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 南青山の裏通りにある輸入メーカーのショップ。
 その建物の地下に、唐沢に指示された「CLUB Dau」はあった。
 薄暗い階段を降りて行く。どこか都会には不釣合いなアンティークな扉から、六小節のビートが流れてきた。
 扉の前にはスキンヘッドに眉のない連中がしゃがみこんで、ヤクだと思われても仕方ないようなものを口に挟んでいる。一昔前のパンクめいたスタイルで、階段の上に立つイタジを見ても、何ひとつ反応はない。
「………なにやってんだ、あいつは」
 イタジは眉をひそめていた。
 六本木ベルファーレのようなメジャーなクラブだと思いきや、思いっきりアンダーグラウンド。
 どう考えても、アイドルが――というか、柏葉将のような学歴も家も確かな若者が通うには不釣合いな店だ。
 扉をくぐり、二千円の料金を払う。ワンドリンク制で、席は空いた席に勝手にどうぞ、というシステム。安っぽい照明が目まぐるしく飛び交う狭いフロア、中は結構な満員で、すでに雰囲気は出来上がっているのか、フロアでは何人もの若者がリズムに合わせて踊っている。
 ジャンルはハウスミュージック……だろう、多分。DJは悪くはない。MCも上手い。最高潮に盛り上がっているのがすぐに判る。
―――ふぅん……
 壁に寄りかかって店内を見回したイタジにも、すぐに理解できた。
 場所はひどいが、その割りには質の高いパーティだ。スタッフがいいのか、クラブDJが秀逸なのか。
「やっぱ、リュウは最高」
「きてよかったな」
 そんな声が、隣に立つカップルから聞こえた。
 壁に貼ってあるポスターを観て、イタジも理解する。なるほどゲストDJ「RYU」、それが今夜のパーティの売りらしい。名前は知らないがさぞかし名の売れたDJなのだろう。
 リミックスが秀逸で、飽きさせない。海底のような深みのある低音から、いきなり有名な曲のサビが飛び込んできたり、歌物に変わったりする。ふいに曲調が変化する絶妙なタイミングとセンス。
 曲間で盛り上げるトークも上手い。それはDJブースの前でマイクを持っている男の仕事で、今日の客を煽るだけ煽り、本人も相当楽しそうに弾けているようだった。
「…………」
 ぼんやりしている場合じゃない。
 上下揃いの青山で買ったスーツ。どう見ても一人だけ浮いた格好――を、気にしている場合でもない。イタジは、踊っている連中の間を泳ぐようにして店内の奥に入っていった。
―――いたよいたよ。
 目標はすぐに見つかった。というか、無防備にもほどがある――と眩暈がするくらい一目で判った。
 柏葉将。
 壁際のボックス席で、数人のグループの、彼は丁度中央に座っていた。グラスを片手に、何か楽しげに周りの人たちと話している。シャツにジャケットにジーンズ。年相応の普段着に、思いっきりの素顔。
 周辺の人間全てをイタジはすかさずチェックする。意外なことにオール男だった。おそらく学生。全員が柏葉と同級生くらいだろう。
 じりじりっと、柏葉の死角あたりから――(まるでゴキブリみたいだな、俺)と思いつつ、その背後に近づいてみる。が、店内の音楽が大きくて会話のほとんどは聞き取れない。
 ふいに、その視界になめらかな背中と丸いお尻が飛び込んできた。
―――ん?
 長い茶髪、お尻まで見えるんじゃないかと思うほど背中の開いた服。後ろ姿だから顔までは判らないが、スタイルだけは相当いい女性の2人組みが、柏葉のいるボックスに近づいていく。
―――こいつらか。
 イタジは即座に目を剥いた。
 唐沢さん、ついに見つけました。俺はやりましたよ、と心の中で雄たけびをあげる。
 女2人はそのまま、柏葉の前に立つ。
 周囲の男たちが、ひゅーっと口笛を吹いたり、何かひやかしているのが雰囲気で判る。
 柏葉も立つ。何か会話している。屈託のない笑顔。それから――
 柏葉が片手を出し、女2人と交互に握手した。
 それだけだった。
 2人組みの女は、ちょっとはにかんだような笑顔で柏葉のボックスを離れていく。
「意外に真面目なんだねー、プライベートだからって断られちゃった」
「写真もダメって言われたけど、握手してもらっちゃった」
 そんな声が聞こえた。
 通りすがりに見えた女2人の顔は、イタジでも顎が落ちるほど可愛かった。
―――へえ……
 柏葉は、元通りの席に落ち着き、周囲の友人たちと談笑している。
 それは、ただ、オフを友達と過ごしている普通の大学生の顔だった。
―――まぁ、……電話で報告でもして、帰るかな。
 どう見ても、これ以上監視する必要はないだろう。場所的にどうか、と思うものの、今時の大学生ならこの程度のパーティに参加するなど、さほどのことでもないのかもしれないし。
 二千円は経費で落さないとな、そう思いつつ携帯を出した時だった。
「片野坂さん」
 ぎょっっ、として振り返る。
 すぐ背後に立っていたのは、当の柏葉将本人だった。
 片手を顎にあて、空いた手を腰に添えている。
「どういう趣向ですか。今日は仕事じゃないですよ、俺」
 楽しそうな声ではなかったが、怒っているような声でもなかった。
 ただ、――しいて言えば、ちょっとあきれたような口調。
「商品管理ですか。大変ですね、うちのマネージャーも」
 間近で見ると、柏葉というのは、実際目茶苦茶いい男だとイタジは思う。顔立ち云々ではない、全体の魅力が、群を抜いている。
 イタジはごほん、と誤魔化すように咳払いした。
「まぁ――そう思うんなら、夜遊びはほどほどにしなさい、柏葉君」
「ご心配なく、肌の手入れには気をつかってますんで」
「………」
 頭のいい男と話すのは嫌いだ。
 片野坂は憮然として肩をすくめた。
「じゃ、退散するよ、問題さえ起こさなければ、成人したアイドルの私生活にどうこう指図することもないし」
 が、
「せっかくだから、聞いってたらどうですか」
 その腕をつかまれたので、イタジは逆に驚いていた。
「立ってる間、指がずっとリズムとってましたよ、片野坂さん。こういうの、嫌いじゃないんだ」
 柏葉の目が、初めて人懐っこいものになった気がした。
「今夜は、滅多に日本じゃやらないゲストDJの、シークレットイベントなんです。このまま帰るのはもったいないと思いますよ」


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―――最近……飲んでばかりだな、俺。
 運ばれてきたドリンクは、やたらとアルコールがきつかった。まさか、俺を酔わせてどうこうする気ではないだろうが……。
 音楽がここちいい。
 丁度、休憩タイムなのか、曲調は柔らかで、単調、なのに次の展開を期待させる絶妙なビート。
「最近聞いた噂だけど、六本木のハコで、時々面白いパーティがあるらしいよ」
「へぇ、どんな」
「たまに飛び入りのDJがしきるんだけど、その選曲がめちゃめちゃふざけててさ。なのにかっこよくて、超盛り上がるんだって」
「なんだよ、色ものかよ」
「前はサザエさんのテーマで超笑えたって、一回のぞいてみようぜ」
 柏葉将が手を叩いて笑っている。
 屈託のない、楽しそうな笑顔。
 こんな顔で――笑ったことがあったっけ、テレビの中で。
 きれいに整った甘くて端整な横顔。男らしい骨格と体型。
 で、……大学、どこだっけ、結構いいとこで、それから――家は金持ちで、父親は外務省か何かの官僚で……。
「なんだよ、このおっさんつぶれちゃったぜ」
「どうすんの、将君」
 俺……そういや、車だった。
 イタジは今頃になって気がついて、うつろな目を喧騒に向ける。駐車場代……経費で、落ちるかな。
「おーい、おっさん、起きろよ」
「ここは寝るとこじゃねーだろ、おっさん」
 おっさんで悪かったな。
 どうせな、お前らも何年かしたら、確実に俺みたいになるんだよ。
 過去ばっか懐かしがって、今を死んだみたいに生きる親父に。
「……おっさん、言うな」
 イタジは思わず呟いていた。
「若いのが……そんなに自慢か、柏葉将」
「え、俺……言ってねぇし」
「なんだって、お前みたいな嫌味なヤローがアイドルなんてやってんだ、仕事もろくにとらないで学業優先だと?今、ぶらぶら何やってんだ、やる気ないなら、就職でもなんでもして、こんなヤクザな商売やめちまえ」
 俺、酔ってんのかな。
 いや、酔ってないぞ。
 でも今、何かまずいこと言わなかったっけ、俺。
「……片野坂さんは、なんだってマネージャーなんかやってんのさ」
 が、柏葉の声はどこか優しかった。
「知るか、気づいたらなってたんだ」
 なのに今、大切な商品に、すごい態度とってないか、俺?
「じゃ、なんで続けてるのさ」
「不景気なんだよ、お前みたいに学歴あるわけじゃないしな、拾ってくれるとこなんて、他にどこにもないんだよ」
「そういうもんかな」
「そういうもんだ、世の中ってのはな、甘くねぇんだ。付き人からはじまってな、いつか同じ舞台に立てるなんて甘い夢はな、見ちゃいけないんだよ、俺みたいな顔も悪くて才能の欠片もないような連中はよ」
 こきつかわれて、こきつかわれて。
 朝も、夜も昼も、正月もクリスマスもまるでなくて。
 それでもかじかむ手でハンドルを握り、飢えを我慢して出前の上寿司を運んだのは、この苦労の先に、デビューという夢が広がっていると信じたからだった。十代の終わりから二十代半ば。
「お前、バカか、その年になって本気でアイドルなんて出来ると思ってんのか」
 鼻で笑われたのが最後だった。初めて本気でその雇い主に反論し、その翌日解雇。
 もう――芸能界なんてこりごりだと思っていたのに。
 もう――二度と夢なんてみないと決めたのに。
 それでもその翌月には、J&Mのマネージャー募集広告を見て応募していた。大手芸能プロ「東邦プロダクション」で八年マネージャーを務めた実績を買われ、即日採用。
 そして――今だ。
「なんで……やめないんだ……」
 その呟きは、柏葉に言っているようで、自分に言っているようでもあった。
 辞める機会はいくらでもあった。故郷には父親の縁故で雇ってくれる会社もあった。週休二日で、残業代もついて、クリスマスも正月も、家族と共に過ごせるような職場は、いくらでもあるのに。
 なのに。
 気がつけば、実の娘よりも、子飼いのタレントの健康ばかりに気を配り。
 今も、家を放っておいて、タレントの女遊びをチェックしに走っている。
 この年になって、いまだ公団の団地から出られない薄給取り。
―――俺……バカじゃねぇのか……。
「……帰る、」
 イタジは立ち上がった。ふらついた身体を、隣に座る学生が助けようとしてくれたが、それは手で払って拒否した。
 タクシー代くらいならある。
 財布の中は、いつ何時タレントがトラブルに巻き込まれてもいいように、相応のお金が入っているから――。
 ふらふらと店を出た。階段を上がった。そこまでは覚えていた。
 あとは――どうやって、小汚い路地裏に連れ込まれたのか、イタジにはよく判らなかった。


               12


 口の中に、血の味がする。
「……これで、かんべんしてもらえますか」
 地べたにはいつくばったまま、イタジは胸に収めていた財布を取り出し、中から札を出そうとした。
 それを、財布ごと奪われる。
―――ま、当たり前だな。
 妙にさばさばした気分のまま、イタジは、自分を取り囲むスキンヘツドの若者たちを見上げていた。
 鼻にピアスなんかして痛くないんだろうか、こいつらは、
 うわっ、こいつ、耳に空洞できてるよ。アフリカかどっかの原住民じゃねぇんだから……。
「なんだよ、なさけねぇジジイだな」
 肩の当たりに蹴りが飛んでくる。本気の蹴りではなかったが、それなりに痛かった。イタジは身をすくめ、頭を抱える。
「見ろよ、結構持ってるぜ」
「なんだよ、シケたジジィかと思ったら、リッチじゃん」
 この金……経費で落ちるかな。
 口から零れた血が、新調したばかりのネクタイに沁みを作っている。
 それを指でこすろうとした途端、もう一度胸ぐらをつかまれ、引き起こされた。
「な、なんですか、もう何もないですよ」
 あわあわと慌てて両手を振る。
「うるせーよ、ジジィ」
 容赦なくスーツの内ポケットに手が伸びてくる。
 金目のものは本当に何もない。カードの類は手をつけられずに、そのまま投げ捨てられた財布の中にあるようだし、それが無事なら、
「なんだよ、これ」
 男の手が、イタジの内ポケットの中であるものを探り当てる。
「………!」
 それが何か、瞬時に気づいたイタジは、がっと目を剥いて、自分を掴みあげている男に体当たりした。
「なっ、なにすんだ、こいつ」
 これはまずい。
 スーツごと、それを抱きしめるように地面にうつぶせになり、亀のように縮こまる。
「このっ、ジジィ、抵抗しやがって」
「出しやがれ、ぶっ殺すぞ」
 容赦ない蹴りが、頭に、背中に腰に富んでくる。ブーツだからしゃれにならない。額から血が流れ、視界を刹那に赤く染めた。
「おらおらっ、ひっくりかえそうか」
「みっともねぇ抵抗すんなっつーの」
 腹にも蹴りが飛んでくる。背後から髪を引っ張られる。
 が、イタジは頑なにそれを守り続けた。これだけは――絶対に、何があっても渡すわけにはいかない。目に触れさせることさえできない。
 いきなり、サイレンの音がした。けたたましい音――火事か?
 半ば朦朧としながらそう思った。ああ、違う……パトカーだ。
 まずい。
「やば、俺らかな」
「違うだろ」
―――だったらいい、ここで騒がれたら、俺だってやばい。
「おまわりさん、こっちです。こっちで喧嘩してます」
 男の声。
 イタジの周辺の気配がさっと引いた。ばたばたというけたたましい足音。
―――ケ、ケンカは……まずい。
 ここで、警察沙汰になるわけにはいかない、俺は――。
「オレは、アイドルのマネージャーなんだぁっ」
 叫んだつもりが、咳き込んでいた。くそ、本当に今夜は最悪の夜だ。
「片野坂さん」
 いつの間にかサイレンがやんでいた。
「大丈夫ですか!」
 誰かがのぞきこんでいる。
 柏葉将――?それはダメだ、ここで、お前まで――巻き込ませるわけにはいかないじゃないか……。


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「ばかね」
 妻の声は冷ややかだった。
 全くもってその通り、反論のしようがない。
 イタジは黙って頭をさげる。
「なんだって、優花が熱出してる時に、あなたの看病しなきゃいけないのよ」
「……優花は……」
「実家、もう熱は下がったから」
 口の中に、乱暴にかゆを載せたスプーンを押し込まれる。というか……別に骨折してるわけじゃないから、メシくらい自分で食えるんだが。
 が、
 無論、そんな反論が許されるはずもなく、イタジは黙ってあーんと口を開けた。
「事務所からは、一週間くらい休んでいいって言われたけど、どうするの」
「行く、今は人手が足りないんだ、オレが行かないと大変なことになる」
「……あのねぇ」
 妻は心底あきれた顔で、からになった皿を載せたトレーを持って立ちあがった。
「この世界にはね、あなた一人が行かなくてどうこうなることなんて、何ひとつないのよ」
「………知ってるよ」
 不思議と静かな気持ちのまま、イタジはただ苦笑した。
 世界は広くて巨大で――何億もの星がきらめいていて、
 その中で、ちっぽけなクズの俺の輝きなんて、本当にどうでもいいっていうか、なくてもいいっていうか、代わりなんていくらでもいるってことは。
 なのに、俺はそれでも行くんだ。
 理由は――そう、理由なんて、そもそもどうでもいいことじゃないか。
 イタジは「いてて」とうめきつつ立ち上がる。我ながらみっともない姿。頭には包帯がぐるぐると巻きつけてあり、頬には青あざが浮いている。
「………これ」
 ワイシャツを羽織っていると、背後から歩み寄ってきた妻が、一冊の手帳を差し出した。
「真咲さんって方が、お礼言っといてくれって……あの夜、柏葉さんと一緒に見えられた人だけど」
「…………」
「そんなものが命より大事なんだ、あなたは」
 あきれたような声だった。が、それはどこか暖かかった。
「個人情報の漏洩は、今じゃ刑事罰の対象なんだぞ」
 イタジは咳払いする。
 ストーム5人。
 その全ての情報が詰め込んである手帳。
 それだけではない、仕事関係の全ての予定、関係者の連絡先、細かな裏情報の全てが書き綴ってある。これだけは――大げさではなく、命にかえても守らなければならないものだった。
「悪いな、」
 ネクタイを締めつつ、イタジは背後の妻に呟いた。
「俺は、どうも……根っからのマネージャー気質らしい、……これからも、苦労かけると思うが」
「ま、仕方ないわよ」
 どこかさばさばした声だった。
 午後の日差しが暖かかった。背後キッチンから、トントンと包丁を叩く音がする。
 が、感慨にふけっている暇はない。アイドルのクリスマス商戦は、すでに始まっているのである――。











    




 
                      
 
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