11



「原因も、治療法もはっきりとはわかりません、若年性のアルツハイマー」
「……………」
「最終的に、医師が下した診断が、これでした」
 しずくは無言で、ガラス窓の向こう、木漏れ日が差し込む緑の中、ベンチに腰掛け、静かな面差しで読書をしている男を見つめた。
「……ここは、私立の、長期療養患者を対象とした医療施設です。完全介護つきで、プライバシーも絶対に守られる。そういう意味では国内一で、料金もとんでもなく高い。様々な人が入所している――多くは、ご家庭の都合で他見を避ける患者さんばかりですが」
「……おじさまは、いつから?」
 しずくは、感情をぎりぎりで堪えながら言った。
 海岸線のすぐ傍のせいか、ひっきりなしに、波の音が聞こえてくる。院内の面会室は、昼時間のせいか、しずくと松本崇――二人以外の人影はなかった。
「入所を決められたのは、今月です。今は、1日の内、数時間ほど、記憶が途切れるだけなのですが、まだ元気なうちに、できるだけ専門的な治療を受けたいとのことで」
「ここで生活しているの?」
 しずくはさすがに眉を上げた。
「………身寄りもありませんし、人に世話になることを、何より嫌う方なので」
「……………」
 誰よりも格好つけたがり屋で、おしゃれで、粋で――。
 城之内慶の若い頃を知っているしずくには、彼の気持ちがよく判る。
―――だから、お葬式の時も……
 挨拶だけすませ、すぐに帰宅してしまったのだ。
「そんなに、ひどいの?」
「………簡単に言えば、痴呆ですから」
「……………」
 それは、胸が軋むほど辛い現実だった。
「会って話したいんだけど」
 それには、松本は静かに首を振った。
「いずれ、城之内さんが、ご自分の口から打ち明けられると思います」
「父は知ってたの」
「黙っておられたのは、社長なりのプライドなんでしょうが、……急激に症状が進んだのは、やはり、真咲氏がお亡くなりになられてからのことでしたので」
 建物の中から、看護婦のような人が出てきて、背後から城之内慶に声をかけている。
 慶は素直に頷き、立ち上がって建物の中に消えていった。
「少しずつ、薄紙を剥がすように、今の記憶を全てなくしていくんです。残酷な病気だと思います」
 それを見つめていた松本は、静かに言って、嘆息した。
「事情を知っておられるのは、唐沢専務と取締役の2人だけです。いずれにせよ、城之内社長は、社長職を退かれます。問題は、その後継だ」
「……………」
 しずくは黙って、立ったままの松本を見上げた。
 顔立ちは滑稽だが、彼が切れ物だと評されているのは間違いないと思っていた。
 しかし、まだ判らない。
 先日の美波といい、今日の城之内の件といい、社内のトップシークレットを彼の立場で知りえているということ以上に、それを、しずくに打ち明けてくれるということに。
「あなたの目的は何?」
 しずくが正直にそう問うと、男はわずかに眉を寄せた。
「私についても、何の特にもならないわよ。知ってるでしょ?私、日本を出るつもりだし、これからは、会社には一切無縁の人になるのよ」
「………僕の立場は」
 松本は、言いにくそうにうつむき、そしてしずくの隣に、少し距離を開けて腰掛けた。
「……あなたが考えているのとは、少し違う。この場合、純粋に中立だといってもいいと思います」
 その刹那、彼の容姿に、はにかんだような不思議な苦笑が浮かんだように見えた。
 それは、今の話とは、ひどく場違いな笑い方に思えた。
「会社は、直人氏が継ぐことになるでしょう。それは、城之内氏の意思でもあります。が、同時にもう一人の創業者の意思がある、それは」
「…………」
「真咲氏は、あなたにそれを望んでおられたということです」
「………無理よ」
 そんな話になるかもしれない。そう思っていたしずくは嘆息する。
 父には悪いが、そんな面倒なことに首をつっこみたくはない。それに、会社経営の知識なんて、ゼロに等しい。無理だという以前に、それは無謀だ。
「あなたに会社経営がないのは、みなさん百も承知の上の話なんですよ」
「…………」
「会社には、常に新しい風が必要だ――どこか、とんでもない場所から吹いてくる風が」
 松本は、そう言って苦笑した。
「少なくとも、あなたに会社経営に関わって欲しいというのは、城之内社長のお気持ちでもあります」
「彼は直人を押しているんじゃないの」
「経営面では確かにそうです、しかし、根幹は違う。というより、根本的な部分で、城之内氏と真咲氏とは、同様のお考えなのだと思います」
「………?」
「株ですよ」
 株。
 しずくは眉を寄せていた。
 昨日も証券会社の営業担当から電話があって、売却を暗に催促された。
 いずれ手放すつもりではあるものの、その売却先については、さすがに慎重に検討しようと思っている。
 松本は立ち上がり、射るような目でしずくを見つめた。
「城之内社長は、持ち株全てを生前贈与する予定なのです。すでに、正式に遺言状もしたためられている。その五割を、社長はあなたに譲るつもりでおられるんです」
「私?」
 思いもよらない言葉に、しずくはさすがに眉をあげていた。
「そうです。結果として、あなたは――真咲氏が遺された持ち株とあわせると、絶対的な権限を持つ、誰一人逆らえないほどの保有率を持つ、当社の筆頭株主になる」
「……………」
「判りますか、だから、唐沢氏は、あなたの株式売却を急がせているんです」



                  12


「男が男を好きになる気持ちって判る?」
 しずくがそう聞くと、無言で横顔を見せていた男は、はじめて眉を大きく開けた。
「珍しく無口だと思ったら、なんの話だ、今夜は」
「うーん、こればっかは想像すらできなくて」
「…………」
 静馬は、部屋の片隅で、いつものように彼の兎の世話をしていた。
 遅い夕食の後、しずくは、テーブルの上を片付けている。
 今日は和食であっさり決めてみた。――とはいえ、例によって寡黙な男の口にあったのかどうか、それはよく判らないけれど。
 鍵のない部屋に、無断であがりこんでの押しかけ女房?とは少し違うものの、そんな真似を始めて何度目かになるが、静馬は特に拒むでもなく、しずくの話の相手をしてくれる。
「お茶、飲む?」
「ああ」
―――なんか、こう……。
 キッチンに向かいながら、しずくは少し、浮き立つ気分を感じている。
 いい感じなんだけど、これって、なんだろ。おかしいかな、パパと同じ年くらいの男の人に。
「惚れるっていうのは、わからない感覚でもない」
 卓上に淹れたての緑茶を出すと、静馬が考えるような目でそう言った。
「同じ意味でしょ?」
「少し違う」
 しずくは立ち上がり、閉めてあった窓を開けた。今夜は蒸し暑くなりそうだ。
「男惚れってやつだ、恋愛のそれとは違う」
「ふぅん」
 頷きながら、それは、なんとなく判るような気がしていた。
 多分、父の真冶は、ここにいる静馬に「惚れて」いた。基本、女好きだった真冶がそのすじの人とは思えないし、想像もできないけど、確かに――惚れていたのだろう。
 多分、父だけでなく、唐沢省吾も古尾谷平蔵も、きっとこの男に「惚れて」いたのだと思う。
「あなたも、誰かに惚れていたの?」
「…………」
 静馬は少し、考え込むような眼差しになる。
 最近、こんな風に、時々だけど、素の表情を見せてくれる。それが、しずくには少しだけ嬉しい。
「俺は誰にも惚れたりはしない」
「ふぅん」
「自分だな、強いて言えば」
「あはははっ」
 結構、面白いことも言う。しずくが笑い続けていると、男はむっとしたように再び口をつぐんでしまった。
「男が男に惚れるのは、時に女よりやっかいだ」
「……そうなんだ」
 やがて、風がひそやかに室内の熱気を冷ましていく。
 先に言葉を発したのは、静馬だった。
「男のそれは、ある意味女より情がこわいものかもしれない」
「……………」
「どうしたって手に入らない時、愛情は所詮、憎しみに変わるからな」
(僕は、来月いっぱいで事務所を辞めます)
(独立します、この世界で自分だけの城を持つ、それが、僕の最初からの夢だった)
 全てを打ち明けてくれた後、松本は、はじめてみせるようなすっきりした顔でそう言った。
(僕もまた、立場上、そうせざるを得なかった。独立しても、その後、Jの圧力で潰されてはたまらない。唐沢氏と僕の、暗黙の取引でした)
 彼もまた、唐沢直人が使ったカードの一枚だった。美波がどれだけ松本を信じていたか、それを知っているだけに、しずくは余計に胸が痛む。
(美波さんは、いずれ彼女のことを公にし、結婚したいと考えるでしょう。おそらく唐沢さんは頷かない。どんな手を使っても止めようとするはずだ)
(裏切り者が何を言う、と笑わないでください……僕が、美波さんにしてあげられることは、もう、こんなことくらいしかない)
(僕は彼が好きだった……この感情を、理解してほしいとは思いませんが)
―――私に、何をしろっていうのよ。
 事務所に残れというんだろう。
 失脚した古尾谷に代わり、これからはじまる唐沢政権の、最後の砦になってくれと。
「どうすればいい?」
「何が」
 煩そうな返事が返ってくる。
「………苦境にたたされるかもしれない友人がいるとして、助けてあげるべきだと思う?」
「助けたきゃ、迷わずそうすればいい」
「…………」
「迷うようなら、よすんだな。他人の人生だ、中途半端に首をつっこむようなら、何もしない方がいい、そいつの人生はそいつのものだ、自分で切り開いていくものだし、所詮、お前には、まだ何もできないだろう」
「…………まだ?」
「自分の人生の腹も括っていない、そんなお前が首をつっこんでも、間違いなく何もできない」
「……………」
 なんとなく、そんな風に言われるような気がしていた。今の、この人の気質なら。
 誰の助力も得ない代わりに、誰の助けにもなろうとはしていないんだろう。
 昔は――こんな人じゃなかったんだろうけど。
「そいつが好きか」
「えっ」
 意外な言葉にしずくが驚くと、静馬はかすかに苦笑した。
「そいつの人生」
「…………」
「まるごとひっかかえる覚悟があるなら、中途半端でもいい、いくらでも助けてやれよ」
 好き……とは、違う。
 恋愛感情とは違う部分で、共感はしているけれど。
 しずくが戸惑っていると、静馬は初めて楽しそうに笑って立ち上がった。
「そういう意味なら、俺にも惚れた奴らがいる。そいつらのことは、命に代えても助けてやる。男の惚れたはれたは、けっこう命がけなんだぜ」



                  13


「あたしがやるからいいよ」
「いい、お前こそもう帰れ」
 一緒に流しの前に立ちながら、しずくは殆ど目線の変わらない男を見る。
 肌には、さすがに年が現れている。けれど肉体は引き締まっていて、Tシャツから覗く腕が逞しかった。
 シャツと褪せたジーンズ、いつも、何気ないスタイルをしているが、全体のセンスというか、雰囲気とでもいうのだろうか、そんなものは、いつも洗練されていて、隙がない。
 父親の仕事がら、彼くらいの年になっても素敵な男性は沢山知っている。
 が、その中でも、彼は格別という気がした。
 こんな場末のバーで、バーテンをさせているのは、絶対に惜しいほど。
 静馬がふと視線を向けて、わずかだが、2人の視線が一時あった。
 綺麗な目。
 こんな目で、本気で見つめられてしまったら。
「……………」
「……………」
 微妙な沈黙の後、それを先に男がそらす。
「何?」
 多少の動悸を感じつつ、それを誤魔化してしずくが言うと、
「真公と目線が同じで気味悪い」
「………………」
 あ、そういうことか。
 がくっとした。
 まぁ、そうよね。年の差考えたら、まるっきり対象外か。
「パパより二センチも高いの」
「そりゃ、伸びたもんだ」
「そんなに似てる?」
「最初見た時、あいつが女に化けてでてきやがったのかと思った」
「あははは」
 楽しいな。
 こんな楽しい時間、本当にどれだけぶりだろう。
 誰かと2人で台所にたつなんて、そして、一緒に食事をして、夜が更けるまで色んなことを語り合う。
 パパが、若かった頃みたい――。
 父と娘の2人きりの日々、父は、しずくにとって、恋人でもあり兄であり、夫のような存在でもあった。長い人生を、苦も楽も共に、2人きりで連れ添って生きてきた同志。
 帰り支度をしていると、パタン、と扉の閉まる音がした。
 確認しなくても判る、静馬が出て行ったのだろう。
 彼がこんな時間に出て行くのはよくあることで、一度泊まった朝方もそうだったが、多分、ランニングでもしているのかな、としずくは内心思っている。
 身体をなまけさせていないことは、その体型を見てもよく判る。
 最後に、ゴミを出そうと玄関に出たしずくは、足元の兎のかごに目を留めた。
「……………」
 もしかして。
 この兎が、静馬にとっての連れそう相手だったのかもしれない。この八年という時間の間。
 彼の優しい横顔は、この兎と向かい合っている時しか、絶対に見られないものだから。
「私が、その座、奪っちゃっていい?」
 なかば、冗談みたいにそう言って、しずくは自分の言った言葉に戸惑っていた。
―――もちろん、冗談だけど。
 それでも、一度決めた留学の日程も、ずるずると延ばしてしまっている。
 理由は、父の遺産の整理がつかないからだが、そんなもの、榊に任せてしまえばなんとでもなることも知っている。
 株式の売却も、いまだ結論が出ていない。唐沢直人からは、矢の催促というやつだが、いまだ態度を保留し続けているしずくだった。
 そいつが好きか。
 そいつの人生、まるごとひっかかえる覚悟があるなら、いくらでも助けてやれよ。
「………………」
 父の遺した会社、Oficce J&M。
 私、その場所を――本気で好きっていえるのかな。
 まるごとひっかかえる覚悟があるくらい。








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