3


「やめさせろ」
 唐沢直人は、即座に言って顔をあげた。
「ストームのプロモは一切中止だ、テレビ局への出演は致し方ない、事前に決まっていたものだと言い訳もできるが、他のイベントは、全て今夜中にキャンセルさせろ」
 この数日で、目だって痩せた唐沢の顎には、珍しく無精髭が浮き出していた。
 いつも、塵ひとつないほど綺麗なデスクには、書類が散乱している。
 美波涼二は、微かに嘆息してから、姿勢を正した。
 六本木。
 J&M仮説事務所。
「真咲氏がそれを聞くでしょうか」
「聞く、いや、俺が説得する」
 立ち上がる唐沢の表情に覇気がない。
 美波は、この男が、内心ではすでに、自身の進退を覚悟していることを理解した。
 唐沢の持論で言えば、当然だ。
 自ら挑んだ勝負にこの男は負けたのだ。しかも、完膚なきまでに、徹底的に。
 いまだリリースを延ばし続けている奇蹟は、すでにヒデ&誓也の新曲などはるか彼方に置き去りにしてしまっている。
 あの会見の後、再び姿をくらましたRENと、そしてマスコミで騒がれている「君がいる世界」のオリジナル作曲者探し、それが、ますます「奇蹟」への追い風になっているからだ。
 ストームのファンクラブ入会数も、異常といってもいい勢いで増加し、5人へのオファーも殺到しているという。
 唐沢の敗北、というより、真咲しずくの完全勝利。
「スニーカーズはうちの看板だ。というより、今後、うちが出すどの商品のセールスにも、東邦の邪魔が入っては話にならない」
「そういう業界の常識が、果たしてあの人に通用しますかね」
「理解しなければ、やっていけない。いや、させる。あの女は、ストームのマネージャーである以前に、事務所の経営者だからだ」
 背後のハンガーから上着を取り上げ、唐沢はそれに袖を通した。
 そして、視線だけを下げたまま呟いた。
「それに」
 そのまま、眉をひそめて言葉を切らす。
「……奇跡の、楽曲提供者のことですか」
 おそらく唐沢の言いたい危惧を、美波は代わって口にした。
「………お前は、どう思う」
「君がいる世界が、城之内静馬氏の作品であることは、断言してもいいのではないかと思います」
 元ハリケーンズの城之内静馬。
 版権をおさえられ、その名前すら出せないアーティストなどそうそういないし、そこに「奇蹟」、つまり真咲しずくが絡んでいる以上、可能性は限りなく高くなる。
 真咲しずくは、静馬の相棒だった真咲真治の遺児である。
 奇蹟は、そのしずくが、実質プロデュースしたも同然の曲だからだ。とすれば、「君がいる世界」のプロデュースも、真咲しずくが手がけていた可能性が高い。
「RENの言葉を信じれば、奇蹟もまた、同じ楽曲提供者が作ったということになる、とすれば、それは城之内静馬氏なのでしょうが」
 美波は言葉を途切れさせた。
 そう言い切っていいのかどうか、美波の中では、わずかな疑問も残っている。 
「正直、奇蹟に関しては、……僕は、作曲者は別人ではないかと思っています」
「別人か」
「曲調が全く城之内静馬らしくない、これは、一アーティストの端くれとして感じた印象ですが」
 いかにも現代の脆弱な若者の儚さを歌った奇蹟が、もう十数年以上も前に亡くなった、ハードな曲調と深遠な詩を好んだ男の作品とは思えない。
「奇蹟をリリースするための話題づくりか」
「その可能性が高いでしょう、が、それが一種の戦略だとしても、多少手がこみすぎているという印象ではありますね」
 RENの会見後、「君がいる世界」と「奇蹟」が爆発的に売れたのは、むしろ、今一番ホットなアーティストであるRENが、その作曲、コーラスに絡んだという有り得ない事実からだろう。
 ハリケーンズの元ファン層は、今、四十代から五十代になっている、一時期国内を席巻したグループだから、その層を動かせば、確かに、ミリオンを超えたヒットになる。
 が、静馬の名前がマスコミから抹殺され、噂さえこうやって潰されている以上、君がいる世界、そして奇蹟が、かつてのファン層の閉ざされた心を揺り動かすとは思えない。
 なにしろ、ハリケーンズ、そして城之内静馬は、ファンを裏切るという最悪の形で、表舞台から姿を消した存在なのだ。
 REN効果だけで、奇蹟は売れた。
 そこに、あえて城之内静馬の謎を残さなくても、いいはずなのに。
 むしろ、東邦、真田会長のことを考えると、危険極まりない賭けだ。
「………僕にはさっぱりわかりませんね、あの人の思考だけは」
 美波は、去年の夏ふいに帰国した女の、時折見せる、他人をまるで遮断した冷たい目を思い出していた。
 昔から風変わりな女ではあったが、そこまで他者を拒絶してはいなかった。
 何かが――変わったのだ、真咲しずくは。この十年のブランクの間に、何かが。
「あの女のことなどどうでもいい、問題は、関係者に判る形で、静馬の名前が再びこの世に出てきたことだ」
 唐沢は嘆息すると、席につき、疲れたように自身の髪に指を絡めた。
「RENが、あれだけ静馬の存在を匂わせているのに、東邦が沈黙を守っている、……俺はむしろ、その方が恐ろしい」
 唐沢の弱気ともとれる発言を、美波は多少の驚きと共に聞いていた。
 その唐沢が、顔をあげる。
「美波」
「はい」
「万が一にも、ストームがRITSを抜く可能性はあるのか」
「…?有り得ません」
 話の展開に首をかしげつつ、美波は、それには即答する。
「通常であれば、判らないところでした。しかし今年、RITSは結成十五周年、記念イベントが目白押しの中の新曲は、社長もご存知の通り、高視聴率をマークしている緋川のドラマの主題歌になっている」
 その刹那、唐沢の眉に苦いものが浮かぶ。
 緋川拓海が主演している日曜のドラマ。直木賞作家、新條直哉の恋愛小説が原作で、当初から高視聴率が見込まれていた人気番組である。
 その主題歌に、当初はギャラクシーを予定していたのだが、東邦のごり押しでRITSに変更となった。J&Mが負けた形で引き下がった絶好のタイアップ。
「ドラマの人気と共に、予約枚数も通常の数倍、初動セールスだけで、二十万枚はいくでしょう。かたやストームは、伸びているといっても十万にさえ遠く届かない」
 そういう意味では、三週連続トップという真咲しずくの公約は、果たされなかったことになる。
「今度こそ、奇跡は絶対に起こりません」
 無言で聞いていた唐沢の頬に、何故か笑みが薄く浮き出した。
「いや、それが最初からの思惑だったとしたら、たいしたものだと思ってな」
 思惑?
 美波は眉をひそめる。
「底意地の悪い、あの女らしいやり方じゃないか」
 唐沢は、心底苦いものを噛むような表情になった。
「RITSには到底勝てないことは、無論、あの女にだって判っている。なのに何故、これ見よがしの無意味なプロモーションを続けていると思う、わざわざ、過去の因縁まで待ちだして、だ」
「……年間のトップを狙っているのでは」
「違うな」
 唐沢は、苛立った口調で美波を遮った。
「ゲームの幕引きを、最高の形で終わらせるためだ」
「……………」
 ゲームの、幕引き。
 戸惑う美波に、半ば呆れたように、唐沢は自身の胸元を叩く。
「まだ判らないのか、今回のプロモで、一番困るのは誰だ、RITSでも東邦でもない、この俺じゃないか!」
 あ、と美波は、ようやく唐沢の言いたいことを理解した。
「あのバカ女が三週連続だのと言い出した時には、バカもここまできたら大したものだと思っていた。俺は確かに許可を与えた、そしてあの女は、今も堂々とプロモーションを展開している」
「……なるほど」
「しかも、東邦にとっても、うちにとっても最大のタブー、城之内静馬の名前をちらつかせて、だ」
「………………」
「結果、今、俺はこうして、あの女のオフィスに頭を下げにいかけなればならないわけだ」
 つまり、唐沢自身が、今回の勝負の負けを認め、終結宣言を出さなければいけないということ。
 そうでなければ、城之内静馬の名前を暗に使っているストームのプロモは、そのまま、J&Mの首を絞めることになるからだ。
 その余波は、単に真咲しずく一人の責任にとどまらず、会社全体の経営基盤にまで及ぶだろう。
「真田の老いぼれが本気になれば、スニーカーズへの報復どころの騒ぎじゃない、あの老人は、どんな手を使ってでも、うちを徹底的に潰しにくる」
 唐沢は、うめくように呟いた。
「……J&Mの、創世記のように」
 あの時代の地獄を知っている唐沢には、きっと、悪夢のような現実の再燃なのだろう。
 あれから、うちも随分力をつけてきたはずなのに。
 美波は、ふとそんなことを思っていた。
 会社の業績では、すでにJがはるかに上をいっている。
 東邦も社長が代替わりしたせいか、以前のように、会社ぐるみでJに圧力や脅しをかけてくるようなことはなくなった。
 が、それでも金融界に巨大な力を持つ真田会長1人の権力にはかなわないのだろうか。ことあるごとに辛酸を舐めさせながらも、唐沢がじっと耐え続け、東邦のプライドと立場を直接的に損ねない形で、様々な条件を飲んできたのを、美波はよく知っている。
 唯一、唐沢が表立って喧嘩ごしになったのが、先月行なわれた「TAミュージックアワード」だったろう。
 それも、会社の利益のためというよりは、――バカにされたタレントの、アイドルの存在意義のため。
 本人は気づいていないだろうが、美波からみれば、信じられない変化のひとつだ。
「あの執念深い爺さんが死ぬまでは、城之内静馬の名前は封印する必要がある、何があっても絶対に、だ」
「確かに、版権の問題もありますしね」
「……君がいる世界はREN一人のせいにもできるが、奇蹟でそれを言い出されたら、リリース元のうちはぐうの音も出ない、あれが、いつの作品かにもよるだろうが」
 いつの作品であっても同じことだ。
 それは、胸の中で呟き、美波は部屋を出て行こうとしている唐沢を見上げた。
「真咲しずくの望みはなんでしょう」
「知らん」
 ドアに向かって歩きながら、唐沢は吐き捨てるように言った。
 亡き父の仇討ちか、自身の栄達か。
「だからそれを、聞きに行くんだ」


                    4


 マスコミじゃ、悲惨な逃亡生活とかなんとか言って騒がれてたけど。
 柏葉将は、半分呆れたまま、上に向かって点滅するランプを見つめていた。
 シースルーのエレベーターの階下に広がる、夕暮れの壮大な街並み。
 ここは、都心に近い高級ホテル、東京ベイサイドコンチネンタル。
 しかも、将が向かっているのは、その最上階でもある二十三階、海外のVIPや富豪が長期滞在するといわれる、コンドミニアムルームである。
―――つか、目茶苦茶贅沢な逃亡生活じゃん。
 そりゃ、天下のRENなら、当たり前の仮住まいかもしんねぇけど。
 でも、わかんねぇし。
 なんだって、天の最上階にいるようなRENが、いくら東邦から干されているからって、あんな有り得ない真似をしてくれたんだろう。
 テレビの会見に出るなんて、全くRENらしくない。しかも――俺らみたいなアイドルに、楽曲を提供してくれるなんて。
 一体真咲しずくは、どんなミラクルを使ったんだろう。
 ベルを鳴らしてしばらく待つ。
 一応、フロントでアポは取ってはいたが、それでも半信半疑だった。会えるのかよ、そして、会ってもらえるのかよ。
 なにしろ相手は、元ジャガーズのRENである。
 将が、中学からずっと心酔していた憧れのアーティスト。
 なのに、最後はそのRENに、よりにもよって将自身が恥をかかせた形で決裂した。TAミュージックアワード。
 まぁ、決裂したといっていいのかどうか、終始反応のないRENの真意は、想像するしかないけれど。
「ハイ」
 場違いに陽気な声。
 扉が開いて現れたのは、将を見下ろすほど背丈のある、褐色の肌を持つ異国人だった。
 縮れて、頭部に張り付いたような髪、垂れ気味の柔和な目、赤みの濃い厚い唇。
 毛が密集した逞しい腕と、厚みがあるのに締まったボディ。
 RENと同じか、それ以上の年齢。表情が明るく、いかにもお祭り騒ぎが好きそうな男は、深いグリーンの目で将を見下ろし、ヒュッと軽く口笛を吹いた。
 そして振り返り、相当ネイティプな英語で、奥に向かって二言、三言、呼びかける。
 かなりなまりがきついので聞き取りにくかったが、将にはそれは、「お前の恋人が来たぜ」と言っているように聞き取れた。
―――なんだよ、感じわりぃな。
 と、思いつつも、将は、先に立って歩く男の肉厚の背中を見る。
 どっかで、見たかな、このおっさん。
 顔見たらわかんねぇけど、背中に確かに見覚えがある。
 なんだろう、どこで会ったんだろう。話したことも顔に覚えもないけれど、俺は、この男を、知っている……?
 まるで、超高級マンションの玄関をくぐったような感じだった。大理石の柱、磨きこまれた長い廊下、贋作ではない絵画、その先には広々としたリビングと、見晴らしのいい空が窓いっぱいに広がっている。
 イタリア製の赤い革張りのソファー。
 目的の男は、その背に身体をあずけ、足を投げ出すようにして寝そべっていた。そして、物憂げな眼差しを将が立つ方に向ける。
 闇を滲ませる、それよりも暗い瞳。
 真紅の高級ソファにはどう見ても似合わない、ずたずたに裂けたウォッシュジーンズ。
 REN。
 将は足を止めたまま、緊張に身体を固くした。
 敵か、味方か。
 相変わらず感情の読めないRENからは、なんの表情も思惑も透けて見えない。


                     5


「……長いですね」
「確かに」
 かれこれ三十分以上開かない扉。
 美波は嘆息して、座っていたソファから立ち上がる。
「何を話し合っているものやら、あのお嬢様が、まともに唐沢さんと話すとも思えないが」
 呟いたのは、その美波の傍らに座っていた藤堂戒だった。
 専務取締役、出自は極道だと聞いているが、無論それは、一部の役員のみが知りえるトップシークレットだ。
 唐沢が拾い、この地位まで押し上げた。ある意味、唐沢に一番近いところにいる男。
「藤堂専務は、真咲氏の目的をなんだと思っていますか」
 六本木。J&M仮設事務所。
 業務時間を過ぎた広いロビーに、今は美波と藤堂の2人しかいない。
 目の前の扉は、真咲しずくのオフィスに繋がっている。
「それが読めれば、とっくに唐沢社長に注進してますよ」
 美波の問いに、眉の薄いあばた面の男は、薄く笑ってそう答えた。
 立った美波が見下ろしていても、視線が殆ど変わらないほど、長身で肉厚の男である。
「真咲副社長は筆頭株主だ。その気になれば、他の役員を懐柔して社の実権を握ることなど、実にたやすい。私だったら、あんな回りくどい真似などせずに、少しでも多く自分の持ち株を増やすことに専念しますがね」
 肩をすくめた藤堂は、あきれた声でそう続ける。
「しかし、目的が金や名誉であった方が、まだ扱いやすかったのかもしれません、ああいうもので動かせない人間が、実は一番やっかいですから」
「では、そうではないと」
「違うでしょうね」
 低い声で言い、藤堂は厚みのある足を組みなおした。
 見かけは、単に肉体だけが武器な男だと思われがちだが、この男が、その実相当計算高く、頭がいいということを、美波はよく知っている。
「最近のマスコミへの露出度も気になりますね」
「あれは、株主へのアピールでしょう」
 藤堂の返事は即座だった。
 真咲しずくは、先週から、エフテレビの看板バラエティ番組「二時ワクッ」のコメンテーターを務めている。
 今話題のストームのマネージャー、しかも元来の美貌と性格の明るさも手伝ってか、真咲しずくの名前は、あっという間にお茶の間に浸透してしまった。
「J&Mといえば“真咲しずく”という印象を、世間にも、ひいては株主にもつけたいんじゃないかと思いますね。そして実際、そうなりつつある。まぁ、十中八九、6月で唐沢さんは終りですよ」
 藤堂は冷めた声音で言って、肩をすくめた。
 美波は無言で、目をすがめた。
 この不確定要素の結末を、どう捉えたらいいのだろう。
 しかし、同時に、ほっともしている。自分が手をくだすことなく、あの扉の向こうで、真咲しずくが、最後の引導を渡しているとすれば。
「………………」
 不思議と、喜びも昂揚もなかった。
 それは、自身の手で裁きをくだせなかったためなのか、それとも。
「藤堂専務は」
 迷いの中で、美波は呟いた。
「……聞いてもいいですか、どうして唐沢さんの下にいるんです」
「あなたは、ご存知だと思っていましたがね」
 かすかに笑って、男は太い指でポケットから煙草を取り出した。
「知っていることもあれば、知らないこともありますから」
 その一本が、美波の手に渡される。
 互いに火を灯し、わずかばかりの沈黙が満ちた。
「親父を殺したんですよ、十一の時です」
 ふうっと煙を吐き出した藤堂の口調は、昨日の事務を説明するかのように淡々としていた。
「姉に乱暴する親父が許せなくて、寝ている間にバットで頭を叩き割りました。あとは、お定まりの人生です」
 驚きとも違う、奇妙に静かな感覚のまま、美波は無言で煙を吐き出す。
「少年院を出たり入ったり、挙句、極道の鉄砲玉、……まぁ、そんなところですよ。私がどうやって唐沢さんの下についたのか、それはよくご存知でしょう」
「…………」
「それまでの私は、生きるためならなんでもするような男でした、皮肉なものですね。光の真っ只中に立つスター達を、どす黒い闇の中に棲む、私のような男が支えている」
 それには答えず、美波は訊いた。
「これから、どうなさるおつもりです」
「それはどういう立場でのご質問ですか」
 藤堂が、薄く笑った時だった。








※この物語は全てフィクションです。



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