26



「新会社の準備はどうなっているかね」
 耳塚恭一郎は、目の前に直立不動で立つ男を見上げてそう言った。
「順調です」
 折り目正しいスーツを着た男から、低い、簡潔な声が返ってくる。
「そろそろこちらも最終段階だ、急ぎたまえ、7月には、ほぼ片がつく」
「間に合わせましょう」
 この男が間に合うといえば、それに間違いないことを耳塚はよく知っている。
「ご苦労だったね、藤堂君」
 耳塚は、かすかに微笑して立ち上がった。
「乾杯といこうか、君の、長年の労をねぎらって」
「いただきます」
 棚を開けて、年代物のブランデーを取り出す。
 小さなグラスにそれを注ぎ、耳塚は、ほとんど身長の変わらない男にそれを差し出した。
「恐縮です」
 藤堂戒。
 耳塚が、かつて、チンピラ同士の喧嘩で半殺しにされていたのを救い上げ、自身の手で育て上げた腹心の部下。
 助けたのは偶然だが、その少年は、耳塚が所属する指定暴力団の下部組織に所属していた。とはいえ、鉄砲玉にもならない三下扱い。奢ってやったステーキの食べ方さえ知らず、必死で歯で噛み千切っていた姿が懐かしい。
 当時、すでに耳塚は組織を抜け、東邦の役員扱いになっていたが、真田の口利きもあって、藤堂の身柄を組織からもらいうけた。
 無論、動機は庇護や同情ではない、当時の耳塚は、将来、自身の手足となって動く男を欲していた。
 痩せっぽちの子供のくせに、一人で数人を相手にしていた度胸と、そして会話の端々に垣間見えた頭のよさ、それを見込み、孤児だった少年を引き取ったのである。
 その時、藤堂はまだ、十七歳にもなっていない。
「しかし、君には、思わぬ経営の才があるようだね」
「そんなことはありません」
「J&Mで、存分に働いていたじゃないか」
「内部にいる限り、自由に動いていいと言われましたので」
 あの会社に、うちから1人、潜り込ませられないかね。
 真田のリクエストを叶えるのは、耳塚にとって、ごくごく簡単なことだった。そして藤堂を、J&Mに潜入させてから十年以上たつ。
 実の息子より忠実な部下は、その間一度も、尻尾を見せることのない巧みさで、ついには取締役にまでのぼりつめた。
 唐沢直人は無論、同じく真田孔明と内通していた美波涼二でさえ、ごく最近まで気づかなかったろう。
 藤堂という情報源を通じ、真田も、耳塚も、J&Mの内部事情なら、おそらく社長の唐沢直人より詳しく知っている。
「唐沢君は、まだ柏葉将の出生に何も気がついていないのかね」
「そういったことには、殆ど関心のない方なので」
「うちの会長にも困ったものだがね、逆に関心がありすぎる」
 耳塚は薄く笑って、自身もブランデーのグラスを持ち上げた。
「死んだ人間に、まるで子供のような妄執だ、藤堂君、君はどう思う」
「まるで理解できませんね」
「言ってみれば、静馬の存在は、真田会長にとっては、許しがたい自己否定だった。会長は、おそらく、その息子の口から、はっきりと敗北宣言を聞きたいのだろう」
「……柏葉も、一筋縄ではいかないですよ」
「まだ子供だ」
 耳塚は苦笑してグラスを空けた。
「会長には本意でないかもしれないがね、私としては、いつまでもあんな子供に手こずってはいられない。多少荒っぽい手段でいくつもりでいるよ」
 藤堂はそれには答えず、耳塚に続いてグラスを空ける。
「時に、君の“甥”が事務所に残っているようだね」
「ああ、小泉ですか」
 少し意外そうな藤堂の目を、耳塚は真っ直ぐに見つめた。
「何故、辞めさせなかった、君の縁故採用だという話じゃないか」
「辞めさせろというなら、そうしますが、橋にも棒にもひっかからない男ですよ。うちで拾う気がないなら、職安行きは目に見えています」
「君が使う気は」
 そう問うと、藤堂は、初めて笑って肩をすくめる。
「使える男なら、とうに引き抜いていますね」
「……………」
「私をお疑いですか」
 逆に、静かな目で問われる。
「私はあなたに命を拾われた、その傷のことを私が忘れたとでもお思いですか」
「……………」
 傷か。
 耳塚は無言で、額の傷に指を当てる。
「前も言った。気まぐれでしたことだよ、藤堂君」
「その気まぐれで、私は今、ここに立っているのです」
 落ち着いた声で続けると、藤堂は静かに目礼した。
「でなければ、十数年、いかに計略とはいえ、同じ仕事をしてきた仲間に、心が動かないはずはありません。あなたへの恩は、一度たりとも忘れたことがない。だから今、私はここにいるのです」
 

                27


「えっ、じゃあ、りょう、実家に戻ってるんですか」
 聡の声は、明らかに動揺していた。
「そう、なんでも、お母さんの面会許可が下りたみたいでね、ちょっと大変な時期にあれなんだけど、今週一杯くらい、休ませようってことになったから」
 答えてくれたのは、営業部の企画担当室長。
 六本木。
 J&M仮設事務所。
 ドーム最終公演を冠にしたコンサートツアーの打ち合わせは、予定を三十分以上過ぎても、いまだ始まる気配がなかった。
 メンバーでは、りょうだけが来ていなかった会議室。
 十分遅れで将が到着した最初から、室内は、マネージャー陣やスタッフが、慌しく出入りしていた。
 その緊張と不穏の中心にいる男は、最初から今まで、ずっと無言のままである。
 成瀬雅之。
 メディアから姿を消したりょうに代わって、一昨日から雅之の名前が、日刊紙やワイドショーを騒がせ始めた。
 末永真白の時と同じで、個人情報が、瞬く間にネットに流出。
 それが、心臓病の子供を巻き込んでの騒ぎだっただけに、法務省だけでなく、厚生省までもが動き出した。J&Mにも、正式に調査が入ったのである。

 
事務所がひた隠しにした崖っぷちヒーローの素顔、年上元構成作家との密会がすっぱ抜かれた成瀬雅之
 元構成作家の呆れた実態、涙の訴えの影で、男漁りに狂う日々


 将が見ただけでも、胸が痛くなるような見出しが、今日もスポーツ誌を飾っていた。
「まぁ……そんなわけでさ」
 コンサートツアーにはなんらかかわりのない営業畑一筋の男は、そんな雅之を、疲れきった目でちらり、と見た。
「上もかなりばたばたしてて、開始がちょっと遅れるみたいだから、ここで資料に目を通して待っててくれるかな」
 扉が閉まり、室内に残されたのは、雅之、聡、憂也の三人だけになった。
「まぁ、いい休養だよ、最近目茶苦茶疲れてたみたいだしさ、りょう」
 憂也が軽い口調で言って、眠そうに小さなあくびをした。
 豪雨が窓を叩いている。
 空梅雨から一転した本降りが続く空。
 6月23日。
 東京は朝から、憂鬱な雨が、尽きることなく続いていた。
 シャツに沁みた雨の匂いを、将は無言で指で払った。
「将君、りょうのこと、知ってた?」
「いや」
「……そっか」
 力なく、肩を落とす聡は、まだ先日の、りょうとの言い争いのことを引きずっているのだろう。
 将は無言で、ペットボトルの冷茶で唇を潤す。
―――おふくろさん、よくなったのか。
 確かに憂也の言うとおり、休養をとるには、丁度いいきっかけだ。
 今のりょうの精神状態で、故郷で父母と対峙することが、果たして救いになるかどうかは判らないにしても、それでも、今、東京にいるよりはマシに違いない。
 将は、ずっとうつむいたきりの雅之を見る。
 りょうの話に、1人無反応な雅之の態度の意味は、もちろん、将だけでなく全員が知っている。
「……大丈夫かよ、雅」
 憂也の声に、ぼんやりと卓上のペットボトルを見つめていた雅之が、ようやくはっとして顔を上げた。
「前から判ってたこととはいえ、間が悪かったよな、今回は」
「………ああ、まぁ」
 うつろな目で、雅之。
 男にとっても女にとっても、最悪のタイミングでのスクープ。
 しかし、末永真白の時もそうだったが、今回も、むしろ女の方のダメージが強烈だった。
 ある程度、大手事務所の力で守られている雅之と違って、相手は守ってくれるものが何もないフリーの作家、しかも、業界では、奔放で知られた魔性の女である。
 テレビでは、娘が重篤の心臓病とあって今後は報道を控える構えのようだが、ネットを中心にした騒ぎは無論、止まらない。流出した暴露本の内容が、すでにあちこちに出回っているし、娘のために集まった募金の使い道のことでも、悪意に満ちた憶測が流れている。
 娘をエサに集めた金で、若い男買いですか、あきれたものです
 娘の病室でエッチする神経ってどうよ、アイドル
 どっちもバカ同士、娘は天罰で死ぬしかない
 人の金に頼る前に、身を売って稼げ、淫乱女
―――人って
 将は、暗い気持ちで視線を下げる。
 末永真白への誹謗はもっとすごかった。読んでいた将が、底なしの絶望を感じてしまうほどだった。りょうは、これを見たんだろうか、そう思うと、目の前が暗くなる思いがした。
―――なぁ、教えてくれよ、バカ女
 なぁに。
 もう会えなくなった人が、どこかで笑って答えてくれたような気がした。
 人って、こんなにも、醜くて汚い感情を持つものなのかよ。
 俺らを応援してくれた人と、この人たちの違いってなんなんだよ
 こんな世界で、これから俺は、何のためにアイドル続けていけばいいんだよ
 何のために……歌って、……笑ってればいいんだよ。
「でも、今回は、雅が被害者みたいなもんだし、事務所もそこはわかってるみたいだから……大丈夫だよ」
 聡の声がした時だった。
 がたん、と椅子を蹴る音がした。
「俺、別に、自分のこと心配してるわけじゃねぇから」
 雅之。
 ふいに怒りをにじませた目が、将に向けて歩み寄ってくる。
 将は黙ったまま、そんな雅之をただ見上げた。
「ずっと考えてた、俺、やっぱ、このままじゃいられねぇよ、将君」
「……………」
「末永さんのことも、腹たってしょうがねぇよ、本当にこのまま放っておいていいのかよ」
「……………」
「事務所には、一切ノーコメントを貫けって言われたよ、何言われても、無視しとけって」
「……………」
 黙っている将の反応に焦れたのか、雅之の表情に、怒りにも似た苛立ちが浮かんだ。
「将君だって知ってるだろ?ある意味、俺より大変な立場なんだよ、彼女!」
 彼女。
 梁瀬恭子。
 背後の憂也が、肩をすくめて嘆息する気配がした。
「……あのさ、雅、気持ちは判るけど、それ将君に言ってどうするよ」
 雅之が、眉をわずかに震わせる。
「将君だって万能のスーパーマンじゃねぇんだ、どうにもなんないもんは、なんないよ」
 憂也の普段通りの、どこか茶化したような声が、ますます雅之を苛立たせているようだった。
 それが判っていても、将には、何も言うことができない。
 何も――強張ったままの表情さえ、上手く変えることができない。
―――また、一緒だ、りょうの時と。
 その時、自身がりょうを止めた言葉が、本当に正しかったのか、今の将には判らないし、自信もない。
 いっそ、この場から、逃げ出してしまいたい衝動にさえかられている。
「どうにかして欲しいなんて思ってねぇよ」
 雅之は、怒りが収まりきらない目で、そのまま元の椅子に腰掛けた。
「恭子さんのことは、みんなにもすげー迷惑かけたし、みんなが、あの人のこと、よく思ってないのも知ってるし」
「雅は何にひっかかってんだよ」
 憂也の声は、将にはむしろ優しく聞こえる。
「病気の娘さんのことか、だったらそれ、雅がどうにかできることでも責任感じることでもないだろ」
「何もしないってわけにはいかないだろ!」
 しかしそれは、言い方のせいか、悲しいことに、今の雅之に届いていない。
 不思議だな、と、場違いに冷めた気持ちで将は思う。
 自分のことは見えないのに、他人だとこうも冷静に見られるのは何故だろう。
 先日、自分では優しさのつもりで、俺はこうやってりょうを追い詰めていたんだろうな。
「じゃあさ、雅に何ができんだよ」
「はっきり言ってやりてぇんだよ。彼女だけの責任じゃないし、一方的なつきあいでもない、彼女が子供さんのことすごく大切に思ってて、それで、あんなことしたってことや」
「言ってどうするよ」
 憂也の声が、それを遮る。
「俺が言わなきゃ、じゃ、誰がそれ言ってくれるんだよ!」
「もうよせよ、2人とも」
 聡がそれを止めている。が、その聡の声にも、いつもの覇気がなく、ただ言葉だけでそう言っているという感じがした。
「憂也も雅も、りょうの時と同じことで言い争ってどうすんだよ、りょうだってあの時は我慢したんだ、雅だって」
「じゃあ、それでどうなったよ!りょうと将君、完全におかしくなっちまったじゃねぇか!」
 雅之が拳でテーブルを叩く。
 聡は黙り、誰もが何も言えないまま、重苦しい沈黙が室内に満ちた。
 将は、眉を寄せ、ただ、膝の上に置かれた自身の手を見る。
 苦しかった。
 小さくて、非力で、傷つけるばかりで、誰も救えない手。
「このままじゃ、完全に恭子さんが悪女扱いじゃねぇか、後援会も解散になって、支援者から金返せって、あんなことまで言われて、俺以外の誰が、本当のこと話せるんだよ!」
 騙されていたという感じですね。
 こっちが必死に街頭に立ってる間に、そういうことしてたわけでしょ、ちょっと信じられないというか、子供さんのことを真剣に考えていらっしゃったのかどうか、理解に苦しみます。
 元支援者からの、そんなコメントを将も目にした。
 2人が、最近密会したという写真も出ていた。
 しかしそれは、将が見ても、雅之とは別人の写真である。
「麻友ちゃんの募金と、俺とのことは、全く時期が別なんだ、なのに」
 よほど腹がたったのか、雅之の拳が震えている。
「そんなの、彼女が自分で説明するし、雅が心配するようなことじゃないよ」
 子供に言い含めるように、憂也。
「ほっとけって言うのかよ」
「状況を見ろって言ってんだよ」
「麻友ちゃんの命がかかってんだよ!」
「じゃあお前がしゃしゃり出て、何もかも正直に話してみろよ!」
 憂也の声に、初めて激しい怒りが浮かんだ。
「マスコミはそれこそ喜んで飛びつくさ、挙句、お前と年上の、しかも病気の子供までいる恋多き女とのゴシップが、いつまでもいつまでも、ワイドショーのトップニュース扱いだ」
「……………」
「お前がどう思おうとな、彼女がやっちまったことは、彼女が被んなきゃなんねぇんだよ!」
 歯噛みした雅之が、苦しそうに拳を胸元で握り締める。
「……俺にだって責任があるんだ」
「あるさ、だからどうしたよ、この世に責任のない恋愛なんてそもそもねぇよ、だからどうしたよ」
「………………」
「だから世間に向かって認めてみろよ、その責任とやらを大声で」
 憂也の声は、残酷なまでに冷たかった。
「十も年下で芸能界にはいりたてのバカなアイドルが、男遊びになれた女に、しかも暴露本まで書かれた女に、一体どんな責任があるのか、きちんと判るように説明してみろっつってんだよ」
「憂也!」
「そういうの焼け石に水っつーんだよ、マスコミがな、お前みたいなガキの言うことを、真面目にそのまんま伝えてくれると思ったら大間違いだ」
「もういいよ、聴きたくねぇよ!」
「それが現実なんだよ、バカ野郎!そんなこともわからないほど、お前も頭にきてんのか!」
 椅子を蹴散らす音がした。
 雅之が、憂也の襟首を掴みあげている。
 体格の秀でた雅之に、小柄な憂也はなすすべもない。
 もう、止める気力さえないのか、聡は、疲れたような目で呆然とその様を見ている。
 将は立ち上がっていた。
 雅之と憂也は、互いをけん制しあったまま、激しくにらみ合っている。
「俺のせいなんだよ!」
「そう言えば、このくだらねぇ騒ぎが収まるとでも思ってんのかよ!」
 将は、ただ、やるせない気持ちで、そんな二人を見る。
「冷静になれよ、……雅」
「憂也が……もう、わかんねぇよ、俺」
 冷静に言っている憂也の目が、少しだけ寂しそうに見えた。
 冷静さを失っている雅之の目も、それ以上に寂しそうに見えた。
 睨み合う二人の、視線が逸れる。
「だったら、どうすりゃいいんだよ、俺」
 雅之の唇が震えている。
「俺が……こんなに、注目されたりしなかったら」
 憂也から手を離し、雅之は額に手を当てたまま、椅子に背を預けた。
「みんな、……なんか、変わったよ」
 変わった。
 将は、黙って、泣きそうな横顔で呟く雅之を見下ろす。
「……なんかあったら、将君がとんでもないこと言い出して、それにみんな乗って……めちゃくちゃだったけど、俺、そういうの大好きだったよ、そういう俺らが大好きだった」
 全員が黙っている。
 将も、何も言えなかった。
「そういうのって、……もうできないのかよ、俺ら」
「あの頃とは、立場も責任も違うだろ」
 窓の外に目を向けた憂也が呟く。
「たった何ヶ月か前のことじゃねぇか」
 そうだったな。
 将は、うつろな気持ちで考える。
 TAミュージックアワードで無茶やって、リリースでは全国回って、あんなに楽しかったのは、ほんの数ヶ月前のことなのに。
 なのに、もう。
 あの頃とは、まるで違ってしまった五人がいる。
 俺だって聞きたいよ、雅。
 どうやったら、あの頃に戻れんのかな、俺ら。
 それがもう、無理なことなら。
「……なんとか、するよ」
 ほとんど無意識に、将の唇から言葉が零れた。
 訝しげな目で、雅之と憂也が、将を振り返る。
「俺が……なんとかするから」
「将君?」
「……止める方法、ひとつだけあるんだってさ」
 俺が、ここを辞めて。
(――もう全員は難しい、なぜなら君たちは全員、来期の契約を交わしてしまったじゃないか。)
 俺が、ストームを抜けて。
(力だよ、柏葉君、この世界は力が全てだ、力だけが、君と、君の仲間を救える唯一の手段だ。)
「………………」
(力だ、力だ、力が全てなのだ、柏葉君。
 そして、今のJ&Mに、君らを守るだけの力はない。)
「どういう意味だよ、将君」
 さすがに雅之が、眉を寄せて見上げている。
 将は黙ってうなだれた。
(私と、君の父親との深い因縁は理解してもらえただろうか。私が欲しいのは君だ、君だけが、今の彼らと、そして君自身を救うことができる。)
 俺が、真田のおっさんの所に行けば、それで。
(君の才能を、失った静馬の代わりに育てたい。それが老い先短い私の、最期の望みなのだ。そのためなら私は、どんなことでもするだろう。)
 もちろん、将はその場で真田の申し入れをはっきりと拒否した。
 男は、将の移籍と引き換えに、今ストームを襲うゴシップの全てを、東邦の力でもって収拾すると言ってくれたのだ。
 その申し出自体、信じがたかったし、その時は、ストームのことは自分たちで何とか乗り越えられると信じていた。
 今は……その自信そのものが、揺らいで、見えなくなっている。
 自分が、ストームとして残るべきなのかさえ。
 そして、真田はその時、はっきりと予告した。
(今やマスメディアは、こぞってJに復讐をしている。高みにいたものが堕ちていく時を、ハゲタカは決して見逃さない。そして、ストームは、その格好のターゲットになってしまった。)
 まだまだ、ストームを生贄山羊にした騒ぎは終りはしない――
 「将君さ」
 眉をひそめた憂也が、何かを言いかけた時だった。
 ふいに、雨の匂いが室内に満ちた。
 全身、濡れそぼった人が戸口の前に立っている。
 頭から背広まで、雨が沁みた男は、まるで死者の国からの使いのような顔をしていた。
「……イタジさん?」
 聡が呟いた。
「………悪い、いきなりミーティング中に」
 囁くような声だった。
 顔色もなく、表情もない。
 将は、嫌な予感で自身の身体が強張るのを感じた。
「片瀬君の母親が、今日の午後、亡くなられた」
―――え?
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
 イタジの言葉は、将には、まるで想像外だった。
 将だけでなく、誰にとっても。
「……死んだ、んですか」
 雅之のつぶやきに、イタジはほとんど無表情で頷く。
「いずれ判ると思うが、自殺だ」
「……………」
「片瀬君は、当分戻れる状態じゃない、……今から、社長に報告してくるが……おそらく、ツアーは延期になるだろう、マスコミの対応だけは、覚悟しておいてくれ」


                 
「なんだ、晴れたな」
 傘を片手に部屋を出て行こうとしていた拓海は、空を見上げ、その傘を背後の女に手渡した。
「んじゃ、行ってくるわ、多分そんなに遅くなんねーと思うけど」
「ええよ、のんびりしても」
「あいつも忙しいんだ、しかも飲むっても、アルコールじゃねぇし」
 梅雨の合間の晴れ空。
 まだほの明るい夜空には、宵の明星が瞬いている。
「ええの?事務所から何度も連絡入ってたみたいやけど」
「いい、どうせろくなことじゃねぇし」
 肩をすくめ、背を向けて歩き出す。
 仕事に戻れば、色々面倒なことになりそうだけど、今夜だけは、何も考えず、旧友との再会を楽しみたい。
 雨上がりのアスファルト、水溜りには、明るい夜空が映っていた。
 夏は、もうすぐそこだ。
 拓海は、少し明るい気持ちで歩き出した。



                  28


「ふぁ……ねむ」
 ケイは、伸びをして大あくびを繰り返した。
「貫徹でしたからね、もう帰って休んでもいいですよ」
 パソコンを叩きながら、高見ゆうりがそう言った。
 急きょ雇ったバイトが途中で逃げたため、決死の覚悟で挑んだ入稿期限。
 結局、印刷所をなだめすかし、泣き落として、1日遅れの入稿となった。
 大森は、すでに来客用のソファで大鼾をかいている。
「あの子も、日に日に女じゃなくなってくるねぇ」
「まぁ、使えるようになってきましたよね」
 ミカリが消えて。
 ケイは、無言で、煙草をふかす。
 それでも、なんとかなっている。
 残酷なようでも、それが人の世の営みだ。
 とすれば、人の今いる場所とは、なんと儚いものなのだろうか。
「よっしゃ、打ち上げいくか」
「えっ」
 と、ゆうりが、青ざめる。
「まさかと思うけど、今からですか」
「まさかと思うけど、今からです」
「………死人が出ますよ」
「骨はあたしが拾うからさ」
「浮かばれないなぁ」
 と言いつつ、もう何年も苦楽を共にしてきた相棒は立ち上がる。
「じゃ、大森叩き起こしますか」
「いんや、蹴り起こす」
 笑って、パソコンに向き直ったゆうりの表情が、ふと止まった。
 それを、ちらっと横目で見つつ、ケイは、大森の傍に歩み寄る。
 さて、この気持ちよく寝入っている童顔を、どうやっていじめてやろうかな。
「………ケイさん」
「わかってるって、蹴りゃしないから、安心してな」
「柏葉将が逮捕されました」
「だから判ってるって、」
 え?
 わずかな間の後、ケイは背後を振り返った。
 何か、ひどく、受け入れがたい言葉を耳にしたような気がする。
「今日の午後6時過ぎ、現行犯逮捕です」
「は?意味わかんないんだけど、」
 芸能関係の警察沙汰は、ゆうりの張ったネットワークに、すぐに情報が集まるようになっている。
 始終デスクに座るゆうりが、常に最新の情報を入手するのは、ケイでさえ把握できない、ゆうりのネット人脈の幅広さにある。
 その確かさと速さは、上階にいる情報収集のプロ、煌探偵事務所でさえ時に舌を巻くほどだ。
「容疑は」
 すぐに頭を切り替え、ケイはゆうりの背後に駆け寄った。
「暴行傷害、相手は会社員の男性、場所は赤坂路上、今はそのくらいしか判りません」
 暴行傷害。
「すぐに裏を取ってみます、ケイさん、でもこれは」
「…………………」
 ストームは終りだ。
 ケイは、暗いものを感じて、目を閉じた。
 心配していたことが現実になった、しかも、最悪の形で。
 事件の内容によっては、柏葉将が、表舞台に立つことは、二度とないと言ってもいい。
「……柏葉将の父親は、外務省の官僚でしたね」
「一タレントの事件に止まらないだろうね、これは、父親にとっても」
 政治生命にかかわる、致命的なスキャンダルになる。
 そして、その余波は――間違いなくJ&Mにも襲い掛かる。















 運命の6月(終)
 ※この物語は全てフィクションです。



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感想、お待ちしています。♪内容によってはサイト内で掲載することもあります。
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