10



「お、来たね」
「来たねじゃねぇよ、馬鹿野郎」
 雅之は、背後を振り返りながら、フェンスの傍まで小走りに駆け寄った。
「バリケード突破してきたよ、つか、呼び出すなよ、こんな時間にこんなとこに」
「会いたかったんだ」
 つぶらな瞳で見あげられる。
 雅之は、うっと口ごもるが、相手は可愛い女の子でもなんでもない、悪友、綺堂憂也である。
 六本木。
 J&M本社屋上。
 深夜十時、草木も眠る丑三つ時……には程遠いが、すでに取り壊しが決まったビルは、怖いくらい静まり返っていた。
 見慣れた屋上も、どこか景色が違って見える。手入れの途絶えた植栽は荒れて、足元に枯葉が散っていた。
「今夜、将君と一緒じゃなかったっけ」
 そう聞くと、きまぐれな猫のような友人は、何も言わずに夜の闇に目を向けた。
―――なんかあったかな、
 雅之はふと思ったが、それは口には出さなかった。
 憂也の場合、なんとなく――へこんでる時とかは判るんだけど、多分、傍にいてやれば、それでいいような気がするから。
「TAミュージックアワード、今週末だよな」
「そうそう、準備期間ないから、大変だよ、将君も」
「いまだに信じらんねーけどね、ジャガーズと将君のコラボだぜ?」
 憂也の横顔は楽しそうだった。
「すげぇよ、昨日の雲の上が、今は将君の友達だ」
「そういや最近、何かとジャガーズさんと一緒だなよ、将君」
 雅之はしみじみと言って頷いた。
 飲みに行ったり、ライブに行ったり――話をちらっと聞くだけでも、すげー、さすがに俺たちのスーパーキング将って感じがする。
「なんにしろ、これで将君の憂鬱な顔とはオサラバだ、どうでもよくなったんじゃねぇ?たかだか女のことなんて」
―――へぇ、
 と、雅之はあらためて納得した。
 そっか、将君の気鬱の原因は女がらみだったのか、どこのどいつだ、俺たちのスーパーキングにため息つかせる奴なんて。
「りょうは愛の巣から出てこないし、聡君はミカリさんちに日参中だし」
 憂也はそう言って、肩をすくめた。
「ま、死のロードの反動だろうけど、寂しいね、置いていかれた一人モンは」
「いや、お、俺は一人モンじゃ……」
 と、言いかけて雅之は口ごもった。
 バイトだ大学だと忙しく明け暮れている凪、そういや最近、ずっと放っておかれている。りょうや聡とは、確かに、恋愛の濃厚度がまるで違う。寂しいけど。
 それきりしばらく、憂也は黙った。
「仕方ないとか」
「え?」
 フェンスに背を預けようとしていた雅之は、隣立つ男を見下ろした。
「……しょうがないとか、結局どっかで逃げてんだよね」
「…………?」
「いや、俺の話だけどさ」
 憂也は金網に指を絡め、ふっと軽く息を吐く。
「俺、人頼んのは好きなんだけど、頼られるのは苦手でさ」
「…………」
「ついてくのは好きなんだけど、ついてこられるのは全然ダメ」
 そんなもんかな。
 よくわかんねーけど、その辺り、傍から見たら、憂也は結構頼られキャラだと思うんだけど。
「だから、将君のことはマジ尊敬してる。尊敬っつーか、ぶっちゃけ、任せきりにしちゃってる」
「それ、俺もだって」
「………ただ、」
 言い差して憂也は黙る。
 何が言いたいんだろう。雅之は黙って、その言葉の続きを待つ。
「クロスワードって面白くてさ」
「……………………」
 がくっ。
 ど、どうしてそこでこうなるんだ。
 雅之の脱力をよそに、憂也は淡々とした目で夜空を見上げた。
「どの問題にもさ、絶対に解けない超難解なワードが、必ず一つは入ってんの。でもさ、それ解かなきゃ、正解は絶対出ないようになっててさ」
「へ、へぇ」
 つか、そんなにはまってんのかよ!
 夜空を見ながらしみじみ語るほどまでに。
「その難解ワードを解くためには、他の縦列、横列を解いていくしかなくてさ。そしたら、一文字一文字ヒントみたいなのが見えてきて、最後は、あって感じで気づくんだけど」
 ふいに吹き付けた一陣の風が、憂也の長く伸びた前髪を跳ね上げた。
「最初から問題はずっと見えてるのに、なのに、答えは絶対に見えてこない。他解いてく内に浮かび出てくるって、なんか、それ、俺らみたいだと思ってさ」
「………………」
 最初から。
 問題は、ずっと見えている――。
「雅には難しい例えだよな」
 憂也の横顔が苦笑している。
「え、あ、いやー」
「ひとつ間違ったら、別の答えになっちまうのかな」
「…………」
 そもそも問題ってなんだよ、とは、なんとはなしに聞きづらい。
 多分憂也も、俺に――そんな答えを求めているわけじゃないと思うし。
「……間違って出た答えも、それはそれで正解なんじゃねぇ?」
 よ、よく判んないけど。
 慌てて言い足しながら、雅之は続けた。
「そもそもパ、パズルみたいにさ、答えがあるわけじゃないじゃん、俺らには」
 まぁ、ないから、色んな意味で苦しかったり辛かったりするんだけど。
「そうかもね」
 意外なほど素直に頷くと、憂也は黙って、フェンス越しに夜のオフィス街に視線を落とした。
「俺らの答えってなんだと思う?」
「え?」
 つ、つか、そもそも俺には問題が何かさえ――
「それがストームの未来かな。考えると少し怖くなる」
「……………」
 憂也………。
 わかんねーけど。
 あんま、悩むなよ。らしくねぇ。
 てか、憂也が迷ってると、俺まで目茶苦茶不安になるし。
 雅之は、横目で憂也を見る。
 透き通った綺麗な横顔。
 目立つほど美形でもないんだけど、少年なのか、大人なのか、いつも微妙で、不思議なほど魅力的な表情をしている。
「憂也さ、」
 俺……いつも助けてもらってっけど。
 お前になんかあった時、俺に何ができんだろう。
「………俺、もし女だったら」
「え?」
「憂也に惚れてるよ、マジで」
「…………雅……」
 と、すぐに近づいてくる顔を手のひらで押し戻し、雅之は、軽く咳払いをした。
「そんくらい、マジで、最高の奴だと思ってるから」
 まぁ、お互い男でよかったけど。
 女で、もしマジで惚れてたとしたら、心臓が持ちそうにない気がするから。
―――って、こんなんで、つ、伝わったかな。
 こんなんで、憂也が少しは元気になってくれたかな。
「俺は別に、どっちでもいけるのに」
 憂也は笑って、ポケットに手をつっこんだ。
 横顔に浮かぶ子供のような笑い方。そして、いたずらっぽい目で雅之を見上げる。
「といいつつ、やっぱ男の雅がいい」
「………へんな意味じゃねぇよな」
 懐疑的な雅之を、憂也は鼻で笑って、つま先でフェンスを弾く。
「この先もずっと、雅とは一緒だと思うからさ、女だとこうはいかない」
 が、すぐに、その横顔から笑顔が消える。
「ま、それも、クロスワードの答えを間違えなきゃの話だけどね」
「……………」
 また、それか。
 憂也、一体、お前は何を考えてるんだよ。
「俺はそこそこ幸せなんだ、なんだかんだっつって、雅が俺を愛してくれてる」
「あ、あのさ、」
「どっかで頼ってるし、任せてる。これマジだよ」
「……………」
 え?
 マジで――?
 不覚にも、じんとしている自分がいる。
 なんだか涙腺が緩みそうになって、雅之は慌てて目をそらした。
「だから、ちょっと頑張ってみようかな、と思ってさ」
 憂也の静かな声がした。
「……頑張るって?」
「クロスワード」
「………………………は?」
 つ、つかまた、そういうオチかよ。
 雅之が脱力していると、憂也は曖昧に笑って肩をすくめた。
「雅にとって、今まで一番楽しかったことって何?」
「え、俺?」
 話の展開に微妙についていけないものの、そこはしばし、考える。
 なんだろう。
 色々ありすぎて、一つに絞れないって言うか、なんていうか。
「俺は、ここ」
 憂也は笑って、フェンスに自分の背を預けた。
「ここで、将君と雅と、聡君とりょうと、でっかい声で叫んだじゃん」
「……………」
 でっかくなるぞー
 てっぺんいくぞーっっ
 貴沢なんかに負けないぞー
 緋川さん、まってろよー
 あの――夏の終りの日。
 まだストームなんて、影も形もなかった日。
 5人全員で空に向かって雄たけびをあげた。
 あれから――もう、三年が過ぎている。
「何、妙な顔して」
「……いや、だって」
 なんか、すげー、憂也らしくないから。
 憂也はかすかに笑い、前髪を指で払いながら視線を下げた。
「これから、俺ら、かなり色んなことあるような気がすんだけど」
「………そ、そうかな」
「……ま、なんとなくだけど、雅には知ってて欲しくてさ」
「………………」
 それきり、憂也は黙り込む。
 なにを――とは、聞けなかった。
 なんだろう。
 今夜の憂也は、本当におかしい。
 まるで、なんか、転校する前に、最後の別れを言われているみたいだ。
「さて、帰るか」
 が、次の瞬間、憂也は元の憂也だった。
「休憩にしよっか、それとも、泊まり?」
「へ?」
「愛の告白されたからね、サービスしちゃうよ」
 条件反射でお見舞いしたエルボードロップを、珍しく憂也は無防備に受けた。
「いってぇ」
「うわ、ごめ、マジ入った?」
「入れる場所間違ってるって」
 もう一度、が、それは見事に交わされて、雅之はつんのめる。
 底抜けに明るい憂也の笑い声を聞きながら、ようやく、雅之も、明るい気持ちになっていた。


                 11


「すげーな、なんか……」
 東京、幕張メッセ。
 TAミュージックアワード前々日。
 ここで最終リハーサル、業界用語でゲネプロという通しリハーサルが行なわれる。
 リハーサル用に借り切った会場に入った雅之は、さすがに圧倒されてその全景を見つめていた。
 いや、雅之だけでなく、今日一緒にここに見学に来た、憂也、りょう、聡の三人も、同じようにあっけにとられた目で、広いホールに視線をめぐらしている。
 前方、中央、後方と、計三つの電飾ステージ。そして四方に散る花道を兼ねた通路。
 積み上げてある音響装置、天井を覆わんばかりの照明の数と、豪華絢爛なステージセット。八方に備えられた巨大スクリーン。
「つか、ゲネプロでこれなら、本番はどうなのよ」
「ドームだろ、そりゃ、半端な仕掛けじゃお客さんには見えねーじゃん」
 口々に言い合いながら、スタッフが準備に奔走しているホール内に足を踏み入れる。
―――しかし、いいのかよ。
 雅之は、微妙にびびりながら、腕につけた立ち入り許可証の位置を直した。
 ここは、今となってはJ&Mの仮想敵国となった東邦EMGプロ。その、いわば陣地のようなものである。
 周囲を見ても、「東邦」とか「アーベックス」とかロゴの踊ったシャツを着ているスタッフばかり。サッカーに例えると、敵チームのネット裏に誤って席を取ってしまったようなものだ。
(将君のリハ、観にいこうよ)
 憂也に誘われて、何も考えずについてきたものの、そもそも部外者以外立ち入り厳禁、の現場に、よくも見学が許されたものだと思う。
 事務所側が依頼してくれたに違いないが、よりにもよって、緋川事件の最中、怖いほど社長がピリピリしている時期に、よくもまぁ。
―――ま、まぁ……許可はとってんだよな、うん。
 一応、俺たち、出演者の身内みたいなもんだし。
 全員、憂也から立ち入り許可証を渡されているし、実際ここまで入れたんだから、大丈夫なんだろう。
 つか、でけぇ。
 広い。
 あらためてホールを見回した雅之は、ただ、ただ圧巻されていた。
 ストームのライブと全然違う。
 ホール内を駆け回るスタッフやバイトの数も桁違いで、機材の種類も倍以上ある。
 中央ステージでは、これから始まるアーティストを交えてのリハーサル準備のためか、立ったままのスタッフが、ミーティングをしている。
 ピリピリした空気が、かなり後方にいる雅之にも伝わってくるようだった。
「なんだろ、あれ」
 りょうが、不審げな目で、そのステージ、前方あたりを指さした。
「へんなハコがあるけど、あれもステージかな」
 ん?と、全員が視線を向ける。
 前方ステージの前。アリーナ客席上空、多分二メートルあたりの高さに、巨大な箱が浮いている。
 浮いている――と思えたのは一瞬で、すぐに、折りたたみ式の脚が、その箱を左右から支えていると気がついた。
 大きさにすれば、ブロック席半分程度。まるで、客席の上に屋根ができているような感じだ。
「あれって、もしかして」
 と、憂也が何か言いかけた時だった。
「お、きたね」
 まるで戦争のような凄まじい喧騒、慌しく動き回るスタッフの中から、見慣れた顔が飛び出してきた。
「前原さん?」
 聡が、救われた金魚みたいな声をあげる。
 雅之もそれは同じだった。
 知らない面子ばかりの中で、知った顔を見かけると、それが十年来の親友みたいに懐かしく思えるのは何故だろう。
 音響マネジメント会社「レインボウ」の社長、前原大成。
 つい先月、ストームのライブツアーを取り仕切ってくれた会社の社長、兼システムオペレーターである。
―――じゃ、前ちゃんもこのイベントに手伝いに……、
 と、雅之が言う前に、憂也がすっと前に出た。珍しく丁寧に、前原に向かってお辞儀をしている。
「すんません、今日は無理言っちゃって」
「いいよいいよ、でも、天下のJのアイドルさんなら、事務所通せば見学くらいできるとは思うけどさ」
 前原はそう言って、疲れた目じりに皺を寄せて笑う。
―――えっ? 
 雅之は、その言葉に仰天していた。慌てて憂也の腕を引く。
「ゆ、憂也、じゃ、今日の見学って」
「うん、前ちゃんの手伝いってことで、あ、忘れてたけど、俺ら今日は、スタッフ扱いで入ってるから」
 つ、つか、忘れんなよ、そんな、大切な!
「な、なんで、事務所通さずに、前ちゃんにそんな」
「だって、事務所通したら、絶対ダメって言われるに決まってんじゃん」
 しれっとした顔で、憂也。
 雅之は、さーっと血の気が引くのを感じていた。
―――た、頼むから、そういうことなら、事前に一言言ってくれーーっ!憂也!
 多分、背後の聡とりょうも青ざめている。
 なにしろ、今、東邦とJ&Mは一触即発の状態。
 で、ここは言ってみれば東邦の本拠地。
 Jのアイドルが、無断でのこのこ入っていっていい場所ではないし、緋川事件の余波が世間を騒がしている今、所属タレント全員に、「くれぐれも迂闊な行動は取るな!」と、社長からの厳命があったばかりなのである。
―――こ、これ、ばれちゃったら、また呼び出しくらって、解散だのなんのって、叱られるに決まってるじゃん!
「……ま、1日も早く、将君の勇姿が見たかったってことで」
 雅之の無言の抗議に、憂也は、意味深な微笑を浮かべて肩をすくめた。
「見た?あれ」
 前原がそう言って、さきほどりょうが指差した巨大な箱を指差した。
 会場の規模からして、昨夜から作業に入っているのだろう。その顔は、すでに疲労を濃く滲ませている。
「君らのライブで、片瀬君が言いだした案、観客席の上を、動くステージで移動できないかって」
「えっ、あれが実現したら、こんなもんになるんですか」
 りょうが、素っ頓狂な声をあげる。
 吃驚したのは、無論雅之も同じだった。
「す、すげー、ほんとにやっちゃったんだ、前ちゃん」
「すげーよ。そんなもん、りょうのバカが勝手に言ってる夢物語だと思ってたのに」
「うるせぇよ」
 全員の興奮を他所に、前原は、少しだけ寂しそうに笑った。
「予算も、会場のキャパも、君らのでは無理だった。本当は、君らのコンサートでやりたかったんだけどね」
 今回、僕らは、案だけ出したんだ。
 前原は、広い会場を見回しながら呟いた。
「うちも所詮、小さい会社だからね、……正直、少しだけ悔しいんだよね、自分たちの力のなさが」
「………………」
 雅之にも判る。「TAミュージックアワー」のような大きいイベントを、「レインボウ」のような小規模会社がしきれるはずがない。
 大手イベンター会社が取り仕切るそれに、今回、前原率いる「レインボウ」は、助っ人として参集されているのだろう。
「それにしても、将君は今回、かなりきつかったろうねぇ」
 作業がひと段落ついたのか、前原はそう言って、傍らの椅子に腰掛けた。
「緋川君の事件を発端に、業界中が、かなりピリピリきてるからね、東邦さんとJ&Mの関係には」
 観客席後方、即席のパイプ椅子が並べてあるそこに、前原と、4人は並んで腰掛ける。
 前方には巨大ステージ。
 そこに積み上げられた本番さながらの音響機材。
 場内には、スタッフの声とマイクテストの音、音程を合わせる楽器の音などが、さざ波のように入り混じっている。
「あ、宇佐田ヒカルさんだ」
 聡が興奮気味に叫んだ。
 音響スタッフがすでにスタンバイしたステージに、次々と、今をときめくスターたちが普段着姿で現れる。
「すげー、相変わらず、生で観るとちっちゃいなー」
 宇佐田ヒカル。
 女性ポップアーティストでは業界トップ。デビュー曲でいきなりミリオンをたたき出した、アーベックスが擁する、日本を代表する歌姫である。
 そして、「AJ」「ミスチルド」「スキマボタン」など、東邦プロが誇るシンガーソングライターたちが現れる。
 今の日本で、最高峰と将されるポップアーティストたち。
「RITSさんじゃねー?あれ」
 やはり、興奮気味に雅之。
「えっ、RITSって、今は、海外で活動してんじゃなかったっけ」
 極めつけが、「RITS」。
 東邦EMGプロが擁する、世界に通用する2人組みのロックユニット。
 ギター担当、後藤京介の技術は世界でも最高峰、そのテクニックは、どんなギタリストも絶対にコピーできないと言われている。
 現在、彼らのリリースする楽曲は、チャートランキング連続1位記録を独走中。まさに、日本のトップを行く大物アーティストである。
―――つ、つか、この中で将君か。
 雅之は、微妙に汗をかきつつ、隣の憂也に視線を向けた。
「前回のリハも観たけど、将君、よかったよ」
 そう言ってくれたのは前原だった。
「まぁ、正直言うと、一生懸命やってるって感じかな、可愛いなんていったら、君らには怒られるかもしれないけど」
―――可愛いって、将君がか。
 雅之もびっくりしたし、隅の席で、りょうがわずかに笑っているのが見えた。
「心配するような違和感っていうか……そんなものはなかったね、普通に溶け込んでるって感じがして、逆に周りの連中はびっくりしてたけど」
 前原はそう続けつつ、首に巻いたタオルで額の汗を拭いた。
「僕的には、将君の力はよく知ってるからね、そんなもんで驚きはしないけど………なんていうのかな」
 背後から、その前原を呼ぶ声がした。
「僕の好きな、彼らしさみたいなものが、ちょっとないような気がするんだよね」
 それだけ言って前原は立ち上がった。
「じゃ、ゆっくりしてって、帰るときは勝手に出てっていいから」
 僕の好きな、彼らしさみたいなものが、ちょっとないような気がするんだよね。
 雅之は、その言葉の意味を考えていた。
―――って、いい意味なんだろうか、悪い意味なんだろうか。
「どういう意味かな?」
 と、隣席の聡も首をかしげている。
「……アイドルらしくないって意味じゃない?」
 呟いたのはりょう。
 久し振りに見るりょうは、着ている私服の色合いのせいもあってか、いつも以上に優しく見えた。まぁ、これも、私生活が充実しているせいなのだろう、ちょっと痛々しいほど尖っていた部分が、最近のりょうには全くない。
「将君、ジャガーズのファイヤーウォール歌うんだろ、オールラップで」
 その上手さは、憂也のライブに飛び入り参加した時に証明済みだ。
 雅之も、だから、将のソロに関しては比較的安心している。
 問題は――RENとのコラボ曲がどうなるか、だろう。
「ま、歌だけ歌ってりゃいいんだからさ。笑ったり踊ったり、ポーズ決めたり、そんなサービスしなくていい分、楽なんじゃない?」
 淡々とした口調でそう言ったのは憂也だった。
 その時、ふいに場内の空気が変わった気がした。
「…………?」
 喧騒が、まるで潮が引くように静かになる。
 雅之が顔を上げると、観客席のスタッフ全員が動きを止めていた。その全員の視線が、アリーナ席の中央ゲートに向けられている。
「お疲れさまです!」
「お疲れ様です!」
 そんな声が、ホール内のあちこちから響き渡る。
 開いたゲート、現れたのは黒服を着た男たちだった。数人の集団、前列の二人はサングラスに、かなりいかつい体型をしている。
 駆け寄ってきたスタッフの1人が、何度も何度も頭を下げつつ、その集団を前方の席に誘導している。
「……おえらいさんかな」
 りょうが、不思議そうに呟いた。
「つか、なんかその筋の人たちみたい」
「前の連中は、SPかなんかじゃない?」
 雅之が目を凝らすと、集団の中央に、白髪頭が垣間見えた。
 周囲の背広連中がやたら気を使っているようなので、この老人が一番のビップなのだろう。
 高齢そうだが、周りのいかつい連中と身長差が殆どないから、身長はかなり高い方のかもしれない。
「すげ、重役連中のご一行だよ」
 4人の背後で声がした。
「あの人が、滅多に表に出てこないっつーサナダ会長だろ?すげぇな、これもREN効果ってやつかよ」
 おそらく、東邦の社員同士の囁き声。
「えええっっ」
 その声を遮るように、ふいに場違いな叫び声をあげたのは聡だった。
 ホール全体が静まり返っているだけに、雅之も憂也も驚愕する。
「ば、ばか、何でかい声だしてんだよ」
 慌てて雅之。前を行く黒服集団の何人かが、怖い目でこちらを振り返っている。
「だ、だ、だって、あっち」
 その聡は、よほど有り得ないものを見たのか、口をぱくぱくさせながら、あらぬ方向を指差していた。
 東邦プロの重役集団が進んでいる方角とは反対側の、右側ゲート付近。
「う、うちの社長がきてる、ま、真咲さんも美波さんも、緋川さんもいるんだけど!」














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