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指で触れると、ひやっとするほど、その頬は冷えていた。
手を滑らせ、耳朶をなぞり、癖のない髪をさらさらと撫でる。
ベッドの傍に立ったまま、彼はしばらくそうしていた。かつて、――まだ、元気だった頃の彼女にそうしていたように。
今にも語りだしそうな、赤みを帯びた薄い唇。
首筋から指に伝う、かすかな、けれど正確な鼓動。
が、彼は知っている、その唇が二度と愛を口にしないことを。笑いかけてさえくれないことを。
(―――奇跡でも起きない限り無理でしょう)
(―――まるで希望がないわけじゃないんです。が、それは、そういうレベルの希望でしかないんですよ)
つまり絶望。
「…………」
忘れないよ、俺は。
何があろうと、決して忘れることはない。
彼は呟く、自分に、そしてこの部屋で眠り続ける人に。
そしてすっくと立ち上がる、凛とした、野生の獣を思わす眼差しをあげて。
幕はあがった。
自らが育てたトリックスターは、すでに舞台袖で出番を待っている。
数日のち、日本のメディアは、巨大な王国が惨めに崩壊する様を見届けることになるだろう。
動き出した以上、引く事はできない。例え行き着く場所が望んだ世界ではないとしても。
―――力が全てだ、
―――力こそ、正義だ。
―――力だ、力だ、力が全てだ!
その言葉を。
今度はお前に返してやる。
彼は開かれたカーテン越しに空を見上げた。
昨日まで降り続いた雨が嘘のような、さわやかな夏の朝。それは抜けるほどの晴天だった。
―――涼ちゃん……
ふと、耳元で、彼女の笑い声が聞こえたような気がした。
それは、いつも聞く潮騒の幻聴。
窓の外から煩く響く、永遠のような波音の囁き。
「…………」
彼は目をすがめ、そして扉に向かってきびすを返す。
開けてしまえば、二度と戻れない扉に向かって。
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