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「……あのぅ」
 おびえたような声だった。
 ベンチで台本に目を落としていた美波は、眉をひそめて顔を上げる。
 渋谷のスタジオ。
 ミュージカル、「シンデレラアドベンチャー」の稽古は、約一ヶ月、このスタジオの一角を借り切って行なわれる。
 今日はその稽古初日。
 全体の挨拶と顔合わせの後、各パートに別れてレッスン開始。この日、美波は、初日出演の植村と共に、本読み稽古に出る予定だった。
「あれ、君……?」
 と、まず声をあげたのは、その美波の隣に座していた植村尚樹だった。
「こないだの、山勢あいちゃんのマネージャーさん?矢吹君に説教したあの時のマネージャーさん?」
 元来人懐っこく、話し上手な植村は、基本的に女なら誰にでも優しいし、馴れ馴れしい。
「今日は山勢あいちゃん、確か、欠席じゃなかったっけ?君一人でここに来てるの?」
「こ、こんにちは」
 植村の饒舌と美波の仏頂面に気おされたのか、二人の前に突っ立った女は、ますます戸惑ったような表情になった。
 棒みたいに痩せた小柄な女、ベンチに座っている美波や植村と、ちょうど視線が合う程度の背丈。
 美波は軽く会釈して、再び台本に目を落とした。
 主演俳優と、相手役のマネージャー。
 しかも今は、集中を欠かされたくない、大切な時間。
 この世界では、まっとうな対応である。
 が、女はそれでも、まだ美波の前に立っているようだった。
「美波君に用?もしかして」
 あ、と、気づいたように、植村が美波を見る。それでも美波が無視していると、
「……涼ちゃん、レディには優しくしないと」
 いたずらめいた声で囁かれた。
「何か用か」
 しかたなく、台本から目もあげないまま、自分でも、それと自覚するほど冷たい声で言葉をかける。
「……えーと、ですね」
「……………」
「そ、その、先日は、本当に失礼しました」
「……………」
 沈黙。
「つ、つか、普通に上手い演出だったよね、おかげで翌週の週刊誌のトップは、美波クンとあいちゃんで持ちきりだったみたいだしー」
 どん詰まりの沈黙の中、植村一人が、慌てて盛り上げようとする。
「ニューカップル誕生、本当のシンデレラストーリー、王子様のガラスのハンカチ、って、それには笑っちゃったけどさ、俄然注目の的になったじゃん、このミュージカル」
「え、ええ」
 確かに植村の言うとおり、翌日の雑誌、ワイドショーで「美談」として取り上げられた美波と山勢あいの出会いのエピソード――その、宣伝効果は、予想以上に大きかった。
 J&Mサイドには全くのオフレコで行なわれた演出や、それに対して矢吹が怒ったことなど、余計なゴシップが広がったせいもあるのかもしれない。
 当初、一般発売でも売れるかどうか……と危ぶまれたミュージカルのチケットは、わずか三十分で完売。追加公演さえ決定となったのである。
「山勢あいちゃん、一躍人気者になっちゃったね。今日はグラビア撮りだって聞いたけど、君、ついてなくていいの?」
「は、はぁ……」
 植村の饒舌に、女はひたすら戸惑っている。
 ようやく顔を上げた美波は、改めて女の顔を見上げた。
 体格も華奢だが、それに負けない小さな顔。
 大きく切れ上がった瞳だけが、唯一、綺麗……と言ってもいい程度だが、表情はどこか硬質で、口元も薄く、セクシャルな印象がまるでない。
「てゆっか、君、結構子供っぼいね、本当は年、いくつ?」
「え……、け、けっこういってます」
 そう、確かに子供っぽい。
―――つか、男の子みたいだな。
 美波は冷めた目で女を見つめる。
 あの日はスーツという服装のせいもあって、随分年が上に見えた。
 今日は、肩までの髪があちこちに跳ねていて、服もシャツとジーンズというラフな組み合わせだ。
 というより、ラフすぎねぇか?とも思う。仮にもマネージャーの衣服ではない。
 女は、おずおずと美波に視線を向けてきた。
「あ……あの、それだけで、す」
「………………」
「し、失礼します」
 軽く会釈し、美波はそのまま視線を元通り、台本に落とした。
「なーに今更冷たくしてんのさ、狂犬矢吹をなだめた涼ちゃんが」
 嘆息まじりの植村の声がした。
 椅子に背を預け、この男の癖で、所在なく指の爪を合わせては鳴らす。
「あの日は確かにむかついたけど、マネージャーさんだって会社の一員なんだから、あの人に怒ってもしょーがないでしょ」
「別に怒ってねぇよ」
「僕はむしろ、ホレちゃったね、タレントを守って矢吹君にかえしたあの啖呵、マネージャーの鏡じゃん」
「だから怒ってないんだよ」
「嘘だ、完全に怒ってる」
「怒ってねぇって」
 植村のしつこさに苛立って、声をあげた時だった。
「すいません、みなさん、これから、本読みに入りますので!」
 まだうら若い演出助手の声がした。
「てめーがうるせーから、頭に入んなかったじゃねぇか」
 美波は舌打して立ち上がる。
 室内にいた者が、ぞろぞろと定位置に戻っていく。
「そういや、今日は僕のパートナーも欠席だったっけ」
 植村が肩をすくめてそうぼやいた。
 王子の従兄弟役である植村の恋人役は、山勢あいと同じ東邦プロダクション所属の、早川明日香というタレントがつとめることになっていた。オーディションでは、山勢あいの次点だったという。
 主演の山勢あいも、早川明日香も今日は欠席。東邦プロ主催の新人イベントに出席しているというから、このミュージカルも舐められたものだと思う。
「今日は、早川明日香ちゃんがスケジュールの都合で来られないので、代役が――あ、こっちこっち」
 少し太めの演出助手は、美波の方を見やって片手を挙げた。正確には、美波からわずかに離れた位置に突っ立っている女に向けて。
 誰もが山勢あいのマネージャーだと思っていた女は、おずおずと全員の前に立った。
「……あの、本日、早川の代役をつとめます、ホサカアキです。よろしくお願いします」
 美波は、ただ、唖然としていた。
 え?
 代役?
 マネージャーが?
「あれあれあれ、どうなってんの」
 と、さしもの植村も目をしばたかせている。
「天下の東邦プロさんが、人手不足ってこともないはずだけど……」
 

                  10


「愛季ちゃーん、喉かわいたぁ」
「お茶でいい?」
「ううん、あい、コーラが飲みたい」
 判った、待っててね。
 と、財布を片手に立ち上がった女。
「なんとも言えない立場だねぇ」
 それを横目で眺めていて、そう呟いたのは植村尚樹だった。
 渋谷のスタジオ。
 初顔合わせから、今日で丁度一週間。
 ミュージカルの出演者は、全員若手で、年も結構近いため、初日から新学期のクラスにも似た、妙なテンションに包まれていた。
 むろん、現役の―― 一応、トップアイドルである「キャノン・ボーイズ」という別格をのぞけば、である。
「涼ちゃんだったらどうよ、まるで俺らが、」
 と、植村は渋い顔で、――ちょうど背後にあるピアノの前で、天野雅弘とふざけあっている緋川拓海を顎で示した。
 2人は、出演者の女の子たちの一番人気のようで、今日も、数人のキレイどころに囲まれている。
「あいつらのマネージャーやらされてるようなもんじゃない、よくやってるよ、実際」
「……………」
 美波は黙って、パーマを落としたばかりの髪を指でかきあげた。
「それどころかさ」
 と、納得できない表情で植村は続ける。
「愛季、私、オレンジ」
「私、ウーロンお願い」
 山勢あいだけではない、他の女性出演者のパシリのようなことまでさせられている。
 当初、山勢あいのマネージャーだと思っていた女は、正確には「マネージャー」という立場で同行しているのではなかった。お目付け役とでもいうのだろうか、新人タレントの、こまごまとした身の回りの世話をやく――あたかも、付き人のような存在。
 名前は保坂愛季。
 元々は、東邦プロ所属のタレント。
 いや、今も正式な立場は「タレント」なのだろう。
 つまり、年をとって売れなくなったタレントが、後輩のお守り役に回された、というところだ。
 女性出演者は、全員が若い。東邦EMGプロ所属のタレントが一番多くて、主演の山勢あいもそうだし、オーディション次点で、植村の相手役になった早川明日香も東邦所属だ。
「おはようございますっ」
 と、その早川明日香の、必要以上に元気な声がした。
 美波と植村は、同時に顔を上げて会釈する。
「ごめんなさい、遅れました!」
 すでにタレントとして活躍している明日香は、女の子たちの中では、一番顔が売れている。
 造詣で言えば一番の美少女で、演技も踊りも郡を抜いて上手い。とにかく真面目で、熱心――熱心というか、必死に舞台に取り組んでいるのが傍目にもよく判る女。
「愛季ちゃん、演技も悪くなかったし、年だってせいぜい二十四、五、だろ。厳しいよね、東邦サンは」
 植村は肩をすくめながらそう続けた。
 この、つかみどころのない男の関心は、自らの相手役である早川明日香より、初日にその代役を務めた保坂愛季にあるらしい。
「植村さん」
 背後から、ひょい、と明るい声がした。
 その当人、保坂愛季。
 美波が顔をあげると、植村の同情など関係ないような底抜けに明るい顔で、愛季はぺこり、と頭を下げた。
「今から自販機行くんですけど、何か買ってきましょうか、よかったら」
「え、いいの?」
 初日、あれほどおどおどしていた保坂愛季は、一週間で、すっかり植村と馴染んでしまったようである。
「じゃ、俺オレンジ、涼ちゃんは」
「悪いが、うちは、自分のことは自分でやる方針だから」
 植村に振られる前に、美波は、そっけない声でそれを遮った。
「東邦とは違うんだ、若い連中への示しがつかない、余計な真似はしないでくれ」
「………あ、ご、ごめんなさい」
 立ったままの女が、そのまま言葉をなくすのが判る。
「ああ、ああ、もう、なんだってこうも冷たいのかねぇ」
 再び2人になって、植村が大げさなため息と共に肩をすくめた。
「常識派の涼ちゃんの態度とは思えないよ、なんか、いつもと違うくない?今回の涼ちゃん」
「……別に、フツーだろ」
「どうだかねぇ」
 と、肩をすくめて椅子に背を預け、植村がぶすっと口をとがらせる。
「………丁度、喉渇いてたのに」
「…………」
「すっげー、キリンオレンジな気分だったのに」
「…………」
「せっかく愛季ちゃんが」
「うっせーな、判ったよ!」
 あと十分で、午後の稽古が再開される。
 苛立った美波が、力任せに扉を開けて廊下に出たときだった。
「おっそーい、愛季、何やってんだろ」
「トロいんだよね、あいつ、何やらせても」
「でもさー、よく辞めないで残ってるよ。アタシだったら耐えられない〜」
「まだ、チャンスがあると思ってんじゃない?」
「ばっかじゃん、もうオバサンなのに」
 囁きと、くすくすという笑い声。
 それは、通り過ぎる美波に気づいたのか、息を引くようにふいに途切れた。



                 11



「煙草……ですか」
 火をつけようとした美波は、少し驚いて顔をあげた。
「……舞台の間は、やめた方がいいと思うけど」
 それを無視して、ライターを鳴らす。何度か小さな火花が瞬いて、薄い白煙が舞い上がった。
「けっこう、きついの吸ってるんですね」
 まだ、立ち去ろうとしない女――保坂愛季。
 美波は目だけ上げて、女を見上げた。
 威嚇したつもりだったが、意外にも愛季にひるんだ風はなかった。
「外暑かったですよ、まだ梅雨にもはいってないのに」
 額に汗を浮かべている。片手には缶ジュース。そのまま、美波が座るベンチの横に腰掛ける。
 美波は無言で、吸い込んだ煙草の煙を吐き出した。
 スタジオの廊下。周辺に人影はいない。
「王子さまには、似合わない……と、思いますけど」
「………お前には関係ないだろ」
「一応、お姫様のマネージャーだから」
 遠慮しているようで、言いたいことだけははっきりと言う。
 美波が黙っていると、ぶしっとプルタブを切る音がして、ごくごくっと健康そうに喉を鳴らす音がした。
「あー、美味しい」
「……………」
 つか、けっこう、ずうずうしいのか?もしかして。
 まぁ、それもそうだ。怒り狂った矢吹に、怒り返すくらいだから――度胸だけはあるんだろう。
「正式なマネージャーじゃないんだろ」
 なんとなく言葉が出てきたのは、先ほどの、胸が悪くなるような会話を聞いたからかもしれない。
「そうなんだけど、なんか、若い子に頼りにされるのも悪くないし」
 一瞬、驚いたような目をしたものの、すぐにそう返してくれた女の声は楽しそうだった。
「あの子たち、みんな今回が初舞台で、緊張してるし、ポカもやるかもしれないけど、よろしくお願いしますね」
「……………」
 莫迦だな。
 ここで、さっき聞いた話をしてみようか、と、ふと思った。
 そんな意地悪いことを想像してみたくなるほどの、能天気な横顔。
「もう、仕事はしてないのか」
「あー、……時々、CMとか」
「なんの」
 ちらっと見た横顔は、曖昧な微笑を浮かべていた。
 笑うと、目許が下がって印象が柔和になる。つるっとした頬に、笑窪が二つ浮いていた。
「……………もう、一年も前……なんで」
「ふぅん」
「地方の、電気店の、関東地方じゃやってないから」
「へぇ」
「………まぁ、……なんていうか」
 最後までジュースを飲み干したのか、女は手元で、空き缶を所在なく転がしはじめた。
「うち、実家がラーメン屋なんですけど」
「………は?」
「恥ずかしいんですけど、店内にべたべた、私のポスターとかグラビアとか、貼りまくってんですよね、うちの親。ほら、田舎者だから、なんかこう、いまだに娘がスターになるって、夢みてるっていうか、信じてるってゆうか」
「…………」
「なんか、このままじゃ、帰れないっていうか」
「…………」
「…………」
 沈黙。
 美波は煙を吐き出し――もう一度吸おうとして、少し迷ってから、灰皿に押し付けた。
 もしかして、いきなり触れてはいけないものに触れてしまった、とか。
「………………」
 この手の話は、別に珍しいことでもなんでもない。
 売れる人間は一握り。女のような境遇のタレントは、言っては悪いがいくらでもいる。
 別に――励ましたいわけでも、アドバイスしたいわけでもないんだが。
「このまま、今の事務所にいても、時間の無駄だと思うけどな」
 なのに自然に口から出てくる言葉に、美波は眉をしかめていた。
「というより、俺がお前なら、とっとと実家に帰ってるよ。こんなヤクザな世界にしがみつかなくても、もっといい仕事なら、他にいくらでもあるじゃないか」
「ないですよ」
 返事は、よどみなく、即座だった。
 美波は、少し驚いて、かなり目下の女を見下ろす。
「かけがえのない仕事です、私はそう思う」
「……………」
「どんな、小さな仕事でもいいんです。お手伝いでもいい、私、この仕事に、ずっと携わっていたいんです」
 こんな青臭いセリフを、思いっきり真顔で言われるとは思ってもみなかった。
 美波の視線に戸惑ったのか、愛季は、困惑したように視線を下げる。
「……美波さんは、すごいと思います。美波さんだけじゃなくて、アイドルさんたちってすごいと思う」
 すごい?
 アイドルが。
 人気はあっても、バカの代名詞のような、くだらない仕事しかもらえない存在が?
「だって、人に、元気と希望と幸せを与えられる存在だから」
 全体的に寂しい顔立ちだが、凛とした目だけが印象的だ。
 その目が、今は、光を孕んだように煌いて、そして真っ直ぐに美波を見あげた。
「そんな幸せな仕事、他には絶対ないですよ!」
「……………」
「ちょっと、愛季、何やってんの」
 稽古場の方から、剣のある声がしたのはその時だった。
「あ、ごめんなさーい」
 慌てたように立ち上がる女。
「じゃ、じゃあ、ゴメンナサイ、あの、失礼しました」
 ばたばたと駆けていく足音を聞きながら、美波はしばらく、眉をひそめたままだった。










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