4


「びっくりしたわ、まさか、また来てもらえるなんて」
 また来ると思ってもいなかったのはお互いさまだった。
 目の前に置かれたコーヒー。
 真白は黙って頭を下げる。
「今日は私がお留守番、編集長ともう一人、昨日紹介しなかった可愛い後輩がいるんだけど、2人とも取材に出てるの」
 初見、やくざの情婦とまで思った凄い美人は、会えば会うほど優しい印象だけが強くなっていくような気がした。
―――なんで私、ここ来たのかな……
 昨日のお礼というのは口実で、他に、行き場がどこにもなかったからかもしれない。
 広い東京。真白の知り合いは、りょうと柏葉将しかいないし(それも結構すごいことだけど)、2人とも、こちらから自由に連絡できない立場の人だから。
 口にしたコーヒーは、ほどよい苦味と暖かさで、胸に沁みるほど美味だった。
「……お邪魔してすいませんでした、これ飲んだらすぐ帰ります」
 真白は、ようやく気持ちが落ち着いていくのを感じ、微笑して顔を上げた。
 デスクに戻り、パソコン画面に向き合っている阿蘇ミカリは、笑顔になって首を振る。
「忙しくて猫の手も借りたいほどよ。暇だったらいてくれる?電話取ってくれると助かるし、バイト代、少しなら出せるから」
「い、いいです。そんなの」
 それは――なんとなく嘘だというのか判ってしまった。
 昨日は戦場のようになり続けていた電話は、ここにきて二十分近く立つのに、今日は一度も鳴っていない。
 ミカリは白のニットにジーンズというラフな姿で、まるで休日を職場で過ごしているような雰囲気だった。
 髪は後ろでひとつに括り、そのせいか、昨日より随分若く見える。
 ニットのせいで――胸元は余計にどきまぎしたが、清楚なメイク、昨日と違ってきちんと手入れされた指先は、まるで――ここで、恋人でも待っているような佇まいだった。
「社長が誉めてたわ、若い子なのに事務処理能力が高いって」
 パソコンから顔を上げないままに、ミカリが言う。
「そ、そんな、……ただ、電話取ってただけですし」
「メモの書き方ひとつでね、その人の頭のよさって判るものなのよ。簡潔できれいで、要点を外してなかった。うちの社長は頭のいい子が好きだから」
「あ、ありがとうございます」
 どう言っていいか判らず、ひとまず礼を言ってみる。
「しかも片瀬君の彼女か、全くストームの子は、ここがどこだかわかってるのかしらね」
 否定することも肯定することもできず、真白はただ、曖昧に苦笑した。
 片瀬君の彼女。
 彼女って――言っていいのだろうか、私なんかが。
 ばーか、ぼけっとすんな。
 ブス、死ねって感じ。
「……………」
 暗い気持ちに支配されそうになる。真白は気持ちを切り替えるつもりもあって立ち上がった。
「雑誌のお仕事って、どんなことするんですか」
「んー、色々よ、うちは小さいから、本当になんでもやるの、見てみる?」
 ミカリは笑って顔を上げた。その背後に立つ真白に、パソコン画面を指で指し示す。
「今はね、編集用の専門ソフトをつかって、紙面を編集してるのよ。これを最終的にデザイナーさんに構成し直してもらって、で、うちで手入れてデータ入稿、昔と違って便利なの」
「すごい」
 真白は素直に声をあげていた。
 分割された画面は、さながらよく見る雑誌のページが、そのままパソコンに取り込まれたようだった。
 2分の一は、貴沢秀俊の笑顔だった。舞台稽古の様子らしい。
「薔薇よりも満開、貴沢秀俊、二十歳の挑戦」
 と、ロゴがその写真の下部で踊っている。
 舞台「薔薇の掟」のことは、ワイドショーで特集を組んでいたから真白も知っていた。世界的にも高名な舞台監督が手がける、本格的な舞台だということも。
「ザ・スクープって、J&Mの記事が多いですね」
 と、言ってから、こんなところに自分を連れてきた柏葉将って何考えてんだろ、とようやくその奇異に気がついていた。
 私なんて、多分、どう考えても格好の記事のネタだろうに。
「業界じゃ、Jの提灯持ちって叩かれてる。でもね、意外に好きにやってるのよ」
 ミカリはさばさばした口調で言った。何度かキーを叩き、画面を展開させている。
「J&M事務所は、売りたいタレントやイベント情報を、息のかかったメディアに強制的に流させるの。緋川拓海の新作CMは、絶対にエフテレビの朝番組で紹介されるでしょ。事務所の子が事件を起こしても、それを否定的に報じるのは一部の写真週刊誌と女性誌だけ。言ってみればね、今の日本のメディアには、公共性なんて欠片もないの。それは国営放送も同じこと」
 画面に、片瀬りょうの横顔がふいに現れた。
 うつむいて、じっと台本を読んでいる真剣な横顔。
「そこにあるのは、利権と視聴率至上主義。つまりお金。うちにはまるで無縁なもの、てゆっか」
 さらに画面が切り替わる。
「うちは、社長のコネで、比較的自由に取材できる立場なのね。だから、あちら様の事情なんておかまいなしに、書きたいように書かせてもらってるの」
 二十歳目前、片瀬りょう、セクシーな魅力に迫る。
 ロゴの上では、りょうが、女優相手にキスを交わしている写真が映し出されていた。
 それが、結構深いキスであるというのは、その密着度でなんとなく判る。ドラマの一場面、それも判っている。が、その刹那、真白は頭の中が白くなるような衝撃を味わっていた。
「どの記事にも、タレントへの愛がこもってると自負しているわ。私もね、ケイさんもゆうりさんも、基本はみんな、Jの子たちが大好きなのよ。人に夢を与えられる存在って」
 そこでようやく、ミカリは背後の人が固まっているのに気がついたようだった。
「……真白ちゃん?」
 あ、まずい。
 こんなに涙もろい私じゃないのに。
 こんなに弱い私じゃないはずなのに――。
 今日は、なんか色んなことがあったから。
「……ごめん、無神経だったかな、でもこの写真」
 ミカリは少し驚いている風だった。
「今から言おうと思ってたけど、片瀬君と柏葉君が気にいってくれたみたいで。角度とか表情の見せ方とか、結構長くここで議論してたのよ。仕事よ、真白ちゃん、彼にとってはそれだけの意味しかないの」
「………………」
 わかってる。
 真白は無理に作った笑顔でうなずき、目元にぎゅっと力を込めた。これくらいで泣いたら、この先、りょうの彼女なんてしてられなくなる。
「昨日」
 が、ミカリは優しく言って、真白の背中をぽん、と叩いた。
「片瀬君のあんなに笑った顔、久しぶりに見たかな。彼、ずっとへこんでたから、東條君と柏葉君の記事が出てから」
「…………」
 ミラクルマンセイバーの主題歌に関わる騒動。
 それは、テレビでは無視されたが、週刊誌、ネットでは、結構な騒ぎになっていた。
 こと、媒体が「ミラクルマンセイバー」という根強いファンを持つ番組だからだろう。真白が見た限りでも、ネットにはJと、そしてストームへの強烈な誹謗が溢れていたような気がする。
「……ミカリさんは、彼とかいるんですか」
 りょうを笑顔にさせることができるのは、私だけだと――そう言いたいのかもしれないけれど。
 真白は、今日、観衆に手を振ったりょうの笑顔がまだ忘れられないでいた。
 真白との別れ際、つかの間見たりょうの笑顔は、覇気がなく翳っていた。なのに、それは、観衆の前で片瀬りょうになった途端、輝くばかりの笑顔に変わった。
「うーん、どうかな、いるといっていいのかどうか、微妙なとこだけど」
「……どんな、人ですか」
「普通の人かな」
 あっさりと言って笑うミカリの顔が、今だけはひどく可愛らしく見えた。
「…………私も」
 普通の恋がしたかった。
 こんな、波乱万丈の恋なんかじゃなくて。
 平凡でいいから、普通に手をつないで、普通に笑えて、夢でもいいから、将来のことを話し合えるような、――そんな。
「りょう……笑ったんです」
 真白は、思わず呟いていた。
 あふれ出しそうなものを、指で押さえて唇を噛んだ。
「あんな騒ぎの中、りょうは笑って手を振ったんです……私……わかったんです。私と……りょうは、違う」
「…………」
「私とりょうは、別の場所で生きてるんです……そう思ったら…………」
「…………」
「寂しくて、………」
 ミカリはずっと黙っていた。
 そしておもむろに、手元のパソコンの電源を落とした。
「真白ちゃん、平凡な恋なんてね、どこにでもあるようで、実際はどこにもないのよ」
 静かな声は、真白の内面を見透かしているようだった。
「どんな恋愛にも、どんな平凡な人生にもね、沢山の波乱と葛藤があるの。……今しか知らない真白ちゃんにはわからないかもしれないけど、」
 どんな恋愛にも。
 どんな人生にも。
 立ち上がったミカリは、真白よりも背が低いのに――それでも、高いところから、優しく見下ろされているような気がした。
「失わないと判らないこともあるけど、失ったらおしまいだから。……おまじない、教えてあげようか」
 そしてミカリは、いたずらめいた目になった。
「いやなことをすぐに忘れられるおまじない、いい、見てて」
 ひととおり説明が終わった時だった。忙しない足音がして、ぱたん、とドアがいきなり開いた。
「ミ、ミカリさん、すいません、なんていうか憂也の奴が、」
「ちわーっす、目の保養にきたお邪魔虫でーす」
「俺はその、つきそいで」
 三人の声がいきなりした。
「あ、」
「あれ」
「りょうの……」
「末永さん!」
 扉の向こうに立っているのは、綺堂憂也と成瀬雅之と、それから東條聡だった。
 真白はただ、びっくりしたまま、その場に立ちすくんでいた。


                  5


「なんだよなんだよ、そういう時は雅の家に行けばいいんだよ、真白ちゃん」
 今日の出来事を――自分の感情だけ抜いて話すと、即座に手を叩いて笑ったのは綺堂憂也だった。
 げほげほっと、コーヒーを飲んでいた雅之が咳き込む。
「な、なんで俺んちなんだよ、んな真似したら、りょうに殺されるだろ」
「だって、あのマンション遊んでんだろ。そっか、あそこをストームの合宿所にしようぜ、反省会はあそこに集合、恋人との密会もオッケー」
「つ、つか、勝手に決めんなよ、それにラブホ代わりかよ」
「だって、今後はそうなるんだろ、そのために残したんじゃねーの、ナギ」
 と、言いかけた憂也の口を押さえるように、がーっと雅之が身を乗り出す。
「なんだよ、大胆な奴だな、真白ちゃんの前でがっつくなって」
「ち、ちが、……憂、てめーって奴は…………」
 笑いながら、真白の意識は、背後で――ミカリのデスクの前で、ずっと話している2人にいってしまっていた。
 ミカリの態度にこれといって変化はないが、男の方が、もう、どう言いつくろおうとバレバレの視線や態度になっている。
「わかりやすい二人だろ」
 あきれたように呟いたのは憂也だった。
「りょうに言っといてよ。東條君はただのバカで、将君は鋼の神経してるから、そんなことでお前が悩む必要ねーってさ」
「りょうは優しいよな」
 雅之が相槌を打つと、憂也は軽く嘆息してから、両腕を頭の後ろで組んだ。
「優しすぎ、神経つかいすぎ、一番甘えていい立場だっつーに」
「でもあれで、時々マジで怖い時あるもんな、こないだもすごかったし、青大将発言」
―――青大将……?
 真白がいぶかしげに眉をひそめると、なんでもないなんでもない、と言わんばかりに、2人が同時に片手を振る。
「つか、りょうは歩く地雷原、身体の中は地雷だらけ。踏んだらドカン、真白ちゃん大丈夫?」
 憂也は、楽しそうに目をすがめる。彼の笑顔はテレビで見るそのままだった。どちらも素なのかな、とふと思う。
「………俺、多分何度も踏んでるわ」
 雅之が不安気な目でぼそっと言う。
「踏んでも気づかねーのが、後ろに約一名いるし、」
「判ってて踏む性格の悪いヤローもいるしな」
「誰?」
「お前だろうが!」
 笑って聞きながら、真白もそれに共感していた。
 りょうは――昔からよく判らない。
 表情が曖昧で、笑ったと思ったら憂鬱そうになり、沈黙からふいに躁になったりする。掴んだと思っても、次の瞬間には違う内面を見せてすり抜ける。
 可愛いと思ったら、大人びてみたり、怖いと思ったら優しかったり弱かったり――。
 地雷というのはひどいけど、確かにその内面に、繊細で壊れそうなものをいっぱいいっぱい閉じ込めて、それを頑なに殻で覆っているような、そんな気がする。
「つーか、お前らが我侭すぎんだよ」
 ふいに、そんな声がした。
 真白はびっくりして振り返っていた。
 というか、アイドルってこんなに暇でいいのかしら、と思いつつ。
「迎えに来たよ、シンデレラ」
 柏葉将は、なんでもないように甘いセリフをあっさりと言うと、真白に向かって微笑した。
「……あ、青大将……」
 と、意味不明なセリフを雅之が呟いた。


               6


「なにしてるの?」
 背後からりょうの声がした。
「うん、ちょっと」
 広げた小さな紙を目の前に、真白はシャーペンを持ち直して思案する。
「今日……疲れたろ」
 シャワーを浴びたばかりのりょうからは、淡い柑橘系の香りがした。背後から抱かれるぬくもりを愛しく思いながら、真白はわずかに顔だけを上げる。
「これね、忘れるためのおまじないなんだって」
「……?」
 綺麗な目が、いぶかしげに机の上の紙に向けられる。
「ここに書くの、一番忘れたいこと、りょうもやってみる?」
「俺?いいよ、そんなの」
 戸惑ったように腕が離れる。女の子だな、とでも言いたげな苦笑めいた表情をしている。
「いいから書いて、ほら、そっち座って」
 真白は、そんなりょうを強引に、自分の前の席に座らせた。
 りょうの部屋のリビング。
 たった二晩泊まっただけなのに、もう――ここが、自分の部屋のように居心地がいい。
「忘れたいことねぇ、……それってやなこと?」
「忘れたいことならなんでも、人でも過去でも」
「うーん………」
 シャーペンを指先で回しながら、りょうは思案に暮れている。
 が、迷っていたのは意外にも短くて、すぐにさらさらと手のひら程度の紙片に文字をつづった。
 よくは見えなかったが、将の字だけが見えた気がした。
「それ折って、四つ折くらい」
 真白は、自分も紙片を小さく折りたたみながらそう言った。
「どうすんの?」
「これをね、もう一回紙で包むの」
 自分のとりょうのものを同じようにして、真白は、手のひらに小さく収まった四角形の包みを持ち上げた。
「焼くの、……ベランダ、いい?」
「焼くんだ」
「ライターある?」
「ねぇけど……あ、ろうそくならあるかも。前もらったケーキについてたから」
 2人でキッチンを出たり入ったりしながら準備して、肩を並べてベランダにしゃがみこんだ。
「さむ……」
「服きなよ、風邪引くよ」
 吐く息がわずかに白かった。もうすぐ――今年も終わる。
「真白さんはなんて書いたの?」
「秘密」
「……今日のこと?」
 ろうそくを傾けるりょうの指が震えている。
「なんで?結構楽しかったよ、おかげで、成瀬君の部屋にも遊びにいけたし」
「真白さん、すでに俺らの中に馴染んでんだもん。俺の方がびっくりした」
 銀のトレーの上。
 二つの紙塊が、めらめらと赤い炎をあげた。
「……なんで私がここにいるのかなって、すごく違和感あったけど」
 デパートの騒ぎの後、りょうが電話で助けを求めたのが、柏葉将だったらしい。
―――どうして、あそこにいるって判ったんだろう。
 真白は不思議だったが、実際将は、真白を探し出し、冗談社にまで来てくれた。
 あとは――その場の成り行きで、成瀬雅之の部屋にみんなで行こうということになって。
 しぶったけれど、「行って来たら?片瀬君のところには、今、戻らない方がいいかもしれないし」と、ミカリが後押ししてくれたので、同行することにした。結局そこで、逃げてきたりょうと落ち合えたのだが。
 楽しい時間だった。それは間違いないくらい。
 綺堂憂也は、始終場をもりあげて笑わせてくれたし、成瀬雅之との会話は本当に漫才みたいだった。柏葉将と東條聡は、ずっとセイバーについて熱く語り合っていて、
「そこでなんで、トモヤがでんだよ、俺的には納得できねーっつーの」
「いや、いいんだよ、それがこの話のポイントなんだ」
 クールそうな将が妙に熱くて、で、聡が意外に冷静なのに驚いたりもした。
 りょうは一人で頬杖をつき、みんなの話をただ、聞いているだけの方が多かった。時折口を挟んでいる。それが、ひどく楽しそうで、この時間をくつろいでいるのが真白にもわかった。
「いいね」
「何が」
 炎が、りょうの横顔を一瞬赤く染め上げた。
「友達……いいな、あんなステキな時間を過ごせる友達がいて」
「真白さんも、混じればいいじゃん」
「無理だよ、」
 苦笑して、最後にゆらめく火の欠片を見送った。
―――これで……忘れられるわけじゃないけれど。
 確かに、心につかえていた何かが、すっきりと昇天したような気がする。
―――ありがとう、……ミカリさん。
 多分、前途多難の度合いでいけば、ミカリと聡の方が大きいような気がするのに。
 何があっても、絶対に動じないような、ミカリのまなざしが羨ましかった。東條聡は――多分、この恋愛で自分をダメにすることなく、むしろそれが、より彼を成長させていくだろう。
―――私は、どうだろう。
「……何?」
「ううん」
 真白は苦笑して首を振る。
 しっかりしなきゃ、私のことで――りょうを悩ませたり、今日みたいな寂しい笑い方させないくらい。私が――しっかりしていなきゃ。
 立ち上がって、ごく自然に交わしたキス。
 互いの唇が冷えている。 
「明日……帰るんだ」
「うん」
「ごめんな、明日は一日ロケで……見送れなくて」
「いいよ、もう今日みたいなのは嫌だから」
「………ごめんな」
「いいよ……」
 そんなに何度も謝らないで。
 まだ、何か呟こうとしたりょうの唇を、今度は真白の方が塞いでいた。
 ノースリーブのシャツだけを着た、その肩がすっかり冷えている。
「……冷たい、りょう」
「あっためて」
 いたずらめいた声。
 もう一度、しっかりと抱擁しあう。明日になれば、また手の届かないところに行くぬくもり。今度いつ会えるの?今度は――いつ二人になれるの?
 でもそれは、今、言葉としては絶対に言ってはいけないこと。
―――強く……ならなきゃ。
 真白は、自分にそう言い聞かせ続けていた。


                 7


 アナウンスが流れていく。
 指定席に座った真白は、来週帰省する時のために買ったお土産物を膝に抱えたまま、人がごったがえす東京駅のホームを見つめていた。
 気のせいか、どこか暗い構内。時刻は夕暮れが迫っていた。
 名残惜しそうに手をつなぎ、唇を寄せ合っているカップル。それが、ちらほらと見えるし、新幹線の窓越しに、必死で顔を寄せている女の子もいる。
―――遠距離恋愛かな……
 人前でキスするのってどうなんだろう、とは思うものの、つかの間の逢瀬の後、別れを惜しむ彼女たちの切ない気持ちは、今の真白にはよく判る。
 今日は、午前中にりょうの部屋を出て、ちょっと一人で駅周辺をうろうろしてみた。それからランチを済ませて、お礼を言うつもりで冗談社に電話をかけた。
「時間あるならおいで、ケイさんも一言お礼言いたいって言ってたし」
 素直に誘いに応じると、そこで、思わぬ人と会うことになった。
 小柄で華奢で、わ、と思うほど可愛らしい女の子。
「流川凪です」
 初めて聞いて驚いたが、成瀬雅之の彼女だという。
 色々話を聞いて、写真も見せてもらったりしたが、元は「Kids」に所属していたらしい。実際、男の子でも通用するような中性的な雰囲気と、煌く猫のような目をしていたのが印象的だった。
 二時間あまり、三人でどうでもいいことを話し、「アイドルの彼」を愚痴ったりして、東京で過ごした最後の半日、真白にとっては、ステキな思い出ができた気分だった。
 発車します、白線の内側までお下がりください。
 ベルの音が鳴り響く。
 扉が閉まる直前、キスを交わしていた大学生風のカップル、その女の子が真白の隣の席に戻ってきた。目を赤く泣き腫らしている。窓の向こうでは、ちょっと柏葉将に感じが似た男が、照れた風に手を振っている。
―――りょう……来ないよね。
 それは判っている。期待してもいない。なのに。
 少しだけ切なかった。この夕暮れのホームの雰囲気が、人恋しくさせるのかもしれない。
 携帯が、メールの着信を告げたのはその時だった。
 少し期待して、それを手提げバックから取り上げる。
 開くと、相手は意外なことに柏葉将だった。
―――ま、そうだよね。
 りょうは、こういう時、気がきかないというか、鈍いというか――まぁ、男としてのポイントを思いっきりはずすタイプだから。
 開けっ放しのバックを閉じようとして、その時、初めて気がついた。奥に見覚えの無いピンクの色彩。
「………?」
 不思議に思いつつ、携帯を膝に置いてそれを取り出す。
 手のひらに乗るくらいの、小さなピンク色の包み。白いリボンで綺麗にラッピングされている。
 りょう……?
 まさか、こんな器用でキザな真似ができる奴だったっけ。
 せかされるように開いてみる。中には、シルバーの小さなピアスが一組入っていた。
 小さな涙のしずくのような透明の石が、綺麗に加工された銀の中で輝いている。
―――ハンドメイドで、ここしか売ってないから
―――真白さん、顔が寂しいから、何かつけたらいいよ。
 やっと判った。
 りょうは――最初から、これを売っている店に行くつもりで。
 あの時、二十分も姿を消して、あげく女子高校生に見つかったのも、多分。
 メッセージも何もない。それがりょうらしいと思った。一言も言わず、黙ったまま。
―――りょう………
 感慨がこみあげる。それを振り切りように、忘れかけていた携帯のメールを開いてみた。
”来てくれてありがとう。りょうは弱い奴だから、末永さんみたいな強い人が彼女になってくれて、本当にほっとしてる。これからも、支えになってやってほしい。何か困ったことがあれば、いつでも相談にのるから、遠慮しないこと”
「……………」
 私。
 うつむいた真白の目に、はじめて涙が浮かんで零れた。
 柏葉将、私、そんなに強くないよ。
 本当は、りょうにずっと傍にいてほしいのに。
 アイドルなんかやめて、ずっと傍にいてほしいって、そんな我侭なことばかり考えてるのに。
「……彼氏からですか?」
 隣席の女の子が、まだ目を赤くして囁いた。真白は少し笑って首を横に振った。
 何故か涙が止まらなかった。
―――私……強くない、りょう………
 もう怖くなってる。もう、後悔している。
 りょうのこと、好きになるんじゃなかった。こんな恋をはじめるんじゃなかった。
 来る前より、何倍も何倍も好きになった、もう、どうやっても忘れられそうもない。りょうの唇も、声も、囁きも、吐息も、全部。
 真白が燃やした紙に書いた言葉は、
 片瀬りょう
 だった。
 片瀬澪ではなく、りょう。
 なのにもう、片瀬澪は、この世界のどこにもいないような気がした。
 どこを探しても――もう、どこにも。
 新幹線が東京を離れていく。
 空は、今にも泣き出しそうな曇天だった。









    



小さな願い事(終)
 
                      
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