〜奇蹟〜  プロローグ 2005年新春





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「あ、」
「え?」
 肩に腕を回すタイミング。
 それを秒単位で計っていた成瀬雅之は、ぎょっと驚いてのけぞった。
「あ、」と不可思議な声を発した女は、
「………なに?」
 と、今度は、疑念に満ちた視線を向けてくる。
 結構間近で視線があう。
 雅之は、どきまぎしつつ、曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。
 流川 凪。
 午後の日差しが、さらさらのショートヘアの上で煌いている。
 長い睫、淡い色の唇。
 特に何が変わったわけじゃないのに、最近ますます綺麗になった気がする2歳年下の女の子。
 モスグリーンのニット。膝小僧が見えるデニムのスカート。
「なに、へんな顔して」
 が、ファンシーな可愛い顔を裏切って、その口調はさばさばしていて男っぽい。
「あ、うー、べ、……別に……」
 雅之は意味不明な言葉を口ごもり、さらにずずっと後退した。
―――い、いや、ここで後退してる場合じゃないだろ、自分。
 雅之にとってとりあえず彼女?
 の、流川 凪。
 小学校からのつきあい(当時は男だと信じていた)で、親父にも殴られたことなのい雅之の頬を、過去、二度も、ぐーで殴り倒した女。
 東京江戸川。
 ちょっと古びた一戸建て。
 二階にある雅之の自室で、二人は今、隣り合わせで座っていた。
 しかもベッドの上という、抜群のシチュエーション。
「な、なんか暑くねー?」
 雅之は、うほっうほっと、わざとらしいにもほどがある咳払いして、立ち上がった。
 燐光を帯びたような凪の目を見ていると、なんていうか、自分の浅ましい下心を全部見透かされているような不安にかられてしまうのである。
 つきあって……起点をどこにするかが問題だから、何年とも何ヶ月ともいえない微妙な関係を続けている彼女。
 自他ともに完全に尻に敷かれているのを認めているが、凪は、この春、やっと高校卒業予定なのだ。
 で、ちょっと引いてしまうのだが、頭が超よくて医学部志望。機転も利いて行動力もある凪は、東京大地震なんかが起きちゃっても、雅之を引っ張って生き抜いてくれるだろう。
―――ああ……それに比べて、俺、バカの代名詞みたいな仕事してっしなー
 意味もなく晴れた窓越しの空。
 雅之は、内心瞳を潤ませつつ、ぐっと唇を噛み締めた。
 それ、違う。アイドルがバカなんじゃなくて、雅が単にバカなんじゃん。そんなこと言うと、他のアイドルに失礼だろ。
 今、渋谷のスタジオで仕事をしている憂也――雅之と同じアイドルユニット「ストーム」の綺堂憂也。
 口も性格も悪い親友の、そんな突っ込みが、幻聴のように聞こえた気がした。
 幻聴にも関わらず、雅之はがくっと肩を落としていた。
 自覚している。
 デビューして三年がすぎたアイドルグループ「ストーム」
 雅之は、そのメンバー5人の内の一人である。
 リーダーの東條聡は、反応と飲み込みが犯罪的にとろいが、それでもいったん覚えると、二度と同じ失敗は繰り返さない。
 一番年上の柏葉将は、早稲田の英文を現役で合格。知性派アイドルと称され、実際、目茶苦茶頭がいい(が、雅之のみるところ、その知性は相当しょうもないことに費やされている……)。
 で、一番年少の片瀬りょうは、ひたすら真面目で誠実な男。女に弱いのが玉に瑕だが、仕事への熱心さにかけてはストーム一だ。
 最後に、腐れ縁で結ばれた親友、悪魔の代名詞のような男、綺堂憂也。……紹介、略。
 つまるところ、5人の中で、一番バカで、ふらふらしているのが――自分なのだ。
「と、とにかく去年は、俺、みんなに迷惑かけまくったしさ、今年はもう、やるしかないっつーか、とにかくがんがんいくっていうか」
「がんばって」
「…………………」
 そ、それだけかよ。
 凪はすでに、雅之に関心をなくしているようだった。
 というか、この部屋に入ってからずっと、膝に載せた雑誌を読みふけっている。顔も上げなければ声もたてない。
 さきほど、唐突に妙な声をあげてその沈黙は破れたが、どうやらそれさえ、雑誌の記事に関連してのことらしい。
―――ま、いいけどさ……。
 凪が熱心に見ているのは、もう年何も前の古い雑誌。
 かつて、緋川拓海マニアを自称していた雅之が、古本屋とオークションで買いあさった、キッズ時代の緋川拓海の記事が載ったアイドル誌である。
 つかどこまで乙女なの?そこまでやると、雅君、完全にイカレ入ってるね。
 と、そのコレクションを見て爆笑したのは綺堂憂也だったが、どの本も、希少価値の高いレアものだと、雅之自身は自負している。
 凪が今手にしている雑誌も、昭和八十年代のもの、表紙は――ラメ入りバンダナとくるくるパーマが懐かしい、美波涼二率いる「キャノン・ボーイズ」だった。
―――まさか、こいつ、美波さんの記事見てんじゃないだろうな。
 たまたま収め忘れて、棚の上においていたその雑誌。そんなものが、滅多にない二人の逢瀬の障害になるとは――。
 そろそろっと、その可愛らしい膝小僧の上に置かれた雑誌を覗き込む。
 案の定、そこには、美波涼二のミュージカル初主演の記事が載っていた。
「……やっぱりかよ、」
 軽い非難をこめた呟きも、熱心に記事を追っている凪には届いていないらしい。
 さすがに何か口にしようとした雅之は、が、次の瞬間、力なく唇を閉じた。
―――ま、俺も……そういや、前科あるし……な。
 仮に、凪が、別の男にふらついていたとしても、それを責める資格なんてないだろう。
 二日とあけずにのめりこんでいた濃密なセックス、堕ちていく恐怖と快感。今、どんなにさわやかな青少年を取り繕って見ても、その当時の記憶は、雅之の体の芯深くに染み込んでいる。
 しかも、
―――美波さんはかっこいい。
 往年の大スターで、今もなお、日本芸能界で確固たる地位を得ている男、美波涼二。
 雅之が所属する、日本最大手の芸能事務所「J&M」の所属タレント兼取締役。実質社長の片腕と呼ばれ、次期社長との呼び声も高い。
―――俺が、地上から見えないクズ星なら……
 美波さんは日本のアイドル史に燦然と輝く一等星だ。
 年齢を考えると引いてしまうが、外見は、男の俺だってくらくらするほど男前で。
 過去、色んなトラブルに巻き込まれた凪を、影でずっと支えてくれたのもあの人だ……。
「………………」
 いや。
 今考えてもしょーがねーし。
 てか、俺バカだから、考えても意味ねーし。
「それさ、美波さんが初めて主演したミュージカル。記事読んだ?なんかアクシデント続きの舞台だったらしくてさ」
 気持ちを入れ替えて、雅之は再び、凪の隣に腰掛けた。
 そう、今焦る必要は何もない、好きだけど――本音を言えば、もっともっと深く知りたいと思うけど、それは、時が自然に導いてくれるだろう。
「今思えば、すんげー面子だろ、その舞台、緋川さんも出てるし、天野さんも、ほら、この写真」
 比較的大きく取り上げられているのが緋川拓海と天野雅弘だった。同じギャラクシーでも、草原篤志と上瀬士郎は、ごく小さい写真だけだ。
「シンデレラアドベンチャーっていってさ、童話のシンデレラがベースなんだけど、王子様が主役の話でさ、なんかすんげー楽しそうだろ」
「ふぅん」
「ビデオ残ってないかって、事務所の人に聞いてみたんだけど、この一本だけ紛失しちゃったみたいでさ。どこにも記録が残ってないんだよ」
「ふぅん」
「つかさ、この頃のJ&Мって、大変だったらしいよ?他のページ見てみろよ、移籍やら独立が相次いで、随分事務所内がもめて、スタッフがごっそりやめたとかなんとか」
 凪の反応が、どこか鈍いと気づいたのはその時だった。
「……成瀬、この人、誰か知ってる?」
 華奢な指が、紙面の端に添えられている。
 額にバンダナを巻き閉め、汗を拭っている美波の姿がそこにあった。その傍らに立ち、横顔だけ見せて笑っているショートカットの女性。
「………ん?ああ、いや?」
 これは、リハーサル風景の写真だろうか。
 気にも止めたことのない写真。
 雅之は眉をひそめ、首をひねった。
「事務所のヤツじゃねぇし……見たことないけど」
「当たり前じゃん、あんたんとこ、そもそも男しかいないじゃん」
 つっこまれてぐっとなる。
「な、なんにしても出演者だろ、当時のタレントか何かじゃねーの、今は見ない顔だけど」
「………………」
 そんなのどうでもいいじゃん、
 と言いかけた雅之は、凪の横顔が、あまりに真剣だったので言葉を飲み込んでいた。
 そういえば、さっきからずっと、凪は同じページばかり見つめている。おかしな声をあげた時からずっとだ。
「……確か、どっかに楽日の記事が載ってたと思うけど」
 雅之は、少しためらってから立ちあがった。
 記憶の端に、ふとひっかかるものがあった。もしかしたら他にも、その女性の写真が、写っていた雑誌があったような気がする。
 クローゼットのダンボールの中に、ちょっと……いくらなんでも見せづらい、雅之の緋川コレクションが眠っている。それを見られるくらいなら、まだエロビデオの方がかっこいいくらいだが……。
「見せて」
 が、ベッドから雅之を見上げる、凪の目は怖いほど真剣だった。
「……いっけど」
 クローゼットを開けながら、少しばかり、意を決して雅之は聞いた。
「それ、何系のギモン?」
「……何系……?」
「もしかして、美波さん系?」
 背後から返ってくる返事はなかった。
「…………」
 もしかして、
 綺麗に梱包されたダンボールを引き出しながら、雅之はかすかな不安を、確信にも似た確かさで感じていた。
 こいつはいつか、マジで美波さんところに、いっちまうのかもしれないな――。

  
  


     奇蹟  
        

          行ってこい、アイドルの底力を世界中に見せ付けてやれ!
                                     
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