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「ごめんなさい、真白さん、私、彼と付き合う事になったんです」
 神妙な目色で頭を下げる後輩を見ながら、末永真白は、ただ、はぁ、としか言えなかった。
「ホントごめんなさい……真白さんがショック受けなきゃいいけど」
 と、その女、一つ年下の宮原彩菜は同じ口調でそう続ける。
 そして顔をあげ、いつも潤みがちな大きな瞳で、探るように真白を見上げた。
 9月の終わり、まだ残暑は厳しかった。狭い室内で向き合う二人の女の鼻先には、薄い汗が滲んでいる。
「あ……まぁ、おめでとう」
 真白はひたすら戸惑いながら、とりあえずそう言った。その途端、均衡が崩れたように額から汗が一滴流れ落ちる。真白はうつむいてそれを指で払った。
 何言ってんだ、私。
 うつむきながら、同時に真白は思っていた。
 おめでとうも何もない。実の所、微妙に不愉快なだけで、それ以外、何の感慨も湧いてはこない。
「ありがとうございます!」
 が、彩菜は、場違いに大きな声で言い、心底安堵したような笑顔になった。
「よかった……、もしかしたら真白さんも彼のこと好きなのかな…って、心配してたんです、私」
「それは……ないから」
「そうですか?」
 彩菜は、笑いを含んだ声でそう言い、手にしていたモップをロッカーに投げ込んだ。
 ガタンと、けたたましい音がして、モップの柄が収まりきらずに、半開きの扉から頭を出す。が、彩菜は気にする風でもなく、さっさと窓を閉め始めた。
「掃除当番って面倒ですよねぇ、テキトーに済ませて帰りましょうよ」
 彩菜とはこんな子だ。お嬢様風の可愛らしい容姿をしているのに、動作の端々にはすっぱでいい加減なところがにじみでている。
 外見が儚くていつも人の後ろに隠れているから――入部当初、そんな大人しい後輩が心配で、何かと彩菜の世話をやいていたのが真白だった。それが、とんでもない羊の皮だったと気づいたのは最近のことだ。
 真白は嘆息しながら、モップを収めなおし、ロッカーの扉を閉めた。
「でも、よかったぁ、同じ部で三角カンケーってうざいじゃないですかぁ。真白さんに嫌われたら辛いですもん、私」
 彩菜は、わざとらしいほど明るい声でそう続け、床に一つだけ落ちていたボールを、ぽん、と傍らの籠の中に投げ入れた。
 広い体育館の隅に設けられた体育倉庫。風取り窓から、くすんだ夕方の日差しがコンクリの床に影を落としている。
 その日、真白は部活を終え、ローテで決められた倉庫掃除を、一年生の宮原彩菜と二人でしている最中だった。
 大阪市の校外にある、私立汎神大学。
 末永真白は、この大学の商学部に籍を置く二回生である。
 そして、大学のバスケ同好会に在籍している。――彩菜は、その同好会の後輩だった。
「あー、でもよかった、真白さんが怒らないで」
 掃除を終え、体育倉庫に鍵を閉める段になっても、彩菜はまだ、さきほどの話題を続けたいようだった。さすがに真白は辟易した。
「なんで私が怒るの」
「だって…」
 小柄な彩菜は、身長が160以上ある真白の肩先までしか身長がない。
 その彩菜は真白を見上げ、ちょっと意味深な微笑を浮かべた。
「おい、彩菜、そこにいんのか?」
 ふいに、背後から声がしたのはその時だった。
 体育館の入り口。ひょい、と長身の男が扉の影から姿を現す。
「あっ、雅人先輩」
 たちまち彩菜が、人が変わったような甘い声になった。
 ぱたぱたと足音を立てて、その男の傍に駆け寄っていく。
 男を認めた真白は、わずかに眉をひそめていた。
 その男――篠原雅人もまた、真白を認め、わずかに眉をあげたように見えた。
 篠原雅人。
 この大学の四回生で、バスケット同好会のキャプテンである。
 すでに大手建設会社に内定をもらっている彼は、男らしい整ったルックス、高い身長、会社を経営している両親――などを有し、真白が入学した時から、大学内では有名な存在だった。
 先ほど彩菜が、付き合う事になりました……とわざわざ報告してくれた相手とは、まさにこの男、篠原雅人のことなのである。
「彩菜、疲れちゃって……真白先輩部活あがりだったから、今日は頑張って、先輩の分までお掃除したんですよぉ」
 体育館の隅を適当に拭いていただけの彩菜は、甘えきった目で長身の男を見上げる。
「わかってるよ、だから今日は、飯おごるって言ってるだろ」
 ノースリーブのシャツを着た雅人は、優しい声でそう言って、はじめて真白に気づいたような顔になった。そして、すっと真白に向かい、手にしていた薄緑色のファイルを差し出す。
「悪いけどさ、これ、帰るついでに鍵と一緒に事務室に出しといてくれないか」
 真白は無言で、厚味のあるペーパーファイルを受け取った。
 体育館の使用記録だ。練習の後は、それを事務室に提出するのが決りである。
「じゃ、頼んだよ、悪いけど」
「よろしくですぅ、真白さん」
 真白が黙っていると、雅人は意味ありげな目で軽く笑んだ。そして、彩菜に一言二言囁いて、そのまま二人は寄り添うようにして立ち去っていった。
「……ふぅ」
 一人になった真白は、疲れを感じて嘆息した。
―――なんなのよ、
 と、さすがに少しだけ腹立たしく思っていた。
 篠原雅人。
 実の所雅人は、ほんの先週まで、相当しつこく言い寄ってきていたのである。
 連日の電話、メール。ちょっとうんざりしていたくらいだったし、当然部内でも、噂の的になっていた。
 嫌いではなかった。悪い気もしなかった。
 が、断ることに迷いもなかった。
 忘れらない人がいる、というそれだけの理由ではない。
 雅人は、真白がはじめてつきあった彼氏、幼馴染の唐沢尚哉に、性格がどこか似通っていたのである。
 強引で自己中だった尚哉とのつきあいに、心底こりごりしていた真白にとって、雅人とは、絶対に親しくなりたくないし、隙すら見せたくない相手だった。
 だから――雅人に不愉快な思いをさせないよう、極力穏便に断りつづけていたつもりだったのだが…。
 が、今の雅人の目は、あきらかに「ソンなことしたよな、お前も」と、言っているようだったし、彩菜も彩菜で「もったいぶってるから、こんなことになるんですよ」と、言っているように見えた。
 真白は体育館の鍵を閉め、講義も全て終わり、閑散としたキャンパスの中を歩き始めた。
 どう思われようと関係ないや、と思う反面で、理不尽な寂しさと、ちょっとした憤りの気持ちがもやもやと胸の底に澱んでいる。
「…………」
 大学生活も今年で二年目。
 初めての、地元を出ての1人暮らし。
 女友達はすぐに出来た。が、その女友達に彼氏ができるのも、またソッコーで早かった。そして彼が出来ると、当然のように友人付き合いは二の次になる。
 真白は、大阪に出てきて、いつも曖昧に孤独だった。
 故郷を離れた見知らぬ都会。頼りにする人は誰もいない。確かに友人はできた。一緒にランチを食べ、講義に出て、時にはショッピングなどにも出かける。
 が、そこに――故郷の島根で感じていたような、居心地のよさや濃密な親近感はない。
 真白は今なら、かつての親友の気持ちが、判るような気がしていた。
 東京から越してきた七生実が、何故何人もの男友達を有していたか、何故、土地の者に対し、……真白に対し、理由のない嫉妬心を覚えていたか。
 自分だけを愛してくれる男性がいれば、この孤独感も紛れるのだろう、が、しかし、そういう存在が、真白にはいない。
―――まぁ、近くにいない、と、いった方が正確よね。
 嘆息まじりに、真白は自分に言い聞かせた。
 実の所、いないと言い切れるわけでもないからだ。
 が、今でも真白には、その相手を「彼」とか、「つきあっている」とか、そういう風に思っていいものかどうか、まるで判らないのである。
 片瀬りょう。
 本名 片瀬澪。
 日本を代表する――と言っても過言ではないアイドルユニット
「STORM」のメンバーの一人。
 彼氏と呼んでいいかどうか――
 夏休みの帰省以来、真白がずっと迷っている相手が、その片瀬りょうだった。


                      2


 キッチンの床を拭いていた真白は、チャイムの音に弾かれるようにして立ち上がった。
「お届けでーす、サインお願いします」
 薄く開けた玄関の扉から、茶色い包装紙が差し出される。
「あ、ありがとうございます」
 真白は妙にへどもどしながら、その包みを受け取って、大慌てで扉を閉めた。
―――と、届いたよ、届いたよ。
 中身は見なくてもわかっている。
 STORMの、ファン限定予約の写真集。
―――あー、こんなもん買っちゃって、馬鹿みたい、ミーハ―だと思われるだろうな。
 実際、こんな自分が恥ずかしい。
 と、思いつつ――STORM関係のものは、大抵全部買ってしまっている。真白が、自室に絶対友人を入れたくないのはそのためだ。
 高校と違い、大学ともなると、アイドルに血道をあげているようなやからは誰もいない。いるのかもしれないが、表には出てこない。
「昨日の緋川のドラマ見た?」とか、「やっぱ、救命の江口は最高よね」とか、「オダギリのCM、超よくない?」とか……。
 そういう俳優関係の話なら沢山でてくる。その中で、俳優としての「片瀬りょう」の名前も出てくることがある――が、アイドルグループとしての「STORM」の話題があがることは殆どない。
―――まぁ……高校生とか、そっち向けなのかな……。
 すっかり耳に馴染んだSTORMのヒットソングを口ずさみながら、真白は鋏で包装紙を丁寧に切った。
 歌にしても、彼らの出る番組にしても……どこか子供向けで、大人の女性を対象にしているとは思えないからだ。
 真白にしてみれば、どの歌もすごく好きだ。恋する男の子の気持ちがストレートに伝わってきて……胸が切なくなることがある。
 出てきた写真集。
 表紙はモノクロで、メンバー五人の後姿が映っていた。
 上半身は裸、下はジーンズ。まだ若々しい、線の細さが伺えるような身体をした五人の少年。
 その、見覚えのある一人の背中に、真白はそっと指をあてた。
―――澪……。
(――もう、……俺から離れないで)
(俺から、逃げないで)
「…………」
 そう言って、抱き締めてくれた腕も、声も、眼差しも。
 まだ、昨日のことのように覚えている。
 夏休みの終わり、今から―――ほんの、数週間前の、あれはまるで奇跡のような出来事だった。
 離れていた時間を埋めるように、何度もキスして抱き締めあった。あの時ものすごく近くて――まるで自分の中にいたような澪が、今はひどく遠くにいる。遠く――まるで、別世界に。
 時間が殆どなくて、急いで交し合った互いの住所と電話番号。
 再会の約束さえ、はっきりとはできなかった。
「……うそつき……」
 写真集を、そのまま食卓代わりの机の上に置き、真白は仰向けに倒れた。
(……俺の荷物送るから、……大坂、ちょくちょく行くから、その時は泊まらせて)
 そんなこと言った癖に。
 あったのは、結局電話が一回だけ。
 しかも真白はそれに気づかず、メッセージが留守番電話サービスに残されていただけだった。
「……すごく忙しくなりそうなんだ、悪いけど、また電話する」
 聞いて、その簡潔さに半ばあきれ、掛け直す勇気さえ沸いてはこなかった。
 忙しい。それが嘘でないのは判っている。
 STORMは、今、過密スケジュールに追われているのだ。新曲のキャンペーンとプロモーション、澪にはそれに加えて、秋の新番組の撮影も入っている。
 澪の真面目さをよく知っている真白には判る。澪は今、多分、わき目も振らず、仕事に没頭しているに違いない。
 それは……よく、判っている。
―――あ……やば……。
 真白はそのままの姿勢で目を押さえた。
 なんだか、泣けてきそうだった。
 覚悟していたはずの恋愛なのに、まだ――そのステージに昇ることさえしないままに、もう、めげてしまいそうになっている。
 テレビの澪は笑っている。
 グラビアの澪も笑っている。
 が、真白に笑いかけてくれる澪はいない。
 片瀬りょうはそこにいても、それは――決して片瀬澪ではないのである。
 玄関のチャイムが、もう一度鳴った。
 真白は、少しだけ滲んだ涙を拭って立ち上がった。


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「どちらさまですか」
 扉越しに声をかけても返事がない。が、がやがやと複数人の気配がする。
「……?」
 真白は、チェーンを付けたままの扉を薄く開けた。
 防犯のためだとかで、ここには魚眼レンズもついていないのである。
 扉を開けた途端、
「おい、開いたぜ」
「あ、末永さん?」
 びっくりした真白が、ドアを閉めるより早く、ひょい、と1人の男がドアの隙間から顔をのぞかせた。
 切れ上がった目が、ひどく特徴的で、どこかで見たことのあるような……鮮烈な印象を持った顔。
「へぇ、写真より綺麗じゃん、さっすがりょう、面食いっつーか、理想が高いっつーか」
 男は、いや、男というより少年と言った方が似つかわしい雰囲気を持った人は、からかうような声でそう言った。
「……?」
 真白はたじろぎ、ノブに手を掛けたまま、ドアを閉めることさえ忘れていた。
「ばかっ、ユウ、声でかいだろっ」
「いいなぁ、ここって、いくらぐらいだろ、俺さー、今一人暮らしに憧れてんだよね」
「……トウジョウ君、そういう場面じゃないから、今」
 真白はばたん、と扉を閉めた。
―――てゆっか……えーーーっっ??
 心臓がばくばくいっていた。
 まだ、自分が認識したものが信じられない。
 今の何?
 何か――見てはいけないものを見た?私。
 そんなこと、有り得ない。
 でも、まさかと思うけど、今の人たちって――。
 もう一度チャイムがなる。
 真白はびくっと身体を震わせた。あ、どうしよ、どこに逃げればいいんだろ、私。
「末永さん」
 今度は落ち着いた声がした。今まで聞こえなかった男の声。
 それは、真白の認識が正しければ、柏葉将――STORMで最年長の、可愛い顔なのに妙に恐い目をした男のものだった。年は、多分真白と同い年のはずだ。
「こんばんは、あー、……僕ら、ちょっと君と話しがしたいんだけど、いいかな」
「はっ、はい?」
 これ――撮影?
 真白は、すっぴんで、Tシャツに七部丈のパンツしか穿いていない。
 よく深夜番組で、女子大生の部屋抜き打ちチェックとかそんな企画がある。まさか、いきなり、自分がそのターゲットに選ばれてしまったのでは……。
 どうしよう。
 どうしよう、でも。
「…………」
 真白はわずかに躊躇し、それでもチェーンを外して、扉を開けた。
 それが何であっても、もしかしたら扉の向こうには、
「真白さん!」
「…………」
 扉の向こうには、澪が立っていた。
 ひどくあっさりとした再会の瞬間。
 ロゴ入りのシャツにジーンズだけというラフな姿。澪はひどく慌てた様相で、短くなった髪を乱し、額には汗さえ浮かべている。
―――髪……染めたんだ、
―――てゆっか、これ、……現実?
「感動のご対面じゃん」
 誰かの、冷やかすような声がした。
 背後に立つ者たちを押しのけるようにして、その前面に立ちはだかっている澪は、微動だにしないままだ。
 沈黙。
 まだ、真白には、今の現実が受け入れられない。
 が、一月ぶりに会う澪の方が、さらに呆然とした目をしているような気がした。



         

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