関西ネットの顔になりつつある永輝――そして、かつて大手劇団の花形スター候補だった佳世が、この場末劇団に望んで入り、今でも残っている理由はひとつ。
 海老原マリのつくる世界に、惚れたからである。
 あらかじめ決まった型を演出どおりに作っていく商業舞台ではなく、役者の個性ありきで変幻自在に変化していくという――、全員の感性で作りあげる生の空間に。
(―――マリさんは、ポリシーを捨てたんや、しょーもないスポンサーつけて、アイドル呼んで、採算合う商業演劇やろうっちゅう腹なんや。)
 わしはもう、辞めるで。
 この舞台で最後や、もう、マリさんにはついていかれへん。
 酔いに任せたとはいえ、永輝の怒りは、マリだけにとどまらず、客演として呼ばれたアイドルが、あまりにひどい代物だったことにも向けられていた。
 顔合わせの初日、ショックだったのは、永輝だけでなく佳世もまた同じだった。
 想像以上に使えない客演スター。それが、今度の舞台の主役なのだ。そして、同じく主役の一人である、佳世の相手役でもある。
「……………」
 ある意味、実力もないのに舞台に立つことを強いられるアイドルに、同情できなくもない。
 それでも佳世は、片瀬りょうに、自らの意思で舞台を降りてもらいたいと思っていた。だから賢也のいじめも、永輝の苛立ちも放っている。
 たとえ、それが、これ以上、脆弱なアイドルを追い詰めることになったとしても。
 そうでないと、スポンサー企業が許さない。すでにチケットは、片瀬目当ての女の子たちで完売している。主役交代の責任の全ては、この劇団に被さってくるからだ。
 かわいそうだが、片瀬りょうには、何が何でも、自分の意思で「やめます」と言ってもらわなくてはならない――。













       
                              
                    


  >next