14



「久し振りだね、柏葉君」
 将は、まだ、耳にした言葉が信じられないまま、差し出された名刺と、目の前で微笑する、大柄な老人を見比べた。
―――うそだろ、これ。
 しかし、何度もらった名刺を見返しても、
 東邦EMGプロダクション 会長 真田孔明
 と、記されている。
「あの、」
 どういうことだろう。
 東邦EMGっつったら、で、そこの会長ってったら。
 有り得ない。
 何かのいたずらか、それとも性質の悪い冗談か。
「その節はお世話になりました、失礼な真似だということは、百も承知だったのですがね」
 唖然とする将を、男は、優しげな目で見下ろしながら言った。
 間違いない、東京のライブ会場で、下見に来ていた将に話しかけてきた老人だ。
 品もあるし、慇懃であっても威厳がある、どこかの企業の役員だろうとは思っていた。が、まさか。
「私は、興味を持った人間に、時々不意打ちで近づく癖があってね」
 ふいに砕けた口調で言うと、男はゆっくりと室内を一瞥した。
「……はぁ」
「長年、こういう仕事をしていると、どうにも用心深くなる、人をあらゆる角度から確認しないと気が済まなくなる」
 そう言い差して、男は改めて、真っ直ぐ将に向き直った。
 穏やかだけだった老年の眼差しに、ひらめくような強い光が見えた気がした。
「あらためて自己紹介させてもらいたい、私は、東邦EMGプロダクションの真田孔明、今日はその立場で、君に挨拶に寄らせてもらった」
―――マ、マジかよ??
 じゃ、このじいさんが本当に東邦の会長?
 ってことは、多分、社長よりも権力を持っている人だ。実質、あの巨大企業の首領ということになる。
 男は、わずかに目をすがめ、ひどく高見から、ゆったりと将を見下ろす。
 上質の光沢を放つダークなスーツ、磨きぬかれた靴、なでつけられた豊かな白髪。
 鼻梁がやたら高く、目はガラス球のようだ、異国の人のようでもあり、老人特有の目色のようでもある。
 まだ信じられない、でも紛れもない、将の記憶ではこの老人は確かに、渋谷のハウスで、直接チケットを買い求めに来た男だった。
「………いや、ていうか」
 狭い楽屋の、決して豪華とはいえない部屋で、今、将は、東邦EMGプロダクションの会長と差し向かいで立っているのである。
 J&Mで言えば、将的には写真でしか知らない、創業者の城之内会長に会っているようなものだろう。その現実感のなさが、まだ上手く言葉を繋いでくれない。
「どうだったかな、ジャガーズとの競演は」
 真田孔明――と、名刺に記されている男は、孫にでも語り掛けるような温厚な口調でそう言うと、傍のパイプ椅子に腰掛けた。
「とても、勉強になると思っています」
 相手に口火を切られ、将もようやく口を開く。
「もう理解したとは思うが、君を推薦したのは、私だよ」
「……………」
 いや、理解っつーか、想像さえしてなかったけど。
 というより、それこそ有り得ない。
「判りません、というより理由がないです、なんで俺を」
 将の反論を遮るように、真田は柔らかく微笑する。
「チケットのお礼じゃないか、君の親切には、素直に感動を覚えたのでね」
 あの程度で――か。
 しかも、将が用意した席に、結局男は来なかったはずだ。
「あなたは、ライブには」
「あの日は、仕事の都合で行かれなかった。せっかくの良席を、残念なことをしたね」
「………別に」
 将の表情が曇るのも気にならないのか、真田はわずかに表情を緩める。
「代わりに、他の日に行かせてもらったよ。ライブは久し振りだがね、非常に見ごたえのあるステージだった」
「……………」
 驚きがひと段落した将は、むしろ、腹立たしいものを感じていた。
 じゃあ、あれは芝居かよ。
 入院中の娘がどうとか――人を試す理由としては、少し悪質のような気がしないでもない。
 しかも別の日に行けるくらいなら、そもそも将がチケットの手配をする必要もなかったわけだ。
 真田孔明。
 聞いたことがある名前だったはずだ、三国志云々じゃなくて。
 将も噂だけは聞いている、東邦プロの社長を長年つとめ、今は会長職に退いたという、芸能界の草分け的存在。まさか実物にお目にかかかれるとは夢にも思ってもいなかった。例えて言うなら、まるで一万円札の福沢諭吉みたいな存在の男。
 そして……。
 あまり意識したことはないが、J&Mとは犬猿の仲だといわれている男である。
 将を見上げ、怜悧な目をした白髪の男は、どこか憐れむような笑みを浮かべた。
「君は、もっともっと、このたびのような経験を積むべきだと思うね、柏葉君」
「それは、まぁ」
「原石も、磨かなければただの石だ」
 そう言いさして立ち上がった途端、老人の態度――というか、雰囲気に、すっと見えないオーラが被さった気がした。
「そして君は、磨かれることなく忘れられていた原石だよ、柏葉君」
 一言、チケットのことで文句が言いたかった将は、気おされたように口をつぐむ。
 なんだろう。逆らえない。
 その目でじっと見つめられると、何ひとつ反論できない、異様なまでの迫力を感じる。
「柏葉君」
「……はい」
「これからも、彼らのような連中と一緒に仕事がしたいとは思わないか」
「………………」
「アイドルなどという低俗な場所を捨てて、新しい世界で活躍したいと思わないか」
「………………」
「君らストームだったかね、……は、今年の夏には解散する予定だと聞いている。内々の話ではあるが」
 将は、無言で眉を寄せた。
 解散は、将も薄々察している。事務所側の意向として、だ。無論、それまでに、できることは全てやるつもりではいるが。
「君のリハーサルも、練習も、全て観た、デモテープも全て聴いた。正直、私は失望した、直人君の、スターを育てる眼力のなさに、だ」
 直人君。
「……………」
―――唐沢社長のことか、もしかしなくても。
「君という原石を、私が育てたいんだ、柏葉君。君はアイドルなどという低い場所にとどまっているような才能ではないからだ」
「いや……それは、嬉しいんですけど」
「今の仲間に未練があるかね」
「まぁ、それも」
 将は困惑しつつ、頭に手を当てる。
 というより、展開がいきなりすぎて、まだ、頭がついていかない。
「無論、全員うちで面倒を見るつもりだよ。それぞれの才能を生かした分野で――それは、間違ってもアイドルなどではないと思っているが」
「………………」
「うちにきなさい、柏葉君」
 初めて男は、顔全体を崩して笑った。
 声は優しかった。
 しかし、将は視線をそらした。
 男の笑う顔に、えも言えない薄気味悪さを刹那に感じたからだ。
 何故だろう、別に、悪い人でもなさそうなのに。
 むしろ、今のストームには、救世主みたいな存在なのかもしれないのに。
「私は君を知り、興味を持ち、そして今に至った。その理由はいずれ話すにせよ、これはもう運命だ、そうは思わないかね」
「………運命、ですか」
「断言してもいい、今のままでは、君の才能は必ずダメになる」
「……………」
「若い頃は、より高いレベルに触れ、それを吸収することが大切なんだ、今の君はどうだ、おそらく一人では何もできまい、自分の非力さが、今回のコラボでわかったのではないかね」
「……………」
 男は立ち上がり、立ったままの将の肩を抱いた。
「君はスターになれる。J&Mにいる時よりも、そして君の仲間たちも、だ。ここではなく、より君たちにふさわしいステージで」
「………………」
 耳元で響く声は、夢を叶える希望なのか、それとも。
「無論、答えはゆっくり考えてからでかまわない。5人全員で、よく話し合ってからで」
 その全員が、今は扉の向こうで待っているはずだ。
 もしかして、この声も聞こえているのかもしれない。
「……………」
 どうすればいい。
 将は眉根を寄せたまま、うつむいた顔を上げられなかった。
 


                15


「おい、柏葉」
 自分を呼ぶ声が、誰のものか――その人を目の前にしているのに、将にはそれが理解できなかった。 
 唖然として立っていると、歩み寄ってきたその人に、ごんっと頭を叩かれる。
「耳がないのかよ、てめぇは」
「す、すいません」
 将は直立不動のまま、事務所の先輩でもあり、芸能界の大御所でもある緋川拓海に頭を下げた。
 控え室前の通路。
 すでに人の波は殆どはけて、時折スタッフが機材を持って行き来している。
 午後七時。帰り支度をすませた将は、これから一人で帰宅するつもりだった。
 ここまで同行した片野坂イタジが、急用で社に戻ったからで――将には、一応タクシーが用意されていたが、このまま地下鉄で帰ろうかな、と所在無く思っていた所だった。
 部屋を出た途端、いきなり、有り得ない人に声をかけられるまでは。
「暇?」
「えっ」
 シャツを重ね着した上に黒のジャケット。ジーンズにミリタリーブーツ。
 今日の緋川拓海は、いつもより大人びて――と言うより、怖くさえ見えた。
 長く伸びた前髪の影から、いくつになっても野生的な瞳が覗いている。
「これから暇かって、聞いてんだけど」
「あ、はい、暇です」
―――つ、つか、誘われてんの?俺。
 将は、微妙に焦りつつ、きびすを返した緋川の後について歩く。
 緋川拓海。
 言わずと知れた、J&Mが、日本――いやアジアに誇る大スター。この先二度と現れないとまで言われている、史上最強のアイドルである。
 将がキッズに入った時には、すでに緋川拓海は全国区の人気スターだった。ギャラクシー全盛期。どのクールのドラマにも、必ず5人の誰かが出ていた時代だ。
 そんな人気スターと、新人が、まともに口を聞く機会など殆どない。
 コンサートツアーも、ギャラクシーにはちゃんと専属がついていて、将が呼ばれることは一度もなく――、なんにしろ、雲の上みたいな大先輩である。
 前を行く、その緋川の背中が言った。
「メシ、どう?」
「えっ」
 ど、どうって、どう答えれば。
「何食いたい?」
 やっぱ、誘われてんだろうか、もしかしなくても、俺。
「あ、じゃあ、ファミレスかなんかで」
 こういう場合、安すぎても高すぎても失礼にあたるらしい。
 緊張しつつ、稀代のスターの背中について、行く先さえも聞く勇気がないまま、将は歩く。
「お前、どうやって来たの?」
「マネージャーとですけど」
「じゃ、車出してくるから、上で待ってて」
 しかも送迎つきかよ??
 将は唖然として、エレベーターで地下に降りていく緋川を見送った。
―――ど、どうなってんだよ、今日の俺。
 東邦の会長の次が、緋川さん?
 なにがなんだか判らないが、むろん、断るという選択肢など有り得ない。
 やがて、高級そうな外車が、将が待つスタッフ出入り口に横付けされる。
「捨てられた猫みたいな目してたな」
 走り出した車の中で、サングラスをかけた緋川が、前を見ながら口を開いた。
「……俺、ですか」
 なんとなく、それがいつのことだか判ってしまった。
 将は、軽く嘆息し、視線だけを外に向ける。
「お前の仲間なら、美波さんに連れていかれたよ。かなり怒られてたみたいだけど」
「………そうですか」
「真咲さんは、RENのマネージャーとメシ食いに行っちゃってたしな、あの人ってホント、なんでもありだね」
「……………」
 真田孔明との話が終り、外に出るともう誰もいなかった。
 憂也やりょうだけでなく、真咲しずくも。
―――まぁ、いいんだけど、さ。
 いてくれたって、何がどうなるってわけでもないし。
「楽屋で何かもめてたわけ?」
「いや、そんなんじゃないんすけど」
「東邦の会長さんと話してたんだ」
「ご存知なんですか」
 将は、少し驚いて緋川を見上げる。
「お前の楽屋の前に、警護の連中が立ってたから」
「警護……?」
「俺も初めて聞いたんだけど、東邦の会長さんって、出歩く時は、必ずSPを連れ歩くんだってさ」
 それは、知らなかった。にしても、………SP??
 いくら大企業の会長とはいえ、何か機密会議に出るならともかく、ちょっと大げさすぎるような。
 会話が途切れる。
 将は、妙に浮かない気持ちで、窓の外に視線を向けた。
―――あのじいさん、そんなものものしい連中を引き連れて来てたのか。
 じゃ、当然、真咲しずくだって気づいてたはずだ。
 俺のとこに、ライバル会社の会長が来てたってのに、完璧、無関心ってやつか、あの女は。
 まぁ、誰も、俺がヘッドハンティングされるなんて予想もしてないんだろうけど。
「迷惑、かけちまったかな」
 交差点で車が止まる。
 しばらく無言だった緋川が、ふいにそう呟いた。
「今回はさすがに反省してる、俺、かーっとなると、こう、止まんないとこあってさ」
 親指で軽く鼻頭をこすり、緋川はわずかに肩をすくめた。
 その横顔に、テールランプの明りが点滅している。
「今日は会えなかったけど、明日の本番までには、RENさんにも謝っとくよ」
「…………」
「わりーな」
「………………」
 将はようやく、この大先輩が、自分を食事に誘ってくれた真意を理解した。
 それから、謝るという、本当の理由も。
 それは多分、緋川自身の反省、というよりは――。
「……やっぱ、謝んなきゃまずいですか」
 わずかに胸が熱くなるのを感じながら、将は言った。
 その視界にさえ入っていないと思っていた事務所の大先輩が、今、後輩のためにプライドを捨てようとしてくれている。それだけで、なんかもう、今日一日感じた様々な葛藤もぶっとんじまったって感じだ。
「当たり前だろ、台本にないことやっちまった」
「かっこよかったです」
「つか、それも当たり前」
 その言い方に、将は思わず笑っている。
「一応、カメラの角度は意識してたしな」
「まじっすか」
―――結構面白い人だな、緋川さんって。
「俺は飲まないけど、美味い串焼きの店があるんだ、そこ、いい?」
「あ、はい」
「お前は気にせずに飲んでいいよ」
「……………」
 雰囲気怖いけど、もしかしてそれが、この人の普通なのかもしれない。
 将たちの世代には、遠すぎてむしろ近寄りがたい人だけど、一緒にキッズ時代を過ごしたマリアやサムライが、やたらこの人を慕っているのも頷ける。
「喧嘩できる仲間は大事にしろよ」
 ステレオから、少し賑やかなロックが流れる。
 ボリュームをあげた緋川は、指でリズムを取りながらそう言った。
「……いや、喧嘩ってわけじゃ、」
 将は言いよどんで言葉に詰まる。
 多分、そんなんじゃないだろう。少なくとも憂也は、そんな気でかかってきたわけじゃないような気がするし。
「俺らは、そんなに激しい喧嘩ってしたことないんだ、なんつーか、俺以外全員大人でさ」
 そう続けた緋川の端整な横顔が、わずかに笑んだ。
「俺がかみつく相手って、昔から一人なんだよな。気がつけば、あの人しかいないんだ、不思議だけど」
「………………」
 それ、
 美波さんのことだろうか。もしかしなくても。
「うちの事務所もさ、男ばっかの、へんなとこだけど」
 前を見つめる緋川の目が、少しだけ優しくなった気がした。
「つか、日本中っつーより、世界中どこ探してもないだろ、こんな異常な組織」
「そ、そうかもしれないっすね」
「面白いよな」
「ま、まぁ」
 微妙……、面白いって言うとこか?
「学校で知り合う連中なんてさ、しょせん一年かそこらのつきあいで、卒業したら行く場所も見るものも違ってくんだけど」
「………………」
「俺、中学の終りからここにいるけど、そん時の仲間と、今も同じもの見てるんだ、これってすげーことかなって、最近マジで思う時があってさ」
「…………………」
「金儲けしてる上の連中にはむかつくけど、」
「…………………」
「いいとこだと思うぜ、J&M」
 将は、何も言えないまま、暮れ行く空に目を向けた。
 もしかして、緋川さんは、東邦の会長の来訪の意図に気づいてるのかもしんないな、と思いながら。
 J&Mか。
 そして、アイドル。
 造反すれば抹殺されるJ&Mシステムの中、意に添わないスタイルで歌わされたアイドルソング。最初は確かに苦痛だった。苦痛というより、バカバカしくて、本気で歌う気にもなれなかった。
 初めてのコンサートも、歌などまるで聴かずに騒ぐファンに苛立ったし、最初は、手を振ることさえ拒んでいたような気がする。
「………………」
 本番は明日だ。初めて、J&Mを、そしてストームを離れて挑む大舞台。
 なのに、武者震いより、不思議なほど、寂しさの方が勝っている。
 喧嘩できる――仲間、か。












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