★このストーリーは、真白ちゃんがりょうの部屋にお泊りした二泊目の朝以降の出来事です。   



                  1


「りょう?」
 ひょい、と何気に脱衣場をのぞいた真白は、うっ、とうめいて顔をひっこめた。
「なに?」
 と、多分振り向かないまま声だけが返ってくる。
「う、ううん、朝ごはん用意できたから」
「サンキュ」
―――ふ、ふつーあり得ない光景よね。
 真白は、咳払いしつつ、眺めのいい窓があるリビングに戻る。
 いい部屋……。
 都心からわずかに離れたマンション七階の一LDK、想像以上に狭いけど、内装はおしゃれでいかにも芸能人が住んでる感じ。
 そもそも部屋の主のセンスがいいからなのかもしれない。
 玄関のちょっとした飾りや重ねられた靴箱、あちこちに貼られた雑誌の切り抜きっぽいモノクロ写真、なにげにひっかけてあるシャツなど、うわーっ、ドラマみたいな部屋、という印象がした。
 真白は母親譲りの片付け好き、部屋は広く使えばそれでいい主義で、なんでもかんでもさかさか捨てるし、装飾のたぐいはあまり置かない。
 この部屋の主は、一緒に暮らした最初から衝突しそうな予感がした。
「あー、さっぱりした、いいよ、これ、想像以上」
 パックの最中だった年下の彼が、いかにも機嫌よさそうに髪を払いながらリビングに入ってくる。
「そ、……そう?」
「真白さんにもサンプルあげるよ。メイクさんに薦められて買ってみたんだけど、いかにも角栓が取れるって感じで」
「……よかったね」
「最近、微妙に肌の調子が悪くさて、曲がり角ってやつなのかな、そろそろ」
 はっと物憂げにため息を吐く。
―――そりゃないだろ、私より二つも若いくせに。
 強張った笑いを浮かべつつ、ご飯をよそおうと立ち上がった時だった。
「………なに?」
 対面に座る人がじっと見ている。
 まぶしい午前の日差しが、彼の顔を半分影で覆ってしまっている。
 綺麗な輪郭と、整った目鼻立ちの陰影が、まるでその刹那、雑誌かテレビの一場面を切り取ったように美しく見えた。
「な、なに?」
 さすがに動悸が高まった。
 二日前。
 初めて東京に来て、初めて恋人の部屋に泊まった。
 二日間、ほとんど眠らず確かめ合った様々なことが、胸がしめつけられるほどの愛しさと共に思い出せる。ちょっとした――寂しさとともに。
「……真白さんが、綺麗だから」
 と、男の唇が思わぬセリフを呟いた。
―――え……
「女の肌って、どうしてそんなに綺麗なのかな、あーっ、ちょっと悔しいな、肌だけ交換してくんねーかな、俺と」
「………………じゃ、ご飯ついでくるから」
 真白は落ちそうな顎をなんとか支え、まだため息をついている恋人に背を向けた。
 しょうがない。
 彼は、アイドル。


                  2


「聡君?」
 声をかけても、返ってくる返事はない。
「………?」
 けげんに思って隣室をのぞいてみると、そこは色とりどりの花が咲いていた。
 いや、花ではなく、衣装の山。
「…………なに、それ」
 ミカリは、やや唖然として呟いていた。
「いやー、今日ですね、実は私服撮影があるんですよ」
 腕を組み、難しそうな顔をしながら昨夜ここに泊まった恋人が呟いた。
「へぇ……」
「雑誌の企画かなんかで、時々抜き打ちでやられるんです。他のメンバーは私服も結構芸能人してるけど、俺は、ほら、こんなだから、小泉君がこっそり教えてくれるんです」
「……別に、自分らしいものでいいんじゃないの」
 といいつつ、ミカリも知っている。アイドルのイメージは「自分」では決してない。事務所と、そしてファンが作り上げていく、ある種架空のものであることを。
「こないだは、カジュアルで決めたから、……うーん、今回はコンサバ系で」
 と、東條聡、すでに手元の雑誌をめくりつつミカリなど眼中から無くしてしまっている。
「……ま、がんばって」
 あきれつつ苦笑しつつ、ミカリは一人でリビングに戻った。そっか、それで昨夜は、大荷物抱えて泊まりに来てくれたんだ。
 努力してるよなぁ、と思う。
 昨日も、遅くまでセリフの練習を繰り返していた。で、ミカリは愛香役をやらされた。
「どうして私じゃダメなの、どうして私を見てくれないの?」
「いや……いかないで、私の傍にいて、サトシ」
 思わず吹き出すかと思ったが、笑うと真顔で怒られた。
 視聴率は、最近上昇中だという。
 サトシと愛香、そしてパイロットのレイラと、トモヤ。
 この四人の恋愛関係に注目が集まっているらしい。
「俺、……今は、君一人を守るだけじゃダメなんだ」
「わかってくれ………頼む、わかってくれよ」
 愛香への罪悪感から、いまだ関係を絶てないサトシ。無論、映像としては出てこないが、大学生の二人はすでに一線を越えているという設定。
 第十二話でレイラとの抱擁シーンもあるとのことで、なんだか泥沼の恋愛模様に突入していくという感じだ。
「どうなるの?」
 と、これは真面目にミカリにも気になるのだが、聞いても当の聡さえ、話の展開は知らされていないらしい。
 ミカリ相手のセリフ練習が終わると、今度は一人、鏡の前で同じセリフを、何度も何度も繰り返し始める。
 さすがに眠くなって、一人でベッドにもぐりこんで――隣に体温を感じたのは何時だったろう。今朝は、二人とも少し目が赤かった。
―――そろそろ、出勤しないと……
 一人でコーヒーを飲み干して、ミカリは腕時計に視線を落とした。
 立ち上がり、そろそろっと隣室の気配を伺う。
「隊長!すいません、まだ、戦闘機の用意ができてないんです!」
 さすがに驚いて、立ちすくんでいた。
 そっか、昨日繰り返していたセリフのひとつ。室内では、セリフ練習をしつつの、いまだ服選びで迷っている聡の背中。
 ミカリは苦笑しつつ、そっと部屋の扉を閉めた。
 しょうがない。
 彼は、アイドル。


                 3


「………いつまで、それ、やってんの」
 見るな。
 凪は自分に言い聞かせつつ、思わずそう呟いていた。
 見れば確実に笑ってしまう。本人が大真面目だから、それだけは――ダメ。
「いや、もうちょっとで顔の筋肉、ほぐれっから」
「そ、そう」
 鏡の前。
 友達以上恋人未満から、やっと恋人になったばかりの彼は、かれこれ三十分、奇妙な顔体操を繰り返していた。
「いや、俺、笑い方がいつもぎこちないって言われててさ、昔から」
「う…、うん」
 それが自分のせいだということは、すでに聞かされて知っている。
「一回舞台やった時、演出の人にすすめられて始めたんだ、そしたら、朝からテンション高い撮影入っても、一発でいい顔できんの」
「……へぇ……」
 凪は答えつつ、初めて中に入った成瀬雅之の部屋を見回した。
 彼の、マンションではない。
 彼の実家、江戸川の外れにある少し年期の入った一戸建て。
 当面、実家から仕事に通うことにした雅之に呼ばれ、初めて学校が早く終わった日に寄ってみた。
「凪ちゃんじゃないの〜〜、もうっ、すっかり綺麗になっちゃって」
 と、見覚えのある雅之の母親は上へも置かないもてなしぶりで、
「よかった、雅君に可愛い彼女ができて、芸能界って怖いトコでしょ、いきなりど派手な女の子つれてこられたらどうしようって、お母さんホントーに心配してたのよ」
 それには、思わず咳き込んでしまった凪だったが、その母親の背後に立つ当の雅之本人は、青ざめたり赤くなったり、実際気の毒になるほど慌てていた。
「……本当はね、芸能界なんかに入れちゃったことずっと後悔してたの、忙しくなって、雅君が家でるって言って、……なんだか、仲良かった憂也君とも疎遠になったみたいでね」
 雅之の部屋に上がる前、少しだけ、母親と凪の二人で話をした。
「色々悩んで、辛い思いしてるのがわかったけど、私には何もしてやれなくてねぇ、本人も面白半分にオーディション受けて、まさかここまで来るなんて、夢にも思ってなかったんでしょうけど」
 そうだろう。
 昔から、あまり考えてなさそうな顔してたから。
「最近は、憂也君も時々遊びにきたりするのよ。部屋の中でバカみたいに騒いでて、やっと雅君が帰ってきたのねぇって、お母さん、涙が出ちゃった」
 実際涙ぐんだ母親の横顔は、雅之とそっくりだった。
 そっか、あいつ基本は女顔だったんだ。骨格が男らしいから気づかなかったけど。
 で、その骨格が男らしい彼は、凪が部屋にあがってからかれこれ三十分。
 自分の顔を殴る――真似をして、殴られた方に頬を動かし、自分の頬をひっぱる真似をして、実際その方に頬を動かす。という、傍目から見ると、ちょっとこの人やばいんじゃない、という顔の筋肉体操というのを必死に繰り返している。
「ごめんな、今日は明け方まで撮影あって、帰れたの十時くらいでさ、爆眠してて、さっき目が覚めたんだ」
「ううん、いいよ」
 確かに眠そうな、というよりどこか反応の鈍そうな目をしていた。
「で、あと2時間でクイズ番組の撮影が……」
「いいよ、知ってるから」
「タクシーで行くから、途中まで乗ってく?」
「いい、一人で帰れるから」
 慌しいことで。
 なんのために来たのかな、私。
 とは思ったものの、お互い時間がないから仕方ない。
 凪にしても、再度受験生に戻ったわけだから、そんなに長居するつもりもないし、実際、できない。夕方には塾に行かなければならないから、顔だけ見せて早々に帰るつもりだった。
―――あ……でも
 ふと思いつき、凪は顔を上げた。
「やっぱ、行く、ちょっとミカリさんに会いたいし」
「冗談社さんに?」
「うん、泊めてもらったお礼、そういえば何もしてなかった」
「じゃ、俺、東條君に連絡して、ミカリさんに一応連絡いれてもらおうか」 
 ようやく振り返った雅之が、そう言って歩み寄ってきた。
 六畳間。
 机、衣装ケース、オーディオとCDだらけの部屋。天井には、昔活躍したサッカー選手のポスターが褪せたまま張ってある。それから緋川拓海の相当若い頃のポスター。さすがに時代が感じられて凪は笑ってしまっていた。
 で、壁にはロックバンドっぽい人たちの写真。それが結構何枚もある。確か……日本屈指のカリスマラッパーと呼ばれているジャガーズの。
「す、すわんねーの」
 と、その横をすり抜けながら、どこかぎこちなく雅之が言った。
「……座るけど」
 床はフローリング。で、椅子といえば、いかにも小学校から使ってます風の学習机の椅子しかない。
 後は部屋の三分の一を占めているベッドの上。
「あ、俺?東條君、今どこ?」
 で、そのひとつしかない椅子に雅之が座ってしまったから、凪は仕方なく、少しためらってからベッドの端に腰を下ろした。
「え、スエナガさんも冗談社に行っちゃったの?なんだよ、ちょっと怖いな。え?わ、悪口言われそうな気ぃしない?え?考えすぎ?」
 スエナガさん……?
 誰だろ。
 そう思いながら、凪は天井に視線を向ける。
 この部屋で、私が片思いしてた間ずーっと、この男は何考えて、このベッドで寝てたんだろう。
「じゃ、またな、おうっ、今度飲みに行こうぜ、そうそう、俺もやっと成人だしー、あっ、教習所、そろそろいきてーよな。将君みたいに車ばんばん乗りてーし」
 いや、何も考えてなかったに違いない。
「え、撮影中?ごめんごめん、つか、切っとけよ、そん時くらい」
 そして電話が切れる。
 その途端、どこか不自然な沈黙が落ちる。携帯を机の上に置きながら、雅之が目を逸らしつつ頭を掻いた。
「あ、れ、連絡してて、くれる、みたいで」
「……?ありがと」
 なんだろ。
 ようやく凪は、雅之が妙にぎこちないのに気がついた。
「…………」
「…………」
 なんだろ、私、怒った顔になってんのかな。
 いや、もう別に怒ってないし。いや、思い出せば腹は立つけど、それはもう過去のことだし。
「そ………」
 ようやく雅之が口を開いた。
「……そ?」
「そっち、行ってもいい?」
 そっち?
―――ってこっちか。ベッドの上。
「…………ど、どうぞ」
 と、今度は凪がぎこちなく言って立ち上がった。
 思い出した。
 なんか躊躇いがあったこのシチュエーション。
 そっか、私も人のこと怒ってる場合じゃなかったよ。
「い、いや、立つくらいなら、行かないから、つ、つか」
 雅之は慌てている。赤面しつつ目を逸らしているのが可愛いと思った。
「べ、別にへんなこと……考えてるとかじゃないし、その」
「わ……わかってるけど」
 凪も困ったまま、座るに座れずに立っていた。忘れようと思っていたことが、いやおうなしに押し寄せてくる。
 あの日。美波さんの部屋で。
 キ、キスされたんだ。私。
 で――そのまま、ベッドの上で。
 その先を思い出すと、ぎゃーっと叫んで逃げ出したくなる。
 む、胸がなんかもう、感覚なくなって、何されてるか理解さえできなくて、で、ボタンがいくつか外されて、
 さすがに怖くて、目をつむったまま泣いてしまった。
 そしたら、――「……悪かった」
 で、終わった。
 今でもあれが何だったのか、何の意味があったのか判らないし――考えたくない。
 ひとつ確かなのは、全然嫌じゃなかったことで――。
 もし、あの時、美波さんがやめてくれなかったら、多分。
「一緒にしよっか」
 沈黙を断ち切るように、ふいに雅之がさばさばした声で言った。
「……する?」
 な、なにを。
 思わずぎょっとしてあとずさる。
「顔の筋肉体操、俺の前立って」
 雅之は苦笑して、椅子を回転させて凪のほうに向きなおった。
 背が高い雅之と低めの凪は、こうして丁度視線が合う。
 少しだけ照れくさかった。
「殴って、つか、真似ね。本当は勘弁な、あれ、なかなか痕消えなくてメイクさんに相当努力してもらったから」
「ご、ごめん」
「どっちからでもいい、で、俺と交代、流川もやってみな」
「えーっっ、ヤダ」
「大丈夫って、やりだしたら、結構ハマルから」
 そんなもん、ハマリたくない。
 それから数分。
 凪は何度、失笑したかわからない。
 が、雅之の目は、結構真剣なのである。目の前に「彼女」がいることも忘れてるんじゃないかと思うくらい。
 もう、ぎこちなくもロマンチックなムードは微塵もない。
 さすがにちょっとあきれたものの、
「あー、いい感じ、これで今日の撮影はばっちりだな」
 満足気な能天気笑顔を見ていると、なんだか、何もかも許せてしまう気がした。
 しょうがない。
 彼は、アイドル。


                4


「そっか、まだ受験生なんだ、大変だね」
 どこか、標準語ではない柔らかいイントネーション。
 目の前に座る長身の女性を、凪はちょっとした興味を持って見上げていた。
 末永真白さん。
 ミカリに、そっと教えてもらったのだが、片瀬りょうの彼女らしい。
 スタンダードな美人ではないけど、雰囲気が綺麗で、不思議な魅力のある人だった。想像するだけで、大人びているのにどこか頼りない片瀬りょうにぴったりと来る。
 片瀬さん……この人に、目茶苦茶甘えてんだろうな。
 そんな感じがした。
 ほっそりとした人なのに、有無を言わさない強さがある。目が綺麗だと思った。まっすぐ見つめられると、ちょっと逸らしたくなるくらい。
「でも、すごい、将来の夢って、私あるかなぁ」
 と、唇に指を当てて呟いている。
「まだまだ若いじゃない、真白ちゃん」
 と、微笑しながら、コーヒーを手にしたミカリが入ってきた。
「色んなことが出来るんだから、ゆっくり考えてればいいのよ」
「私なんて才能ないから」
 苦笑して手を振り、真白はちょっと考えるように視線を窓の方に向ける。
「お姉ちゃん結婚するし、家継ごうかな、と思ってみたり。あ、うち、食堂やってんですけど、料理だけは得意だから、私」
「家、どこなんですか」
 凪は聞いた。一見して近寄りがたく見えたのは最初だけで、すぐに相当気さくな人だと判った。
「島根、遠いの。あはは、いいね、凪ちゃんは東京と近くて」
「片瀬君、お婿に入っちゃえばいいのに」
 ミカリが口を挟む。
「まさか、あり得ないですよ。あのお洒落小僧が鉢巻しめて、魚なんてさばけると思います?」
「想像しがたいわね」
「えー、でも、案外いいかも」
 三人の笑い声が重なった。最初に笑いを消し、真顔になったのは真白だった。
「だってですね、聞いてもらえます?今朝だって、私より早起きして、何してたと思います?パックです、延々とスキンケア、そんな奴に漁屋の朝は務まりませんって」
 次に真顔になったのはミカリだった。
「……聞いてくれる?昨日は、喉がかれるほどセリフ言わされた挙句、今朝は延々、一時間も着ていく服で迷ってんの、そもそも時々持ってくるメイクセット、あれ、明らかに私より量も質もすごいんだけど、そういうのってどうなのかしらね」
 凪も、つい真顔になってしまっていた。
「聞いてもらえます?まだ顔のあちこちが痛いんですけどね、今日、つきあって初めて彼の部屋にいったんです、そしたら、延々一時間、顔の筋肉体操ってのをさせられまして、もムードもへったくれもないんです。目がマジで、笑うと怒られるんですもん、そういうのってどうなんでしょうか」
「…………」
「…………」
「…………」
 三人、目をあわせ、思わずため息を漏らしていた。
 しょうがない。
 彼は、アイドル。



    





 
                      
act12  彼はアイドル(終)



>>top >>男が女を愛する時