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今日、向日葵が死んだ。
享年12歳。
人間でいえば、80歳くらいだったんだろうか。
夜、玄関のドアを開けると、コンクリートの上に眠るようにねそべったまま、特長的な四色の毛並みがぺたん、と垂れ下がっていた。
猫でも、こんな大往生みたいな死に方するもんだな、と緋川拓海は思っていた。
小学校の時から一緒にいて、引越しの度に連れ歩いてきた。
あれは、何歳くらいの時だったろう。道端で死に掛けている子猫を拾い、友達何人かで小遣いを出し合って獣医に連れていった――何故拓海が飼うことになったのかは忘れたが、ようはそれが向日葵との馴れ初めだ。
ほのぐらい電灯の下、最後の土を掛け終えた時、はじめて一人になったな、と拓海は実感していた。
あの日、ちょっと行ってくるわ、と鞄ひとつを引っさげて家を出て、あれから――随分遠くにきてしまったような気がする。あの時はまだ10代の半ばだった、今、拓海は20歳を過ぎてしまっている。
―――ここだったかな。
スコップで土を叩きながら、拓海はぼんやりとそう思った。
不思議なほど悲しみはなかった。でも、盛り上がった土の下に、拓海自身の戻らない日々も共に埋めてしまったような気がしていた。
実際、向日葵だけが、本当に自分らしく過ごせた日々の、最後の残骸だったような気がする。
―――俺が、来たかった場所は、ここだったかな。
ぼんやりと立ち上がり、拓海は薄く瞬く都会の星を見上げた。
そして、はじめて、――帰りてぇな、と思っていた。
アイドルなんかになる前の自分に。
1
「いって……」
目覚めは最悪だった。
一人暮らしを始めて一年、ここまでひどい目覚め方も初めてだった。
緋川拓海は、頭を押さえて首を振った。
頭ごと重かった。そしてこめかみがズキズキと痛い。
今、何時だろう。しらじらと明るい部屋。早朝……と呼べる時間ではないことだけは確かだ。
飲みすぎた。それは分っている。それでも昨夜は飲まずにはいられなかった。
「…………」
半身を起こした視界にぼんやりと浮かび上がるもの。
すぐにそれは明確になる、大きな全身用の鏡、そこに、ベッドから半身を起こしたままの、半裸の男の姿が映し出されている。
肩まで伸びた髪は乱れ、目はどこかくすんでいる。夜の匂いが染み付いた、というより乱れた生活が骨の髄まで染み付いた、だらしのない男の姿。
「っさけねーな……、なんだよ、俺」
思わずそう呟いていた。
緋川拓海。
成人式を迎えていくばくもない―― 一応、アイドルタレントである。
東京、六本木に本社を持つ芸能事務所「J&M」に所属しており、5人のメンバーからなるアイドルユニット「Galaxy」の一員として、今から5年前に芸能界デビューを果たした。
男版宝塚、男性アイドル製造会社、社長がホモだから男しか事務所にいれない……と揶揄される「J&M」事務所。およそ男性アイドルの分野では国内最大、他の追随を絶対に許さないその事務所の、拓海は、一応看板タレントだった。
が、鏡に映る男は、およそかっこいいとか、芸能人とか、そんなものとは無縁の姿。ただの、年相応な、どこにでもいるような若者の姿がそこにある。
「……はぁーあ」
拓海は、両腕を伸ばして伸びをした。
平成2年にデビューを果たしてから5年。
名刺には絶対に書けないが、職業アイドル。
ようは、不特定多数の女性専門サービス業のようなものである。
ずっと同じ顔で笑って、ずっと同じグループのメンバーといて、ずっと莫迦なことをやり続けてきた。
そして―――最近それが、微妙に苦痛になりかけている。
若さが失われていくのと共に、人気も確実に翳り始めている。キャノンボーイズ、ザ・忍者、HIKARUといった、事務所の先輩アイドルたちが辿った末路パターンを、今、Galaxyが見事に踏襲しつつあるのを、拓海は敏感に感じていた。
―――いや……それよりもひでぇな、俺らは。
拓海は自嘲気味に苦笑した。
一人前になる目安は、グループの看板がついたテレビのゴールデン枠を持つことだといわれている。が、人気爆発とおだてられながらも、まだ緋川の所属するアイドルユニット「Galaxy」には、その枠がない。
いや、何もそれはGalaxyだけに限った現象ではない。何年か前、雨後の筍のように芸能各社がデビューさせたアイドルたちは、次々とその姿を表舞台から消し始めている。―――今、芸能界はアイドルにとって冬の時代なのである。
バラエティー番組とドラマが隆盛を誇り、かつての歌番組は次々と打ち切られ、「Galaxy」もまた、コンサート以外では歌う場がないという現実にぶちあたっていた。
ベットから降りようとした拓海は、足元に転がっているテレビガイド誌に目をとめた。
「…………」
その表紙には、5人のいきのいい男たちが、弾けるような笑顔で収まっている。
拓海の所属する「Galaxy」ではない、事務所の後輩アイドルグループで、今年デビューを果たした「MARIA」である。
拓海は、複雑な思いで、その表紙から目を逸らした。
ボーカル今井智樹の加速的な人気の高まりにより、今、世間はMARIA一色というやつだった。J&M事務所は、これを機にかつてのアイドル黄金時代の再現を狙っているという。
可愛がっていた後輩たちだったが、MARIAを看板としたバラエティ番組が、サンライズテレビで始まると聞いた時から、拓海の中で微妙な焦りが生まれ始めていた。
決してバラエティがやりたいわけではない。むしろ拓海は、ああいうくだらなさが苦手だ。ドラマも不得手だ、歌が歌いたい、俺は歌手だ、ステージに立ちたいんだ、誰か俺に、俺を表現できる場を与えてくれ、―――痛切に叫んでも、それに事務所は答えてはくれない。
(――ふざけんな、アイドルはな、ホストと同じだ、俺たちはアーティストじゃねぇ、媚売って手ぇふって頭さげてなんぼだよ、まだハンパな癖にえらそうなことで悩んでんじゃねぇよ)
愚痴をこぼした拓海に、辛らつにそう言いはなったのは、同じ事務所の先輩アイドル――正確には元アイドルの美波涼二だった。
80年代を代表するアイドル「キャノンボーイズ」の一人だが、今は演出、振り付けなど、事務所の裏方に徹している――美しいがそれ以上に厳しい男。
頭では判っていても、そこで拓海の我慢も切れた。
何かと世話になった先輩だが、思いっきり言い返して、つかみ合いになる寸前に、回りのスタッフに止められた。
酒の味を覚えたのもその頃だ。
先週、かねてからつきあいのある音楽プロデューサーの和久さん――通称わっさんに、ランパブなるものに誘われて、やけっぱちのようについていったのも、どこかで自暴自棄になっていたからなのかもしれない。
風俗はあれが初めてで、さすがに二度と足を運ぶ気にはなれなかったが、この1ヶ月あまり、拓海は、暇があれば、メンバーの天野雅弘を誘って夜の街に繰り出すようになっていた。
今朝の寝覚の悪さも、胃の重さも、全て、ここ最近のただれた日々の結実だろう。
(―――このままじゃ、まずいかもしんねぇなぁ、俺ら。)
昨日、一緒に飲んだその天野が、珍しく真顔でそう言っていたのを、拓海は思い出していた。
年は上でも、事務所に入ったのは同時期である。拓海にとっては親友のような存在。その天野に、説教じみた言葉を吐かれたのは、その時が初めてだった。
(―――拓海さぁ、言ってみろよ、おめーは一体何がしたいんだ、何1人で、いらついてんだよ)
そして、天野の態度に反発するように、拓海はさらに、限界を超えてアルコールをあおったのだった。
「ふぅ……」
昨夜のことは、正直思い出したくない。
拓海は前髪を払い、嘆息して顔をあげた。その時、室内のクロス張りの壁、その表面に、初めて目にした引っかき傷ができているのに気がついた。
拓海は眉を上げていた。
「こぉらっ、」
向日葵――。
3日前死んだ猫の名前を呼ぼうとして、そこで拓海は表情を止める。
そっか、忘れていた。
向日葵はもういない。
朝起きて、眠い目をこすりつつ、キャットフードを皿に出してやる必要もないし、ペット禁止のマンションで、ひやひやしながらベランダでひなたぼっこさせてやる必要もないわけだ。
壁の傷は生々しかった。いつできた傷だろう。まるで留守がちな主人に、自分の命の火が消えかけているのを訴えてでもいるような――。
「……なんつーか、サイッテーの朝だよな」
拓海は呟いてベッドから飛び降りた。
今日は、仕事もない。1日オフで、することもない。惰性のようにジムにいき、ただ漫然と過ごすだけのつまらない日になりそうだ。メンバーはそれぞれ仕事をしている。デビューして5年、もう、オフに顔を合わせることもなくなった。
皮肉なことに、Galaxyの中で一番出演ギャラを高く設定されている拓海が、メンバーの中では一番暇な立場にあった。
盛夏の頃、室内は蒸し暑く、立ち上がった拓海の額から、汗が一筋零れ落ちる。
窓を開けようと、窓辺に立った時だった。
「起きたん?」
背後から声がした。
は?
「ごめんなー、うち、朝食作るの下手やねん、これ、目玉焼きのつもりなんやけど」
鈴を振ったような軽やかな声。
「…………………………」
振り返った拓海は目をこすり、そしてしばたかせ、またこすった。
見慣れた2LDKのマンションである。一年前から住んでいる、まだ一度も家具を買い換えた事もない。ありきたりの――いつもの光景。
の、中に、まるで見知らぬ色彩が混じっている。
黒と白、それからくすんだ赤と、茶色のまじったタンクトップ。ボロボロのシーンズ。
なんなんだ、この趣味の悪い服は。
拓海はぼんやりと……リビングのテーブルに腰掛け、そこが自分の場所、とでも言うように頬杖をついてリラックスしている女を見おろした。
「すわらへん?」
女はにっこりと微笑んだ。
2
「ずっと起きるのまってたんよ、朝ごはん、一緒に食べへん?」
女の前、テーブルの上には、トーストと、そしてぐしゃぐしゃに崩れた目玉焼きが並んでいた。
窓の外からは、セミの声が聞こえてくる。
拓海がそうするまでもなく、とっくにリビングの窓は開いていた。
「……お前、誰……?」
拓海はようやく呟いた。
俺、昨日――そこまで正体なくすほど飲んだっけ、いや、記憶だけはちゃんとある……と、思うんだが。
「いややなぁ、忘れたん?」
女は口をあけて、けらけらと笑う。それは、文字どおり、けらけらという底抜けに明るい笑い方だった。
ようやく拓海は、この女の顔に――どこかで見たような、遠い記憶が喚起されていくのを感じていた。どこかで会った女だ、昨日今日とかじゃなくて、昔――大昔、どこかで。
「…………」
でも、どこで?
拓海のそんな気持ちを表情から読み取ったのか、女は少し、いたずらっぽい目になった。
「うち、拓海君の幼馴染やん」
「………おさ、ななじみ」
もう一度まじまじと見る。いや……つか、幼馴染といえる友人は、拓海にはそもそもいない。
「覚えてないかなぁ、よう遊んだんやけど」
「…………」
悪いが何も覚えていない。
「……俺……転勤族だったから」
東京、大阪近辺を2年おきくらいに往復していた子供時代。いろんな奴と知り合ったし、仲良くなった。が、それは、引っ越すたびに、全部綺麗にリセットされる。
もしかして、その時にどこかで一緒だった――。
「なぁんてね」
が、女はふいに、脚をばたばたさせて笑い出した。
「嘘や嘘や、それは嘘、拓海君、昨日のことほんっま、覚えてないんやなぁ」
「……………………」
なんなんだ、この女は。
さすがに、呆れの底から怒りに近いものが滲み出てきた。
が、そもそもどういう経緯で女がこの部屋に上がったのか、それが判るまでは迂闊に怒りを顔に出せない。
刃傷やスキャンダルはご法度。腐っても拓海は芸能人なのである。
「まさかと思うけど、どっかで、俺、……酔って……つか、潰れて、君に連れて帰ってもらったとか」
「……うふふ」
女は何故か曖昧に笑う。
拓海はさすがに薄気味悪くなった。
なんなんだろう、この女は。昨日天野と飲んだ店にいたんだろうか、もしかして。
なんにしても、深夜、素行の悪そうな連中が集まる店で、その関係者と一夜を過ごすというのは、絶対に隠さなければならない秘密だった。
風俗嬢――それはありえないと思うが、万が一そうなら、なおさらまずい、が、まるで子供のように無邪気な顔で笑うすっぴんの女には、夜のにおいとは無縁の無垢さと、清潔なすがすがしさがあった。
「連れて帰ってもらったんは、うちやねん」
拓海が眉をひそめていると、女は、いたずらめいた口調で言った。
「え……?」
「いややなぁ、行くとこないゆうたら、拓海君が泊めたるゆうたんやないの」
「はい?」
「俺んとこ、おれよ、ゆうてくれたんやないの」
「………………はい?」
拓海が唖然としていると、女はまたけらけらと笑った。
「……俺が……っすか」
「一週間くらいなら、部屋おってもええよ、ゆうてくれたやん」
「………………」
状況を飲み込んだ拓海は、顎が落ちるほど愕然とした。
「い、……いつ」
「昨日」
そんなことは、答えられなくても判っている。
「どこで……っすか」
「この部屋で」
「…………つか」
そもそも、なんで。
「もう、いややなぁ、拓海君」
と、女は爆発したように笑い出した。
「覚えてないんかな、うちら店で意気投合してここまで一緒にきたんやんか」
「…………」
ありえない。そんな莫迦な真似、するわけがない。
天野――そうだ、一緒にいたはずの天野はどこにいたんだ?その時。
ちょっと待て、俺……そういえば、いつあいつと別れたっけ。
「ああ、おかしい、お腹いたたや、もうあかん」
女はまだ笑っている。お腹を押さえ、心から楽しそうに笑っている。
所在なく立っているのもなんなので、拓海は女の対面に、とりあえず腰を下した。
俺……もしかして、意識してなかったけど、昨日の記憶がぶっとんでるんじゃないだろうか。と、拓海はようやく不安になりかけていた。
昨夜、天野とクラブで飲んで、それから――店の前でタクシー拾って……。
やばい、確かにその前後の記憶がない。
「……行くとこ……ないって、言いました、けど」
拓海は記憶にすがるのをあきらめ、改めて女にむきあった。もう、こうなれば、過ぎたことにこだわっても仕方ない。
「うん、うち、キチクシジョやねん」
「………………」
はい?
鬼畜子女?
いきなり出てきた飛躍した言葉に、拓海は開けた唇を閉ざすことも忘れていた。
「あっちの大学休みになって、友達に会いに一人で戻ってきたんやけど、その友達、ひっこしてんねん」
「帰国……子女……ですか」
「いややなぁ、昨日も話したやん」
女は不平そうに唇を尖らせた。
「帰りの飛行機、一週間後に予約してんねん、それまで、どっこもいくとこないねん、そしたら、拓海君、泊まってええゆうたやん」
なんだかよく分らないが、少なくとも非常にまずい誤解をもたれていることだけは判った。
「……で、友達とは、連絡とれない……んでしょーか」
拓海は呆れつつ、卵焼きに等しい目玉焼きを見下ろした。
「とれへんとれへん、夜逃げやもん」
夜逃げ?
帰国子女に夜逃げ。
なんともアンバランスな言葉を吐く女を、拓海は唖然としたまま見つめていた。
「……名前…なんて、言いましたっけ」
「田中、田んぼの田に、中心の中」
悪いが、そんなもの説明されなくてもすぐに漢字が浮かんでくる。
「上は超平凡だけど、下の名前は、覚えとるよね」
「え……?」
悪いが全然記憶にない。
「…………覚えとらんの?」
女はそこで、はじめて不安気な目色になった。
話が本当なら、多少気の毒な気もしないではないが、正直迷惑以前の問題である。薄気味悪くさえあるし、仮にもアイドル、間違っても部屋に女をあげるわけにはいかないのだ。
「すいませんが……」
が、拓海が出て行ってくれと言う前に、何故かそこでまた、女は笑った。
「じゃ、思い出すまで、いわんとこ」
「は、はい?」
ちょっと待て。
「ええよ、気にせんといて、うちのことは。適当に寝かせてもらえればそれでいいから」
「ちょ……ちょっと待て、オイ」
それはできない。
つか、なんつーずうずうしさだ、この女。
わかってんだろうか、俺の立場とか、そういうものが。
怒るのを通り越して、あきれて言葉が出てこない。
「拓海君は、今なにしとん、どこの大学?」
が、女は呑気にそう続けた。
「………………」
「今日は大学いかへんの?もう、9時になるけど、大丈夫?」
「………………」
「あ、そっかぁ、大学夏休みやねんな、そやそや」
「…………」
知らないのか。
拓海は、気勢を削がれた気になって口をつぐんだ。
昨日、拓海と天野はなにげに素顔を隠し、ボックス席を借りて飲んでいた。
髪をくくり、目深にキャップを被り、眼鏡をかける。プライベートで外出する時はいつもそうで、それだけのことだが、意外に気づかれないものなのである。
―――そっか……帰国子女、日本にいる時間が短かったとしたら。
「向日葵」
女がふいにそう言った。
拓海ははっとして顔をあげた。
向日葵。
3日前に死んだ猫。
拓海は、眉を強張らせたまま、目の前の女を見つめた。
「うちのこと、向日葵って呼んで」
女は柔和な目色になる。それがふいにきらきらと輝く。
まるで、猫の目のように変化する瞳。
「昨日な、緋川君、寝言で何度も向日葵って言ってたから、うちの名前思い出すまで、うちのこと、向日葵って呼んでええよ」
「………………」
そして何が面白いのか、女は再び盛大に笑い出した。
でっけぇ口だな。返す言葉すらない拓海が思ったのはそれだけだった。大きな口で、くっきりと無防備に笑う女。
何故かその笑顔に、向日葵があくびした時の間抜けな顔が重なった。
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