8



「どういう手使ったわけ?」
「ま、色々、でも十分が限界よ」
 煙草に火をつけた九石ケイが、そう言って対面に座る将を見上げた。
「で、取材にかこつけて私呼び出すなんてどういう了見?」
 将は、視線だけで背後の出入り口を確認する。
 何度も社から呼び出し電話がかかるのに業を煮やしたのか、同行していた将のマネージャーは、店の外に出て行った。その電話は、おそらくケイが手を回したもので、高見ゆうりあたりが細工したのだろう。
 エフテレビ内のコーヒーショップ。
 相手が、J御用達の雑誌社だということで、さしもの細かいマネージャーも、多少気が緩んだのかもしれない。
「ミカリさん、消えたってマジ?」
「電話でも話したでしょ、あんたたちと島根で一泊して戻って、すぐね」
「で?」
「でとは?」
 女は煙を吐きながら、いぶかしげな目になる。
「その理由、調べないで放っとけるような九石さんでもねぇだろ」
「女が消える理由は金か男か、ま、その程度よ」
「聡は、それ、知ってんの?」
「…………」
「この際、誤魔化しはなしにしてくんねぇかな。ミカリさん、りょうに手紙送ったんだろ」
「らしいね」
「ミカリさんの昔の知り合いって、誰」
「………………」
 黙ってしまった女を、将は、強い眼差しで見つめる。
「聴いてどうするの」
「俺らを追い詰めようとしてる連中の正体くらい、知っときたいから」
「知ってどうするの、怒鳴りこんで、喧嘩でもするつもり?」
「……………」
「ミカリはね、どうにもならないって判ったから、消えたのよ」
 ケイは、疲れた目で窓の外に視線を向ける。
「今は、仕事に専念しなさい、柏葉将。あんたがいれば、ストームは、多少ごたごたしたってなんとかなるんだから」
「それ、違うと思うけどな」
 将は、少し黙ってから言った。
「どうにもならないからって、逃げるようなミカリさんじゃねぇだろ」
「……………」
「俺、あの人、どうにもならないからじゃなくて、なんとかしたいから消えたような気がすんだ、俺の勝手な思い込みかもしんねぇけど」
 それを。
 聡とりょうのバカに教えてやりたい。
 女なんて、いざとなったら、男の俺らより腹括って生きれる生き物なんだって。
「末永真白は、大学を中退したわよ」
 しかし、ケイの言葉が、将の気持ちを一瞬にして凍りつかせた。
「中退……?」
 真白は将と同い年だから、大学は今年が最後。来年の春には卒業だったはずだ。
「アパートも引き払って、島根の実家に戻ってる。実家、料理屋さんだっけ、そっちも、野次馬が絶えなくて、開店休業の有様だけどね」
「…………末永さんは」
「ずっと引きこもって、時々母親が病院に付き添ってる。ネットってのは、人の隠れた悪意の溜まり場みたいなもんだから」
「……………」
「そこで、あれだけ集中的にやられちゃえばね、精神だっておかしくなるよ、実際」
 末永さんが。
 危惧していたし、心配もしていたが、ここまで無残な結果になっているとは思ってもみなかった。
 将は言葉をなくしたまま、手元のコーヒーカップをただ、見つめる。
 自分が何処かで信じて、楽観していた部分が、足元から崩れていく気分だった。
 ずっと引きこもって。
 時々病院に付き添ってる。
 ケイの言葉だけが、頭で渦を巻いている。
―――りょうのこと、よろしくな。困った時はなんでも相談していいから。
――― 一緒にいられる時は、一緒にいればいいんだよ。
 何、言ったんだ、俺。
 無責任なことばっか言って、俺、一体何をしたんだろう。
 彼女とりょうが傷ついている時、俺は、一体。
「ミカリはそれ……一回、経験してるからね」
 ケイは、ふぅっと物憂げに煙草の煙を吐き出した。
 将は黙って、磨かれた机に映る自身の指を見る。
「マスコミが悪意を持って敵に転じた時の恐怖を、あの子は嫌というほど知ってるからね。……実際、集団になることで解放された人間の心の闇ほど、怖いものはないよ」
 人間の心の闇。
「自分より、秀でたもの、輝くもの、手の届かないもの、自分にない何かを持っているもの、人ってのは、潜在的に、それらを自分のいる所にまで引きずり下ろしたい生き物なのかもしれないね。……そう思うと、世の中絶望したくなるけどさ」
 喫茶店の扉が開くチャイムが鳴る。
「柏葉君、悪い悪い」
 せっかちなマネージャーの声がした。
 時間切れ。
「「柏葉将」
 ケイは、前髪のあたりを掻きながら顔をあげた。
「私に言えんのは、あんたたちは、雑音を気にせずにがんばるしかないってこと」
「……………」
「人の興味の対象なんてね、残酷なくらいあっという間に変わっていくものだから。いい意味でも、悪い意味でも」
 だから、なんだよ。
 だから、我慢するしかないってのか。
 末永さんのことも、りょうのことも。
「芸能人のゴシップなんて、大衆にしてみれば、立ち読みの漫画と同じ。騒いでも翌週の新刊が出れば、それでおしまい、本気で怒るだけ、バカを見るからさ」
「……それで、人生狂わされた末永さんはどうなんだよ」
「どうなんだって、怒るだけで、じゃあんたに何ができんの?」
「………………」
「……自分のできることしか人はできないし」
「……………」
「しなくていいんだよ、柏葉将」



                 9


「どうぞ」
 待たされること、二十分。
 にこやかな笑顔と共に、電話の受話器を差し出される。
「え?」
 アポなしで、門前払いを覚悟していた凪は、逆に戸惑って受付の女性を見上げた。
 丸の内、ニンセンドー本社ピル。
 モデルとみがまうばかりの受付嬢の制服は、ゲーム会社だけあって、青と黄緑という奇抜な組み合わせである。
「あの……」
「御影が、直接お話したいと申しております」
「…………えっ」
 ミカゲ。
「ミカゲって、……もしかして」
「当社の、社長でございます」
 うおっとのけぞりそうになりながら、凪は冷静に考える。
 ここで、いきなり、電話応対ってことは、会ってはもらえないってことなんだろう。
 凪が決死の覚悟で「たのもう!」とばかりに、巨大ビルに乗り込んだ目的は、世界的企業の社長と会うことではない。
 どこを探そうにも、手ががりがひとつもない人物の行方を教えてもらうことにある。
「突然申し訳ありません、はじめまして、私、流川と申します」
「こんにちは」
 電話の向こう、くぐもった男の声は、低音で穏やかだった。
「家内を探しているということですが」
 家内。
 その言い方にドキッとする。
 婚約のニュースが世間を騒がせたものの、正式に結婚したという話は聞いていない。
 しかし男の口ぶりは、すでに2人が、夫婦として生活していることを意味しているようだった。
「私、真咲しずくさんとは、ストームを通じた知り合いなのですが、」
「ええ、お名前が珍しいので、記憶にありました」
 即座にかえってくる優しい声。
「お友達だそうですね」
「………えっ」
 友達?
 友達って私のこと?もしかしなくても。
 それはいくらなんでも有り得ない。で、名前を記憶されてるってことは、この夫婦の会話の中に、私の名前が出たことがあるってことだろうか。  それもなんだか有り得ない。
「それで、家内に何か御用ですか」
「お会いしたくて」
「……ほう」
「すいません、ぶしつけだとは思ったんですが、どこを探したらいいか、見当もつかなかったものですから」
 と、凪は、自身の無礼な訪問の意図を謝罪した。
「連絡先を教えていただけるか、お会いできるよう、お話を通してもらうわけにはいかないでしょうか」
「残念ですが、彼女は今、日本にはいないのです」
「……電話でも結構です」
「それも、難しいと思います」
「……………」
 柔らかくはあるが、男の声にはそれ以上何も言えない壁のようなものがあった。
 凪はしばし考える。
 日本にいないのはともかく、電話が難しいってどういう意味だろう。
 本人が拒否しているということなんだろうか、それとも、
―――電話できる状態じゃ、ないってこと……?
「申し訳ない、私も今から会議が入って、あまり時間がないのですが」
「あの、」
 意を決し、凪は受話器を握り締めた。
「じゃあ、ご伝言、御願いします、私の電話番号と住所、この受付の人に預けておきますので」
「なんでしょう」
「保坂愛季さんって人のこと」
「え?」
「ご存知なら、教えてくださいと、お伝えください」



                 10


「プレゼントですか」
 聴かれた瞬間、耳が自然に赤くなっていた。
「あ、あー、お礼っつーか、そんな感じで」
 雅之は、被っていたキャップを目許まで下げる。
 ラッピングをしている店員が、時々、いぶかしげな目で、そんな雅之を見上げていた。
 ば、ばれてっかな、もしかして。
 いや、多分大丈夫だよな。
「じゃ、ここに送り先の住所御願いします」
「あ、はい」
 雅之は慌てて、携帯を開いて、流川凪の住所を呼び出した。
 差出人は、少し考えてから、成川将之にしておいた。
 まぁ、わかってくれるだろう、多分。
 日付指定してるし、一応。
―――あいつ、覚えてるかな。
 俺ん時は、きれーにスルーされたけど、俺はけなげに覚えてるし、忘れられてたこと根に持つほど子供でもねぇし。
 あ、でも、今からでも受付可、だけど。
「サイズの方は、大丈夫でしょうか」
 重ねて、店員。
「え、は、はぁ、多分」
 ドキッとしながら、雅之。
「こちら……春からずっと店頭に飾っていたんですけど、すごい人気で」
「は、はぁ」
 そ、そんな余計な説明してもらわなくても、と思いながらペンを走らせる。
「でも、どなたもサイズが合わないんです、だから私たち、シンデレラのガラスの靴って呼んでたんですよ」
「そ、そうっすか」
 サイズはあってると……思うけど。
 いや、どうだったかな。
 ちょっと待て、いまさら不安になってきた。
「一体どなたがお買い上げになるんだろうと思っておりましたら、こんな素敵なもらわれ方をして」
 と、なんだか意味ありげな笑顔を交わす店員たち。
「私たちも非常に嬉しく思っております、ありがとうございました」
「は、ははは」
 …………いや、どうすべ。
 今さら、ちょっと待ってっていいがたい雰囲気になってきたし。
「成瀬君」
 店を出た直後に、近くの喫茶店で打ち合わせをしていたマネージャー、逢坂真吾に声をかけられた。
 まだ余裕があると思っていた雅之は、ぶざまなほど慌てて、「あ、暇だったから、ふらっと入っただけっつーか、なんつーか」しどろもどろに言い訳する。
 雅之がレギュラー出演している東京テレビが近いモール街は、深夜、早朝の打ち合わせのたびによく通る場所である。
 小柄な逢坂は、雅之が出てきた店を見上げ、意外そうに眉をあげた。
「ブランドものなんかに興味があるんだ、まさか彼女にプレゼントでも買ったんじゃないよね」
 早口でフットワークの軽い男は、入所二年で、気難しい永井匡のマネージャーに抜擢された切れ者である。若い頃は(今でも、せいぜい二十代後半だが)さぞかし可愛らしい少年だったのだろう、童顔で愛らしい顔をしている。
 雅之は咳き込んだが、逢坂はつるっとした童顔を崩して笑った。
「そんなに焦らなくても」
「べ、別に焦ってなんか」
 ますます焦って雅之。
 なにしろ、勝手に携帯を変えられ、勝手に引越しも決められ、その部屋の隣に小姑みたいに棲みついている男なのである。
 唐沢社長の回し者(いってみれば、全てのマネージャーはそうなのだが)、どんなに善良な笑顔で微笑まれても、うかつに信じるわけにはいかない。
 しかし逢坂は、快活に笑いながら硬直した雅之の肩を叩いた。
「色々警戒してるみたいだけど、雅君がきちんと自分の立場判って行動してくれるなら、僕もそんなにうるさいことは言わないよ」
「……はぁ」
「雅君は狙われてる立場だし、一般人の彼女もいたからね、僕も最初は必死だったけど」
 あ、やっぱ、ばれてんのか。
 凪のメアドも番号も、将君の忠告に従って携帯には記憶させていなかった。だから――もしかすると、ばれてねぇのかな、と期待はしていたのだが。
「むしろ、いい子すぎるほどいい子だから、軽く拍子抜けしてたとこだよ」
 笑う逢坂の、白い歯がきれいだった。
 ちょっと、この業界には不釣合いなさわやかさだ。
 が、雅之は、なんとなく、ほんの数分前まで感じていた根強い不信感みたいなものが、和らいでいくのを感じていた。
 自分でも単純だとは思うのだが。
 2人して、これから収録の予定が入っている東京テレビのビルに向かう。
「藤堂さんと美波さんがいなくなって、唐沢社長と対立してた真咲副社長もいなくなって」
 アスファルトがわずかに湿り気を帯びていた。
 店内にいる間に、にわか雨でも降ったのかもしれない。東京は、空梅雨が続いている。
「藤堂さんまで辞めるとはね、……まぁ、現場を退いただけで、6月までは、みんなうちの社員なんだろうけど」
 逢坂の言葉を聴きながら、雅之は黙る。
 りょうに新しくついたマネージャー、藤堂戒がやめた。
 真咲しずくにつぐ、現役取締役マネージャーである。その藤堂に続くように、聡のマネージャーだった中原も辞めた。雅之は知らないが、他にも何人か、事務所のスタッフが辞意を表明しているらしい。
「どうなっちゃうんすかね、うちの事務所」
 雅之も思わず呟く。
 人気者揃いの事務所だけに、現場は今、混乱のきわみにあるらしい。大阪事務所から、何人か応援が来るという話もあるほどだ。
「確かに……寂しくはなっちゃったけど、逆にね、僕らみたいな若い連中は、ちょっと張り切ったりしてるんだ」
 しかし、逢坂は笑顔だった。
「今まで、なんかこう、上から抑え付けられる、みたいな圧迫感があったんだけど、今はそれ、ないからさ」
「そんなもんっすか」
「例えて言えば、ギャラクシーとマリアがいなくなるようなもんだよ、君らからしてみれば」
「ぶ、ぶほっ」
 な、なんつー性質の悪いたとえ話だよ。
「あれ?そういうの想像したことない?ギャラクシーにマリアにスニーカーズ、あのへん消えてくれたらさ、後は君らの天下じゃん」
「………………」
 お、逢坂さん、真面目でさわやかな顔してる癖に、言ってることはかなり過激?
 な、なんつーの、微妙に将君に近い匂いがすんだけど、この人から。
「そのあたり、不思議なんだよねぇ」
 と、逢坂は、逆にそんな雅をまじまじと不思議気な眼差しで見上げる。ちなみに身長差は十センチ以上はある2人である。
「僕らにとって、同僚は同僚である前にライバルで、基本、足を引っ張ってそいつの上に行くことばっか考えてるんだけどさ、そのあたりは、どうなの?雅君たちは」
「てか、マジでそんなことばっか考えてんですか!」
「うん」
 当たり前じゃん、みたいな目で逢坂。
 お、おいおい。
 そんなんで、マジで大丈夫なのかよ、J&M。
「まぁ……俺らは、そんな風には」
 雅之は言葉を濁す。
 他の奴のことはよく判んねぇけど。
「軽い嫉妬くらいはすっけど、足までは引っ張んないですよ」
 多分……それは、上手くいえないけど、感覚的に確信している。
 今は、なんだかばらばらの5人でも、底んとこでは繋がっているって……信じていたい。
「なんにしてもさ、いつまでも一番下っ端じゃないよ、君たちも」
 再び真面目な目で逢坂。
 い、いや……別に一番下っ端だなんてそもそも思ってねぇし。
「足の引っ張りあいとまではいかなくても、自分らが、事務所引っ張ってやるってなくらいの気概は欲しいしね」
「は、はぁ、それは」
「緋川ーっ、ついてこい、みたいな」
「ぶ、ぶほっっ」
 しかし、雅之の中に、こうして熱心に語る現場マネージャーに対する、かつてのような不信と嫌悪がなくなっている。
「革命は、起こさなきゃ誰も起こしてくれないよ、雅君」
「いや、だからそもそも、革命なんて起こす気ないんですってば」
「これからだよ、これから!」
 これから。
 今まで、最悪なこと続きだったから、その言葉が、不思議と胸に響いた。


                  11



「……片瀬君」
 静まりかえった部屋。
 もう昼近いというのに、締め切ったカーテン。
―――想像以上だな、
 片野坂イタジは眉を寄せたまま、荒れた室内を見回した。
 あれだけ几帳面だった片瀬の部屋とは思えない。
 しかし、これと同じような惨状が、かつて一度大阪であったことを、片野坂は知っている。
 イタジの訪問を知っているだろうに、締め切られた寝室からは物音ひとつ返ってこない。
 午後二時。
 イタジは、自身の杞憂を確かめるために、使われた形跡のないキッチンに入った。
―――やっぱり、か。
 散乱した薬の袋。
(あの子、薬に依存しやすい気があるから気をつけた方がいいね)
 とは、以前大阪で世話になった、劇団ラビッシュの団長、海老原マリの忠告だった。
―――睡眠薬……。
 それから精神安定剤。
 藤堂が、片瀬を通院させていたのは知っていた。よほどひどい状態だったのだろう、それでも予定された仕事はキャンセルできなかったに違いない。
 眠れないんだろうな。
 自分のことより、相手のことで容易に傷つく男だ。
 かわいそうに、あんな子供が。
「………………」
 それでも、イタジは、心を鬼にして顔をあげる。
「片瀬君、入るぞ」
 締め切られた扉を開ける。
 やはり室内は、真昼間だというのに、カーテンが引かれていた。
「起きなさい、何時だと思ってるんだ」
 ずかずかと立ち入って、カーテンを開け放つ。
 すでに目は覚めていたのか、素顔の少年が、呆けた目で半身を起こした。
 その目が、いぶかしげに瞬きを繰り返す。
 しかし、どこか焦点を失った目は、窓の前に立つイタジを見ても、さほどの反応を示さなかった。
「支度をしなさい」
「……支度」
 初めて片瀬が呟いた。
「仕事?」
「……………」
 それでも、目色が変わるのは。
 イタジは、どこか切ないような気持ちで、その片瀬の前に膝をついた。
 それでも目色が変わるのは、この子が、本当の意味で、今の仕事を天職だと思っているからだからだろう。
「……仕事の話じゃない、君は、しばらく休養するんだ」
「……………」
 この世界でトップクラスに入るために、彼に用意されていた仕事はその殆どが白紙に戻った。片瀬なら、やり遂げていただろう。そして、緋川、貴沢につぐトップアイドルの座をその手に掴み取っていたはずだ。
 なんで、あんなバカな真似をした。
 そうなじりたい一方で、俺がいたら、絶対に防げていたはずだとイタジは思う。
 もっと、唐沢が、藤堂が、片瀬の性格まで理解していたら。
 ここまで、追い詰めた挙句の暴挙は取らせずにすんだはずだ。
「落ち着いて聴いて欲しい、これは、君にとって、とてもいい知らせなんだ、片瀬君」
 イタジは、ゆっくりとそう続けた。
 事務所から一任された以上、何がなんでも、片瀬を復活させるのがイタジの仕事だ。
 今から伝えることが、故郷を棄てた男に、どういう心理的影響を与えるか判らないが、いい方向に向かってくれればいいと思う。
「入院してらっしゃる、君のお母さんが、記憶を取り戻されたそうだ」
「………………」
 意味を理解しかねたのか、片瀬の目がいぶかしげにすがまる。
「君に、会いたいと言っておられる」
「…………………」
「お父上を通じて、事務所に連絡があった。ぜひ、君を呼び戻して欲しいと」
「…………………」
 形のいい唇が何かを呟く。 
 イタジの目に、それは「お母さん」と聞こえた。
 まだ、どこかうつろな目は、現実を上手く理解できないでいるのだろう。
 イタジは、軽く息を吐く。
「来週から、コンサートの打ち合わせがはじまる。それまで島根に戻って、休むんだ、片瀬君」
 島根、と、片瀬の唇が再度呟く。
 何かがひっかかるのか、そのまま考え込むように瞼を伏せる。
「そう、島根だ」
「………島根」
「君の大切な彼女も、今実家に戻っている。一度、会いに行ってあげなさい」
 ようやく、弾かれたように、片瀬が顔をあげた。
 その表情に、焦燥にも似た恐怖の色が浮かぶのを見取り、イタジはその肩を両腕で強く抱いた。
「しっかりしろ!君がこんなんじゃ、誰一人救われないじゃないか!」
 すがるようにイタジの服を掴んだ片瀬が、呼吸を乱して指を震わせる。
 それが、過呼吸の発作の兆候だと知っているイタジは、しばらくその背をなで続けてやった。
 神様ってのは、残酷だな。
 この子には、天性の光と、とてつもない才能がある。
 しかし、それを生かしきるには、性格があまりにも脆弱すぎる。
「……俺も一緒に行く、言い忘れたが、今日から俺が、君の正式な現場マネージャーだ」
「……………」
「片瀬君、人ってのはな、落ちるとこまで落ちたら、あがるとこしか行き場がないんだ、残念なことに」
 あがろう。
 何があっても、俺が手を引いてやるから。
「…………………」
「もう、大丈夫だ」
「…………………」
「もう、大丈夫なんだよ」
 堪えていたものが溢れたのか、声を震わせて泣き続ける少年の痩せた背を、イタジはずっとなでてやっていた。















 ※この物語は全てフィクションです。



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