23
「疲れたーっっ」
靴を脱いだ途端、玄関に仰向けに倒れこむ。
「あかん、俺やっぱ、飛行機苦手や」
「あかんのは、その下手な関西弁やで」
緋川拓海は、上を向いて、そのまま、かがみこんできた恋人とキスを交わした。
タクシーを降りて走ったものの、肩にも髪にも、まだ雨粒が沁みている。
事務所に届けているマンションとは別の場所。おそらく、一部メディアに知られてはいるが、まるで聖域のように守られている場所。
「……濡れてる」
「うん、今、洗濯モン、取り込んどったし」
今?羽田からもう雨だったけどな。
そう思いながら、恋人の濡れた髪に、拓海は唇を寄せた。
「どうやった、ハリウッド」
「向いてねー、だって俺、高卒だぜ?英語なんてからっきしだし」
荷物を持ち上げ、何日かぶりの懐かしい部屋に足を踏み入れる。
「ごはん、今からやけど」
「うん、先にビールな」
擦り寄ってきた猫、拓海はしゃがみこんでその喉をなでてやった。
天野の実家で生まれた子猫をもらってきて、二人で育てた雑種の猫。名前はヒマ。
2人の馴れ初めにちなんでつけた名前だが、当時、寝る間もないほど忙しかった拓海の「少しは休暇が欲しい」という、多少の皮肉をこめてつけた名前である。
キッチンから水流がして、
「たっくん、外から帰ったら、手ぇ洗わんとあかんで」
と、保護者がましい声がした。
実際二つ年上の半同棲中の恋人は、最初からずっと、拓海には、ちょっと頭の上がらない姉さん女房だった。
「しばらく休みってほんま?」
「今週はな、あ、でも明日は約束あるから、遅くなる」
素直に脱衣所で手を洗い、拓海はそのまま濡れたシャツを脱いだ。
「約束って?」
「匡史と飲みに行く、メールしなかったっけ」
「帰ってきてはるの?相羽さん」
「みたいだな、携帯でやりとりしてっから、わかんねーけど」
浴室の扉を開けると、
「シャワー?今、ビール出したのに」
「悪い」
声に声だけを返し、拓海は、シャワーのノズルをひねった。
家賃は折半。
花屋の店員をしている女の月収は、拓海の何十分の一以下である。当然、狭く、そして相当古びた中古の貸マンション。
それでもここは、拓海にとって、一番居心地のいい場所だった。
―――もう少しだ。
この仕事が終わったら――拓海はそう思っている。
もう、こんな隠れ家みたいな場所で、囲い愛人みたいな真似をさせたくない。
今の映画の仕事で成功を収めたら、はっきり結婚と言う形で、事務所にもファンにも、恋人の存在を認めてもらうつもりだった。
無論、反発もあるし、マスコミの攻撃も食らうだろう。しかしそう言った場合、それを跳ね返すのが「世界の評価」だと、緋川はよく知っている。
コンプレックスだらけの日本人は、昔から「世界」に弱い。
どんなスキャンダルも吹き飛ばすだけの力が、「世界」――映画でいえば、アメリカという場所にはある。
―――受け止めてやるさ、俺が、そして跳ね返してやる。
向日葵の過去くらい。
俺の輝きで、かき消してやる。
「たっくん、天野さんから電話やけど」
浴室から出た途端、そんな声がした。拓海は頭をタオルで擦りながら、リビングの受話器を取る。
「携帯にしろよ、バカ」
「いくらしても出ねぇじゃねぇか、バカ」
そう言えば、飛行機の中からずっと電源を切りっぱなしだった。
拓海は、ちょっと肩をすくめて、ソファに腰を下ろす。
向日葵が、閉口したように、上からもう一枚、バスタオルを投げてくれた。
「で、なんだよ」
「今、ヒマんとこ?」
「そこに架けてるお前が聞くなよ」
「……お前も、知ってると思うけどさ」
たいがいいつもテンションの高い、天野の声が低くなる。
「マネージャーから、今は気をつけろって言われたんだ。マスコミの一部に、今、J&Mのルールが効かなくなってるからって」
「へー……」
拓海は、ちらっと、キッチンに立つ女を見る。
呑気に鼻歌を歌っている女は、電話の内容に、まるで関心がないようだった。
「ヒマちゃんは、そういう意味じゃ格好のネタだからさ、いや、悪い意味で言ってんじゃねぇんだけど」
「知ってるよ、言い訳すんな」
「お前が向こういってる間、ストーム、……相当ひどいことになってるぜ」
「……………」
「あれは、完全に狙われてたんだな、結局うちの事務所が、マスコミ攻勢に負けたって感じで、もう手がつけられない、いまや袋叩き状態だよ」
「そっか」
噂や、ネットで聞いてはいた。
にわか人気が出た途端、狙われて、叩かれるのは、芸能界ではよくあることだ。
しかし、拓海もそうだが、天野が衝撃を受けているのは、それを防ぎきれなかった事務所の弱体化にあるのだろう。
「まぁ、頑張って持ちこたえるしかねぇな」
拓海は拳を、唇にあてた。
「離れるファンはいても、ついてくるファンも絶対にいるんだ、今は、それを信じて、やれることをやってくしかねぇよ」
「それ、俺に言わずにストームに言えよ」
「会ったら言うよ、で?俺にも気をつけろって?」
「ばれたらばれたでいいと思ってるだろ、お前」
「うん」
「ま、……俺も一緒なんだけど、そこは」
2人で、少しだけ苦笑を交し合っていた。
「ただ、事務所がこういう時だろ」
天野の声が、少しだけ真剣になった。
「ある意味俺らが、下の連中助けてやんなきゃいけない時期だと思うんだよな。ばれて開き直るのは簡単だけどさ、時期ってもんがあるだろうし」
「そうだな」
ここで、ギャラクシーまでスキャンダルに見舞われたら――人気が安定し、結婚適齢期をとうに過ぎた拓海や天野にさほどのダメージはなくても、ますます事務所の権威は弱体化するだろう。
結果、ストームなど、人気が安定しきらないユニットへの攻撃の歯止めがなくなる。
「…………」
拓海は濡れた髪をかきあげ、軽くだが嘆息した。
「わかったよ、気をつける」
「ま、お前ならぬかりはないと思ってるけどな、念のため」
「ああ、サンキュ」
電話を切り、拓海は溜まっていた息を吐いて、仰向けに倒れこんだ。
もうすぐ……じゃねぇか。
一体いつまで待たせればいいのかな、俺より二つも上で、もう子供だっていていい年の恋人を。
「たっくん、風邪引くよ」
「………服持ってきて」
「知らん、うちはたっくんのママとちゃうで」
ぶつくさ言いながらも、世話好きの女は、着替えを一揃え用意して戻ってくる。
拓海は、その細い腰に腕を回して抱き寄せた。
「着る前にするか」
「あかん」
「しよ」
「あかんって」
笑いながら逃げようとする。
冗談が本気になるのに、そう時間はかからなかった。
雨音が響いている。
「……なぁ、たっくん」
「ん……?」
けだるくて、甘い疲れ、半ば目を閉じながら、拓海は寄り添う女の髪をなでた。
「うち、別にいいんやで、いつでも大阪戻るしな」
「……え?」
「あんま、多くを求めない性質やねん。あまり求めるとカミサンからバチ当たるし」
「何言ってんだよ」
「いや、強がりとちゃうねん」
腕をすり抜けるように半身を起こした女は、そのまま腹ばいになって肘をついた。
「離れても、全然平気や、ゆうとるんよ、うち」
「意味、わかんねぇんだけど」
昔から、振り回されっぱなしの女の言動。
横臥して肘で頭を支えつつ、拓海は、その小さな横顔を見下ろす。
「たくさん一緒にいたなぁ、うちら」
「これからもいるんだぜ」
「いるよ、たっくんがアメリカ行っとる間も、ずっと一緒やったもん、うちら」
「……………」
「だから、うち、いつでも大阪帰れるねん」
「……………」
天野との会話を察したのか。
それとも、J&Mの変化を、この女なりに感じているのか。
「くだんねーこと言ってねぇで、メシにしようぜ」
「愛にも、段階ゆうもんがあるんや」
「へいへい」
「何年か前のうちなら、できへんかった。泣いてすがって、たっくんも自分もボロボロにしとったかもしれへんけど」
「だから、もういいんだって、その話は」
「もーっっ、真剣な話やのに」
「バーカ」
「バっ、馬鹿ってなんやねん!」
俺だって真剣なんだよ、馬鹿野郎。
お前がいないと、生きてく意味なんてねぇんだ、俺。
怒った顔の女の額を弾いて、拓海はベッドから起き上がった。
「ちょっと、たっくん」
「まだできねーなら、俺作るから、お前は待ってろ」
「あんな、人の話」
言いかけた女が、拓海の背後で、ぱたり、と足を止める。
「あーっっっ」
「な、なんだよ」
「洗濯物!」
半分だけ取り込みかけた残りがベランダで揺れている。
横殴りの雨が窓を叩く。
「なにやってんだよ、このバカ女っ」
「だから、バカってなんやねん!」
こういうさ。
こういう日常がないと、生きてくのって、なかなか辛いもんなんだぜ、向日葵。
24
「悪阻がもうひどくてさぁ、聞いてる?五キロも体重増えちゃって」
「ふぅん」
よく判んねぇけど、悪阻って体重へるもんじゃなかったっけ。
「で?」
「やっと収まったの、今から必死でダイエット」
「へぇ」
妊婦がダイエット?
いや、やっぱわかんねぇわ、女の子の妊娠事情。
「男?女?」
「男、おちんちんがもう出てんの」
「はやっ、もう判るんだ」
「憂ちゃんの名前付けようかって、今愴ちゃんと相談してるとこ」
さすがにそれには、手にした携帯を落としそうになっていた。
「つ、つか、なんで俺の名前だよ」
「いじめがいがあるんだって」
「………………」
ま、いいんだけどさ。
俺の代わりに、そいつが兄貴と千秋の玩具になってくれれば。
「で?」
「え?」
「いきなり、何の用で新婚家庭に電話してきたのさ」
憂也はそれにはちょっと黙る。
東京、目黒にある綺堂家の二階。
ストームの中で、憂也だけは、今月から自宅に戻ることが許されていた。
窓の外は、激しい雨が降っていた。闇の中、白い雨粒だけが窓を叩いて消えていく。
「元気かなーって思って」
「うわっ、超らしくない理由」
「俺もたまには、センチメンタルな気分になるんだよ」
「じゃ、愴ちゃんに代わる?」
少し考えてから、憂也は携帯を持ち直した。
「いいよ、代わんないで」
「いないんだけどね」
「そっか」
「………………」
沈黙。
「何か、あった?」
少し不安そうな声がした。
「……………」
憂也は無言のまま、雨音だけを聞いている。
そっか、知らないんだ、こいつは、日本で起きてる馬鹿騒ぎを。
「……憂ちゃん?」
当然知ってるものだと思い込んでいた。憂也は、そんな自分がおかしくなって、苦笑して、ベッドに倒れこむ。
世界は広くて、俺たちは小さい。
そんなもんだ、現実なんて。
でも、その小さな世界のどうでもいい現実に、今。
「最近、すっげー、充実してんの、俺」
「そうなんだ」
千秋の声が、ほっとするのが判る。
妊娠、何ヶ月だっけ。
俺、自分のことしか考えてなかったわ、こいつ心配させてどうするつもりだったんだろ、俺。
「芝居しても、声やっても、曲作っても、自分の中で、なんつーのかな、ものすごい勢いで、何かが突き抜けていくのが判るっつーか」
今までも一年に一度くらい、そんな感覚に襲われたことがあった。
まったく未知の世界に、自分がふいに入っていく、あの怖いような痺れるような、不可思議な感覚。
「成長してんだ、憂ちゃんは」
「そうかもな、成長期、最近、毎晩骨が軋んで痛いのなんのって」
「背は伸びなかったのにねー」
痛くてさ。
「……憂ちゃん?」
「………………」
よくわかんねーけど、最近、目茶苦茶苛々しててさ、俺。
わかってんのに、自分でもどうしようもねぇんだよ。
りょうや、聡、雅の気持ちが、俺から離れていくのわかってても、優しくしようと思っても、なんつーか、それが、上手くできなくてさ。
最初は、ただ――。
「いたっ、憂ちゃん」
「え?」
「今、お腹の中の憂也に蹴りいれられた」
「なんだよ、それ」
思わず笑ってしまっていた。
笑って、少しだけ、張り詰めた気分が和らいでいた。
「……俺、ストーム好きなんだ」
「うん、千秋が負けた相手だもんね」
「好き、すっげー好き」
「お、ちょっとときめいてしまいました」
「ばーか」
ただ、それだけなのに。
それさえ変わらなければ、どうなったって大丈夫だと思ってたのに。
憂也は仰向けになって、天井を見上げた。
「こないだから新しくついたマネージャーがいんだけど、これがまた、とんだ食わせモンでさ」
「何、いきなり話題変更?」
「実はかなりの野心家ってやつ?俺連れて独立しようと思ってるみたいなの、映画の配給会社にコネある人みたいで、俳優として独り立ちしてみないかって、もう、毎晩毎晩くどかれまくり」
「きゃー、憂ちゃん、後ろの貞操は大丈夫か」
「やべーよ、かなり」
「迷ってんだ、憂ちゃん」
「………かな?」
「だから辛いんだ、今」
「………………」
よく判んねぇよ。
判れば、迷ったりしないんだろうけどさ、多分。
「俺、ストームが好きなんだ」
「さっきも聞いた」
「………止めろよ、千秋」
「え?」
「………俺のこと、バカだって、止めてくれよ、頼むから……」
25
「帰るの、澪」
不安そうな母親の手を、澪はそっと握って頷いた。
「もうちょっといたいけど、もう、面会時間過ぎてるから」
「……そう」
「また明日も来るよ」
こくり、と頷く。
澪の記憶の母より、随分老けて、若さの片鱗さえも失った顔は、年齢以上に老いて見えた。
「……ありがとう」
「え?」
なのに、不思議そうに瞬きを繰り返す母親の眼差しは、まるで十代の少女のようだ。
澪はベッドに横たわる母の傍に膝をつき、再度、その手を強く握った。
―――俺のこと、思い出してくれて。
俺のこと、呼んでくれて。
ありがとう、母さん。
「澪……」
「もっかい、呼んで」
「澪、」
「もっかい」
「甘えん坊ね、澪」
色んな辛さや悲しみが、手のひらの温度と優しい声だけで、ゆっくりと溶けていくような気がする。
母さん。
―――俺の母さん。
いつの間にか、涙が頬を滑っていた。
その涙を細い指で拭われる。
しばらく微笑していた母は、やがて、不審そうに首をかしげた。
「澪、透はどうしたのかしら」
「……………」
澪は、涙を拭って顔を上げた。
まだ、不完全で曖昧な母の記憶。それは、今日、何度となくされた質問である。
(―――正気に戻りかけている今が、ある意味一番危ないんです)
(―――いずれ、記憶は、ゆっくりと整理されていくと思います、それまで、患者さんを刺激しないよう、十分注意してあげてください)
気持ちを落ち着かせて、澪は母の手を、ゆっくりと布団の中に入れてやった。
「兄さんは、すぐには来れないんだ」
「そうなの?」
「うん、外国で勉強してるって、父さんに聞かなかった?でも、母さんが退院する頃には戻ってくるよ」
「元気にしてるのかしらね」
「してるよ、とても、母さんに会いたがってる」
「そう」
「早く元気にならないとね」
「もう、元気なのよ、明日は外を散歩できるの、澪も一緒に来てくれるかしら」
「いくよ、絶対」
「看護婦さんに自慢できるわ」
まだ何か喋りたそうな母の頬に自身の頬を当て、澪は病室を後にした。
薄暗い廊下に、暗い人影が立っている。
澪を見下ろすほど長身の男は、もう、何年も顔さえ見ていない、家を飛び出したきり、一切連絡していない父親だった。
「余計なことは、言わなかったろうな」
「……………」
澪は無言で、その傍をすり抜ける。
「マスコミが、病院の外をうろうろしていると院長から注意を受けた。お前のせいで、うちの恥が外部に漏れるのだけは、許さんからな!」
足を止め、その刹那、感情に任せて振り返ってしまいそうだった。
母さんが恥なら、あんたはなんなんだ。
兄貴が死んでから、あんたが一体、この家のために何をした。
しかしその感情を無表情で押し隠し、澪は再び歩き出した。
外は、絶望的にまで暗い雨空。闇の中で、灰色の雲がけぶっている。
「片瀬君」
差し出された傘が、受付のロビーで待っていてくれた片野坂イタジのものだと、澪はようやく気がついた。
「帰ろう、腹はへってないか」
「大丈夫です」
「ずっと、黙っていたんだが」
傘を開きながら、イタジがわずかに口調を下げる。
「先日、末永さんのお宅に行ってきた、会えたのはご両親だけだったが」
傘を広げた澪は、無言のまま、息だけを止めていた。
「あの子に会いたくはないか、片瀬君」
「………………」
しばらく考えてから、澪は傘を雨にかざす。
「いえ」
「いいのか、今のままで」
「もう、関係のない人ですから」
俺は、真白を守れなかった。
彼女を切ったのは、事務所だけじゃない、結局は俺自身が、俺の言葉でそう言った。
「しかし」
「会うなら、アイドル辞めてから会いに行きます」
雨の中、イタジが足を止めている。
澪は、歯を食いしばったまま、歩き続けた。
そうでなきゃ、会えない。
もう二度と、会う資格なんてない。
いつだったか、憂也が口にしたある種残酷な言葉が、澪の中で鮮やかに蘇る。
この痛みを、憂也はもう、何年も前に、たった一人で経験していたんだろう。
―――澪、
―――今日のご飯、最高よ、絶対美味しいと思うんだ。
何作ったって上手いのに。
―――今夜は食べない、あと一キロ、絶対に痩せたいの、
何キロ太ったって、俺、全然大丈夫なのに。
今思えば、まるでままごとごっこみたいに、子供だった2人の日々。最悪の事態はいつも見えていたのに、それでも、この夢がいつまでも続くと、バカみたいに過信していた。
―――俺、もう、真白には会わないけど。
横殴りの雨が、顔を叩く。
自分が泣いているのか、それが雨なのか、もう澪には判らなかった。
こんなに好きになるのは、絶対に真白だけだから。
愛してる。
もう伝えられないけど。
誰よりも、君を愛してる――。
※この物語は全てフィクションです。
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