1
怖い。
やめとけばよかった。
でも、結局はこうなっていただろう。
だって、怖いけど、今はもっと、この人のことを知りたいから。
「あ……」
背中から抱かれ、全身に繰り返されるキス。
指にも、首にも、背中にも――そうしながら、背後の男は、愛季の着ている服を、少しずつ剥がしていく。
照明の消えた部屋。
まだ、闇に目が慣れない。
聞こえるのは衣服のこすれる音と、それからかすかな互いの息遣いだけ。
怖い。
うなじに唇が触れている。
息遣いが耳元で聞こえる。
「美波さん……」
心細い。
「……美波さん」
もう一度呟くと、顔をあげた男に、顎を抱かれ、優しいキスが唇に落ちてきた。
けれどそれは、すぐに優しいだけのものではなくなる。
「……口、開けて」
掠れた声、胸がきゅっと締めつけられた。
「で、きない……」
怖い。
「できるよ」
苦しい。
腕の硬さや、肌の陰影、髪の香り。
好き。
好きすぎて、
もう――息ができない。
「もっとだ」
ぎこちなかったキスが、やがて滑らかになっていく。
互いの呼吸が、乱れて交じる。
キスを続けながら、美波は、片手で、自らシャツを脱いでいく。
綺麗に引き締まった身体は、滑らかで一点のたるみもない。見事に完成された、今が旬の男の肉体。
見ているだけで、触れているだけで、眩暈がして、死んでしまいそうな気がした。
「……あ、」
唇を離した途端、全身の力が抜けた。
腰を抱かれたまま、仰向けに倒される。
見下ろす男の表情が、落ちた髪で翳っている。
眼差しが、どこか、キスする前と違っていて、それがますます愛季の胸を苦しくさせた。
「………」
素肌で抱き合ったまま、首に、肩に、キスされる。
たまらなくなって、手で覆おうとすると、手首を掴まれ、引き離される。
「み、な、…」
「じっとしてろ」
「………」
そんなの、無理。
やだ、恥ずかしい。
心臓の音と吐く息だけで、あとは何も聞こえなくなる。
もう自分が、どういう体勢で、何をされているのかも分からない。
闇の中にあるのは、滑らかな肌の感触と、男の身体から香る匂いだけ。
「愛季……」
やがて顔をあげた美波が、初めて真正面から愛季を見下ろす。
わずかに呼吸を乱している。初めて見るような眼をしていた。
―――美波さん……
不意に切なさが胸を刺した。
熱を帯びた眼に、見つめられているだけで、どうしてこんなに苦しいんだろう。
こんなに、余裕がない顔をされていることが、どうしてこんなに切ないんだろう。
「怖い……って言っても、無駄?」
「無理だ、悪いけど」
そんな目をさせているのが、私だというのが――
信じられないほど、嬉しくて、同じくらい切なくて苦しい。
もう一度被さってくる唇を受け入れながら、愛季は、こうなる前より、何倍もを好きになっていることに気がついた。何倍も――何百倍も。
乱れていく男の呼吸が愛おしい。
愛季は薄く目を開け、その頬に手を添えた。
「愛季……」
苦しげな呟き。
「……好き……」
大好き。
嘘でも夢でもかまわない。
このひと時のためなら、もう、何も怖くない――。
2
「おはよう」
「……………」
うわっっ。
思わず、掛布を引き上げる。
「……なんだ、そのリアクションは」
見下ろしている、いぶかしげな顔。
愛季は、目元まで布団を引き上げ、見下ろす男から所在無く視線をそらした。
「す、すっぴんに、自信なくて」
「すごいな、じゃあ、メイクしたら自信満々か」
「………………」
嫌味な男。
そういうこと、普通、初めて泊めた相手に言うかな?
愛季は憮然として半身を起こし、コーヒーカップを手にした男に、背を向けた。
朝だ――思いっきり、朝の日差しが、室内に満ちている。
ものすごく熟睡していた。やばい、もしかして、いびきとか寝言とか……。
「ひ、冷えるね、もう夏なのに」
焦りながら髪を直し、ごそごそとカーディガンを羽織る。
こういう時、普通の恋人同士ってどうやってるんだろう。絶対見られたくない気の抜けた姿を、恋人に見せないためには。
「洗面台……借りたいんだけど」
「どうぞ」
やはり、こそこそと、逃げるようにリビングを抜けて洗面台がある脱衣所に向かった。
その時になって、やっと気づいた。
―――そっか、早起きすればいいんじゃない、相手より早く!
で、今何時だろうと思って、ポケットの腕時計を取り上げる。
朝の、6時。
「はい??」
さすがに、顎が落ちかけていた。
は、早すぎ………
だって、どう見積もっても、昨夜、眠りについたのは、深夜をとうに回った時刻。
リビングで新聞を読んでいる美波は、すでに完璧に身支度を終えている。
白のシャツに暗褐色のバンツ。髪型もまとまっていて、このまま撮影に入ってもいいってくらい。
「美波さん、いつ起きたの」
「俺?寝てない」
「……………」
え?
室内には、芳醇なコーヒーの香りが満ちていた。
手狭だけど、綺麗に片付けられたマンション。
特に高価なものはないけど、何もかもすっきりと洗練されていて、主の性格をよく投影しているな、という感じだ。
美波涼二は、のびかけた前髪を煩げに払った。
デビュー当初のトレードマークだった髪型をやめて、どこか大人の雰囲気を身につけた人は、そんな何気ない仕草でさえ、美しかった。
「もともと寝起きが悪いんだ。早朝の仕事が入ってる日は、寝ないことにしてる」
「そ、そうなんだ……」
愛季はおずおずと、ベッドの周りを見回した。道理で、目覚まし時計の数が、半端じゃないわけだ。
少しだけ、そんな、人間臭い美波が可愛くて、可笑しくなる。
「何がおかしい」
「だって」
それでも、くすくすと笑っていると、対面の人が本気でむっとするのが判った。
その表情のまま、美波の横顔が口を開く。
「俺も知らなかった。人間の寝顔って、結構間が抜けてるもんなんだ」
「……………」
「昨日、しみじみと思ったよ、撮影の合間の転寝はやめておこうと」
「………………」
口では、どうも敵わない。
可愛くない。
昨日は――あんなに優しくて、情熱的だったのに。
恥ずかしいから言えなかったけど、愛季には、何もかも初めてだった。別に奥手を気取っているわけではないが、そういうことは――結婚するまで、みたいな頑なな信念を持っていたから。
それが判っていたのか、どうなのか、昨夜の恋人は、最初から最後まで優しかった。
結構、恥ずかしいっていうか――相当甘い言葉も囁かれた気がする。素面で聞いたら、笑っちゃいそうなベタなセリフ。
でも、多分、昨日の自分も素面じゃなかった。怖かったけど、びっくりもしたけど、心も身体も、とろけるような幸せな時間――
「自分の寝顔なんて、普通見ないし」
「今度、写真にとってやるよ」
「……………」
それが、朝になった途端にこう?
愛季は、少しだけ唇を尖らせて、美波が用意してくれたカップに、自分の分のコーヒーを注いだ。
「朝ごはん、これだけ?」
「胃が受け付けない、とにかく朝はダメなんだ」
「作るよ?おかゆとか……」
「うん、今度な」
「…………」
何気ない会話だけど。
今度。
愛季は、自然に笑っていた。
―――今度かぁ…。
なんだか、もう――本当に恋人だって、そう言われているような気がする。
「へんなヤツ、何にやにやしてんだよ」
「別にー」
たったそれだけのことが、莫迦みたいに嬉しい。
愛しさで、胸が温かく満たされる。
今は、2人をへだてるテーブルさえも、もどかしい気持ちになる。
「そっちいっていい?」
「え?」
愛季がそう言うと、初めて美波は驚いた顔になった。
逆に、愛季はその表情に驚いた。
近くで座っていたいだけなのに、そんなに、びっくりしなくても。
「……いっていい?」
「……そりゃ……」
席を立ち、戸惑っている美波の隣、ソファの上に腰掛ける。
「…………」
「…………」
無言で、その肩によりかかり、自分の頭を預けてみた。
あったかくて、大きな肩。
――……幸せ。
腕が、肩に回される。
顔をあげると、そのまま唇が重ねられた。
コーヒーの香りが沁みたキス。優しくて――多分、上手。
しびれるような幸福で、身動きできない。愛季が美波の腕に手を添えると、キスは少しずつ、密度を増して、強引になった。
―――え、てゆうか……、これ。
「あの……、」
「何だ」
仰向けに倒される。動悸だけが普通でないまま、愛季は、ボタンにかかった男の指を押しとどめて、美波を見あげた。
「な、なんでこうなるの」
「だって、お前が、そうしたから」
「は?そ、そうしたって、」
言葉の続きを言うことはできなかった。
男の人って、わけわかんない。
けど。
見下ろされる眼差しも、唇から漏れる吐息も、胸が痛くなるほど切なくて愛しいから。
もう、そんなこと、どうでもいいって思えてくる。絶対に結婚なんてできない人と、こんな関係になっちゃったことも。
唇を離して、額だけをあわせる。
昨夜も思った。こんな顔をする美波さんなんて、知らなかった。
普段の、クールで近寄りがたいこの人からは想像もできない……かわいすぎて。
「……昨日、平気だった?」
「ん……」
「俺、そんなに……慣れてないし、」
「…………」
嘘だー、それ。
全然余裕な顔してたのに。
「痛いばっかだったら、……ごめんな」
笑おうとして、笑えなかった。
こんなに楽しくて幸せなのに、どうして苦しいほど切ないのか、自分でも判らない。
ただ、目を閉じて、優しいキスを受け入れる。
「好きだよ、」
「………うん」
「大切にする……」
「…………うん……」
3
「なんとなく、そうかなって思ってたよ」
事務所を辞めるということは、イコール、キャノンボーイズを解散するということだ。
美波の話を全て聞き終えた植村は、覚悟していたのか、さばさばとした声でそう言った。
「……ま、正直言うと、複雑なとこだけどね」
「悪いと思ってる」
「涼ちゃんの人生じゃないか、僕のことなんて気にする方がどうかしてるよ」
植村は笑った。
ユニットが解散すれば――ある意味、一番打撃が多いのが、ソロの仕事が殆どない植村だった。だから、最初に、植村だけには話しておこうと思ったのだ。
「そっか……」
植村は、晴れ渡った空を見ながら呟いた。
六本木。
J&M事務所本社ビル。
2人は今、その屋上に立っていた。
「変わったよな、ここから見る景色もさ」
柔和な笑みを横顔に浮かべ、植村は手すりに身体をあずけた。
美波も黙って、その傍に立つ。
2人が入所した、昭和54年。ここはまだ、古びた三階建ての雑居ビルだった。
13、4の、悪ガキたちが集まって、まるで、毎日が合宿気分だった。とにかく事務所にお金がない時代で、先輩の衣装や、コンサート用のシャツ、それらを二層式の洗濯機で洗っては、ここで干したのをよく覚えている。
「昔見あげてたビルが、今は目下だ」
「だな」
昨年、大阪支社設立と同時に立て替えられた事務所は、今は六階建ての、モダンな外観を擁している。
同業者からは「ヒカル御殿」と揶揄されている建物。
「……でも、どっちがよかったのか判らない」
「………」
アスファルトの熱をはらんだ風は、もう夏の香りがした。
しばらく無言だった植村は、ふいに、何かを振り切るように顔を上げた。
「やぶっちゃんも、オーケーだと思うよ。あいつ、アイドルなんて辞めたがってたからさ」
「あっさり、ブロードウェイとかに行きそうだな」
美波も、苦笑して呟いた。
むしろ、事務所を辞めて自由になりたがっている矢吹なら、一も二もなく賛成してくれるだろう。
「………植は、どうすんだ」
「どうすっかなー……」
曖昧な笑みを浮かべたまま、植村は姿勢を変えて、美波を見あげた。
「事務所にはいつ?」
「……今週には……ま、そこは、ちょっと慎重に行くつもりだ」
「それがいいね」
真咲福社長への報告。
それから――まっつん、剥げネズミの松本崇にも、相談した方がいいのかもしれない。
今、事務所内は、ヒカルの移籍問題でピリピリしている。ここで迂闊に
「やめます」と言えば、問題がさらにややこしくなりかねない。
「矢吹にも、直接話す。悪いけど、しばらくこの話は」
「了解」
話が途切れると、植村は黙って空を見上げた。
美波も、同じように空を見る。
明るいだけの昼空、その、一点の翳りさえない青さが、妙に寒々しい気がした。
―――愛季に……会いたいな、
今朝、別れたばかりの恋人に、もうそんな気持ちを掻き立てられているのが不思議だった。
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