1


 大好きな歌声で目が覚めた。
 いつの間に寝ていたんだろう。
 さざ……ざざ。
 晴天。そして空と海がまじるパノラマ。
 ざざ……ざざ。
 永遠のような波音のリフレイン。
 ラジオから聞こえるノイズまじりのナンバー。
 パーシー・スレッジだ。一番最初に聞いたソウルナンバー。英語の歌詞が口ずさめるまで繰り返し繰り返し聞いた曲。
―――歌は心よ。
―――魂で歌えばいいの、発音なんて目茶苦茶でもいいんだから。
「…………」
 運転席と、そして助手席に座っていた人は2人ともいなくなっていた。
 あれは夢だったのだろうか、長いドライブにも飽きて後部シートで寝ている間、誰かがずっと髪を撫でていてくれたような気がする。女の手じゃなくて、もっと大きくて、暖かい――。
 目をこすり、そして気づく。フロントガラスから見える光景。
 まるで海と空の背景に溶け込んだように、海岸に、一組の男女が立っていた。海風になびく髪、はためくスカート。
―――あ、
 一瞬、彼らを見つけたことへの嬉しさで、目を見開く。
 が、それはすぐに、何か――得体のしれない寂しさと憤りに代わっていく。
 女が笑う。男を見上げて微笑している。
 その眼差しにも、唇にも、特別なものがこめられているのがなんとなく判る。
 曲のサビと共に、砂に伸びたふたつのシルエットが重なった。
 そっか――
「…………君」
 波の音と潮の匂い。
「…………ば君、」
 そっか、俺、失恋したんだ。
「柏葉君」



「す、すいませんっ、気持ちよく寝てたところを」
 ばっと目を開けると、目の前には小泉旬が直立不動で立っていた。
「……あ、あの、そろそろ、移動しないとですね、あの……あちらさんもお待ちだと思いますし」
「ああ、ごめん」
 目の前にはつけっばなしのテレビ。流れている音楽で了解した。なるほど、これで、思い出したくもない過去を夢で再体験したわけだ。
「この曲、……知ってる?」
「え?いえ、今流行ってるんですか?」
「…………」
 柏葉将は、黙ってリモコンを掴んでテレビを消した。
 事務所のスタッフルームで、今日、急遽入った仕事の打ち合わせを片野坂イタジと済ませ、移動時間まで大学の課題をやるつもりで、そこに本を開いている。
 あまり――身の入らないまま、なんとなくテレビをつけて、ぼんやりしていた。で、いつの間にか寝てしまっていたんだろう。
 昨夜は明け方の四時に帰宅した。今日はオフのはずだったから、大学の友人とクラブで過ごしていたのである。
「もうすぐ年明けだっていうのに、代わり映えしない毎日だよな」
 本をしまいながらそういうと、何を勘違いしたのか、小泉は恐縮したように縮こまる。
「すいません、で、でも、紅白やカウントダウンコンサートばかりが、その、仕事じゃないですから」
 大学の友人は、休みに入ってほとんどが帰省した。
 年の暮れ。
 世間はどこか慌しいのに、将の周辺は、同じ時間を刻んでいる。似たようなスケジュール、似たような仕事。
 事務所内も慌しかった。
 スタッフルームを出ると、執務室の営業担当課では、事務員が、ひっきりなしの電話応対に追われている。
「はい、大変申し訳ありません」
「大丈夫です。カウントダウンコンサートは、予定通りです。年明けの舞台にも支障ございません」
 この年の暮れの稼ぎ時、よりにもよって貴沢秀俊がインフルエンザで倒れたのである。
 将が急遽呼ばれた仕事も、実のところ貴沢秀俊のピンチヒッターだった。
「……来年は、でも忙しくなるかもしれませんよ」
 小泉が、声をひそめてすりよってきた。
「内々に聞いたんですけど、来年の年末は、紅白を全部蹴って、事務所の所属タレント総出でカウコンやるかもしれないって、東京ドームで」
「へぇ……」
 派手好きな唐沢社長らしい企画だと思った。
「それを紅白の後半にぶつけて視聴率を取るって話らしいですよ、再来年の話なのに、もうエフさんに単独中継させる話になってるみたいです」
 それは、業界では、ちょっとしたニュースになるだろう。
 今年から来年にかけても、スニーカーズ、ヒデ&誓也が、横浜と埼玉でカウコンをやる。それを――うちの事務所、全員で。
 ギャラクシーも、マリアも、サムライも、スニーカーズも、それから俺たちも――事務所の商魂に呆れつつ、それでもわくわくしたものを将は感じた。
「すげぇ、相当派手な祭りになるね」
「来年こそは、上にいきましょうね、僕たちも」
 小泉がガッツポーズを作る。どう見ても頼りないが、笑うと愛嬌のある憎めない男である。
「そうだな」
 将は、苦笑まじりに答えて立ち上がった。
 実のところ、ストーム全員の契約が切れる来年の夏までに何ができるか――が、ひとつの勝負だろうと将は思っている。リリースは流れたまま、いまだ新曲を出す話は出てこない。
 来年。
 そのお祭りに、ストーム全員が本当に参加できるのか。
「じゃ、俺、車回してきますんで、ゆっくり降りててください」
 そう言って、人だけはいい若手マネージャーは、先に階段を駆け下りていった。
「ちょっと待て、いや、待ってください、それはどういうことなんですか!」
 将が一人、エレベーターホールに来たときだった。聞きなれた怒声というか、困惑と苛立ちを顕わにした声がした。
「だから、それはもう報告したじゃない」
 平然とした声がそれに答える。女の声――将は眉をひそめていた。
 荒い足音がした、2人してこちらに近づいてくる。
 将はさすがに緊張した。
 J&M株式会社代表取締役社長、唐沢直人と、そして――筆頭株主であり、副社長でもある真咲しずく。
 先を歩く真咲を、唐沢が追う形で、エレベーターがある方に向かって近づいてくる。
「報告も何も、一方的に話があっただけだ、僕は認めませんよ、そんな仕事」
「あら、報告って一方的にするものじゃなかったっけ」
「屁理屈はよしてください、いいですか、あなたはね、この会社のブランドを目茶苦茶にしてるんだ、それがまだ判らないのか!」
「だって、好きにしていいって言ったじゃない」
 すれ違うスタッフが、驚いて振り返っている。
 身長が百八十以上もある唐沢と、それから七十以上ある女優ばりのスタイルを持つ真咲しずく。ブラックスーツと、薔薇色のスーツ。
 どちらも、目を見張るほどの美貌を持ち、そしてそれぞれが、別の立場でこの会社のトップに立っている。
 その男女2人が、激しく――というか、ほとんど唐沢が一方的に怒鳴っているのだが、とにかく言い争っている。周りのものが驚くのも当たり前である。
「………唐沢君」
 ふいに女の方が足を止めた。少し下から、上背のある唐沢をじっと見上げている。
「な、なんですか」
 唐沢がいぶかしみつつ、目を逸らすのが判る。
 実際、真咲しずくの美しさは筋金入りだ。何しろ父親が絵に描いたような美形の上に、母親はフランス人とのハーフだという。じっと見つめられると、ちょっと反論しようがなくなる。
「鼻毛が出てるわよ」
 が、
 その顔を裏切る品性のなさも筋金入りなのである。
―――気の毒に……。
 ばっと手で鼻を押さえ、凍り付いている、――泣く子も黙るJ&Mの取締役社長。
 からからと陽気に笑い、真咲しずくは鼻歌まじりに、ようやく将の立つエレベーターホールにやってきた。
「あらー、おはよう、柏葉君、早いじゃない」
「………ございます」
 将は小声でそれだけを答えた。
 ちょっと最悪のタイミングだ。よりにもよってあんな夢を見た直後かよ。
 しかも、エレベーターを待っている。2人きり。
――-階段にしようかな、とも思ったが、ここで引くのも癪なので、そのまま黙って立っていた。
「いいですか、真咲さん、これが失敗したら、今度こそあなたの負けだと判断させてもらいますからね」
 真咲の嘘に気づいたのか、ようやく我に返った唐沢が追いかけてくる。
 が、唐沢は、そこに将がいることを認め、ふいに表情を硬くした。
「かまわないわよ、唐沢君」
 真咲は、相変わらず涼しい顔でそれに答える。
「その言葉、絶対に忘れないでくださいよ」
「え、どの言葉?」
「………………」
 憮然としつつ、唐沢が背を向けた。相当怒っていることが――将にも判るほどの足取りで、かつかつと事務室の方に消えていく。
「可愛いなぁ、唐沢君は」
 くすくす笑いながら真咲が呟く。まるでそれが、将に相槌を求めているような口調だったので、つい、言い返してしまっていた。
「………変わらないね、あんた」
「あらー、何の話?」
「昔から、好きな男いじめる癖」
「あははは、ばれちゃった?」
 からっと言うその横顔からは、本音めいたものは何も見えてこない。
「お礼言わなきゃね」
 が、エレベーターが来て、乗り込んだ途端、初めて女の声のトーンが低くなった。
「こないだはありがとう。君が機転きかせてくれなきゃ、ちょっとした騒ぎになるところだったから」
「……別に」
 片野坂イタジのことを言っているのだと、すぐに判った。
 それきり黙っていると、少しいたずらめいた眼差しがのぞきこんでる。将は何気なく立ち位置をずらして距離を開けた。
「まだクラブ通いなんて続けてたんだ」
「………………」
「どうでもいいけど、あまり性質の悪い店にはいかないことね。かっこだけ大人ぶっても、所詮まだ子供なんだからさ」
 うるせーよ。
 それは、胸の中で毒づく。
 どうせ俺は子供だよ。あの時も――そして、今も。
 目の前の女にとっては、当時のあだ名そのものの、ペットみたいな存在にすぎない。
 それきり、将から関心を無くしたような女の唇が、先ほど聞いたばかりのメロディを口ずさんでいた。将は内心驚いていた。
 なんの――偶然だろう。そうか、こいつも、さっきまでテレビを見ていた口かもしれない。
「…………あの時、さ」
 自然に呟いていた。呟いて、思わず眉をしかめる。
「あの時?」
 真咲の目が将を見る。ほとんど変わらない視線。先にそらしていたのは、やはり将だった。
「……なんでもねぇよ」
「そ?」
 チン。
 エレベーターが一階につく。
「じゃあね、お仕事がんばって」
 ひらひらと手を振り、女が先にエレベーターを降りた。
「…………」
 あの時。
 あんたとキスしてた男、誰だったんだ。
 海までの長いドライブ、助手席に座ってた男は誰だったんだ。
 どこかで見た、面識はないが、絶対にどこかで見た顔。漠然とした曖昧な記憶。
 男のことがにわかに気になり始めたのは、それから二年もたった後だった。
(―――将、……確かにお前は、私たちの本当の息子じゃない)
(―――お前を生んだご両親とは、何年も連絡を取っていないから、私たちにその居場所はわからない、が、彼らはもう、この世にいない……私たちに言えるのはそれだけだ)
 中学にあがった最初の夏だった。
 どこかで覚悟していたから、驚きはなかった。ただ、何か苦い思い出でも語るような養父の口調が、心の底深くに澱のようにしこっていた。
 その時になって――二年前の夏の思い出がふいに蘇った。
 もう、海外に行ってしまった初恋の人と、そして見知らぬ一人の男。
 三人で行った海。
 男は、おそらく父親くらいの年齢だった。髪に白いものがまじっていて、それなのに雰囲気がものすごくかっこよかった。立ち姿が凛としていて目が綺麗に澄んでいた。記憶にあるのはそんな曖昧なパーツだけ。顔そのものはどうしても思い出せない。
 それから、フロントガラス越しに見えたキス。
 波の音と、パーシー・スレッジ。
 あの――胸が痛くなるような情景だけ。
 一体あの日、どうしてその男が、車に同乗していて、どういう理由で三人で海に向かったのか。それが――ずっとずっと、長い間引っかかり続けていた。
 人生最初に失恋を経験したあの日。
 今でも将は、もしかして、と思っている。
 もしかして、あの人が。
 いや、そんな都合のいい偶然などあり得ないけど。
 温かな手に髪をなでられた感覚。あれは――夢だったのか、現実だったのか。
 

                2


「柏葉将の家庭教師、ですか」
 藤堂戒が、さすがに眉をあげるのが判った。
「そうだ」
 唐沢直人は嘆息して、組んでいた腕を解いた。
「そこまでは調べがついている。当時、真咲お嬢様は大学の一回生。柏葉は小学……五年か四年だったはずだ」
「あの人が、そんなアルバイトをしていたこと自体、信じられませんね」
 藤堂がいぶかしげな目になる。それは唐沢も同感だった。
「大学にもほとんどいかず、クラブ通いに明け暮れていたらしいしな、小遣いにも不自由していない、実際、バイトめいたことをしたのは、あれが一度きりで、それが最後だ」
「どうやって掴んだネタですか」
 その問いに、唐沢は無言で自分の頭を指さした。
「俺の記憶だよ。柏葉がうちに入った時も、どこかで見た顔だと思った。記憶に残っていたんだろう、当時俺は、あの女の運転者のようなことをさせられていたからな」
「で?」
「柏葉の親に確認を入れたら、名前で間違いないと言われた。ただし、あまりにひどいので半年で断ったそうだ」
「ひどいとは」
 唐沢は息を吐き、肩をすくめる。
「英語などろくに教えず、ずっと洋楽のたぐいを聞かせていたそうだ。あげく、クラブにつれまわしたりと――信じられるか、小学5年生かそこらのガキをだぞ」
「まぁ……」
 あの人らしいと言えば、その通りですね。
 藤堂も肩をすくめ、室内のソファに腰を下ろした。
「柏葉が、芸能に興味を持つようになったのは、当時の家庭教師である真咲の影響に違いないと母親は言っていた。ある意味恨んでいるんだろうな、なにしろ、筋金入りのおぼっちゃまだ、柏葉は」
 問題は。
 唐沢は腕を組みなおし、どこかさびれた天井を見上げた。
 来年は、この建物を根底から建て替える。すでに発注もすませている。日本最大の芸能事務所にふさわしい、どでかい城を建ててやる――。
「問題はだ、何故あの真咲が――わざわざ家庭教師など買ってでたか、ということだ。柏葉家を選んだのは、単なる偶然なのか、それとも、別の意図があるのか」
「…………その柏葉が、今はうちの事務所のデビュー組ですか」
 面白い偶然ではありますがね。
 強面の男が呟く。
 唐沢も眉をひそめた。
 面白い、そう、実際面白い偶然だ。いや、偶然ではあり得ない。
 柏葉の動機が――どう見てもアイドルなんかになるべきでない柏葉将が事務所入りした動機が、もし、当時の家庭教師への恋心の延長にあったとしたら。
「真咲がストームのマネージャーになりたいと言ったのも、単なる気まぐれではない別の意味があるのかもしれない。男女の色ごとならそれでもいい。取締役会議にかけて、解任するだけの理由にはなる」

 
                 3


 アリーサ・フランクリンだ……。
 柏葉将は、店内に張ってあるアンティークなポスターを見あげてそう思った。
 当時はわからなかった。なんだってこの人は、こんなヘンなメイクをしてるんだ、と思っていた。後に流行ったガングロの走りのようなものだった。思えばそれは、「ソウルの女王」アリーサ・フランクリンの真似だったのだ。
 当時は誰も理解されない奇抜なメイクに奇抜な衣装。
 一緒にいるのが恥ずかしいようで、それでいて爽快だったのをよく覚えている。
 どの店に行っても彼女は人気物で、陽気で、きさくで、そして歌が上手かった。沢山の仲間がいて、自由に音楽を楽しんでいた。みんなが彼女を手招きし、セッションに飛び入りで参加させた。
 真咲しずく。当時、どのクラブでも「アリー」と呼ばれていた女。
 彼女は確かに、その当時、ソウルナンバーを主体とするクラブの「女王」だったのだ。
 素っ頓狂なメイクの下には、ちょっと正視できないほど、綺麗な素顔が隠されている。それを知っているのが、自分だけだというのも自慢だった。
 俺は――夢中だった。
 十以上も年上の人に、結構本気で恋をした。
 将は思わず苦笑する。
 笑えるにもほどがある。まだ――中学にもなっていなかった頃。
 今、かかっている曲もアリーサ・フランクリンだった。アイ・ネブァ・ラウド・ア・マン。ソウルの代表作とも言っていい名曲。
 ぎゃはは……と、品のない笑声が隣のテーブルから聞こえた。
 将はちらっとその方を見る。
 飲み、食べ散らかしたテーブルで、数人の男女が煙草を口にくわえながらべたべたしていた。
―――ラリってんのかな。
 ふと思った。とすれば、少しばかり、長居するには抵抗がある店。
 初めて足を運んだ店だったが、全体的に雰囲気はあまりよくない。店員の態度もはすっぱで、目つきがどこか後ろ暗い。
 噂に聞いていたDJも、選曲もリミックスもありがちで、正直、期待はずれだった。
「今夜はハズレ?」
 と、隣に座る付属小学校からの友人、浅葱悠介が囁いてくる。
「ま、悪くは無いよ」
 将は苦笑して、ペリエの入ったグラスを持ち上げた。
 バンドを組み、インディーズで活躍している悠介と将は、暇があれば、いいと噂されているDJのいるクラブに足を運んでいる。もっと大勢でいくこともあれば、今日のように2人で行くこともある。
 クラブに行くと音楽を身体で体感できる。リズムを身体で感じることができる。それから――ライブのノリを、観客が反応するポイントをダイレクトに体得できる。
 が、それとは別に、将には――小学校からの親友にも言えない、もうひとつの目的があった。
「……前はこんなにひどくなかったけどなぁ、店のオーナーが変わったせいかな」
 悠介が苦い顔で呟いている。
 悠介は、インディーズに豊富な人脈を持ち、そのせいかアンダーグラウンドの情報に実に詳しい。シークレットライブも、イベントも、たいてい事前に掴んで将にこっそり教えてくれる。
 銀縁眼鏡に短髪、カシミアのセーターにベロアのパンツ。見た目はリッチで穏やかそうな大学生なのに、いざ、ステージにあがると百八十度人が変わるのが面白い男だ。
「……来年は、みんな就職活動だよなぁ」
 その悠介が、ふいに将を見上げて呟いた。
 あと何日かで年が変わる。そういえばそうだな、と将も、どこか華やいだ衣装の客を見回しながらそう思った。
「こんな楽しい時間もこれまでかって思うと、寂しいね。ま、それも人生だけどさ」
 悠介は、親が経営する大手建設会社に就職する。それを約束しているからバイトもせずに自由にバンド活動をやらせてもらっているのである。
「大学院行こうかなって今ひそかに計画中、そうすりゃ、あと二年は遊べるしさ」
 悠介はにやっと笑いながらそう言った。
 実際、どれだけ金がかかるか判らないアマチュアの世界。
 バイトで時間をすり減らして活動している奴より、裕福な奴が上手くなるのは自明である。音楽の世界で成功を収めるには、ある程度の資本がいる。――それが現実だ。
「将はどうすんのさ」
「んー、もう就職してるようなもんだしな」
 契約書に判を押している以上、来年の夏までは拘束されるんだろう。多分。
「……アイドルが将の夢ならいいけどさ、……いつまでも続けられるもんでもないだろ、ま、それ言っちゃおしまいなんだけど」
 悠介が、少し言葉を濁しながらそう言った。
 将は黙る。
 それは、言われなくてもよく判っている。いつもでも続けられる仕事ではないということは。
「正直、ちょっと悔しいし、もったいねーって思うんだよね。将、俺らのバンドに入ればいいのに、絶対そっちからメジャーになれる器だよ、お前なら」
「それはどうかな」
 それには苦笑して肩をすくめるしかない将だった。
 ガシャン、とグラスの砕ける音がしたのはその時だった。


                  4


「つーか、下手なんだよ、とめろ、その音楽、うるせーっつんだよ」
 あまり品のよくなさそうな店員が、眉をしかめてその客の居座るボックスに駆け寄っている。何人かが、いぶかしげに振り返り、そして無関心を装って目をそらす。
 騒いでいるのは、髪が半分白くなりかけた、まるで浮浪者のような老人だった。いや――身につけているものは上等だ。が、髪は蓬髪で、白い無精ひげが生えている。赤い顔で、いかにもアル中という雰囲気だった。
「なんだよ、あのじぃさん、また来てんのかよ」
 隣の席から男の声が聞こえた。
「酔うと暴れるんだよな、うぜーから入れなきゃいいのにさ」
「金払いがいいから断れねーんだろ、ジジィのくせに、こんな店にくんなっつーの」
 その老人は、店員相手にまだ管を巻いている。
「……ひでぇの、いれてるな」
 さすがの悠介も顔をしかめている。将は目をすがめ、薄闇の中の騒ぎを注視した。
「なんだとー?小僧、俺をなんだと思ってんだ、あん、誰だと思ってそんな舐めた口聞いてんのかっつってんだよ!」
 店員が腕を引っ張って立たせようとしている。ひどくあしらっているのが傍目にも判る。客もひどいが、店の対応はさらに見苦しいものだった。
 立ち上がった老人の顔が、ほの暗い照明にさらされる。
 将は腰を浮かせかけていた。
―――違う……。
 自分の記憶に残るパーツと、その老人の顔を見比べる。
 確信はない。でも――違うような、気がする。
「でようぜ、将」
 うんざり顔で、悠介が呟いた時だった。
 一人の女が、店内の暗がりから、すっと歩みよってきた。
 黒いパンツに赤のレザージャケット。薄闇でもはっとするくらい美貌の女。
「ま、――」
 将は今度こそ愕然として立ち上がった。
―――ちょっと待て、
 真紅の薔薇にも似た長身の女が、騒ぎのあるボックス席に歩みよる。
「私の連れです」
 と言っているのがはっきりと聞こえる。胸元に手を入れ、財布から何枚かの金を出し、それを店員に渡している。
「お、おい……将?どこ行くんだよ」
 悠介の声、が、それを無視して、将は人ごみをかき分けて前進した。
 信じられない。なんだって――こんなところで、このタイミングで、
 あの女が出てくるんだ。
「あらま、柏葉将じゃない」
 女は歩み寄ってきた将を見ても、平然と笑っただけだった。
「てっちゃん、覚えてる?あの時のバニーちゃん。ほら、こんなにいい男になっちゃった」
 真咲しずくは――将が二度と言うな、と念押ししたあだ名をなんでもないようにあっさり言い、隣の老人に微笑みかけた。


                 5


「……柏葉将は知らないでしょうけどね」
 ステアリングを握る真咲しずくは、眠る背後の人をちらっと見てからそう言った。
「工藤哲夜って言ったら、当時の十代の若者をとりこにしたカリスマロックシンガーだったのよ。まだ私がローティーンだったから柏葉将は生まれてもなかった頃かしら」
「…………で?」
 老人は、緋色のシートの上で高いびきをかいている。よだれが汚くシートに沁みを作っていた。アルコール臭もきつく、窓を開けていないと窒息しそうになる。
 車が交差点に入る。新年に向けて、街は明るくライトアップされていた。
 今頃――他のメンバーはなにやってんのかな、と、将はふと思っていた。
 自宅組の憂也、雅之、聡は、家族で年末を過ごしているだろうか。りょうは――一人で何をしているんだろうか。
「どのコンサート会場も超満員、レコードは品切れ状態、彼が引退を決めた時、自殺騒ぎが起きたほどだったわ」
「そのなれの果てが、このざまかよ」
 工藤哲夜なんて、悪いが曲も知らなければ、名前さえ知らない。
 将は、ミラー越しに男を見る。
 生活のだらしなさが、そのまま、顔にも身体にもにじみ出ているような男だった。
 ただ、着ている服だけは、妙に高級な――将もよく知っている、イタリアの高級ブランドものである。
「………当時、彼の所属していた東邦EМGプロにはね、2人のトップシンガーがいたのよ」
「…………」
「その二組とも、今は名前もユニット名も、完全に闇に葬られているの。レコードは絶版、テレビにも絶対に映像が出てくることはないわ。何故かわかる?」
 知るかよ。
―――関心ねぇよ。
 将は無言で、流れていく景色を見つめた。
 女と最後に会ったのは、将が事務所に入って二年目のことだった。
 取締役会議に出るために帰国した真咲しずくと、事務所の廊下でばったりと出くわしたのだ。
―――あら、バニーちゃん、こんなことで何やってんの?
―――私追いかけてきたなら百年早いわよ、バーイ、今度会うときまで、もうちょっと背伸ばしておいてね。
 ちゅっとおでこにキスされた。
 あの時の――なんともいえない屈辱と恥ずかしさは、多分一生忘れない。しかも間が悪いことに、その時、将は一人ではなかったのである。
 よりにもよって、最悪の連れがいた。―――その連れと、今でも同じメンバーとして生き残っているんだから、運命とは皮肉なものだ。
「なんで、あんな店に出入りしてるの」
 ハンドルを切りながら、女が、そこだけ低い口調で言った。
「たまたまだよ」
「アイドルって自覚があるなら、出入りする店は選びなさい。あそこはね、薬の売人が出入りする危険な場所よ。周りの客の中に、明らかにやってる子がいたでしょう」
「……………」
「昔と今じゃ、クラブの質も目的も変わったわ。……残念だけどね。でも良質な店はいくらでも残ってるから」
「うるせぇな、わかってるよ!」
 何故か意味もなく苛立っていた。
 説教なんかされたくない。
 もう――昔の俺とは違うんだ。あの頃のあんたの年じゃないか。なのに、何故。
 女はさらに、俺より年上になってるんだ。あの頃より、もっと手の届かない存在になってるんだ。
「写真でも撮られてたら、取り返しのきかないダメージよ」
 が、女はらしくない説教をまだ続けたいようだった。
「なんだよ、にわかにマネージャー気取りかよ」
「いい、柏葉将」
 女の口調は厳しかった。
「薬と暴力だけはダメ。どんな理由があろうと、事情があろうと、今の社会では絶対に受け入れられないものだから」
「……………」
「この世界で生きていきたいと思うなら、それだけは肝に銘じておきなさい」








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