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「ごめんなさい、こんな形でお呼びだてして」
「いや」
 まだ、アイドルとして絶頂期だった2年も前なら、絶対に許されなかったろうし、承知さえしなかったろうが。
「で、俺に話しって?」
 コーヒーカップを持ち上げ、美波は対面に座る女に視線を向けた。
 都内の、地下に構えた喫茶店。
 シックなデザインと、昼間でも穏やかな照明が心地よい店内。芸能関係者が、よく打ち合わせに使う店でもある。
 美波は一人だ。が、女――美波をここに呼び出した女、早川明日香の背後席には、彼女のマネージャーらしき男が同席しているようだった。
 早川明日香。
 舞台「ミュージカルアドベンチャー」で、植村の相手役を務める若手女優である。
 稽古の間、一度も私的に話したことのない女が、どうして――しかも、保坂愛季を通じて、こんな密会をたくらんだのか、美波には、まだ意味が理解できないままだった。
「………おきき、したくて」
「何を」
「…………」
 女の、整いすぎた硬質の美貌が戸惑っている。
 戸惑っているのは、ポーカーフェイスを繕っている美波もまた、同じだった。
 いかにも真面目で、むしろ、男を近づけない感のある早川明日香に、こんな形で誘われたことに。
―――面倒な話でなきゃいいけどな。
 山勢あいに衣装を貸す。
 早川明日香は、その条件として、「美波さんと2人で話したい」と要求してきたのである。
 断ればいいのに、受けてしまった。自分のお人よし加減にもうんざりするが。
「オーディションの一次審査、……本当なら」
「…………」
 明日香は、そこで言葉を途切れさせる。ほの暗い照明が、短く切りそろえられた髪に光を乱反射させていた。
「私が、美波さんの相手役になるはずでした」
 言葉を詰まらせながら、明日香はそれでも、しっかりした声でそう続けた。
「………で?」
 美波は、そっけなく視線を下げた。
 知っている。
 ジャパンテレビで見せられた写真とプロフィールは、山勢あいではなく、早川明日香のものだったから。
 ヒロインが変更されたと正式に聞かされたのは、例の記者発表の直後のことだ。
「……でって、……なんとも思わないですか、美波さんは」
 初めて明日香の硬い表情に、はっきりとした怒りが浮かんだ。
「あの子が、ヒロインになれたのは、全部、美波さんとの思い出話のせいじゃないですか。あの子、一次審査の席で、その話をして泣き出したんです。完全に嘘泣きだって、その後、控え室で一緒だった私にはわかりましたけど」
「……………」
「審査員も、テレビ局の人も、おかしいです。そんないい加減な嘘に踊らされて、……あんな、馬鹿げた記者発表までして」
 仕組んだのは、おそらくプロデューサーの堀江仁だろう。
 堀江もまた、新人だ。最初から、この企画を成功させるためなら、なんでもやるといった勢いだった。
「嘘じゃないよ」
 美波は嘆息し、半分空になったカップを持ち上げた。
「後で、作り話でした――なんてことになれば、恥をかくのは、俺も同じだ。不思議なくらい、あの日のことは覚えていてね、すぐに映像をチェックしたから」
「……映像って」
 明日香の目が、不信げにすがめられる。
「俺が見た時、彼女、ステージ衣装を着ていたんだ。後でわかった、その衣装で出演している番組が何で、誰のバックで踊っていたのかってことも」
「……………」
「当時は、気にもしていなかったけどね。……ま、こういうことになったわけだから、念のため探し出して、確認だけはさせてもらった」
「いたんですか、あの子」
「いたよ」
 明日香は口元を引き締め、納得できない――とでも言うように、視線を下げた。
「仮に私が、」
 そして、呟くような声で言った。
「そんな出鱈目を言ってヒロインになったとしても、美波さん、今と同じこと言うんじゃありません?」
「………言われている意味が、判らないな」
「……………」
「……じゃあ、今の現場はどう思ってるんですか」
 今度は、恨みがましい目が、下からじっと美波を見上げた。
 真面目そうな女の、意外な粘着気質が垣間見えるような眼差しだった。
「美波さん、座長じゃないですか。あんな我侭、許してていいんですか。はっきり言って、みんな迷惑してるし、あの子にはイライラしてるんです」
「……………」
「稽古にはろくに出ないのに、出番だけは増やせって……おかしいですよ、がんばってる私たちはどうなるんですか」
「結果が全ての世界だよ」
 これ以上話を聞いても、なんの意味もないだろう。
 美波は、冷たく言い捨てて立ち上がった。
 我侭な女に、青臭い女に、自分勝手な正論を振りかざす女。
 女は苦手だ、足の引っ張り合いなら、自分たちだけでしてほしい。
 レジに向かおうとした時、背後で、がたん、と明日香が立ち上がる気配がした。
「私、知ってるんです。本当のシンデレラが誰なのか」
「君だって言いたいのか」
 さすがに苛立って振り返った。
「どうにでもすればいい、ただ、来週は初日だ、マスコミに売るなら、せめてその後にしてもらえないか」
 自分でも、きつい言い方だとの自覚はあった。
 明日香は、蒼白な顔で、それでもじっと美波を見あげている。
「………失望しました」
 やがて女は、囁くような声でそう言った。
「ずっと憧れていたけど、バカみたい。美波さんには、本当に失望しました、私」


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「ごめんなさい」
 駐車場に向かって、歩いている時だった。
 背中から追いすがる声に、美波は眉をひそめて歩を早めた。
「あ、あのぅ」
「ごめんですんだら、警察はいらねぇだろ」
 すれ違う人が、けげんそうに美波を振り返る。
 芸能人と見抜いたからではなく、多分、人も不審に思うほど、怖い顔をしているからだろう。
「衣装のことは、本当に助かりました」
「……………」
「あの、美波さんには、余計なお手間をとらせちゃって」
 どれだけ足を速めても、必死に後をついてくる。
 保坂愛季。
 最初から、待ち合わせの場所についてきていたのか、喫茶店の階段を上がって地上に出ると、歩道脇の電柱の影に、すでにこの女は立っていた。
「あの、」
「もういいよ」
 こいつに怒ってもしょうがない。
 と、思いつつ、それでも先ほど、明日香との会話で感じた不快さが、拭いきれないままでいる。
 この角を曲がれば、時間決めの駐車場がある建物だった。
「……………」
 何故だか判らないまま、美波は歩調を緩めていた。
「………なんでついて来るんだよ」
「……気になって、……あ、そのぅ、迷惑だったらごめんなさい」
 深夜の国道沿い。何台もの車が、猛スピードで美波の傍らを走り抜けていく。
「普通に考えて、迷惑だろ」
「………ごめんなさい」
「…………」
 いつの間にか、自分の足が止まっていた。
「………本当にごめんなさい」
 背後で、もう一度呟く女。
 夜風が、ゆるやかに額を撫でた。
 美波はふっと息を吐くと、少し――不思議な気持ちになって、うなだれている女に視線を向けた。
「別に、お前のせいでもないし」
「……絶対に、断られるかと、思ってたんですけど」
「美人の誘いには弱いんだ」
 顔を上げた女が、初めて表情を緩めるのが判った。
 そのまま黙っていると、少し困ったように、視線を下げる。
「山勢が悪いんですね。判ってるんです、みなさんにご迷惑かけてるってことは」
「…………」
「………悪い子じゃないんです。ただ、一生懸命なんです。この世界は競争が激しくて……山勢みたいなタレントは掃いて捨てるほど存在してて」
「…………」
「だから、必死で自己主張してるんです。私……それが、よく判るから」
「…………」
 美波は無言で、顔を上げる。
 背後をトラックが、轟音をあげて通り過ぎていった。
 視界に、閉店間際の書店が見えた。その店先に並ぶ自動販売機。
「飲むか」
「え?」
 女の返事も聞かないまま、美波は財布を掴んで歩き出す。
 コインを入れた自動販売機から、冷えた缶コーヒーを取り出した。
「ほら」
「……………」
 曖昧な表情のまま、愛季が視線を逸らし、わずかに笑うのが判った。
 美波は自分の分のコーヒーを買い、そのまま、ガードレールに腰を預けた。
―――何やってんだか、俺。
 現役アイドルが女と2人で。
 しかも相手は、美波にとっては苦手にもほどがあるタイプ――我侭女優の冴えない付き人。
 暗い夜空に、濁った月が瞬いていた。都会の夜――いつものことながら、墨を流したような無機質な黒。
「星、きれいですね」
 だから、傍らの女が吐いたセリフに、美波は一瞬眉をあげていた。
「なんだ、それ、新手のギャグかよ」
「私、結構目がいいから」
「……………」
 そういう問題でもないような気がする。
 都会育ちかな、とふと思った。
 ラーメン屋をやっているという実家は、どこなんだろう。
「俺の田舎は、」
 口を湿らすためだけだった缶コーヒーが、意外に美味しかったからかもしれない。
 美波は天を見あげ、自然に言葉を繋いでいた。
「夜になると足元も見えないくらい真っ暗になるんだ、クソ田舎で街灯なんて洒落たもんも一本もなかったしな」
「じゃあ、星」
 よく見えたんじゃないですか。
 楽しげな声に、美波も自然と笑んでいた。
「仕事の合間に、ぼんやり空を見上げるのが、ちょっとした息抜きだったよ」
「仕事……」
「ゴミの回収って言ったら、笑うだろ」
 なんで、こんなことまで喋ってしまうのだろう。
 東京に来て以来、一度も口にしたことのない薄汚れた過去。
 それでも美波は、不思議に癒された気分のまま、淡くけぶる月を見上げた。
「回収じゃないな、他人の出したゴミを漁るんだ。金属とか、鉄くずとか、集めれば、結構な金になった。それを、同じ施設にいたダチと2人で、毎晩だ」
 永遠に閉じ込めたはずの過去。無力で、惨めで、貧乏で、人に頭ばかり下げていた日々。二度と戻らないと誓った故郷。
 が、口に出してしまった今、奇妙なくらい、不思議な楽しさだけがこみあげてくる。
「一度、工場に忍び込んで、せっせと廃棄物を運び出したこともある。朝方には全身油で真っ黒だ、2人して、その辺りの川に飛び込んで、大騒ぎしてたら警察が来てさ――素っ裸で逃げだしたんだ、今思っても、バカみたいだ」
 惨めな日々の中、それでも弾けるほど楽しかった思い出。
 聞いている愛季は、何も言わない。
 ただ、美波の隣に歩み寄ってきて、同じようにガードレールに背を預けた。少しだけ、距離を開けて。
「……俺を支えていたのは」
 冷えた缶が、手の中で凍えている。
 夏はもうすぐなのに、まだ夜風は冷たかった。
「あの日の俺に戻りたくない、……多分、それだけだったんだろうな」
 だから、必死で、しがみついていたんだろう。
 心だけがどんどん磨り減っていく――この、虚構と幻の世界に。
「それでも、あの頃と、今と、どっちが幸せだったかって言われたら、微妙でさ」
 目をすがめ、空を仰ぐ。
 大して好きでもない歌を……金のためだけに歌う。
「どっかで、汚い感情が当たり前になってる、……現実を知れば知るほど、つくづく、いやな世界だって思うのに、そこが俺の居場所なんだ」
 女はただ、黙っている。横顔が何かを考えている。多分、美波にかける言葉を捜している。
 喋りすぎだな、美波は思わず苦笑した。
 一体、何を感傷的になってるんだろう、今夜の俺は、本当にどうかしている――バカバカしい。
「………一度、真面目にやめようって思ったことがあったんです」
 が、女は、ふいに呟いた。
 美波は黙って、夜風に流れる女の髪を見つめていた。
「夜中にお母さんに電話して……泣いてやめるって……もう帰るって」
「…………」
「そしたら、お母さんが言ったんです」
 上向いた横顔、綺麗な目が街灯の下で輝いていた。
「あっちゃんのしてる仕事はね、人を幸せにする仕事なんだよ」
 人を。
 幸せにする仕事。
 美波は黙って、足元を見つめた。
「あー……って思っちゃって、私、バカだなーって、だってそれが最初からわかってたから、この世界に入りたいと思ったのに」
「…………」
「それからです。どんな仕事も楽しくできるようになりました。それが、他人を支えるだけの、影みたいな仕事でも」
「…………」
 そんなのは。
「その先に、誰かの笑顔があって、誰かの絶望が希望に変わるなら」
 そんなのは綺麗ごとだ。
 理想であって、現実にはあり得ない。
「……他人より、まずお前が幸せだろ」
「私?幸せですよ」
 愛季は、屈託のない笑顔を美波に向けた。
「人を幸せにする仕事をしてる人が、不幸なわけないじゃないですか」
「…………」
「だから美波さんだって、自分では気づいてないけど、絶対、幸せなはずなんですよ」
――絶対に、
 と、女が、拳を握って念を押す。
「お前の、そういうところが嫌いだよ」
「美波さんは、私の何倍も何倍も、何百倍も、人を幸せにしてるのに」
 愛季は、美波の皮肉をあっさりとスルーした。
「ねぇ、それってスゴイことだと思いません?誰だって、身の回りの人を幸せにすることは出来るんです。でも――美波さんは、数え切れないくらい沢山の人たちに、夢や希望や、幸せを、感じさせることが出来るんですよ、これって、神様がくれた、宝物みたいな才能じゃないですか」
「……大げさだよ、そもそも芸能人なんて」
 作られたイメージで、売り出されただけの架空の生物。
「アイドルは、その中でも最低ランクだ、何も生み出さないし、残しもしない」
 若い間だけちやほやされて、年をとれば忘れられる。
 気持ちだけ磨り減っていって、気がつけば、
「信じて」
 ふいに、冷えた手が暖かな体温に包まれた。
 美波は、驚きを隠したまま、目下の女から視線を動かせないでいた。
「あなたの存在は……奇跡なんです」
「………………」
 繋がった手から、柔らかな感情が伝わってくる。
 風だけが冷たかった。
 随分長い間――忘れていたような気がする。
 人の手って、こんなにあったかいものだったっけ。

 

                  16


「あの……」
「…………」
「あの……」
 いつも思うことだが、ずうずうしいのか奥ゆかしいのか、本当に微妙だ。
 美波がようやく顔を上げると、保坂愛季は、泡をくったような顔になって後退した。
「ご、ごめんなさい、集中してる時に」
「わかってんなら、話しかけんなよ」
 と、言いつつ、読んでいた本を脇に置いていた。
「で?」
 稽古の合間の空時間。背後のスタジオでは、演出家が、拓海たち若い連中を叱り飛ばしている声が聞こえる。
「……昨日は、その」
「……………」
 愛季は、もじもじと自分の指を絡めては、解く。
「わ、私、目茶苦茶ずうずうしいことしたっていうか、言ったっていうか」
「…………」
「も、もう思い出すと、恥ずかしいっていうか、なんか昨日は眠れなくて」
「座れば」
 美波が、自分の隣を指で示すと、愛季は、驚いたように顔をあげた。
「し、失礼します」
 長椅子の端と端。
 そこまで不自然に、隅っこに座らなくてもいいと思う。
「……台本、あったら出せよ」
「え?」
「セリフの間合いを考えてた、悪いと思ってんならつきあってくれ」
「え、……あ、は、」
 はいっ!
 と、そこまで、というほど大きな声で頷いた女に、美波は思わず苦笑していた。
「……別に、なんとも思ってないよ」
「え?」
 鞄から本を取り出している愛季が、不思議そうに美波を見あげる。
「ありがとな」
 昨夜から、伝えたいと思っていた言葉。
 何故か、向けられる視線が気恥ずかしくて、美波は素っ気無く前を向くと、再び台本に視線を落とした。
「この舞台、成功するといいですね」
 柔らかな声がした。
「……美波さん、空時間はいつも、舞台関係の本読んでて、毎日必死で頑張ってるのよく判るから」
 そんなセリフ、正面から言われても困ってしまう。
 そういうことを、恥ずかしげもなく言えるのが、この女の苦手なところだ。
「そういうのって、絶対伝わると思うんです――応援してます、私!」











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