12
「それ、絶対におかしいですよ」
彩菜がはあっとため息をつく。
「急に泊めてくれっていうから、何があったと思ったら、もう一週間も部屋占領されてんですか」
「……………」
「あの、ですねぇ」
警察、と言いかけた後輩の手を、真白は咄嗟に掴んでいた。
大学近くのこぎれいなマンション。
実家は地元にあるくせに、優雅なお嬢様大学生の彩菜は、悠々自適の1人暮らしである。
「……澪の、……こと、よく知ってるみたいなの」
テーブルの上を片付けながら真白は続けた。
「あ、パスタご馳走様でした」
「いいえ」
自称「住みこみ家政婦」。
泊めてと言っても、後輩は嫌な顔はしなかったが、そういう理由で、もう一週間、真白はこの部屋で寝泊りしている。
金曜の午前10時、少し遅い朝食を、2人で取ったばかりだった。大学は昼から休講で、彩菜はこれからバイトに出かける。
「にしても、真白さん、いい奥さんになりますよねー」
「彩菜に言われても嬉しくないし」
キッチンで食器を洗いながら、真白。
彩菜の台所は、薄寒くなるほどひどい有様で、丸一日かけて、ピカピカに磨き上げたものである。
「ずっといてくれてもいいですよって、言いたいとこですけど」
メイクボックスを引き寄せながら、彩菜は再度、ため息を吐いた。
「だめですよー、片瀬さんの元カノだったら、なおさら、毅然と追い出さなきゃ」
「わかってんだけど……」
彩菜があきれるのも無理はない。
実際、真白も、どうしていいか全く判らないままでいた。
何度も警察に行くことは考えたが、最悪の事態が、真白を躊躇させている。
彼女は、なんで私の部屋に来たんだろう。
どうして私が、澪の彼女だって知ってるんだろう。
このことだけは、絶対に、誰にも漏らしてはいけないし、漏らされてもいけない。
ひとまず親には、自宅の電話が故障しているから、と、携帯だけで近況を報告するようにしている。
カードや保険証、犯罪につながりそうなものは全部持ち出した。後は、勝手に居座っている奇妙な女が、いつ出て言ってくれるか、それだけである。
「にしても、ほっといていいわけないじゃないですか、気味悪いし、怖いですよ、むしろ」
「私も、……こんなに、長くなるとは思わなくて」
「鍵は?」
「あ、それは大丈夫」
鍵は真白が持っている。合鍵も置いていない。そうしてみると、一体どうやって、あの女は部屋で生活しているのだろう。
「いない時見計らって、鍵、閉めちゃえばいいじゃないですか」
鏡に向かってアイメイクをしながら、彩菜。
「それが、様子みにもどったら、いつもいるの、部屋の前は店屋物のお皿だらけで」
「……………」
「一歩も出てないんじゃないかな、わかんないけど」
「片瀬さんには?」
真白は、自分の表情が強張るのが判った。
りょうの携帯には、もう電話が繋がらない。
メールもエラーで戻ってくる。
それは、思い切って送った柏葉将も同様で、そして、阿蘇ミカリも同じことだった。
「東京で……ストームに近い友達に聞いたんだけど、どうも携帯とか全部変えられたみたいで」
その話は、凪に聞いた。
凪もまた、突然の事態に動揺していたようで、まるで元気のない口調だった。
「部屋も引越して……多分だけど、私のことも、事務所の人知ってるような気がするんだ」
「……そうなんですか?」
「多分、だけどね」
「うーん、ことごとく手詰まりってやつですねぇ」
マスカラを丹念につけながら、彩菜。
私も、バイト探さなきゃな。
真白は手を拭いながら、リビングに戻った。
もう、週末、澪のところに行くこともないだろう。仕送りはいつもぎりぎりで、自由になるお金はほとんどない。
「最悪、ご両親と話して……部屋の契約、切っちゃうか、ですよね」
それはできない。
真白は重苦しい気持ちで視線を伏せる。
両親は、澪とそんな付き合い方をしているとは、想像さえしていない。
巻き込ませたくないし、知らせたくない。
もし、知れてしまえば。
真白は、自分の心臓が重い石になってしまった気がした。
もう二度と、澪と――会えなくなるかもしれない。
「ったく、どんだけ手間のかかる人なんですか、真白さんって」
彩菜は、わざとらしいため息を吐いて、立ち上がった。
「もういい、私が行ってきます」
「は?」
「バイトキャンセル、その分、真白さんに働いて返してもらいますから」
「ちょ、ちょっと彩菜」
さすがに黙っているのは悪いから、思い切って打ち明けただけなのに。
何もそこまでしてくれとは言っていない。
「修羅場なら慣れてますから」
「あのねぇ」
「しかも負けたことないですし!」
振り返られ、ぐっと親指を突き出される。
そりゃ……女としては最高にしたたかで、恋愛に関して百戦錬磨の彩菜ならそうだろうけど。
「ときまれば、メイクのやり直しです」
「はぁ?」
戸惑う真白の前で、彩菜は再び目にビューラーを押し当てる。
意味、わかんないし。
でも。
「ありがとね、彩菜」
この一週間、1人で泣きたいほど思いつめていたものが、ふい楽になったような気がした。
13
「うわっ、目茶苦茶ですね、これ」
彩菜の声は、そのまま、真白の驚きでもあった。
―――なに、これ……。
部屋の前には、ゴミ袋が封も閉じないまま積み上げてある。
むろん、ここは共用通路で、ゴミ捨て場ではない。
そして、店屋物のどんぶりやトレーが、洗わないまま積んであって、これも異臭を放っている。
「相当、だらしない人みたいですね」
「……………」
部屋の中、一体どうなってるんだろう。
そう思うと、気が重くなってくる。
「じゃ、行きますよ」
躊躇する真白の背を押すように、彩菜が扉の前に立った。
「あれ、」
が、そこで彩菜はチャイムを鳴らす手を止める。
「声、しません?」
「声……?」
「男の人の声、どうします、最悪ですよ、これ」
「ええっ?」
真白はあわてて、彩菜を押しのけるようにして扉の前に立った。
浴室の窓がわずかに開いている。声は、そこから漏れているようだった。
「我がもの顔で、男引き込んでるんじゃないですか」
「…………………」
違う。
「ちょっと分悪いですねぇ、大学から友達呼んできましょうか」
違う、この声は。
「真白さん?」
彩菜の声と共に、中の人の声もぴたっと止んだ。
「ちょ……どこ行くんですか」
「ごめん、私」
階段を降りようした腕をつかまれる。
「真白!」
それと、背後で、扉が開いて、声がしたのが同時だった。
澪。
なんで、澪が、今ここに。
「あーあ、戻ってきちゃったんだ」
どこか呑気な、そして楽しそうな声がそれに被さる。
「まいっちゃうなぁ、連絡するまでもなかったじゃん、どうしてこのタイミングかな、二人とも」
鉄柵にひじを預け、面白そうな目で真白を見下ろしているのは、一週間前に来た奇妙な闖入者だった。
ほとんど肌の露出したキャミソールに、スパッツだけ。
目をそらした真白の腕を、階段を駆け下りてきた澪が掴む。
「心配した」
「………………」
「戻ろう、……とにかく部屋に」
澪の声に、余裕がない。
真白にしても、まだ、まともに顔が見られない。
死ぬほど懐かしい声と、手の暖かさ。
聞きたいことは山のようにある、なのに何も言えなかった。澪はいつからいたんだろう、2人で何をしてたんだろう、これから、――どうしたらいいんだろう。本当に、何も判らない。
「あははぁ、私、修羅場って苦手なんだよねぇ、どうしましょ」
女は、屈託のない顔で笑っている。その女を見上げた澪の顔に、真白でも怖くなるほど、激しい怒りが浮かんだのが見えた。
「真白さん、逃げちゃだめですよ」
彩菜が小さく囁いた。
「とりあえず、外で待ってますから、何かあったら携帯にメールしてくださいね」
澪が、その彩菜にわずかに頭を下げている。
まだ決心のつかないまま、澪に腕を引かれるようにして、真白は自分の部屋に入った。
室内は意外に綺麗だった。
いかにも、慌てて片付けたような風ではあったが、心配していたような匂いもない。
「りょうは、相変わらずマメオ君だねぇ~」
真白の背後に立つ澪に、そう言って女が抱きついた。
真白はびっくりしたが、澪の反応はもっと顕著だった。
「俺にさわんな!」
びりっと、ガラスが震えるような気がした。
「やぁねぇ、照れちゃって、あれほどラブラブな夜をすごしたっていうのにさ」
「お前………」
「なぁにぃ?」
ますます甘えた声で、女。
2人の目線はほとんど変わらない。
押しのけようとする澪の腕にからむように、女は自分の豊満な体を押し付ける。
「いい加減にしろよ」
「うーん、怒った顔も大好き」
「離せっつってんだろ!」
「い、や」
なんだろう。この人。
名前なんてったっけ、なんとか……セナ、そうセナって呼んでって、そう言ってた。
「……澪、声」
真白は、むしろ自分が落ち着いてくるのを感じていた。
今は、感情的になってる時じゃない。
彩菜の言うとおり、これは修羅場ってやつで、だったら、むしろ、冷静に対処した方がいい。
「外に聞こえると、困るから」
「あ……ごめ、」
「大丈夫、落ち着いて話そうよ」
真白は、開いたままの、部屋の窓を閉めた。
「話の展開はわかんないけど、今の時点じゃ、澪のこと信じてるから」
むしろ蒼白なほど怒りを露わにしていた澪の顔に、少しずつ普段の色が戻ってきた。
白い長袖開襟シャツに、見慣れない柄のパンツ。どう見ても普段着とも外出着とも言いがたいいスタイル。
なんだろう、こんなヘンな服、澪持ってたっけ。
いかにも、撮影か何かから抜け出してきたような。
「大丈夫だよ、怒らなくても」
真白は、2人を一瞥して微笑すると、台所に立った。
冷蔵庫を開ける。予想はしていたが、何もなかった。
「コーヒーでも淹れようか」
「あ……うん」
「セナさんは、ブラック?」
「甘いのお願いしまぁす」
なんだか、不思議な人。
コンロでお湯を沸かしながら、真白は、不思議な余裕を取り戻していた。
しっかりしなきゃ、私。
多分、この中じゃ、私が一番年上だ。
澪が爆発しないよう、私が冷静になってないと。
何聞いても……それがどんなに残酷な事実でも、取り乱したりしないように。
「ねぇ?」
コーヒーを出した真白を、セナと名乗った女は、大きな目をぱちぱちさせながら覗き込んできた。
「りょうと別れる決心ついた?」
テーブルの上で、澪が拳をぐっと握る。
真白は、その肩をそっと叩いて、そしてセナの方に向き直った。
「親切で言ってあげてんのになぁ、アタシ」
「藤堂さんに頼まれてきたのかよ」
澪が、拳を握り締めたまま、口を開いた。
「藤堂さん?あー、なっつかしい顔だよねぇ、あの人も」
「ふざけんなよ」
「久々にお小遣いもらっちゃったしー、これも真白ちゃんのおかげかな」
「意味わかんねぇよ、はぐらかすなよ!」
「澪、」
再び激高した澪の手を真白は咄嗟に掴んでいた。
藤堂さん。
誰だろう。J&Mの人だろうか。
意味はわからないまでも、真白には咄嗟に理解できたことがあった。
留守の間に。
ここに、事務所関係の人がきたんだ、きっと。
そして真白に代わり、ここにいるセナが対応した。
「あーっ、やだなー、今、2人で見詰め合ってなかった?セナ1人仲間はずれにしてーっ」
再びセナが、澪に身体ごと摺り寄せてくる。
「りょうちゃん」
「……離せよ」
「なんでぇ?セナのこと好きだって言ってくれたじゃん、三年ぶりにセックスして、やっぱセナがいいって言ってくれたじゃん」
「お前……頭、おかしくなったのかよ」
「おかしくなったのはりょうちゃんの方だよ、セナがいいでしょ?セナのこと大好きでしょ?セナだって、りょうちゃんが大好き、こないだだってりょうちゃんの好きなこと、なんでもしてあげたじゃん」
「…………………」
澪は何も言わず、ただ、眉を寄せて視線を下げる。
それが、諦めなのか後悔なのか、見ている真白には判らなかった。
ただ、澪の口調から、覚悟はしていたが判ってしまったことがある。
2人は、男と女の関係だった。それも、かなり深い関係。
「ここの住所、どうやって知った」
「そんなこと、聞きっこなし」
「写真や手紙、あれ全部お前なんだろ」
「りょうちゃんのことが忘れられなくてー」
「一体、何が目的で、真白にまとわりつくんだよ!」
「りょうちゃん取り戻したいからに決まってんじゃん」
「セナ、」
「やだよ、私」
「……セナ、」
「絶対帰らない、りょうちゃんがこの女と別れるっていうまで、絶対ここから帰らない」
澪に身体ごとのしかかるようにして抱きしめる。
澪はもう無反応で、ただ、苦しそうだった。
「セナと一緒に東京に帰ろうよ、仕事はどうしたの?ずっと仕事が詰まってるんじゃないの?」
「…………セナ」
そういえば、そうだ。
その言葉には、真白も、不安を感じて顔をあげる。
携帯も変えられて、部屋も変えられて、そこまでして引き離されようとしているのに、今、澪がこんな所に来ていいのだろうか。
「探したよ、俺」
ぼんやりと、空の一点を見ながら、澪が呟いた。
「お前がいなくなって、色んなとこ探した。……ずうずうしいし、面倒で、やっかいな女だと思ってたけど、ずっと……気になってた」
澪の身体に、べったりと絡み付いていた女の背中が、わずかに揺れる。
「私のこと、猫だって言ってたよね」
「勝手にいついた野良猫だろ」
わずかな胸苦しさを押し隠し、真白はトレーを持って立ち上がった。
ここは、私がいてはいけない場面だ、多分。
苦しいけど。
悔しいし、悲しいけど。
澪の東京での孤独を、ここにいる女が埋めていたことだけは、きっと、間違いないのだろう。
「俺は、……サイテーな男で、お前に責められても、何も言い返せないんだけど」
澪の声。
冷静になっている、真白はわずかにほっとする。
「真白とは、高校の時からのつきあいで」
「……………」
「俺にとっては、本当に大切な人なんだ」
「……………」
「向こうが別れたいっつっても、俺が多分、別れられない」
「……………」
真白は慌てて手の甲で涙を拭う。
―――澪……。
その言葉だけで、この一週間の辛さが全部、報われた気がした。
澪を信じて、よかった。
信じて、待って、よかった。
怖いような沈黙があった。そして衣服がこすれるような物音。
背後でいきなり人の気配がして、ずっと立っていた真白は、はっとして顔を上げる。
「帰るって、彼女」
「澪、」
「ごめんな」
優しいけど、暗い眼差し。
真白は、その肩越しに、手早く荷物をまとめている女の姿を認めた。
さほど辛そうな横顔には見えなかった。鼻歌さえ聞こえそうな呑気さで、髪を手で整えて振り返る。
「じゃぁね~」
か、かるっ。
さっきまで、ものすごく深刻なムードだったのに。
「りょうちゃん」
しかし最後に、女は真面目な目で澪を見上げた。
「………嘘ついて、ごめん」
「いいよ、いつものことだし」
「本当言うとさ、今は、りょうちゃんのこと、別に好きってわけじゃないんだ」
「そんな気もしてた」
「…………」
何か言いかけた女は、そのまま、少し困った風に口をつぐむ。
「私なりの感謝の気持ち、それは、マジ」
「……感謝?」
澪の横顔がいぶかしげなものになる。
「……まぁ、りょうちゃんには、これから恨まれるかもしれないけどさ」
「どういう意味だよ」
真白には、澪の横顔と背中しか見えない。
どういう意味だろう。真白も、その言葉には不安になる。
「その人とは、別れた方がいいってこと、これもマジで、澪に感謝してるから言ってる忠告」
女は、さばさばと言って、足元の荷物を持ち上げた。
「さよなら」
「お疲れ様」
肩を軽く叩かれる。
微妙に不愉快な気持ちのまま、風見瀬名は、その腕を振り払った。
「もー、最悪、クーラー利かないんだもん、あのアパート」
「もう用はない、早く東京に戻りなさい」
短くそう言い、女は腕時計を見る。
「それにしても、最高のタイミングだったな」
傍らの、黒い男が呟いた。
「会見は何時からだ」
「12時半、あと三十分で始まります」
「完全にすっぽかすつもりか」
薄い唇が笑っている。
瀬名は、背を向けて歩き出す。
―――ごめんね、りょう。
私だって、やだったし、それなりに抵抗してみたんだけど。
だってしょうがないじゃん、りょうが私の家なんかに来るから。
一生懸命、あれでも警告してあげてたんだよ。
早くその子と別れた方がいいって。
居場所も相手も、もうとっくに掴まれてるよって。
証拠残すとマジやばいから、へんな方法ではあったけどさ。
でも許してくれるよね、私だって、もう一度立ちたいから。
瀬名は、暗い気持ちで、晴れ渡った空を見上げる。
暗闇を這い出て、あの、――光に照らされた場所に。
※この物語は全てフィクションです。
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