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東京 赤坂 
東邦EMGプロダクション 戦略企画会議室



「ストームの勢いが止まらないようですね」
 でっぷりと超えた営業担当部長の声を、真田孔明は椅子に背を預けたまま聞いていた。
 最上階にある、一般社員には極秘に設けられた会議室。
 会長である真田が召集した時だけ、ここに、十数名からなる東邦の頭脳が集結する。
「というより、J&Mサイドは完全に売る気です。今週のプロモーションの予定をご覧ください」
 会議室に集結した東邦きっての精鋭陣が、いっせいに資料のページをめくる音がする。
「今週オンエアの各局歌番組に、のきなみ出演が決まっているほか、火曜には幕張メッセで行われるニンセンドーのイベント、土曜日に甲子園球場で開催されるミラクルマンセイバーのイベントに、全員で出演することが決まっています」
「まぁ、今が旬でしょうからな、あちらさんは」
 かすかに苦笑しつつ、マーケティング担当部長。
「直接のプロモーションだけではありません。柏葉将主演の「嵐の十字架」、片瀬りょう主演舞台の「W/M」、この2作のDVD予約が初日だけで十万を記録」
 ほう、と感嘆にも似たため息が、室内に広がる。
「いったん見送られたDVD発売が、数万を超えるファンの署名によって実現したということで、ネットやワイドショーでも話題になっています。ただしこれは、戦略でしょう。エフテレもJサイドも、最初から要望があるのを見越した上で、あえて早い時期にDVD化を否定し、ファン層を煽ったと思われますね」
 真咲しずくか。
 真田は、わずかに眉をしかめ、すぐにそれを元に戻す。
「どちらも、アイドルにあるまじき破廉恥な内容だということですが、まさになりふり構わずですな」
 誰かが呟き、室内に失笑が満ちる。
「奇蹟の、今週の売り上げ推定は?」
 真田が問うと、笑っていた部長は慌てた態で背筋を伸ばした。
「イベント当日の売り上げをかなり大目に見積もって、推定で、十万のラインだろうと思われます」
「三週目で十万か」
 それには、さすがに驚嘆のため息が、居合わせた者の口から一斉に漏れる。
 つまり、発売三週で、累計五十万以上の売り上げ。
―――さすがは、静馬の息子だ。
 真田は薄く笑って、手元のシガーを唇に挟んだ。
 驚くことはない、それくらいの見せ場は、むしろ作って当然とも言える。
 なにしろこの私が、命を賭けてあまりあるほど愛した才能、その最後の欠片なのだから。
「時の勢いというものがある、それはしょうがないとして」
 営業部長が、咳払いをして、そう続けた。
 大仁多営業担当部長。汗っかきなのか、しきりに汗を気にしている。
 長年真田が、懐刀として飼ってきた男である。体格は豚のようにだらしない巨体だが、犬よりもボスに従順で、どんな汚い真似でも平然とやってのける使い勝手のいい男。
「問題は、J&Mのこの行為を、盟約違反とみなすかどうか、です」
 盟約。
 はっきり言えば、暗黙の盟約。
 連続一位記録がかかっているRITSの邪魔をしない代わりに、スニーカーズの妨害もしない。
 互いのリリース時に、その記録の妨げになるような自社曲のプロモを一切行なわない。こうやって、お互い保たれている前人未踏のリリース記録。
「それは、問題にしなくてもいいのではありませんか」
 堅い口調で、今日の会議、初めてそう発言したのは、代表取締役社長、篠田真樹夫だった。
 この席では最年少で、年齢は三十半ば。
 線の細いすらりとした長身で、顔立ちは年よりもさらに幼い。無理に総髪にした髪と、いかにも伊達の眼鏡が、むしろ余計に痛々しかった。
 もちろん、この若さで、男が巨大企業の社長職についているには理由がある。
「すでに予約だけで、初動二十万以上が見込まれるRITSの勝ちは決まっています。言っては悪いが、いくらストームに勢いがあるとしても、この程度のプロモで、十万近い差がひっくり返ることはないでしょう」
「問題は、そういうことではないんですよ、社長」
 大仁多営業部長が、厚い唇に失笑を浮かべ、まるで子供をなだめるようにそれを遮った。
 実際、この場では最年少の篠田は、こういった会議の場ではいつも子供扱いされている。
「RITSの勝利は確定している。問題は、九月に発売が予定されているスニーカーズのリリース時に、うちが報復するかどうかなんです」
―――九月、か。
 真田は椅子に背を預けて、膝の上で指を組んだ。
 そろそろ片がついてもいい頃だ。いや、つけなければならない頃だ。
「少なくともJ&Mには、相応の警告をするべきでしょうな」
 広報室長が、重々しく口を開く。
「いや、ちょっと待ってください」
 立ってそれを遮ったのは、今度も社長の篠田真樹夫だった。
 極上のスーツが、この青年にかかっては、まるでリクルートのようにも見える。
「今回、ストームに破れたアーベックスは、購買員を一切使わなかったという情報があります」
 篠田は続けた。
 静けさとかすかなため息が、刹那に会議室に広がって消える。
「赤信号は、全員で渡ることで初めてその違法性が阻却される。一社がそこから降りた以上、うちも、今回は、堂々と勝負すべきではないでしょうか」
―――真樹夫め、余計なことを。
 苦く嘆息し、真田は軽く舌打した。
 篠田真樹夫が、姓こそ違うが、真田孔明の実子であることは、ここに座る全員が知っている公然の秘密である。
 真田が若き日に、未入籍の女に生ませ、親戚に養子に出した子供。
 公には、真田が親戚の息子を手元に引き取り、後継者として教育したことになっている。
 後継者――というより、いずれ、自身の手足として働かせるつもりで。
 経営者としては凡庸で愚直で、人掌術も下手、が、それゆえに、手足としては最適だ。
 そして、今、真田の思惑どおり、真樹夫は傀儡として社長職についている。おしが弱くて決断力がない、傀儡としては最高の存在。
 ただし、無駄に正義感だけが強いのが玉に瑕だが。
「業界の悪習は、これを機に断ち切るべきではないでしょうか、少なくともアーベックスの荻野社長には、そういう強い意思を感じました」
「篠田社長、しかし、ヒデ&誓也では、Jはその手法を使っていますよ」
 企画部長の安永光が、冷ややかにそれを遮った。
 東大政経学部卒、今年四十になったばかりだが、次期取締役の座が内定している、切れ者のエリート。針金のような長身に、いつもすがまったような険しい目をしている。真田が、自身の引退後、ひそかに会社の全権を預けるつもりでいる男である。
「しかも、かなり大規模に、言ってみればなりふりかまわずに、です」
「それが、何になるんでしょうか」
 その安永を遮り、再び篠田。やや、頬を紅潮させている。
「その結果が、ストームと宇佐田に遠く及ばない数字だった、そんな真似をしなくても、プロモーションさえしっかりすれば、売れるものは売れるんです」
「しかし売れないものは売れない、問題はそこなんだよ、篠田社長」
 真田は、苦笑して立ち上がった。
 真樹夫、お前はまだ若い。
 そして、何も判ってはいない。
「スニーカーズには、無論報復をする。しかし今回は、軽い脅しをかけるだけで十分だろうな」
 口でどれだけ吠えようと、J&M取締役社長の唐沢直人が、腰抜けのチキンハートだということはよく判っている。
 直接勝負を避け、遠回りをしながら、うちを追い抜こうとした。その手法は、まぁ、利口だったと褒めてやってもいいだろう。
 多少の小競り合いは、あえて見逃して、ささやかな勝利も味あわせてやった。唐沢はそれで満足し、自身の手腕だと酔いしれもしただろう。
 最後は……真田の要求を全て飲む形で、過去の約定を清算した。
 何もかも予定どおりだ。J&Mが、東邦の礎になるために必要な全てを、唐沢直人は順調に押さえていってくれている。
「報復をすれば、同じように報復されるだけではないでしょうか」
 珍しく、篠田は、しつこく食い下がる。
「僕たちは、夢を売る仕事です。その僕たちが、いつまでも潰すとか潰さないとか、そんなことばかりやっていていいのでしょうか」
 無論、この席では誰も、名前だけの若社長に同調するものなどいない。
 東邦EMGは、もう何年も前から、この企業を実質ここまで大きくした真田孔明の独裁指揮によって運営されているのである。
「篠田君、まぁ、君の話はあとでゆっくり聞こうじゃないか」
 立ち上がった真田は、バカ息子の肩を軽く叩いた。
 真樹夫、心配しなくてもいい。
 次にRITSが新曲を出す頃には、もうJ&Mなど、この地上のどこにも存在していないだろうから。


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「マスコミの動向はどうだ」
 会議終了後、1人残した男と向き合い、真田は、今はRITSなどよりはるかに重大な懸案事項を切り出した。
 この会議中、ずっと真田の傍らで沈黙を守っていた男。
 参加者の誰もが、故意にその存在を無視していた男。
「ハリケーンズ、シズマの名前が、雑誌、ネットを中心に、出はじめていますな」
 錆びた金属が、軋んだような声だった。
 モンスター。
 とは、この社内で、この男のことをひそかに指した名称である。
 耳塚恭一郎。
 年は、真田よりいくつか上だが、外見は全く年齢を感じさせない。時に三十代にも見え、時に百歳よりふけて見える。いってみれば、年齢不詳。
 百九十近いやせぎすの長身で、色白、唇だけが血のように紅い。彫刻のような鋭く切れ上がった目鼻立ち。
 表情を変えずに立っていると蝋人形のようにしか見えない。そしてその、白皙の肌には、額から耳にかけて、手術痕がくっきりと残っている。
 確かにそれは、洋画でみたフランケンシュタインのようだった。
 しかし、このモンスターが、いかに有能で、そして恐ろしく使える男か、幼少の頃からずっと一緒だった真田は、身に沁みてよく知っている。
「で、どうした?」
 無論、聞くまでもなく、それを放置しておくような耳塚ではない。
 耳塚は足を組み、濁った魚のような目で主人を見上げた。
「全て、手を回して警告させました。ポータルサイトの書き込みは即日削除、雑誌社にも強い圧力をかけましたから、これが続くことはないでしょう」
「どの程度の内容が出ている」
「せいぜい、かつての天才シンガー、所属事務所とトラブルで引退、問題を起こして芸能界永久追放、その程度です」
 毎日行動を共にしている真田でさえ、耳塚を直視し続けるには、多少の精神力が必要だった。
 一種の病気なのだろう、耳塚という男は、視点を定めることができないのである。まっすぐに目を合わせていても、眼球だけが、不規則に、そして小刻みに左右に動く。見つめていると、車酔いのような気分の悪さを感じてしまう。
 その不気味な容貌のゆえに、親に棄てられた男は、十代で極道者になり、その身柄を真田の父親が借り受けた。当時病弱だった息子の、ボディガードにするためにである。
「あの時と同じですよ」
 耳塚は、軋るような声で言った。
「……静馬が、俺を刺した時のことか」
「ええ」
 一度は組に戻った耳塚を、正式に貰い受けたのは真田である。大学卒業後、父が営む系列企業の中でも最低ランクだった芸能事務所に追いやられた時、自身の片腕として引き抜いた。
 別に、格別気があったというわけではない。ただ、自分に似ていると思った。愛人の子ゆえに、また生粋の日本人ではない特殊な容姿を持つゆえに、家庭でも地域でも、いつも孤立していた自分自身と。
 それが二十二の時で、以来、耳塚恭一郎は、つかず離れず、ずっと真田の傍にいる。
 真田の全てを知る、この世界で唯一の男。
「そう、あの時と同じで、どこも、真っ向から、真実を書こうとする者はいないでしょう。サンライズテレビには最大の警告をしました。スポンサー二社の引き上げの可能性。当面は大人しくしていると思います」
「……今回の騒動、サンテレの狙いはなんだと思う」
「真咲しずくを援護することによって、唐沢を失脚させることにあったのでしょうな、それだけ唐沢を恨んでいたということで、うちを本気で敵に回す気はありません」
 耳塚はそこまで言って、口を半開きにして、声もなく笑った。
「ハリケーンズもシズマも、その名は決して表舞台に出させはしません、私の目が黒いうちは」
 ネットで検索してでさえ、シズマの名前は出てこない。
 耳塚のこうした徹底振りは、真田でさえ、舌を巻く時がある。
 ボスが納得したのを察したのか、耳塚の目に、ひそやかな笑みが浮かんだ。
「うちの強みを、というより、ご実家の持つ強みを、最大限に利用させてもらいましたよ。これからもその手法で、シズマの記事は徹底的に潰していきます」
 耳塚は、最後にそう言って報告を締めくくった。
 今は亡き真田の父は、日本を代表する銀行、東京銀行の創始者であり、その一族は、今でも金融業会のトップに名を馳せ、いくつかのグループ企業を有している。
 過去、現在に渡り、金融業会の取りまとめ役として、絶大な影響力を持つ真田一族。
 テレビ局にとっても、どの雑誌社にとっても、親会社が取引している銀行、ことにメインバンクの存在は絶対だ。
 芸能界最大のスキャンダルが、奇跡のように近代芸能史から抹殺されたのは、真田のバックにあるそういった影響力に、メディア各社が畏怖したからに他ならない。
「そういうわけですので、この件についてはご安心ください。そんなことよりも」
 表情の読めない目で、耳塚はゆっくりと真田を見上げた。
「肝心なことをお忘れではないですかね、J&Mなど、しょせん会長にとっては大事の前の小事にすぎないのですよ」
「わかっている」
「こと、シズマのことになると、会長は冷静ではいられないようですな」
「冷静だ、シズマ云々ではない、これはうちの会社の記録がかかった勝負じゃないか」
 それでも、苛々と、真田は親指を唇にあてた。
「St. ft Takeshiが、正体を明かしたRENの告白どおり、“君がいる世界“と“奇蹟“の双方を手がけたとすれば、奇蹟もまた、静馬の作った曲ということになる……」
 独り言のように呟く。
 しかしそれは、にわかには信じがたい。
 「君がいる世界」は、明らかに静馬の作った曲である。真田がよく知る若き日の静馬の癖が、思想が、情熱が、随所に満ち、溢れている。
 曲調や歌詞で、真田にはすぐにピンときた。これは、おそらく――静馬がデビュー前に手がけた作品だろう、それも十代の、かなり早い段階に。
 しかし、「奇蹟」はまるで違う。静馬の曲にしては爽やかすぎるし、リリカルで、そして前向きすぎる。いくらRENが独自アレンジを手がけたとはいえ、真田の知らない、まるで別の人間が作った曲としか思えない。とすれば。
「……売り出すための戦略か」
 真咲真治の遺児。
 いかにも小ざかしい、あの女のやりそうなことだ。
 おそらく「君がいる世界」は、真咲真治が秘蔵していた一作だったのだろう。それをあの女が持ち出してRENに売った。
 報酬は――「奇蹟」の楽曲提供。
 おそらく「奇蹟」は、静馬ではなく、REN1人が手がけた曲だ。
 そこに「君がいる世界」の謎の楽曲提供者の影を滲ませて、双方を売るという戦略だったに違いない。
 それにしても。
「……君がいる世界」
 真田は呟く。
 全て押さえたつもりが、たった一曲、指の隙間から零れていたということだ。
 それだけが、慙愧に耐えない。
「いずれにせよ、真咲サイドが、静馬の名前をマスコミに出した時点で、この勝負はジ、エンドだ」
 言い差して、真田は白い眉をようやく開いた。
「外国帰りのお嬢様はご存知ないかもしれないが、その点、唐沢君はよくご存知だ、おそらく今頃蒼白になって、お嬢様の説得にあたっているだろうがな」
 なぜなら、真田は、ハリケーンズが東邦を離脱する際、静馬が作った曲の全てを買い上げているからである。
 デビュー前の作品、そして万が一発掘されるかもしれない未発表の作品も含め、全ての曲の版権を――さらに言えば、ハリケーンズとしての一切の映像、及び写真の使用権も同様に取得している。
 君がいる世界が、初期の静馬の作品なら、無論その版権は、真田にあるはずなのだ。
 それは、唐沢直人もよく知っている。
 そして、もう一つ。
 これは、唐沢直人も知らないかもしれない。静馬が、かつての仲間たちに、何も言い残さずに死んだのだとしたら。
 もう一つ、真田は、静馬自身と“契約”しているのである。
「万に一つの可能性として、奇蹟が、ハリケーンズ解散後に静馬自身が作った曲だとしても、だ」
「例の契約がある限り、結局は同じことですな」
 耳塚が、あきらめたようにその後を継いだ。
「そうだ」
 真田はゆっくりと立ち上がった。
「RENの口から、静馬の名が出れば、その契約を持って、「君がいる世界も」「奇蹟」も、著作権違反として訴えることが出来る。使用差止め、そして永久に闇に葬るだけだ」
 皮肉なものだ。
 謎の楽曲提供者を売りに、セールスを伸ばそうという魂胆だろうが、真実の楽曲提供者の名前が出ることが、彼らにとってはデッドエンドになるのだから。
「真咲しずくと、至急コンタクトを取ってくれ」
「警告なさるので」
「通告だ」
 自身の眉が、わずかに震えるのを真田は感じた。
 そう、誰も、静馬の世界を勝手に汚すことは許さない。
「“奇蹟”と“君がいる世界”は、ただちにCDの出荷を中止し、各メディアから完全に撤退しろといってやれ、期限は今週いっぱいだ、それを過ぎれば法的措置に移行すると」
 そう言いながら、真田は内心思っている。
「奇蹟」は……おそらく、違う。
 静馬の曲とは別ものだ。心境の変化があったとしたら事件後だが、あれから、静馬はアルコール依存が進み、曲が一切作れなくなった。
 まず、あんな爽やかな楽曲が作れるような状況ではなかったはずだ。
そして、事件前の、まだ若く、血気さかんだった頃の静馬が、こんな浮かれたラブソングを作れるとは思えない。
 そう、あれは、私の愛した静馬の作る曲ではない。
「筑紫を呼べ」
 真田は、腹心のゴシップ記者の名を言った。
「万が一真咲しずくが要求を聞かず、静馬の名前がマスコミ出た時には、この、一種の詐欺めいた売り方を大々的にリークさせる。騒ぎが大きくなっているだけに、ストームには大きなイメージダウンになるだろう」
 静馬の曲であってもなくても、その名前を出せば、ストームは終わりだ。
 いってみれば、「奇蹟」売り出し戦略は、ギリギリのラインをかろうじて保つ、危ういものだといってもいい。謎のアーティストを売りにしながら、その謎が解けた途端、全てが終わるというパラドックスを抱えている。
 馬鹿な女だ。
 まぁ、それでも、唐沢よりは多少活きはよかったが。
「それから……美波に連絡を入れろ」
 真田はシガーを持ち上げた。
「願ってもいないきっかけを、あのバカ社長が自ら提供してくれた、今なら、貴沢秀俊は簡単に移籍話に乗ってくる」
 心得ているのか、耳塚はそれには返事もしない。
 そういう意味では、本当にバカな男だ。
 唐沢の息子――唐沢直人。
 真田に言わせれば、父親の足元にも及ばない小鳥。
 自らが持つには過ぎた至宝を、使い切れずに、今、手放そうとしている。
 俺が、J&Mを見逃すとでも思ったか。
 真田は薄く微笑する。
 油断して、事業を必要以上に拡大したのが、運のつきだ。今のJは、面白いほど隙だらけで、そして、真田が打った布石は、確実に功を為しつつある。
「………誰も、静馬を語ることは許さん」
 真田は呟いた。
 シガーに火をつけ、窓越しの、暗く翳る空を見上げる。
 誰も――将、そう、例え君であっても、許しはしない。
「そういえば、静馬が死んだ後」
 耳塚の声が背中で聞こえた。
「いきなり会社に押しかけてきた、若い女がいましたな」
 そんな騒ぎがあったな、確か。
 紫煙が、窓ガラスを伝って上昇していく。
「……静馬は、死んだ」
 振り返った真田は微笑した。
「あいつとの真実は俺1人の胸の中にある。それで十分だとは思わないか」
 それには答えず、モンスターはわずかに眉を動かしただけだった。









※この物語は全てフィクションです。



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