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「ありえないわ」
 九石ケイは呟いていた。
 立ち上がったはずみに、膝に置いていた上着が、さらりと音をたてて足元に落ちた。しかし、それを拾う事も忘れたまま、ケイは壁際に置かれた液晶テレビ画面に見入っていた。
 隣りでは、パソコンから顔を上げたまま、高見ゆうりが固まっている。
 ケイの背後では、カメラを片手に事務所を出る寸前だったバイトカメラマンが、足を止めたまま動かなくなっていた。
 ふいに轟音が鳴り響き、雑居ビルkuishiの二階にある「冗談社」はひと時振動に揺らされた。
 国道に面した古びたビルは、数メートル先の信号が赤にならない限り、ひっきりなしに大型トラックの騒音被害を受けている。
 ビルは、死んだケイの父が残してくれた唯一の遺産だったが、すでに当時の借り手は全員消えて、入っているのはケイ自らが社長をつとめる自称芸能ゴシップ出版社「冗談社」と「煌探偵事務所」という怪しげな会社だけだった。
 窓ガラスが揺れるほどの振動が、国道から伝わってくる。
 が、今だけは、そのことに文句を言うものは誰もいなかった。
「緋川さん、今の発言は本当ですか」
 画面の中、今をときめくスターを取り囲む者たちが、静寂を破ったようにわっと立ち上がる。
 きらめくフラッシュ、怒声、呼び声。その喚声の中、黒いスーツ姿の男たちが金屏風の裏から飛び出してくる。
 記者会見はこれで終わりです、そう言っている。
 大手マスコミだけを集めた記者会見。中堅以下、いや、むしろ底辺ゆえの気楽さを謳歌している冗談社に、むろん、声はかからなかった。
 ケイは、たかをくくっていた自分に、半ばあきれて笑い出すところだった。
 日本を代表する芸能事務所「J&M」。
 その、看板タレントであり、史上最大のアイドルと称される、緋川拓海の単独記者会見。
 昨年から、密かに噂になっているハリウッドデビューが正式に決まったんだろう、というのが、大方のマスコミの見方だったし、ケイもまたそう予想していた。新人記者の大森比呂を会見場のホテルに張り付かせたのはそのためだ。
 むしろケイは、どの誌も扱うであろう緋川の記事より、柏葉将の逮捕で最終局面を迎えた感のある、「STORM」を取り巻く異常事態の方に興味があった。
 精神的支柱だった柏葉の逮捕により、STORMは完全に崩壊した。
 アイドルユニットとしては、信じられないほど仲のいい、抜群のチームワークを誇る5人だった。ケイにしてみれば、なんだかんだ言って、デビュー前からずっと面倒を見てきた連中だった。気がつけば、身内のような愛しさも感じていたのかもしれない。
 が、先日取材に行ったケイは、胸が軋むような思いで理解せざるを得なかった。
 「STORM」は終わった。
 全員の心が、今はぼろぼろに疲弊していた。痛恨と共にケイは思う。崩壊の予兆は夏前からあったのだ、どうしてそこを、見逃してしまったのだろう――。
 彼らを徹底的に叩き潰した「思惑」とはなんだったのだろう。ケイは確信する、そこには、必ず何らかの意図がある。影に存在する大者の、見えない手を確かに感じる。そして、それを明るみに引き出すのが、自分の仕事だ。
 だから今日、埼玉で行われるSTORM夏コンサートの、初日にして最終公演の取材に、自ら赴こうとしていたのだが……。
「緋川さん、もう一度お聞きしますが」
 女性アナウンサーが、興奮した声で追いすがった。
 黒服の男たちに囲まれていたスターが、周囲の静止を振り切るように足を止める。
 スター。
 まさにその形容がぴったりとあう男。
 三十を超えても、まだ日本の芸能界のトップで燦然と輝いている男。
 一体誰が、何の運命が、偶然が、一人の男を史上最大のアイドルと呼ばれるまでの地位に押し上げたのか。
 緋川拓海は顔を上げた。
 端整な、男らしい……そして、どこかセクシャルな唇で、彼は、はっきりとした口調で言った。
「僕はJ&Mを本日付で退社します。取締役も辞任します」
 雀蜂のように騒いでいた記者連中がさっと黙る。しん……と誰もが息を引く。これがスターの貫禄なのか、オーラなのか。
「Galaxyは、解散します。これはメンバー全員で決めたことです」
 わっと人の輪が壊れる。カメラは揺れて、ケイの目に映るのは、見知らぬ男の後頭部だけだった。
「あぶねぇな、どけよ」
「緋川さん、東邦プロに移籍するという話は本当なんですか」
「おい、カメラあげろ」
「緋川さん、ちょっと待ってください、緋川さん!」


                2


「おい、大変だ、緋川拓海がJ&Mをやめるらしいぞ」
 スニーカーズ澤井剛史は、その時「澤井兄弟」のスタッフと打ち合わせの最中だった。
 くるくると回していたシャープペンシルをぽとりと落とし、剛史はそのまま、対面に座る相方の顔を見た。即座に首を横に振る相棒――澤井晃一の綺麗な目もまた、驚きのあまり見開かれたままである。
「テレビ、今やってるぞ、澤井さんたち、何も聞いてない?」
 第一声でそのニュースを伝えてくれたディレクターが、大慌てで部屋の隅にあるテレビをつける。
 流れ出した洪水のような音声に、剛史はぼんやりと見入っていた。
「どうなるんだ、これから」
「Jを独立して、成功したタレントなんて一人もいねえだろ、実際」
「上にすぐ話が来るんじゃないか、緋川を干せって、HIKARUの藻星の時と同じだよ」
「だがねぇ、緋川以上に視聴率とれるタレントなんて今の芸能界には一人もいない、唐沢社長も、今度ばかりは分が悪いなぁ」
 スタッフたちが興奮交じりに語り合っている。
 それが緋川拓海でなくても、日本を代表する……いや、日本にひとつしかない男性アイドル専門事務所、J&M。
 日本の芸能界に燦然と名を刻むこの会社から、タレントが独立を図るというのは、一種、芸能という枠を超えたニュースには違いなかった。
 澤井剛史はまだ、画面に映るその人が、確かにその人の口調ではっきりと宣言したことが信じられないままでいた。
 彼は知っていた。今、緋川拓海がJ&Mをやめるはずが……いや、やめられるはずがないことを、彼の性格からして、いや、それ以前に一社会人の常識からして――決して。
 嘘や……そんなん。
 そして、思った。
 やめるわけない、あの人が……俺らをおいて、事務所を出て行くはずがないやん。
「よりによって、この時期かよ」
 晃一がぽつりと呟いた。
 その言葉の意味は、説明されなくても剛史には分っていた。
 今が、株式会社J&Mという芸能事務所にとってどれだけデリケートな時期で……そして、どれだけ危うい状況に立たされている時期なのか。それは一タレントの立場からみても、よく判っていたからである。
 永遠に思える栄華も、たったひとつの躓きからあっけなく崩れていく。それが芸能界というものである。
「会社があかんっちゅう時に……何をやってんのや、あの人は」
 長い髪に指をからめ、晃一は初めて苛立ったような声を上げた。
 剛史は、ようやく現実に呼び戻された気になって、子供の頃から一緒だった男を見つめた。
 黙って剛史を見返した男は、初めて見るような沈うつな目をして笑った。
「腹くくった方がええかもしれんな、俺らも」


                3


「いいか、とにかく緋川を探し出せ、どんな手段を使ってもいい、絶対に事務所に連れてこい!」
 初めて聞くような――彼らのボスの怒声を聞きながら、立花コージは、軽い戦慄を覚えていた。
 六本木、J&M事務所本社。
 今からたった十日前に、何百人ものアイドル予備軍の中から幸運にもデビューを果たした「なにわJam」の面々は、その社長室に全員が顔を揃えたまま、茫然と立ち尽くしていた。
 異変は、一本の電話から始まった。
 それまで、初めて見るような上機嫌な様で、コージ達に向かって今月のプロモーションの予定を説明していたJ&M代表取締役社長唐沢直人は、その一報を耳にした途端、いきなり頬を殴られた人のようにしばらく動かなくなってしまった。
 そして、相次いで鳴り響く電話。携帯のベル。
―――緋川さん……独立することになったんや。
 コージには、はっと胸に思い至るものがあった。
 その噂は随分前から……コージたちがJ&Mに入る前から存在して、そして今でも、相当根強く残っている。
 緋川拓海は、J&Mにとって、いや、この日本の芸能界にとってまさにドル箱スターである。今の彼の年収は約一億、が、それは彼が独立すれば、何倍にも膨れ上がると言われているほどだ。
「社長、ドリームリンクスから電話が入ってます、日映さんからも……どうしましょう」
「こちらから掛けなおす、いったん切れ」
 飛び込んで来た秘書に向かい、そう言って顔を上げた唐沢は、そこで初めて、立ち尽くしたままのコージたちに気がついたようだった。
「……今はレッスンに戻りなさい、話の続きは、またにしよう」
 普段、決して狼狽することなどない端整な顔に、初めて見るような蓄積された疲れが滲んでいた。
「行こう、みんな」
 同行していたマネージャーに促され、そのままぞろぞろと社長室を出る。
 隣接する事務室も、いまや事務員全員が電話対応に追われているというありさまだった。
「はい、ええ、今後のスケジュールのことなら、また確認をとってみますので」
「いえ、東邦プロさんと契約しているということは……まだ、聞いてはおりません、そんなことは、今の時点では」
「申し訳ありません、今、当社でも真意を確認している最中でして」
 その緊迫しきった空気からも察せられた。
 大変なことが起きている。
 先月、Stormの柏葉将が逮捕されるという事件が起きた時もそうだった。
 その時は、まるで嵐さながらの激風が、事務所全体を包み込んだ、という感じだった。
 が、今は……その時ほど激しくはないものの、それよりももっと暗い、まるで永遠に終らない冬の時代を思わせる黒雲が、頭上にのしかかってきたような、そんな気がする。
 エレベーターホールに出て、周囲が静けさを取り戻した時、コージは身震いと共にようやく理解した。
 これは――とてつもなく大変なことなのだと。
 その日。
 本拠地を大阪から東京に移したコージは、メンバーの久住らと共に、六本木にあるJ&M事務所に、レッスンを兼ねたプロモーションの打ち合わせに訪れた所だった。
 朝から日本晴れの1日で、移動する車の中から見た町並みは、夏休みの若者たちでにぎわっていた。
 今日もええ1日になればいいな、とコージは思った。
 ここ最近、事務所内に不穏な空気が流れていることは知っている。事務所の看板ユニットのひとつ、STORMが存亡の危機に瀕していることも知っている。が、そんな憂鬱も、不安も、これから開ける夢のような日々を思うと、まるで嘘のような気がしていた。
 なんとかなるさ、――スタッフにも、どこか楽天的なムードがあったし、なにわのデビュー延期も、しょせんは形だけのものだった。「ほとぼりがさめたら、柏葉も復帰できるだろ」そんな呑気な会話も飛び交っていたほどだった。
 それが、今は。
「東邦と……契約してるって、どういう意味だろな」
 メンバーの一人が囁いた。
 東邦プロ。
 正式名称「東邦EMGプロダクション」は、老舗の芸能プロであり、その分野では日本最大の会社である。そしてJ&Mにとっては決して相容れない因縁のある相手。
 過去にも、J&Мは、何人ものトップアイドルが、東邦に引き抜かれるという苦渋を味わっている。
「緋川派の連中は、みんな緋川さんについていくのかな。どうなっちゃうんだよ、うちは」
 背後では、メンバーたちがひそひそと囁きあっている。
「緋川派ってなんや」
「あほぅ、知らんのか、マリアさんや、サムライさんやろうが、あの人らがよそに移ったら、……うち、ほんまにどうなるんやろか」
「ばーか」
 強い口調でそう言ったのは久住だった。
「俺らだって契約書にハン押したやろうが、あの人らも同じやねん、いくら緋川さん好きやゆうても、勝手に抜けたら、法律違反やねんから」
 そう言う久住の口調も、どこか頼りないものになっていく。
 コージは、この事務所が、莫大な負債を抱えているという噂を思い出していた。そして、今年に入ってからのゴシップ続きで、株価が下落しているという噂も。
 コージが気になっていたのは、東邦という会社の名前が出たことよりも「ドリームリンクス」「日映」という言葉が、社長室に飛び込んできた秘書の口から漏れたことだった。
 ドリームリンクスは、ハリウッドに拠点を置く、世界でもトップクラスのアーティスト集団である。「星間ウォーズ」「ザ・タイタニック」などのCGを駆使したハリウッド映画は大抵がこの会社が手がけている。そして日映――「日本映画株式会社」は、日本を代表する映画会社である。
 その二社から、緋川の独立騒動と時を同じくして――明らかに緋川の動向を確認するための電話がかかってきた、それが、何を意味しているのか。
―――どうなるんやろな……今から。
 が、コージには、そのことと自分たちの未来とが、どう繋がってくるのか、まるで想像できないままだった。
 見上げた窓越しの空は、眩しいほどに青い。
 2005年、7月31日。
 ふと見上げたスタッフ用のスケジュールボードには、マジックで黒々と書かれていた。




 STORM、埼玉アリーナ、夏コン臨時公演
















          


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