向日葵」(後編)
 ――3――

 



                                     by 鷹宮ゆうり
vvvvvvvvvvvvv

                     7


「飲む?」
 缶ビールを差し出すと、女は黙って首を振った。
 拓海は黙ってベッドの端に腰を下ろし、プルタブを切ろうとして、そしてやめた。
 所在無く冷えた缶をてのひらの上で転がす。
 開け放たれた窓から、涼しい風が流れ込んできた。
 夏ももう終りかな――。立ち上がってカーテンを閉めなおした拓海は、2度、肌を合わしてしまった女を見下ろした。
「なに?」
 ベッドの上で膝を抱き、そこにシーツだけ被った女は、ちょっと不思議そうな目をして笑う。
 昨夜初めて抱いて、そして今夜。
 仕事を終えた拓海は、わっさんの誘いを断って真っ直ぐに自宅に戻った。
「なんだよ、恋人でもできたのか」
 そんなからかいの声に、
「新しいペット飼いはじめたんす」
 と、言い残してタクシーを拾った。
 本当は少しだけ不安だった。いないかもしれない。来た時と同じように、なんの前触れもなく女が消えてしまうような――そんな予感が少しだけした。
 が、ドアを開けると、待っていたように女は飛び出してきてくれた。
 食事を取る暇もなく、そのまま抱き合ってキスして、すぐにベッドにもつれこんだ。1日の疲れと不満を、全部吐き出すような激しさでセックスした。
「……いや、不思議だな、と思ってさ」
「なにが?」
 女はきょとん、とした目をしている。
「いや」
 拓海はかすかに苦笑して、女の傍らに腰を下した。そのまま頭を抱いて、自分の方に引き寄せる。
 こんなに、他人を自分の傍に近づけたのは初めてで、なのに、俺は――
 こいつの、名前さえ知らないんだ。
 で、こいつのこと、本当に好きかどうかもわかんなくて。
 多分こいつは、明日あたり、この部屋を出て行くはずだ。
「電話、お母さんからだったん?」
 肩に頭を預けたまま、女が小さく呟いた。
 さきほど掛かってきた電話のことを言ってるんだな、とすぐに判る。
「うん、最近よく掛かってくる」
「なんて?夏休みくらい帰って来いって?」
「ま、そんな感じ」
(―――もう、いいんじゃないの。拓海。)
(―――拓海はすごく頑張ったと思う、ここまでやればもう満足でしょう。まだ、大学だって行ける年よ、やり直すなら、今しかないんじゃないのかしら。)
「…………ずっと、行きたい場所があって」
 拓海は、女の髪をなでながら呟いた。ふわふわとした茶色の猫毛だ。
「それがここなのかな、って、今少しわかんなくなりかけてる。やりたいことしたくて家出たはずなのに、今、本当にやりたいことしてんのか、わかんなくなりかけてる」
「うん……」
 女の声は眠たそうだった。
 つまんない話だよな、拓海は思わず苦笑していた。
「もっと楽に生きる道があって、そこに……戻った方がいいのかなぁって、思う時がある、最近」
「楽な道ってなに?」
 殆ど独り言のように言った言葉だったが、女の声は意外にもしっかりしていた。
 楽な道。
 普通に学生して、会社はいって、決められた人生のレールを進む道。
 売れれば王様、売れなくなれは乞食以下、そんなギャンブルみたいな芸能界で、気持ちばっかりすりへらし、酒や煙草に溺れる日々から、もし、逃げることができるのなら。
「……ま、お前にはわかんねぇよ」
 拓海は女の頭をぽん、と叩き、そのまま仰向けに寝そべった。
 帰ろうかな、そしてまた思っていた。
 こいつが出てけば、俺は本当に一人になる。
 向日葵は死んだ、それは、もしかして何かのきっかけで、拓海にとってはこの旅の終わりを意味しているのかもしれない。
「……楽な道なんてなぁ、うち、どこにもないと思うんよ」
 囁くような声がした。拓海は閉じかけていた目を開けた。女の背中、女はまだ、膝を抱いた姿勢のままだった。
「どんな人生にも、戦いゆうん?辛いことはある思うよ。楽に生きてそうな人もなぁ、色んな悩みがある思うよ」
「なんだよ、お説教かよ」
「……自分は特別思うたらあかんよ、拓海君、どこにいってもなぁ、自分の性格からは逃げられへんねん」
「…………」
「けったいな性格はなぁ、どっかで変えなきゃ何も変われへん思うよ、拓海君が楽思うとこで変えるのええけど、せっかくだったら、今いる場所で変えたらもっとええ思うよ」
「…………」
「うちなぁ、高校の時、お父ちゃんが大嫌いでなぁ」
 ふわり、と女が胸元に寄り添ってくる。
「将来のこと、色々反対されてなぁ、大喧嘩や、二人でゆっくり話し合おうゆわれて、で、最後にいったんが遊園地」
「……観覧車か」
 女はこくり、とうなずいた。
「観覧車の中で、お父ちゃん色々しゃべってんねん、うちの小さい頃のこととかなぁ、自分の人生観とかなぁ、もう一生懸命しゃべってんねん、うち、何機嫌とってんねん、このクソ親父思うてな、もう一言も口きかへんで、むっつりしたまんまやった」
「ひでぇな、そりゃ」
「で、その時お父ちゃんがゆっとったんが、さっきの話や」
「…………」
 拓海が黙ると、女は遠くを見るような眼になった。
「そん時はわかれへんやったんよ、でもなぁ、今ならすごくわかるんや、……お父ちゃんには見えとったんやろなぁ、うちが……ただ逃げたかっただけやって」
 それ以上言わせるのが、何故か酷なような気がした。
 柔らかな髪に唇を寄せ、もういいよ、と拓海は言った。
 俺みたいな莫迦に、そんな大切な思い出話すのはもったいねぇよ、と。
「……お前、いつ、出て行くの?」
「明後日、10時の飛行機予約してんねん」
 女はあっさりとした口調で言う。
「行くなよ」
「殺し文句やねぇ」
「……連絡、どこにすりゃいいんだ」
「うち、お嬢やねん、親厳しいし、あかんよ、男女交際は」
 その言葉にも、そのままついっと顔を上げ、いたずらっぽくキスをねだる表情にも、拓海との別れを惜しむ気配は微塵もなかった。
「……お前……」
「何?」
「…………」
 帰国子女なんて嘘だろ。
 拓海は、そう言おうとしてやめた。
 女の語る言葉も、思い出も、どこか少しずつ齟齬がある。
 本名さえ名乗らない女が、全て本当のことを言っているとは思えない。
 が、拓海自身も嘘をついている、そしてまだ、本当のことを言う気にはなれない。今までの友達と同じで、打ち明けた途端――妙な壁ができてしまいそうな気がするから。
 だったらむしろ、今のまま、ハンパな関係で別れた方がいいのかもしれない。
「……キス、上手いなぁ」
「そんなでもないだろ」
「ほんまやねん、うち、キスだけで、もう溶けそうになっとるし」
「ほんまやな」
 拓海は女の口調を真似て、滑らかなお尻に手を伸ばした。そこから窪みに沿って指で触れると、確かに、溶けそうなほど熱い潤いに行き当たる。
 同時に、自分の欲望が息吹くのを感じ、拓海は女の腰を抱いて、自分の身体の上に四つんばいになった状態で被さるような体勢を取らせた。
 拓海のウエスト分の広さで、女は否応なしに脚を広げ、ベッドに膝をついている。
 そこに後ろから指をいれて柔らかく撫でると、女はすぐに頬を染めて呼吸を苦しげにさせた。
「お前の身体……結構エロいな」
「それ、どういう基準」
「俺の基準だけど」
「遊んでんやなぁ、拓海君」
 屹立した欲望が、柔らかな内腿に触れている。
 避妊もせずに挿入する気はなかったが、そこが下肢の間に触れる度に、女はぴくんっと身体を動かし、もどかしげに呼吸を乱した。
「あ……ん……」
 音を立てて指を動かす、何本かに増やして擦る。女の膝が、かすかに震え始めている。
 拓海は少しだけ位置をずらし、目上で淡く揺れる、女の乳房にキスをした。
 小さくても形のいい丸みを手で包み、先端を唇で挟んで舌で舐める。
「ん……っやん」
 もう、溢れそうな蜜を指ですくい、何度も感じる箇所を押し開いては撫で回す。
「はあ……あ……」
「いっていいよ」
「……い、いきそう……やけど」
 もどかしく腰を動かす女は、少しだけ辛そうに見えた。多分、この体勢のせいだろう。が、拓海は膝も肘もつくことを許さないまま、女の身体を責め続けた。
 透明な液体が指を伝って花芯全体を濡らしている。
「ゆ……ゆるして……拓海君」
 切なげなセクシーな声に、淫らな音がかぶさっている。
 硬くなった乳首は、まるで開花する前の蕾のようだった。甘い、蜜を舐めるような錯覚を感じる。歯を当てて、強く吸う。そうしながら、指で深く貫いた。抜差しを繰り返す。
 深く、深く、音が響く、喘ぎ声と吐息。拓海の指も、もう溶けそうなほど熱い。この吸い付くような泥濘に、自身を突き入れたいと痛切に思う。暴力的に思う。
「あん……やっ、いやや……あん」
 女が甘く高い声をあげ、胸元に崩れ落ちてくる。
 拓海にも、もうこのくらいが限界だった。
「動くなよ」
 サイドテーブルに手を伸ばす。準備を整え、崩れた女を抱き起こして、そのまま下から押し入れた。
「……あ……や……ぁ」
「入ってるとこ、丸見えだな」
 狭い入り口、わずかに抵抗があるものの、そこを超えればすんなりと奥まで埋まる。
「エ、エッチぃなぁ、拓海君は」
「フツーだよ」
「さっきも……あのまま、玄関でやられるんかと思うたし」
「あはは」
 本当は、理性に流されてそうする寸前だった。
 が、やめた。それは、ぎりぎりのところで呼び覚まされた芸能人としての本能だったのかもしれない。玄関はまずい。万が一、外に声が漏れないとも限らないから。
 身体を反転させ、繋がったままで、拓海は女を組み敷いた。
 そして――押さえつけていた欲望を開放するために、獰猛に動き始めた。


                    8


「拓海、雰囲気変わったんじゃねぇの」
 いきなりそう言われたのは、グラビアの写真撮りの後だった。
 ベンチに座り、マネージャーの出してくれたポカリを口にした途端、隣りに座っていた天野雅弘がそう言った。
「えっ、俺?」
 拓海は驚いて、缶につけていた口を離した。
 隣りに座っていた天野雅弘は、いつも通りのラフな姿で、耳にはラジオのイヤホンを差し込んでいる。そして、多分、始まったばかりの野球放送に意識を集中させたままで言う。
「やけに楽しそうじゃん、何かいいことでもあったのかよ」
「……いや、別に」
「こういった仕事、おめぇは嫌いでさ、いっつも待ち時間は不機嫌そうなのに」
「…………」
 そうだっけ。
 そんなこと、自覚したこともなかった。
 確かに拘束時間も注文も長いグラビア撮りは、拓海にとっては苦手な仕事だ。
 なのに今日は、それがまるで苦にならない。
 そして、暇になれば、ついつい考えてしまっていた。今夜は――最後だ、どこかへ連れてってやってもいい。夜遅くまでやっている遊園地とかはないだろうか。あの子供みたいな女と観覧車に乗るのも楽しいかもしれない。
 最後だと思いつつ、不思議と、別れることに現実感が持てないままだった。まるで、何年も前からの知り合いで、何年も前からつきあっていたような気がする。まるで――そう、向日葵のように。
「そういや、撮影所の外にさ」
 背後から、不意に口を挟んできたのは、今から撮りに入る上瀬士郎だった。
「きれーな向日葵が咲いてたなぁ、夏も盛りだね、もう」
 拓海はげげほと咳き込んだ。
 士郎はそれだけ言うと去っていき、そこには咳き込む拓海と怪訝気な天野だけが取り残されている。
「向日葵って、そういや、お前んとこのブス猫は元気かよ」
 天野はようやくイヤホンを耳から外すと、ちょっとおかしそうな目になってそう言った。
 何度か向日葵は、コンサート先にこっそり連れて行ったことがある。
 ああ――こいつには言ってなかったな。そう思いながら、
「死んだよ」
 拓海は、自分の感情が出ないように、素っ気なさを装ってそう言った。
「えっ、マジ?」
「もう一週間も前かな、玄関開けたら、外で死んでた」
「そりゃ……可哀相だったなぁ」
「ま、大往生ってやつじゃねぇの」
 その代わり、別の向日葵が、いまは拓海の部屋にいついている。
 それはさすがに言えなかった。一昨日初めてセックスして、で、昨日も何度も抱いてしまったなんて。
「でもさぁ、猫って、死ぬ時は、遠くに行くっていうじゃねぇか」
 拓海が黙っていると、天野は、ちょっと不思議そうな目になってそう言った。
「お前んとこの猫は不思議だな、玄関の外でわざわざ死んでたわけだ」
「………………」
 まぁ、そうだ。
 それは、そういえば少しヘンだ。
 だって、向日葵は……夜は、ベランダからしか行き来しない。
 拓海のマンションは、5階にある。向日葵は、隣接する建物の屋上や塀なんかを上手く利用して、ベランダと外を行き来している。
 そういえば、エレベーター付きのマンションで、向日葵はどうやって5階の玄関先までたどり着いたのだろうか。
 ふいに、水飛沫が聞こえた気がした。
 そして誰かの声、――ブンチョウが……
「拓海?」
「え?」
 拓海ははっとして顔をあげる。なんなんだ、今のは……何かを、俺は何か、大切なことを忘れてるんじゃないだろうか。
 そして、忘れていた不安が、再び拓海の中で首をもたげてくる。
 よくわからない。一体あの女は――何者なんだろう。
「……天野」
「ん?」
「お前とさ、最後に飲んだ夜だけど」
 北海道ロケから戻った天野に、拓海はあえてその話をふらなかった。もういいや、と思っていたし、あの夜の狂態や自分のガキっぽさは、いまだに思い出したくもないからだ。
「ああ、ひでー夜だったよな、俺も次の日きつかった」
 天野は苦笑しつつ、片手を振る。天野にとっても嫌な思い出だったのか、その話はよせよ、と目がいっている。
「俺……その時さ、どっかの女と話してなかった?髪みじかい、痩せた感じの、」
「女………?いんや?」
「大阪弁まるだしの、なんつーか莫迦っぽい女、ベリショで、右目の下んとこに、けっこうはっきりとしたそばかすがあって」
「ああ、あの子?」
 天野はあっさりと肯定した。
「でも、それ、その先週くらいに飲んだ店の話じゃねぇの?ほら、わっさんに連れてってもらったランパブ」
 ランジェリーパプ。
 思いっきり変装して行った所だ。あれだけは、今でも思い出したくない。
 その場の雰囲気に染まるのが嫌で、とにかくわっさん相手に喋りまくり、途中で退席した覚えがある。
「その店にいたねーちゃんだろ、大阪弁かわいくてよく覚えてるよ、なんつったっけ、名前」
「…………それ……違うと思うけど」
「違う?拓海のこと、店の前まで心配そうに見送ってたけど……ランパブのねーちゃんなんてすれたのばっかだと思ってたけど、彼女、なんか可愛かったよな」
「…………」
 それは違うだろう。
 それは……多分、違う。
「その日じゃねぇよ、だから俺ら2人で飲んだ日だよ、……俺、女と話してなかったっけ、ほら、昔の知り合いとか、幼馴染とか」
 天野と言い争い、正体もなく酔ったあの晩に、拓海と女の間に――何かがあったのは事実なのである。女が拓海の部屋に転がりこんでくるような、何かが。
「何言ってんだよ、あの日、俺、お前をタクシー拾えるとこまで送ってったけど、誰にも会ってねぇよ、そもそも俺ら、ボックスで飲んでたじゃねぇか」
「………………」
「しっかりしろよ、拓海、いくらなんでも、マネージャー抜きで飲み上げて女とべたべたしてたらやばいっしょ、俺ら腐ってもアイドルだべ?」
「………………」
「拓海?」
 天野が、その目から笑いを消し、いぶかしげに見上げている。
 拓海は無言で立ち上がった。
「向日葵ねぇ」
 拓海が黙ったまま壁を睨んでいると、背後から、どこか楽しげな声がした。
「おめぇにしては、リリカルで前向きな名前つけたよな。どういうネーミングだよ、向日葵ってのは」
 その声も、いまは意味もなく通り過ぎていく。
(―――俺さぁ、フツーの恋愛がしてみたいんすよ、)
(―――無理無理、天下の拓海君が、それは無理っしょ。)
(―――いやぁ、どっかにいるかもしれないじゃないっすか、俺のこと知らない女の子、例えば……)
 あの狂態の夜。莫迦みたいに交わした会話のひとつひとつが、悪夢のように蘇ってくる。
「その……ランパブの姉ちゃんだけど」
 拓海は、茫然としつつ、言葉を繋いだ。
「もしかしてさ、胸に赤い痣がなかった?ブラの痕とかなんとか」
「ああ、やっぱ、覚えてんじゃん」
 拓海は目を閉じた。やっと判った。
 やっとわかった、でも……なんてことだ……。


                  9


「おかえり」
 出迎えに出てきた明るい笑顔を、拓海は無言で見返した。
「遅かったんやねぇ、今日は早いゆうとったのに」
「……仕事、あったから」
 靴を脱ぎ、女を押しのけるようにして部屋に入った。
「……どしたん?」
「驚けよ、俺、今仕事っつったんだぜ、バイトじゃねぇよ、テレビ番組の収録撮り」
「…………」
「ふざけんなよ、なめんなよ、お前、俺のこと知ってたんだ、そうだろ」
「…………」
「そうだろ、ランパブのねーちゃん、名前まで知らないけどさ、何人なめた嘘ぶっこいてんだよ」
 女はリビングの入り口付近に立ったまま、みじろぎもしていなかった。
 その、無表情とも思える顔に、拓海は、ふいに理不尽な怒りを感じた。
「俺、一緒にいた奴らと話してたろ、店で、お前はその会話を聞いてたんだ。フツーの恋愛がしたい、俺のこと知らない女とつきあってみたい」
(―――そんな女の子、国内じゃいないでしょ。)
(―――いや、帰国子女とかなら有り得るんじゃないっすか?あこがれっすよねぇ、お嬢様っつーのも。)
 その時、わっさんと交わした会話を、拓海は一気に言い切った。
 女は無言のままである。
 よどみなく溢れるあの夜の記憶。本気で言っていたわけじゃなかった。妙なムードになるのが嫌で、わっさん相手にとにかく喋り続けていた。
(―――この店は、芸能関係の出入り多いし、女の子も口堅いから大丈夫。)
 そう言われてはいたものの、正直、不安で仕方なかった。誘うと即座に同行してくれた天野は、完全にリラックスして楽しそうに騒いでいたが。
 拓海は女を見下ろした。
 ここまで言っても特に表情を崩さない女に、新しい怒りがかきたてられる。
「お前のこと、信じてなかったよ、でも、莫迦みたいだけど、俺のこと知らねぇってとこだけは信じてやってた。だって、そうだろ、そんな嘘つく理由何もねぇし、だから俺は」
―――俺は……
「…………」
 そこで拓海は言葉を詰まらせた。
 自分が言おうとしている言葉の矛盾に、その時初めて気づいていた。
 それを誤魔化すように、怒った目のまま、女から顔を逸らす。
「で?どうやってここの住所調べたんだよ、店に預けた上着でものぞいたのかよ、それってさ、どう言い訳しても立派な犯罪だよな」
「……拓海君、」
「出てってくれよ」
 拓海は拳を握り締めた。
「雑誌に告白でも売りたいなら勝手にしろ、俺はどうせ、芸能界なんかやめるしさ、痛くも痒くもねぇからさ」
 勢い任せに、テーブルの上のものを手で払った。
 払ってから気がついた。ここに、何がおいてあるんだ?
 けたたましい音と共に、お皿が落ちて、そこからスパゲティが零れ落ちる。
「………………」
 女がしゃがみこもうとする。
「ほっとけよ、掃除なら俺がするから」
「………でも」
「ほっとけよ!」
 こんな時間まで起きていて、食事の支度をしてくれた女が憐れだった。が、その気持ちを誤魔化したくて、拓海はいっそう激しく怒った。
「出てけよ」
「…………」
「とっとと、出てけっつってんだよ!」
 部屋はしん……と静まり返っている。紙が落ちただけでも響くほどだった。
 かさり、と音がした。
 女がエプロンを取り、それをテーブルの上に置く音だった。
「……ごめんな、」
「…………」
「……すぐに、ばれる思うたんやけどなぁ」
「…………」
「拓海君、天野さんに話せぇへんかったんやな、……あんなにばればれの嘘やったのに」
「…………」
 声は、思いのほか静かでしっかりしたものだった。
 逆に拓海は、何も言えなくなっていた。
「あかんかったなぁ、でもなぁ……うち、拓海君に迷惑かけるようなことだけはしてないし、これからもせぇへんよ」
 とっくに掛けられてんだよ。
 拓海は黙ったまま、カーテン越しの夜を睨み続けていた。
「部屋もなぁ……ほんまは一歩も出てないねん、だから、誰にも気づかれてない思うし」
「もういいよ、とっとと出てけよ」
 どうしてこんなに腹が立つのか、拓海には判らなかった。――どうして。
 女が隣室に消えていく。がさがさと音がする。
 わずかの間に荷物をそろえた女は、躊躇う素振りもなく玄関に向かった。
「……うちなぁ」
「…………」
「いっこだけ、本当のことゆってんねん、うちの名前な、ほんまに向日葵ゆうんやで」
「…………」
 だから何だよ。
 マジで、死んだ猫の化身だとでも言いたいのかよ。
「フツーに恋愛してみたかってん、それ、拓海君のことやないよ、うちのこと。……だってなぁ、無理やん、アイドルとランパブ嬢じゃ、絶対につりあえへん」
「………………」
 胸に冷たい何かが落ちてくるような気がした。
 出ていけよ、拓海はもう一度呟いた。
「……こういう経歴はなぁ、絶対に消えへんもんね、一回だけ、奇蹟みたいに夢かなったんよ、それだけは……ごめんな、うちの我侭やけど、嬉しかった」
「ファンかよ、俺の」
 拓海は軽蔑をこめて言ってやった。
 それには女は答えなかった。
 足音が遠ざかる。静かに扉が開いて、そして閉まる。
 静けさだけが―― 一週間ぶりに取り戻した静けさだけが、1人取り残された拓海を包み込んでいた。
「くそっ……」
 拓海は、怒り任せに傍らの椅子を蹴り上げた。
 それでもまだ判らなかった。何に怒ってるんだ、俺は。
 女の言葉を信じていたわけじゃない、そういう意味では、俺のことを知ってるとか知らないとか、それも大した問題じゃない。
 そんな疑問もひっくるめ、もしかして何もかも嘘かもしれない――そう思いながら、拓海は女と同居し続けていたのではなかったのか。
 所詮は一週間の付き合いだとたかをくくって。
 いや、心のどこかでは、この先もつきあっていくかもしれない、そんなことさえ思っていたのではなかったか。
 なのに、今更――何を怒ってるっていうんだ?
「………………」
(……だってなぁ、無理やん、アイドルとランパブ嬢じゃ、絶対につりあえへん)
 判っている。
 拓海は額を抑え、壁に寄りかかるようにして腰をついた。
 それが答えだ。
 浅ましくて卑しい、自分の本音。
 天野の口からその可能性を示唆された時、それだけはまずい、と即座に思った。
 アイドルタレントとしては、致命的なスキャンダル。職業の貴賎うんぬんの問題ではない。要は――拓海のアイドルとしての立場の問題なのだ。
 普通の一般人やタレントも、スキャンダルの相手としては無論まずい。しかし、まだ世間に認知される可能性はある。が――。
 風俗。
 これがすっぱ抜かれたら、拓海個人の問題ではすまないだろう。Galaxyという、いや、事務所そのものを巻き込んだ形の騒ぎになる。
 かつて、キャノン・ボーイズの美波涼二を襲ったスキャンダルもそうだった。今ではマスコミ各社に緘口令が引かれているが、拓海はよく記憶している。
 相手はたった一度だけ、AVに出演した経験のある若手女優。交際宣言をした直後、女優の過去をすっぱ抜かれた後の騒ぎは、目を覆いたくなるほどひどいものだった。
 美波は激しく反論した、マスコミに真っ向から喧嘩を売った――結果、それは全て裏目に出た。
 アイドル失格、美波、追放、美波干される――そんな記事さえも新聞を賑わしていたほどだ。後の顛末は拓海には判らない。別れたのだろう、多分。そしてそれ以降、アイドルユニット、キャノンボーイズの名前は芸能界の表舞台から姿を消した。
 世間では、いまだ水商売の女は表舞台に受け入れられない。ひとつの弱点として、格好のゴシップの餌食になる。そこに理不尽な差別意識が根付いているのは確かだが、それを声高に叫んだとしても仕方がない。
 みんなが口先で理解していて、頭では受け入れられないもの。
 残酷なようだが、それが現実だ。
「…………」
 拓海はしゃがみこみ、零れたパスタと砕けた皿を拾い上げた。
 ぐしゃりとつぶれた半熟卵。
 ふと、場違いな笑いが滲んでいた。
「……何……やってんだ……俺」
 女の正体を知った刹那、拓海は、自身がアイドルという――ギャラクシーの緋川拓海という立場に、強烈な未練を持っていることに気がついていた。
 あれほど逃げたいと思っていた場所に、浅ましいまでに執着している自分がいることに気がついた。
 怒りは女にではない、全て自分に向けられたものだった。
 もし、女に怒っているとすれば。
「………………」
 それは、本気で恋してしまったということになる。
 拓海は唇に自嘲の笑みを刻んだまま、しばらくその場から動けなかった。















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