1
「ただいま」
当然のことながら返ってくる返事はない。
深夜四時。
「ただいまなんていちいち言わないで、その声で優花が起きたらどうすんの!」
まなじりをつりあげて、学生時代は可愛かったはずの女房に金切り声で非難された――ことがあったから、片野坂イタジは慌ててその口を押さえていた。
が、その女房の出迎えさえない公団住宅深夜四時。
帰宅途中、新聞配達のおじさんとすれ違った。当然のことながら朝刊の。
シャワーは事務所で済ませてきた。
「朝風呂なんて絶対にやめて、掃除が大変だし、優花の生活のリズムが崩れたら嫌だから」
熱烈に恋愛して一緒になったはずの女房に、氷より冷ややかに言われたことがあったから、片野坂イタジは必ずそうしているのである。事務所がダメなら二十四時間のサウナ風呂。
―――眠い………
が、そのまま布団に転がり込むことだけは許されない。
靴下、汚れ物は、お父さん専用洗濯籠に入れて、スーツはきちっとハンガーにかけて――
その作業の間、結婚して数年になる女房と四歳になる娘は一度もおきては来なかった。それは当然だ。絶対に起こさないように、息さえ殺しているんだから。
―――つ、疲れた………。
実際。
一応用意されている布団の中にもぐりこみながら、イタジは泥の中に落ちていくような睡魔を感じた。
実際、ここ数日の忙しさは、ハンパじゃないほどひどかった。
なにしろ、年内には冬の新番組の出演枠が決まる。それまでに、なんとか――成瀬、綺堂、柏葉の三人を、枠内に強引に押し込まないといけないのである。
―――くそ、あのバカ女のせいで!
怒りが、刹那睡魔に勝ち、薄闇の中、イタジは充血した目を剥いた。が、それも刹那のこと、すぐに甘い眠りの中に落ちていく。
連日の、売り込み、交渉、接待、その繰り返し。
難航することは最初からわかっていたが、ここまでひどいとは思わなかった。
すでに来クール、各局がJ&Mのために用意している、いわゆる「J」枠というのは完全に埋まっているのである。それより上に枠をくれと言っても、プロデューサーは一様に難しい顔をするだけだった。
―――なんだなんだ、サムライが人気絶頂だった頃は、あれこれ便宜を図ってやったってのに……
悔しいが仕方ない。
なにしろストームは、サムライが人気絶頂だった頃の半分も売れていないのである。今、旬なのはヒデ&誓也と、関西Jの立花、久住、遠藤など、まだ新鮮で期待値から視聴率が取れると踏まれている若手連中。それから、人気も演技も安定しているギャラクシー、スニーカーズの連中。
くだらねぇ、ストームなんて、とっとと解散しちまえばいいんだ。
来夏の恒例コンサートを持って解散。
それは、事務所の幹部が内々に抱いている方針である。
それに、新任マネージャーがどこまで抵抗する気か知らないが、(というよりむしろ解散の時期を早めているようにイタジには見える)俺だけは、こんなところで躓いてるわけにはいかないんだ。
―――いつか、ギャラクシーのマネージャーになってやる……
いつか、俺の事務所をこの芸能界におったててやる。
ギャラクシーを引き連れて、俺はこの世界で独立するのよ、見てろ、唐沢、次に来るのは俺の時代だ――
イタジの妄想は、いつしか夢に飲み込まれていった。
2
「なに?インフルエンザ?そんなもん気力で直せ」
イタジは携帯電話で怒声をあげた。あげて――気づく、そっか、まずい。風邪をタレント連中に移されたら商売あがったりだ。
「す、すいばしぇん、ぶりでふ」(鼻をかむ音)
「熱が四十度近くあって、僕、このばば、しぶんじゃないかど」(さらに激しく鼻を噛む音)
死ね、いっそ死んでしまえ。
怒りを歯軋りでかみ殺し、イタジは乱暴に電話を切った。
現場マネージャー小泉旬。
押しが弱く、気も弱く、立場も弱い使えない男。
一体なんだってこんなひ弱で箸にも棒にも引っかからない男がうちの事務所に入れたんだ――と思ったら、案の定縁故だった。常務取締役の藤堂戒の甥にあたるらしい。
あのヤクザも真っ青な強面の男の――まがりなりにも血縁者。一体人間のDNAとはどういう仕組みになっているのだろうか。
と、遺伝子のことに思いを馳せる暇もない。
慌てて手帳を取り出し、今日のストームの予定を確認する。八時からセイバーのロケ。十二時時には、片瀬りょうのグラビア撮影とインタビュー。夕方からは成瀬雅之がバラエティの収録。で、また夜からセイバーのロケ。
セイバーの撮影と成瀬の撮りに、小泉が同行する予定になっていた。至急、代わりの人材を手配する必要がある。タレント一人で行かせるわけにはいかない。現場には彼らが想像もできない仕事が山のように積まれているのである。
あいさつ周り、弁当の手配、衣装のチェック、タイムチェック、当日の台本のチェック、撮影中タレントにとってNGワードが出たら、それもチェック。移動中撮影中、一般人に携帯で写真を撮られたら、それを消して回るのも今の時代絶対に忘れてはいけないチェック。
それから――タレントを誘惑する女優連中もチェック。
目色、態度、雰囲気を読み、事前にやんわりと釘を刺す。携帯メールの交換など絶対にさせてはならない。Jのタレントは、事務所にとっては大切な商品だが、他所のタレントにとっては格好の売名行為の対象なのだ。
噂になれば知名度が上がる。つまり売れる――Jを敵に回せば、この芸能界で生きていけないと判っているだろうに、それでも刹那の知名度を求め、バカなアイドルを誘惑する輩は後を絶たない。
「あ、すいません、ストームの片野坂です。はい、至急あいてる人間回してもらえませんか、え?いない」
背後のふすまが、がらっと開いたのはその時だった。
「ちょっと、朝の何時だと思ってんのよ、いい加減にしてよ!」
結婚しようか、と言うと、涙を浮かべて「はい……」と頷いた愛妻……だった女。
「す、……すいません」
イタジは硬直しつつ、かろうじてそう呟いた。
『ちょっと無理です、片野坂さん、今日はなんとかそっちで回してもらわないと』
携帯から声が返ってくる。イタジは慌てて声をひそめた。
「悪いけど、そこなんとかしてよ、こっちもスケジュールぎちぎちで、もうひいひぃなんだからさ」
電話の相手は、営業部の馴染みの課長。
が、経理畑が長かった男は、営業に回ってもそつがなく、これっぽっちも無駄がなかった。
『無理ですって、今、うちはクリスマス控えて総動員体制なんですから。キッズのクリスマスコンサートが東京大阪横浜で同時開催。ヒデ&誓也とギャラクシーは特番の掛け持ち、マリアも深夜までてんこ盛り、スニーカーズは歌番組の司会とクリスマスコンサート、サラムイはミュージカル公演の真っ最中。今、一番スケジュールがあいてるとこに、これ以上余計な人員は』
イタジは、ぎりぎりと歯軋りしつつ電話を切った。
う、うちだってスケジュールはいっぱいいっぱいだ。
各局のクリスマス用歌番組に、のきなみ出演することが決まっている。
が、それは、他のタレントが忙しすぎて――「すいません、ストームしかあいてないんですが」てな感じで決まってしまったものである。
「今に見てろよ、クソ野郎」
声を抑えて毒を吐く。
しかたなく、事情を伝えるべくボスに電話する。
ボス――思考にも行動にも全くついていけないが、顔だけはちょっと見惚れるほどの美人でも性格は最悪以下――真崎しずく。
『へー、そうなんだ、じゃいいよ、私が行くから、行ってみたかったのよね、セイバーの撮影現場』
案の定、女はあっさりそう言った。
「あ…あのですね、間違っても、へんな要求……しないようにしてくださいよ」
『なによ、要求って』
「た、例えば、自分も出させろとか、そんな」
おそるおそるそう言うと、電話の向こうで女がけたけたと笑い始めた。
『やっだー、イタちゃん、ひょっとして超能力もってんの?なんで私の考えてることわかるかなー』
「すいません、それだけはやめてください」
声の震えを堪えてそう言い、現場マネージャーのいろはを伝える。最低限の。
女はそれを聞いているのかいないのか、ふんふん、うんうん、と、気のない返事だけが返ってくるだけだった。
―――やっぱ、俺が行くべきか……
電話を切ってからそう思うが、時間的に無理だった。十時には、サンテレビのプロデューサーと約束している。
が、迷っている間はない、すぐに成瀬雅之に電話する。
「片野坂です。今日は僕が現場に同行します、迎えにいくので、二時には支度、お願いします」
半分寝ぼけて電話に出た男に早口で言い、電話を切ってから、再度手帳で今日の予定を確認した。
「パパー」
ふすまが開いて、まだパジャマ姿の愛娘が駆け込んできたのはその時だった。
「やだー気持ち悪い、髭」
が、それ以上近くにこない。両腕を広げて娘を抱きしめようとしたイタジは、がくっと肩を落す。
「ねぇ、パパー、クリスマスのね、プレゼントの話なんだけどね」
もうすぐ五歳になる娘は、実によくしゃべる。幸いにして、妻に似たから多少は美人になるだろう。まぁ、それはそれで心配だが、最悪、アイドルなんかに引っかからなければよしとすべきだろう。
「いいよー、なんでも買ってやるよ」
イタジは手帳をめくりながらそう言った。
一週間、顔さえ合わせられないことがある。そんな娘の願いなら、多少のことならなんだって。
「パパのお仕事みてみたい!」
が、
「いいよー」
と、言いかけたイタジは、ぎょっとして目を剥いた。
「ねぇ、パパ、ぎゃらくしぃと一緒にお歌を歌う仕事をしてるんでしょー、優花ね、一回でいいから、パパが歌ってるとこ見てみたいの」
子供だとあなどって適当についた嘘。
それがまさか、今でも尾を引くことになるとは思ってみなかった。
「は、はははー、じ、実はね、パパ、お仕事かわることになっちゃってね」
イタジは、ひきつりながら頭を掻いた。
ふすまの向こうでは「子供の夢を壊さないでよ」と、妻が細い目で睨んでいる。
「ぎゃ、ぎゃらくしぃじゃなくて、今はストームっていう、あまり……そうだね、あまりテレビにでない人たちと一緒に歌を歌ってるんだ」
「あーっ、知ってる、りょう君大好きーっ」
「…………………」
ってオイ、まじかよ。
よりによって、ストームで一番女癖が悪い片瀬りょうとは……じゃなくて。
「、ゆ、ゆうかちゃん、なんで片瀬君のことなんか知ってるのかなー」
「だって、ママが見てるドラマに出てるもん。ママ夢中だよー、いっつもりょう君……ってうっとりしてるから」
ごほんごほん、とふすまの向こうから咳払いがした。
そ、そうなのかよ。
俺の仕事を毛嫌いして、普段は何も言わないくせに。
テレビは教育テレビしかつけないで、と頑なにエンターテイメント系を拒否しているくせに。
国立大学の教育学部を出た妻は、イタジがうんざりするほど教育熱心で、そして――口癖のように言うのである。「あなたとの結婚は失敗だった、なんだってそんな、やくざみたいな教養の欠片もない仕事してんのよ」と。
「ね、パパ、ストームと一緒にお歌、歌ってるのー?」
「う……う、……うん、たまにね」
「すごいすごいすごーい、みかちゃんね、ゆーや君が大好きなの、自慢してもいい?」
「い、いいけどね。パパは……本当に、その、なんていうか、たまにね。ほら、テレビとかに出ない時に、まじるくらいで」
ああ、なんだってそんな嘘をついてしまうんだ、俺は。
妻の細い目が、白くて怖くて逆らえねー………。
「けんくんはね、セイバーのサトシが好きなんだって、あれねー、ストームのとうじょう君なんだよね」
幼稚園児、まだアイドル話をするには早いだろ。
携帯が鳴ったのはその時だった。事務所の営業部から。
「ねぇ、パパ、つれてって、つれてって、パパがお歌歌ってるところにつれてって」
両腕を塞ぐように優花が飛びついてくる。
「優花、ちょっと待っててくれ」
「やーだ、やーだ、行きたい行きたい」
「いいかげんにしなさい、お仕事なんだ」
ちょっときつい口調になっていた。小さな体を脇に押しやる。
イタジは携帯を掴んで立ち上がった。
「優花、こっちにきなさい」
とげとげしい妻の声。今ので、また優花に嫌われたな――と思うものの、イタジにはそれをフォローすることさえできない。
娘とは――しょせん、妻の所有物なのである。
3
「………なんですか」
顔をあげた片瀬りょうが、不審そうな声で言った。
「俺の顔、何かついてます?」
「…………いや、べつに」
目と鼻と、それから口がついているだけ。
なのに。
イタジは、喫茶店の遮光ガラスに写る自分の顔を見た。
目と鼻と、それから口がついている。
なのに。
「……………」
―――なんなんだ、この差は、なんだって同じ人間に、遺伝子はこんな差別的待遇をしやがるんだ。
いらいらする。
約束した雑誌の記者は、もう十分も遅れている。――交通渋滞で……と、言い訳がましい電話があったものの、それはイタジもよく使う手で、要は前の仕事が長引いたのだろう。
―――くそっ、うちを何だと思ってるんだ。天下のJ&Mだぞ、片瀬は腐ってもそこのアイドルだぞ、そこいらのチンピラみたいな事務所の三タレとはわけが違うんだ。
「お腹すいたな」
雑誌にも飽きたのか、少し疲れたように片瀬が呟く。
「もうちょっと……今日は、素顔の片瀬君をってことなんで」
作り笑いでイタジが言うと、
「あ、わかってます」
と、片瀬はにっこりと微笑した。サングラス越しの目が綺麗だった。
―――まぁ……いい子なんだよな。
頬杖をつきながら、コーヒーを口に当てつつ、イタジは思う。
ストームの子は、全員いい子だ。むしろ、いい子すぎて物足りない。
我が強いといわれる柏葉や、そして我侭だと言われる綺堂にしても、イタジの経験から言えば、むしろ赤ん坊より扱いやすい。
サムライは――ひどかった。上の年代と下の年代の、強烈で奥の深い確執と断層。どちらもプライドだけは高く、目立ちたいばかりの連中だったから、どうバランスを取るかで苦心した。
ギャラクシーは当初、不協和音もへちまもないくらい、メンバー間の交流がなかったと聞いている。
マリアにしてもそうで――実際に私生活でも親友であるスニーカーズは別格だが、しょせん、アイドルユニットは、事務所がセレクトした寄せ集め、そこにあるのは、強烈なライバル意識とグループ内の縄張り争いなのである。
解散し、事務所を辞めたとたん、「あいつがキライだった」「あいつとだけは一緒に仕事をしたくない」と、暴露話が出るのは珍しいことではない。
「君らは、デビュー前から仲よかったのかな」
思わず口を衝いて出ていた。イタジも自分で驚いたが、目の前の片瀬りょうも、少し驚いているようだった。
思えば、急な異動を命じられて二ヶ月あまり。急転直下で色んなことが起きたから、個々のタレント連中と、こうして話したことが――ない。
「そうですね、僕と……柏葉君は同期っていうか、入った時期が同じだったから」
「片瀬君は、小学五年で入ったんだよね」
咳払いしながらイタジは言い添えた。何をバカなことを聞いているんだ、俺は。受け持ちタレントのことなら、背中のほくろの数まで言えないゃいけないっつーのに。
「………そうですね、今思えば、よくあの年でって感じですけど」
自嘲気味に片瀬が呟く。
イタジは、当時のことに思いを馳せた。
確か、それから二年後に、綺堂、東條、成瀬が入ってきたはずだ。貴沢秀俊が入ったのもその年だ。その年の暮れ、オーディションをすっとばして、写真選考だけで、即決合格。
それから――いわゆる、Kidsブームが始まった。
ギャラクシーが人気絶頂だった頃で、マリア、スニーカーズ、サムライもそれに続いた。あの時が、J&M事務所が一番大波に乗っていた時代だったのかもしれない。
仕事など、売り込む必要はどこにもなかった。次から次へと振る星のようにやってきた。断るのが忙しいくらいだった。
―――その頃に……比べたら、
ふと、イタジは我にかえる。今回、無理難題を女ボスに言われ、自分の足で動いて初めて気づいた。テレビ局側の反応というか、数年前との微妙な温度差を。
「他の三人とは、特に、仲良くしてたわけじゃないんですけどね。……なんでかな、気がつけば、なんとなくつるんでたっていうか」
片瀬の声ではっと我にかえる。いや、気にしすぎだ。業績は右肩あがりだ、何の心配もする必要はない。
「それにしても仲いいね、ユニット全員が仲いいって、この世界じゃなかなかないことだから」
「………」
適当にうった相槌だが、片瀬の笑い方は曖昧で、ちょっと寂しげでもあった。
「……それ、悪い意味でもありますよね」
「………」
「仲間が活躍していると……妬ましいと思うことはあっても、やっぱ、応援したい気持ちのほうが強いから。5人でいても、見せ場なんて譲り合ってる時あって、前、それでスタッフさんに注意されたこともあったんです、お前ら素人じゃないんだって」
それは言える。
イタジは黙って、コーヒーカップを持ち上げた。
ストームが、ある一点で成長が止まっているのは、まさにそこだ。個々に、それをアピールするだけの強烈な個性とスター性がない。
が、それは、今後デビューするキッズたちにも同時に言えることだった。
緋川、天野、澤井剛史、澤井晃一、マリアの永井、サムライの岡村、そして貴沢秀俊、一人で一等星のように輝くスターは、もう事務所の中にはいない。
「………不思議ですよね。元々はなんの関係もない他人なのに……」
片瀬は、独り言のように呟いた。
「気がつけば、全員が同じ場所に立ってるんです。例えば、いつか俺らも結婚するし、いつかは別れていくんだろうけど」
横顔が、透き通るように綺麗だった。一体、何の運命と偶然が、こんな綺麗な人間を生み出したのだろう。そして、どうして必然のように、彼は「アイドル」という仕事を選んだのだろう。いや――選ばれたというべきか。
「それでも、心のどこかで、何年たってもずっと5人で同じところに立ってるような気がするんです。この先――……すっげー年とって、何もすることがなくなった時」
「…………」
「俺が思い出すのは、多分、ここ何年かの俺だと思うんです。雅も同じこと言ってたかな、………まるで、夢の世界の出来事みたいに……夢中になって、苦しいけど楽しくて、辛いけど幸せで、」
「……………」
「……こんな時間を、俺がすごせる全部の偶然に、今は感謝したいですね」
イタジが黙っていると、片瀬は我にかえったように苦笑した。
「あ、すいません、なんか……一人の世界に入ってたかな、俺」
「いや、うらやましいよ、そんな風に思える君が」
イタジも慌てて苦笑して言い添える。
―――こんな時間を
俺がすごせる全ての偶然。
「……………」
(――すっごい幸せな三年だった。……みんなに、感謝したいし、すごくしてる。こんな時間を生きることを、俺に……くれた、すべてのみんなに)
イタジの胸をよぎったのは、先月聞かされた、成瀬雅之の独白だった。
たった十何年かの人生を生きただけの若い連中、まだ、本当の意味で人生の挫折も絶望も知らない奴ら。青臭い、世間を知らないと切り捨てるのは簡単だ。が。
イタジは、頬杖をついたまま、ぼんやりと空を見上げた。
自分の気持ちは――いつがそうだったのだろう。
そんな風に思えた時間が、今までの人生で、一度でもあっただろうか―――。
4
「じゃ、本番いきまーす、」
掛け声が響く。
それまで、ずっと隣席のお笑いタレントと楽しそうに話していた成瀬雅之が、すっと顔を正面に向ける。
―――へぇ、
スタジオの片隅で、それを見守っていたイタジは、わずかに瞠目していた。
この番組は、オンエアを何度かチェックした。終始緊張ぎみの硬い顔をしている成瀬を見た時、「ああ、これはワンクールで切られるな」と思ったものだ。
当時はまだサムライのマネージャーだったから、空いた枠に誰か入れられないか、ちょっとプロデューサーにさぐりを入れたこともある。
が、本番が始まっても、成瀬の顔に緊張めいたものが戻ることはなかった。どこかリラックスしたムードのまま、ごく自然にオープニングデーマに合わせて手を振っている。
紹介されると、
「こんにちはー、今日は俺、トップ狙ってますよ、マジで」
と、茶目っ気たっぷりにガッツポーズをしている。
「今日はマジですよ、成瀬君、さっきからずっとクイズ王への道って本読んでましたから」
隣の芸人が――おそらく打ち合わせどおりの突っ込みを入れる。
「ちょっとちょっと、ばらさないでくださいよ」
「成瀬君、それ、何年前の本だよ」
ごく自然に笑いを取っている。成瀬が絡んでいるのは今、超売れっ子のお笑いタレントで、芸に厳しいと評判の男だった。
モニターでチェックしても、アップで映る回数が、以前見た時より随分増えているような気がする。声もよく拾われている。
「最近、なかなかいい感じなんですよ。成瀬君」
背後に立ったのは、番組ディレクターの榊原だった。前からつきあいのある飲み仲間で、イタジも「おう」と片手をあげる。
が、榊原は、軽く会釈しただけだった。
「前は、休憩時間でも、ずっと一人で台本読んだりモニター見たり、まぁ、熱心な子だな、とは思ってたんですけどね……まぁ、その熱心さがいつも空回りしてるなって感じで」
榊原の声が少しぎこちない。というか、微妙に他人行儀。
おいおい、どうしたのよ、サカキちゃん――と言い掛けたイタジは、はっとあることに気づいて軽く咳払いした。
この番組の構成を勤めていた女性は、先月から別の部署に移動になった。J&Mの要求を呑んで――理由までは誰も知らないだろうが、局の連中は、一様に不快に思ったはずだ。
イタジも現場に漂う棘というか、少し遠巻きな空気に気づいていた。
成瀬はそざかしやりにくいだろうな――と思う。
「最近じゃ、台本読むかわりに、ずっと誰かにくっついて喋ってるんです。時間があれば、メシ食いについてったりしてるようですし、バラエティってのは、現場の空気が結構オンエアに出ますからね。今じゃ、結構可愛がられてるみたいですよ」
「そうですか」
イタジもまた、他人行儀でそう答え、再びモニターに映る所属タレントに視線を戻した。
あの事件以来、何かが――ふっきれたのだろう。笑い顔が、まるで十代前半の子供のようだった。いわゆるバラドルと呼ばれる女性タレントから「ナルちゃん、がんばってー」と声援を浴びている。
―――気にすることは……ないか。
わずかにほっとして、イタジはポケットで着信をつげている携帯を取り上げた。
―――若いってのは、うらやましいよな。
なんでも糧にして乗り越えていくってわけか。やりなおしの聞かない俺みたいな年になるとそうもいかない。身に沁みた習慣も悪癖も、一度壊れてしまった関係も――もう、容易には修復できない。そう、人生も。
5
「だから、オレにはどうしようもないって言ってるだろ」
駐車場に向かいながら、イタジは苛立った声を上げた。
『だって、熱が四十度もあるの、どうしたらいいのかしら、もし、悪い病気だったら』
何事も堅実的でシビアな妻だが、唯一、やっかいなのが、病気に対する異常なまでの心配性。
「医者にはいったのか」
『行ったの、インフルエンザじゃないかって』
「だったらそれでいいじゃないか。薬は飲ませたんだろう」
『いいってどういうこと?あなたはね、苦しんでる優花ちゃんをみてないからそんなに呑気に行ってられるのよ、こんなに熱が高くて、もし何かあったらどうすればいいの』
「俺にどうしろっていうんだ」
イタジはつい、大きな声を上げていた。かれこれ十分も、こうして妻の非難を受け続けている。
移動時間を考えたら、もう時間はあまりなかった。次は――東條をつれてセイバーだ。全く、今日は最悪の一日だ。
『最低ね、それでもあなた、優花の父親なの、話はろくに聞いてやらないし、かまってもやらないし、参観日だってピアノの発表会だって、あなたは一度も来たことがないじゃないの』
「……どうしてそうなるんだ」
どうして病気の話から、そこまで飛躍させなきゃならない。
『そんなに今の仕事が大事なの?バカみたいな薄給で朝から晩までこきつかわれて、若い子にぺこぺこ頭さげて、バカじゃない?情けないとは思わないの』
―――だから、どうしてそうなるんだ。
『そこまでして芸能界にしがみついてたいの?もう、あなたの夢なんか、とうの昔に流れて消えてしまったのに、バカみたい、見苦しいとは思わないの』
―――夢。
俺の――夢。
『悪いけど、しばらく実家に帰ります。優花の熱が下がったら――もう幼稚園は冬休みに入るし、かまわないわよね』
「好きにしてくれ」
ため息まじりにそう言うと、電話は向こうからがちゃりと切られた。
夢なんか知るもんか。
現実は、生活のためにいる金、それを稼ぐのが全てじゃないか。
一体誰のために――バカみたいなガキどもの、パシリみたいな仕事をしてると思ってんだ。
6
「なんだ、見慣れない奴がまじってると思ったら、新人のマネージャーか」
いきなり声を掛けられたのは、椅子に座ってうとうとしていた時だった。
イタジはぎょっとして立ち上がる。軽いパイプ椅子ががたんと倒れ、それを、つなぎを着た掃除夫みたいなおやじが直してくれている。
「え、いやー、まぁ、新人といったらその通りだけど」
と、イタジは相手を「誰だ?」と思いつつそう行った。
鏑谷プロ。
そのスタジオに作られたセットの中で、今、セイバーの撮影が行われている。
リハーサルの最中で、現場は、多少リラックスしたムードだった。
ガンのコマンドルームのセットの中では、今、サトシ役の東條が、相手役の仲村レイラと細かい打ち合わせをしている。今日は2人の意見が対立し、そしてそれを機に互いを意識しあうようになるという――重要なシーンらしかった。
「セイバーのあんちゃんのマネージャーか」
つなぎの爺さんが、下からイタジをねめつける。
「ま、まぁ、そうだけど」
なんなんだ。
この――いかにも雇われ掃除会社のおやじっぽいのに、妙に馴れ馴れしいというか、ずうずうしく肩を並べてくるじいさんは。
「その割には、あんた、セイバー見てないだろ」
ドキっとしていた。
「まるっきり興味なさそうな目ぇしてらぁね。一生懸命やってるあんちゃんがかわいそうだな、こりゃ」
「そ、そんなことはありませんよ」
むっとして言い返す。だって――仕方ないだろ、大人が見るような番組じゃないし、そもそも。
イタジの肩までしか背のないじいさんは、ぎょろっと人相の悪い視線で、イタジを上から下まで見下ろした。
「あんた、役者志望だろ」
「…………」
「マネージャーやってるのは、そっちから崩れてきたのが多いからね。あんたは、そこそこ男前だ、最初は役者やりたくて芸能界に入った口だね」
「違いますよ」
苦笑して、イタジは即座に首を振った。
―――それは、違う。大ハズレだ。
「じゃ、なんだってそんなつまらなそうな顔で、アイドルのマネージャーなんてやってんだ」
なんなんだ、こいつ。
さすがにイタジはむっとしていた。こんなおやじに勝手に出入りさせるなんて、全く、ここの撮影所はどうなってる。
「じゃ、あんただって、なんで今、清掃屋の仕事なんてしてるんですか」
おやじが、わずかに、白いふさふさとした眉をあげた。
「理由は一緒ですよ。金、金もらって家族養って生きていくため。それだけ」
素っ気無く言い、イタジは椅子に座りなおして足を組んだ。
「それにしちゃ、割りにあわねぇ仕事だがよ、裏方ってのは」
じいさんは、まだしつこく呟いている。
「……すいません、僕は、あなたと喋ってるほど暇ではないので」
「なのに、この裏の仕事が好きで好きで、抜けられない連中がごまんといるのよ、この世界は。不思議なもんでぇ、そのクズみたいなエネルギーが、時々、ものすごいもんを生み出すことがあるからな」
「…………」
反論しようと振り返った時、その老人の姿はもう、どこにもなかった。
―――なんなんだ、青臭いこと言うじいさんだ。
「東條君、もう少しそこ、ゆっくり喋って、気持ちが伝わってこないよ、それじゃ」
監督の声。
「はい、すいません」
即座に謝る東條の声。
真剣な眼差しだった。怖いほどだった。
「殺すことが全てだと、僕はそうは思えない。救うことで、見えてくるものもあるはずだ」
「相手は意思の通じる人間じゃない、所詮化け物だ」
切り捨てるような仲村レイラの声。
上手いな、と、イタジはわずかに驚いた。無名にしては、立ち姿に花がある。新條涼子、この女優はヒットするかもしれない――が、出身が特撮だと、なかなかそのイメージが抜けず、苦しむことになるだろうが。
「君の考えは間違ってる」
「説教なら必要ない、お前ができないなら、自分が行く」
「待ってください、それはいけない」
「お前の指示は受けない!」
がっと正面からにらみ合う2人。カメラが、東條のアップを狙って動く。
イタジは咄嗟にモニターを見る。
いい顔をしている。
「……地上の全てを、お前が背負うつもりか、ミラクルマンセイバー」
「………」
サトシの表情が、苦悶にゆがむ。
「そんな権利も、義務もお前にはない。どけ!目障りだ!」
緊迫した演技だった。退屈だとばかり思っていたセイバーの撮影。これは――なまじのドラマより見ごたえがあるかもしれない。
カットの声が飛ぶ。
スタッフとメイク係が、東條に傍に駆け寄っている。
「なかなかよかったよ、東條君」
「いやー、レイラさんが怖かったですよ、俺」
「えー、ひどい、東條さんだって、ものすごい力で腕掴んでくるんです、ほら、あざになっちゃってる」
監督、スタッフと談笑している東條は、すでに一人前の役者の顔をしていた。
―――ふうん……
セイバー役が決まったとき、あれだけつまらなそうな顔をして――現場でも、ずっと浮いていたと聞いたのに。
これも若さか。
なんにでも順応できる若さ。
もう――どんなに望んでも、絶対に戻らないもの。
7
「あれ、どっかで見た顔だと思ったら、こないだの」
イタジを指差し、くったくのない笑顔を見せてくれたのは、中年の――イタジと同じくらいの年代の女性だった。豊かな髪を後ろでくくり、黒のセーターにジーンズ。体型は崩れてはいないが、間違いなく安産系だ。
女はそばかすの散った顔で笑い、イタジに名刺を差し出してくれた。
安藤克子。
それが、女の名前らしい。
ストームビートのスタッフだというのは、前回、真咲しずくとここを訪れた時に聞いている。
「今日は、憂也君の付き添いなんだ、珍しいね」
いきなりタメ語で話されると戸惑うが――嫌いではない。むしろ、面倒な挨拶がはぶけてほっとする。
「スタッフが足りなくて、どうもインフルエンザが事務所にも蔓延してるようでして」
「そうなんだ、じゃ、アイドルに移しちゃ大変だね」
「大変なんてもんじゃないですよ」
イタジを目を剥いて肩をすくめた。
その後のスケジュール調整の煩雑さといったら……。
で、その挙句に商品管理がなってないと、大目玉。
「三回は注射にいかせます。もう、予約もしてますから」
「あらま、かわいそう」
安藤はくすくすと笑う。外見はいかにもおばさんなのに、笑うと魅力的な女性だった。
そういえばあのバカ女も――笑うと意味もなく可愛いんだ。えくぼができて、いや、本当に意味のない可愛さなんだが。
「自分の子供にだって、そこまで気配らないのにね、大変ね、売れっ子のマネージャーも」
そう言って、安藤は腕時計を見て席を立った。
―――自分の、子供
優花、熱があって……インフルエンザかもしれないって。
あなたはね、優花の苦しむ顔みてないからそんなことが言えるのよ。
娘のことは、妻にまかせきりで、予防接種を打ったかどうかさえ関心がなかった。
抱えたアイドルは、十一月、二月、念には念を入れて四月と、三回も予定を入れさせているのに……。
仕事だ、奴らは商品だからだ。
何故か微妙に不快な気分になり、イタジは腕を組みなおした。
「……あのさ、余計なことかもしんないけど」
頭上から声がした。先ほどの女の声。もうとっくに遠くに行ったと思っていたイタジは驚いて顔を上げる。
「もうちょっと、彼らの本音とか、やりたいこととか、聞いてやってくれないかな。あの子たち、全員いい子で妙に我慢強いとこあるからね。ちょっとかわいそうになる時あるんだ」
「…………」
どういう意味だろう。
女が去ってからも、イタジはその言葉の意味を考えていた。
本音?
やりたいこと?
曲がりなりにも日本最大手の芸能事務所に入り、アイドルとして成功した。女の子にもとはやされ、ドラマ、映画、舞台、ラジオ、雑誌、あらゆるメディアにひっばりだこ。
コンサートを開けば、各地で満員。一体何が不満なんだ。
たった一言セリフのある役をもらうために。
たったワンフレーズを、スポットライトの下で歌うために。
どれだけ努力して、血を吐いて、身体を売っても叶わない人間は山のようにいる。まさに死屍累々。その後を、何の努力もなしにただ歩いている顔だけが取りえの十代のガキども。
「……あの、ごめんなさい、綺堂さんのマネージャーさん?」
おどおどと、若い女の子が声をかけてきたのはその時だった。
8
「ごめんなさい、この控え室、今から会議入ってて……こっちの手違いなんです。綺堂さんの荷物、移動してもらってもいいですか」
と、言われ、むろんこれはマネージャーの当たり前の仕事だから「はい、わかりました」と即座にイタジは立ち上がった。
通された部屋は、確かに一人で使うには広すぎる部屋。
その長机の上に、いかにも若者が好みそうなショルダーバック、椅子には上着がひっかけてある。
最初に上着をひっぱったのがまずかった。袖辺りが鞄の下に挟まっていたのかもしれない。鞄ごと、中身ががしゃん、と机の下に落下する。
「わっ……」
と、慌てて拾い上げる。
大したものは入っていない。ラジオだから、そうだろう。何冊かの本と、CD。
それから――携帯。
「……………」
無用心なのか、それとも、はなから警戒する必要がないのか。
イタジは無言で、その携帯電話を持ち上げた。
一昔前、まだ――現場マネージャーだった頃。
そもそも携帯電話など普及していなかったから、タレントの鞄の中の、手帳、手紙のたぐいをチェックするのは、当然のようにイタジの仕事だった。罪悪感さえ感じることなく、それをやっていたような気がする。
―――今は……どうだろう。
現場マネージャーは、携帯のチェックをしているのだろうか。
こと、真咲しずくに関していえば、そういったことにまるで無関心のようで、イタジは何の指示も受けていない。が、情報が、どこかで上に伝わっているのは間違いない。
ストームの現場マネージャーは、小泉を筆頭に、あとは流動的に何人かが交代で務める。おそらくその中に――唐沢から、直接指示を受け、彼らの身辺を細かくチェックしている人間がいるはずなのだ。かつてのイタジがそうだったように。
あの子たち、全員いい子で妙に我慢強いとこあるからね。ちょっとかわいそうになる時あるんだ。
「…………」
一瞬迷ったものの、イタジはそのまま、携帯を鞄に投げ込んだ。
―――別にこれは、罪悪感じゃねぇぞ、どうせこいつらは夏までの命なんだ。深入りしてどうするってんだ。
散らばったCDをかきあつめる。
意外なことに、それはハードなラップを売り物にしている「ジャガーズ」のベストアルバムだった。あとは大昔に流行ったR&B「アリッサ・フランクリン」「サム・クック」。
「………しぶいじゃねぇか」
ソウルミュージック。
黒人霊歌からはじまった、いわゆるゴスペル。そこからR&B、リズム&ブルースが生まれ、そしてラップへと進化していく。進化――といっていいのか、後退といっていいのか。
少なくともイタジにとっては後退だった。最近のラップ――特にジャパニーズラップというやつは最低だ。みょうに気取ってばかりで、魂に響くものが何もない。
その中でも最低ランクにあるのが、そのジャパニーズラップを安直に取り込んでいるアイドルのラップで――正直、ストームの歌は、聴くに耐えないとさえ思っている。
「ジャガーズか」
が、このグループだけは、少し違う。
イタジは、一部刈りのヘッドにサングラスをかけ、肩に刺青をしたアーティストが映っているジャケットを見た。
沖縄生まれの混血児「REN」は、もとクラブDJで、インディーズで爆発的なヒットを放ち、華々しくメジャーデビューを果たした。年は、確か三十を越えている。
所詮は洋楽の安易なモノマネ、「REN」の出現まで、どこか垢抜けず――嘲笑さえあびていたジャパニーズラップは、たった一人の男のセンスと歌声で、一気に若者の心を掴み、アングラだったラップを、メジャー音楽にまで変化させた。
マスコミ嫌い、業界では気難しいと有名な「REN」は、ジャパニーズラップの革命児とまで称されている男なのである。
実際、「REN」の歌を聞いたイタジも理解した。
―――天才だな、こいつ。
ラップだけではない。全ての歌声にソウルがある、魂の叫びを確かに感じる。
無論、ソウルの発祥である本場の歌声には程遠い。ラップにしても、しょせん猿真似だ――が、そう思いつつも、日本人受けする独自のスタイルを作り上げ、ひとつのジャンルを確立させた。それは、天才にしか成しえない技だった。
天才か……。
どんな時代にも、どんなジャンルにも、天から才能を与えられた奇蹟のような存在は必ずいる。
うちの事務所でいえば、緋川拓海と貴沢秀俊。
アイドルの資本が顔と身体、そしてその存在感なら、彼らは紛れもなく天才だ。
どうやっても、何をしても叶わない。同じ時代に生まれて、同じ道を選んだことを、後悔するしかない存在。
それにしても、ジャガーズ。
―――綺堂の奴、こんなジャンルに傾倒してんのか。
それは少し意外だった。
こういったジャンルは、むしろ柏葉の専門だと思っていた。
柏葉の音楽好きは有名だ。彼はアーティストになりたいのだろう。アイドルではなく。が、それは、今の事務所にいる限り永久に不可能な夢だ。
基本、事務所は、アイドルにあまり歌声を期待してはいない。本業は歌手ではない「アイドル」だから。
つまり、その存在価値を売るのである。
最近の音響技術は、どんな下手な歌声でも綺麗な美声に変えて収録する。生歌さえ歌わなければ、彼らは歌の練習などひとつもする必要はない。いや、そんな暇があるなら身体を鍛えろ、ステップを覚えろ、唐沢ならそう言うだろう。踊りは――誤魔化せないから。
もうちょっと、彼らの本音とか、やりたいこととか、聞いてやってくれないかな。
「…………」
聞いて、どうする。
聞いて、何ができる。
所詮、大きな会社の歯車にすぎないんだ。俺も――そして、ストームも。
9
「柏葉がですか」
電話が鳴ったのは、家まで目と鼻の先まで来たところだった。
『そうだ、今、南青山のクラブにいる。場所はメールで送る。すぐに行って同行者を確認しろ』
唐沢の声は不機嫌そうだった。
「はぁ……」
さすがに即答しかねていた。午後十一時。正直、娘のことも、妻のことも気がかりだった。
『ぼやぼやするな。柏葉が初めてみせた尻尾だ、絶対に逃すなよ』
「わかりました」
ため息を打ち消し、明瞭にそう答える。
唐沢の機嫌を損ねるなど、愚の骨頂。これまでの苦労が水の泡だ。
『それから、綺堂だ』
―――ま、まだあるのかよ……
『これは未確認だが、最近、夜中に一人で出かけていると情報がある。それもだ、あわせて探りを入れておけ』
「はい」
それには、少し緊張した。
柏葉はスキャンダル処女?だが、綺堂は違う。
去年、あれだけモーニングガールとのことが騒がれた。次に何かあれば、「恋多き男」のレッテルが貼られかねない。それはあまりよろしくない。
―――が……
去年。
モーニングガールのことが雑誌ですっぱ抜かれたのはともかく、その後、テレビで取り上げられたのは、間違いなく、事務所側の意向だったとイタジは踏んでいる。
そうでなければ、テレビは黙殺するはずだからだ。絶対に、J&Mの機嫌を損ねたくないから。
何故、テレビで報道することを許可したか。
残酷なようだが、それは、綺堂にお灸を据える意味が大きかったのだろう。これ以上交際を続ければ、潰すぞ、と、暗に脅しをかけられたのだろう。綺堂だけでなく、相手のタレントに対しても。
―――可愛い子だったけどな……。
すでにブラウン管から消えた少女は、今、何をしているのだろう。綺堂はずっと沈黙を守っていた。特に騒いだり、ごねたりすることもなかったと聞いている。
それも素直すぎる反応だ――サムライの剛の時は大変だった。別れないと言い張って、随分手を焼いたのを覚えているから……。
何故だろう。
なんのために、彼らは――大切なものを失うのと引き換えに、この世界にしがみついているのだろう。
「…………」
そして今、なんのために……俺は。
いったん切れた携帯に、唐沢からメールが届く。
―――いや、今は、とにかく柏葉だ。
メールを確認して、それから――少しためらって家に電話してみる。
何回かのコールの後、留守電のメッセージに切り替わった。
イタジは、舌打して、ハンドルを大きく切るとアクセルを踏み込んだ。家とは、反対の方角に。
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