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「あっちゃんがしてるのはね、人を幸せにする、仕事だから」




「麻衣ちゃんは、病気なの。もうね、治らない病気なの」
 うん、知ってる。
「……ごめんねぇ」
 泣かないで、お母さん。
「あっちゃん、ごめんねぇ、我慢ばっかりさせてごめんねぇ」
 私は全然平気だよ。
 お店だって手伝うし、お買い物もお留守番もするし、麻衣ちゃんの面倒もみるよ。だって私、健康だし、お姉ちゃんだから。


「お前のところは、また欠席か……一度でいいから、参観日くらい来てもらえないか」
 うち、忙しいんです。
 小さなラーメン屋で、休みもなくて、お父さんもお母さんも、朝から晩まで仕事してるんです。
 それに私、双子の妹がいるんです。
 身体が弱くて、ずっと寝てるんです。
「あそこのお母さん、なんか日本語おかしくない?」
「ほら、日本人じゃないから……最近は、苗字なんか変えてるから、わかんないのよね」
「見た?あそこの妹、びっくりしたわ、あの身体、」
 

「お前はなんだって、そんなに自分勝手なんだ、麻衣がかわいそうだとは思わないのか!」
「あなた」
「麻衣は、一人でずっと家から出られないんだ、学校が終わったら、遊びにいかないで麻衣の傍にいてやれって言っただろう」
 ごめんなさい。
「それがなんだ、寄り道したあげく、同級生と喧嘩騒ぎか」
 だって、だってね、
「言い訳はするな、言い訳するような人間は最低だ!」
「あなたっ」
「うるさい、お前は黙ってろ!」
…………ごめんなさい。


 麻衣ちゃんが好きなのはテレビ。
 かっこいいアイドルが、歌を歌っているのが好き。
 麻衣ちゃんの前で、それを真似て踊ってあげるのが私は好き。
 麻衣ちゃんが喜ぶ顔が好き。
 麻衣ちゃんの、幸せそうな顔が好き。
 
 最初は片言で喋れていた麻衣ちゃんが、もう、口もきけなくなって、表情を作るのも難しくなって。
 それから、 あの日がやってきた。
 真っ黒な日。
 お父さんもお母さんも、親戚の叔父さんも真っ黒になった日。
 私が――生まれた時からずっと一緒だった麻衣ちゃんに、永遠のお別れをした日。


「芸能界だと?ふざけるな、お前は何を考えてるんだ、麻衣が死んで、間もないっていうのに」
 友達が。
 私、何も聞いてなくて。
 そんな気も全然なくて、なのに。
 叩かれた途端に、涙がぼたぼたと零れ落ちた。
 それは、不思議と、一晩中止まらなかった。
 私の中の何かが――まるで壊れてしまったように。
「あなた」
 夜中に、お母さんの声がした。


「あっちゃんを、もう自由にしてあげましょうよ」




 お母さん――
 ホントはね。
 手紙で書いてるほど、上手くいってるわけじゃなくてね。
 現実はかなり厳しくてね。
 時々、もうだめなのかなって。
 もう、諦めた方がいいんじゃないかなって
 思うときがあるんだよね。

 でもね。
 前も話したよね。
 一番苦しくて、逃げたかった時、私を助けてくれた王子様のこと。
 その人はね、
 かっこよくて、優しくて、神様みたいな存在で、
 信じられる?
 その神様がね、私にハンカチを貸してくれたの、そしてコーヒー!

 まだ頑張るよ。
 まだ頑張れるよ。

 私、その時そう思ったんだ。

 一人ぼっちにさせちゃったお父さんのためにも。
 何も言わずに応援してくれるお母さんのためにも。
 沢山の夢を抱えたまま、バイバイした麻衣ちゃんのためにも。

 ねぇ、お母さん、奇跡って信じる?
 私、もうすぐ、その人に会うんだよ。コーヒーとハンカチの王子さま。

 もうすぐね、その人に、会うことができるんだよ!



                  8


―――サンタみたいな衣装だな……
 美波は頬杖をつきながら、テレビで華やかに歌う松下聖子の映像を見つめていた。
 いや、正確には、その背後で踊っている、ろくすっぽテレビに映らない群舞の女の子たちを。
 赤いミニのワンピース、白いフリルがひらめいている。腿をむき出しにして必死で笑顔を振りまいている。が、悲しいかな、それは殆ど松下聖子の影に隠れてしまっている。
「……………」
 その隅の方に、ようやく見つけた顔を認め、美波は思わず苦笑していた。
「美波さん」
 背後から声。
 美波はわずかに顔を上げ、そのまま黙ってテレビのリモコンを持ち上げた。
「何ですか、それ、かなり前の番組ですね」
 入ってきたのは、松本崇――通称マッツン。
 美波が、この事務所で、唯一信頼しているマネージャーである。
 ただし、キャノンボーイズのマネージャーではない。入所以来、様々な若手の現場マネージャーを点々としてきた男で、年齢は三十少し過ぎ。今は、緋川ら若手のチーフマネージャーをしている。
 いつもセンスの悪いチェック柄のシャツと、ブラックジーンズ。やせぎすの小柄で、背丈は美波の肩ほどまでしかない。
「それ……、リハーサル映像ですか、何かの参考ですか?」
「ちょっとな」
 曖昧に言い、美波はリモコンのスイッチを押した。
 マッツンはそれ以上追求せず、書類を抱えたまま対面のソファに座った。
「矢吹君の怒りは収まりましたか」
「いいや、あれは当分手に負えないね、まぁ今回は、怒るなっていう方に無理があるよ」
 美波が肩をすくめると、松本は少し申し訳なそうな目になった。
「まぁ……事務所の力関係でしょうね。うちは、昔から……東邦プロには頭があがらないですから」
「……………」
 事情は薄々察してはいる。
 70年代のアイドル全盛期から、J&Mが売り出したトップアイドルは、次々と東邦プロに引き抜かれるという憂き目にあってきた。
 当時に比べれば、力関係に差はなくなってきたものの、依然、東邦のゴリ押しには逆らえず、無理な要求に屈し続けているのがうちの事務所の現状なのである。
「……で、僕に話しってなんですか」
 真っ暗になったテレビ画面に、松本の横顔が映っている。
 若禿げの上に出っ歯ぎみ、そのせいで「禿げねずみ」とあだ名されている松本は、が、頼りなさそうに見えて、実はどんな仕事もトラブルも器用に処理できる、使い勝手のいい男だ。
 美波も、何度もマッツンには助けられているし、世話になっている。
 事務所四階にある会議室。
 取締役会議が行なわれるただっ広い室内に、今は、美波と松本崇しかいなかった。
「……マッツン、」
 美波は、今日の本題を――室内の扉がしっかりしまっていることを確認してから、切り出した。
 先週の記者発表以来、ずっと気にかかっていたことを。
「フルさんのことなんだが、最近、変わったことはないか」
「サンダースの……、古尾谷さんっすか?」
 松本は、きょろっとした目を意外そうに見開いた。
 それから、少しの間をあけて、目をすがめる。
「もしかして、ヒカルの移籍絡みの話ですか」
「……鋭いね」
 この業界で、すでに名が売れつつある松本の感覚は常に研ぎ澄まされている。仮に独立しても、十分にやっていけると思うくらい。
「ヒカルの移籍に古尾谷さんが絡んでるんじゃないかって話でしょ……まぁ、そんな噂が出るのも、無理からぬ部分はあるんですが」
 松本はそこで言葉を途切れさせ、少し考える風な目つきになった。
「唐沢の……直人さんの方は……確かにフルさんを疑っているようですけどね、でも、肝心の城之内社長が、今でも絶対の信頼をフルさんに置いている。それは確かですし、」
 そしてわずかに唇をかんでから、ようやく自分でも納得したかのように顔をあげた。
「フルさんと社長の信頼関係が壊れていない限り、まず、フルさんの裏切りは有り得ないと思いますね。僕の知る限りでは、そんな動きはないと断言していいです」
「そうか」
 松本が言うなら、それは、かなり確かな憶測だろう。
 ほっとしたものをかみ締めつつ、美波は残ったコーヒーを飲み干した。
「おかわり、淹れましょうか」
「いや、」
 美波は苦笑して片手を振った。
 松本は立ち上がり、サーバーから自分の分のコーヒーを注ぐ。
「実際、フルさんがヒカルの移籍に絡んでたら、大変な騒ぎになりますよ。なんたってフルさんは、事務所創立スタッフの中では最年長だ、フルさんを慕うスタッフも多いし、タレントさんの信頼も厚いでしょ」
「そうだな」
 カーネルサンダースこと、古尾谷平蔵。
 美波も、入りたての頃からずっと世話になってきた。
「若いうちは夢を大切にしろよ」それがフルさんの口癖で、カーネルサンダースにも似た巨体と愛嬌あふれる顔が親しみやすい、人情味溢れる親父。
 あまり権力抗争に口を出さず、常に淡々としているが、いったん口を開いた時の発言力の重さには、――城之内社長でさえ、黙らざるを得ない。
 いってみれば、今、事務所で、タレント側に立った立場でものが言える、最後の砦。
「そのフルさんが、万が一でもヒカルの移籍を後押ししていたとしたら――これは、大変な騒動ですよ。事務所は間違いなく分裂します」
 美波が恐れていたのも、そのことだった。
 分裂――そして、会社自体の崩壊。
 が、松本はすぐに破顔して片手を振った。
「でもそれはないですよ、あり得ない、フルさんほど事務所を愛している人もいない。それは社長も真咲副社長も、唐沢常務も判ってます」
 美波も苦笑して頷いた。
 ま、そうだ、杞憂だろう。そんなことがあるはずがない。
「……ヒカルの移籍は、……多分、流れますよ」
 今度、周辺をうかがうように背後を見てからそう言ったのは、美波の体面に座った松本だった。
「事務所同士で決着か」
「……ええ、いったん神輿に乗せられたヒカルの連中には酷な話ですけどね、東邦プロに、相応のマージンをつむことで、決着つけたんじゃないかな」
「………そうか」
 松本はコーヒーを一口のみ、苦みに耐えるような表情になった。
「数年前ならともかく、今はうちも、ヒカルの稼ぎ頼みですからね。薬師丸や本村は手放せても、ヒカルは……億を積んでも、残したかったんじゃないですか」
「…………」
 薬師丸や本村とは、すでに解散したユニット「わるガキ隊」の主要メンバーである。解散を決めると同時に、彼らは全員「東邦プロ」に移籍を決めた。契約期限を待っての計画的な移籍。
「東邦にいっても、ろくなことにはならない。あそこはうち以上にタレントの扱いがひどい所だ」
 人気がかげれば、容赦なく切り捨てられる。
 アイドルブームの衰退が始まると、一番にブラウン管から消えたのが、東邦プロが抱えていたアイドルたちだった。
「アイドルからは卒業できますけどね」
 美波の言葉に、松本は苦笑いでそう言い添えた。
「……ヒカルの連中は、道化師みたいな衣装を着て、音楽にあわせて口だけを動かして、恋愛も私生活も、性格さえも縛られる「アイドル」なんて立場に、もううんざりしきってますから」
「……………」
「寝る間もないほど働かされて、好きな女の子とも別れさせられて、挙句、サラリーが十万足らずですからね」
 それには答えず、美波はカップを持って立ち上がった。所定の位置にそれを置き、まだ座ったままの松本に視線を戻す。
「じゃ、ヒカルの移籍は、どこから出た話なんだ」
「……詳しいことは……が、おそらく、東邦から、ヒカルの藻星と大澤に直にオファーがあった。それがきっかけでしょう」
 だったらいい。
 松本が言うなら、比較的確かな話だろう。それは。
 が、あと一つ、確認しておきたいことがある。
「……うちから、近々誰かを新しくデビューさせる話、聞いてるか」
「いえ、それはないと思いますが」
 松本の返答は即座だった。
「…………」
 だとしたら、拓海の勘違いか――それとも、松本の知らないところで、話は進行しているのか。
「悪かったな、忙しいのに」
 美波はそう言って立ち上がった。
 いずれにしても、もう少し探りを入れる必要がある。
 フルさんに―― 一度会って、話してみるか。
「フルさんなら、先週から大阪ですよ」
 まるで、美波の内心を見透かしたようなタイミングで、後を追うように立ち上がった松本がそう言った。
「今は、あまり目立つ形で、フルさんとは会わない方がいい、美波さんのためです」
「……何故だ、」
「うちの事務所の創業スタッフは一枚岩です。が、たった一人、フルさんを信じず、煙たがっている人間がいる」
 普段滑稽な松本の表情は厳しかった。
「唐沢……直人か」
 松本は即座に頷いた。
「今となっては、無視できない存在です、彼は」
 美波は黙った。
 唐沢直人。
 初めて出会った時、上背のある直人が自分を見下ろした冷たい眼差し。
 あの時感じた、得体の知れないざわめきが、まるで昨日のことのように思い出される。
「俺とフルさんがつるんでいると思われたら、まずいってことか」
「少なくとも、あなたのためにはならない。今の事務所の仕事は、殆ど直人さんがとっている、営業部長である彼のセクションを通さないと、何も決定できない仕組みになっている。直人さんに煙たがられるということは、うちの事務所で閑職に回されるということです」
「……………」
 美波は、苦いものを噛むような気分で押し黙った。
 直人――唐沢直人。
 気がつけばいつも、美波の前にはあの男が立ちふさがっている気がした。昔も、今も。
「フルさん同様、スタッフや若手に信頼の厚い美波さんもまた、直人さんにしてみれば、面白くない存在なんです。直人さんに反感を持っている連中が、今、一番頼りにしているのが誰だか知っていますか」
「………」
「フルさんと美波さんです。ヒカルの話とは別に、反直人派は、美波さんを御輿に担ぎ出そうとするかもしれない。気をつけてください」
 美波は苦笑し、それはないよ、と言い添えた。
「事務所、辞めるつもりじゃないですよね」
 別れ際、ふいに、切り込むように言われた言葉。立ち上がりかけていた美波は、ただ、表情を隠して振り返った。
「どうしてそう思う」
「こんな言い方をして、気を悪くしないでくださいね。近い内に……美波さんを縛っていた鎖が、解けてしまうようながして」
「……………」
「事務所の動向が気になるのは、残していく後輩のためですか」
 美波が黙っていると、最後に松本はかすかに笑って言い添えた。
「なんにしろ、今回のことは事務所の上の問題です。美波さんは、今、仕事も順調に埋まっている。……芸能界に残るつもりなら、傍観を決めていた方が無難だと思いますよ」









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