14
「お久し振りです」
しずくを見下ろし、男はふかぶかと頭を下げた。
マンションの一室を事務所にした、仕事場。
その部屋の主、顔をあげた古尾谷平蔵の目は、心なしか赤くなっていた。
「葬儀にも出席せずに、失礼しました。私が行くと、混乱すると思ったものですから」
「そんな他人行儀はやめて」
しずくは少し笑ってから、出されたコーヒーを唇にあてた。
「音楽情報誌の編集長さんなのね」
「ミニコミ誌のようなものですが」
平蔵は、そういい、はじめて照れたような苦笑を浮かべる。
「小さな仕事しかもらえませんが、それでも、昔のツテでなんとか」
「楽しそうね」
少なくとも、ここ数年、むっつりと「名物マネージャー」をやっていた頃より、平蔵の顔はいきいきとして見えた。
「音楽」を語らせたら一晩でも喋っている彼が、元来、マネージャーなどに向いていないことを、しずくはよく知っている。
ああいう形での退陣は不本意だったろうが、実際、今、一人で身軽に仕事をしている平蔵は随分楽そうに見えた。
「海外に行かれるので」
「……うん、そのつもりなんだけど」
そこは、しずくも言葉を濁す。
実際、どうしていいのか判らない。
この人に、――そして城之内慶に、私は打ち明けるべきなのだろうか。
静馬が今いる場所と、そして境遇を。
「美波君と、話すことがあれば」
しばらく、父の思い出話をした後、古尾谷はうつむきながら低く呟いた。
「私が、謝っていたと、伝えてください」
「………………」
しばらく黙っていたしずくは、松本に聞いた話を口にした。彼の名前を伏せて――新会社設立の顛末に、唐沢直人の謀略があったことを。
古尾谷もそれは、わかっていたのか、さほど顔色をかえることなく、無言でそれを聞いていた。
「ひとつわからないんだけど」
話し終え、しずくはコーヒーで口を潤した。
「あなたが作ろうとした会社には、本当に東邦プロがバックについていたの?」
それを――あなたは、知っていたの?
「ついていました」
古尾谷は静かに頷いた。
「そして、私は知っていました。それでも構わないと思いましたし、実際、今のJ&Mに潰されないためには、東方プロの支援を得るしか方法はない」
「………………」
「なのに、最後の最後で迷いました。東邦プロとは関係なく、私が――彼らの人生そのものの責任を取る立場になるということに」
「……………」
しずくは黙って視線を下げた。
耳の中に、静馬の言葉が蘇る。
「美波君の迷いは、私の迷いから生じたものだ。……彼をいたずらに引っ張り回してしまった。本当に申し訳ないと思っています」
「いずれにしても、美波君は、同じ選択をしていたわ、きっと」
孤独だった彼が初めて愛した人を、あんな形で押さえられている限り。
「……………」
それには苦く笑い、古尾谷は自分も冷めたコーヒーを口にした。
背後で電話が鳴っている。古尾谷は席を立たなかった。
一度結婚し、子供までなした彼は、しかしすぐに妻と離婚している。
「………自分は……どこかで、静馬や真冶のようになりたかったのかもしれない。そんな柄じゃないと、わかっていても」
「……………」
静馬の名前がそこに出たことで、しずくは少しドキッとしていた。
「昔からそうでした。突拍子のないことを言い出すのが静馬で、それをなんなくやってしまうのが真冶です。僕らは、2人についていくだけの弱虫でしたから」
「静馬さんを……今でも待っているの?」
「……………」
しばらく無言だった古尾谷は、かすかに嘆息して立ち上がった。
「奴は、もう戻らないでしょう」
「……………」
「探し出す手立てはないわけじゃなかった。でも、誰もそうはしなかったんです」
え、
それには、しずくは驚いて顔をあげていた。
「静馬は戻らない、奴はそういう気性だからです。仲間に迷惑がかかると思ったら、奴は、絶対に戻っては来ない。探し出して説得しても、逆に手の届かない所に逃げてしまう」
「………………」
「戻ってくる可能性があるとすれば、」
それを、僕らはずっと信じていたわけですけど。
古尾谷は、寂しく笑ってそう言い添えた。
「彼が、自分でそうしたいと思った時だけです」
「…………………」
彼が。
自分で。
しずくの脳裏に、何故かふいに扉がひらめいた。
扉、そしてそれを開く鍵。
「僕らはずっと待っていた。ことに慶は、弟の性格を知り抜いているだけに悲痛でした。慶も真冶も何も言いませんでしたが、おそらく2人は、一度や二度は、静馬に説得を試みているはずです」
継ぎ足したコーヒーを手に、古尾谷は再び席につく。
「やがて老いを知り、かつての夢が本当の夢になってしまった時、慶の何かが変わってしまったんでしょう」
「……………」
「今の慶が……本当の慶だと、僕にはどうしても思えない、事務所の方針について、彼とは何度も話し合いました。でも無駄だった。慶の頭には、東邦の真田さんへの恨みと、商業的な対抗心しかない」
古尾谷はさびしげに細い目を伏せた。
「………弟の思い出と共に、大切な何かを、自分の中に閉じ込めてしまったとしか思えない」
誰の心にも扉がある。
そして、それを開く鍵が。
しずくは黙ったまま、じっと自分の手元を見つめていた。
15
「へぇ、今度の野良猫って、あんただったんだ」
玄関を掃いている時だった。
静馬はまだ、店にいる。
頭上から声をかけられ、かがみこんでいたしずくは顔をあげた。
ストレートの長い黒髪。潤んだような大きな瞳。
しずくはすぐに思い出した。
ここを訪ねた最初の日、怒りながら出てきた女だ。
「あいにく、ここの人が本気で可愛がってるのは兎だけよ」
「………何か御用?」
立ち上がったしずくがそう言うと、女は挑発的な目でしずくを見あげた。
「誤解しない方がいいわよ、彼、来るものは拒まない性質がたら」
メイクのせいもあるのだろうが、夜の世界の匂いがする。綺麗な女だった。年は、そんなにしずくと変わらない気がする。
「いつも誰かがいついちゃうの、野良猫みたいに、でも長続きしない」
「………………」
いつも鍵が開いている部屋。
しずくは、不思議な胸の痛みと共に、自然に視線を下げていた。
「私も、半年一緒にいたのよ、ここに」
「……で?」
で、これは性格だろうけど、すぐに負けん気がこみ上げてくる。父の口癖もあって、辛い時ほどにっこりと笑ってしまう癖。
案の定、女はむっとした顔でしずくをねめつけた。
「なんで私が出て行ったと思う?彼は、私なんか見てないし、眼中にもなかったの。彼が愛しているのは、今でも死んだ奥さんだけよ」
「………………」
死んだ。
奥さん――あの人だろうか。
子供時代、彼が連れ去っていったきれいな人。
足元で、兎が跳ね回っている。
「この兎は」
女は、冷めた目で、しずくの足元に視線を向けた。
「彼の奥さんの忘れ形見よ。出産の時に亡くなったんだって。無事に育ってればきっと子供と同じ年ね」
と、いうことは、子供も死んだということなのだろうか。
「よく知ってるのね、そんな昔のこと」
動揺を抑えてしずくが聞くと、女はついっと肩をそびやかした。
化粧のわりには、どこか子供じみた表情だった。
「うちのばあちゃんが、彼の店のオーナーだから」
「……………」
「言っておくけど、彼は病気よ」
女は、勝気な目でしずくを見あげた。
「今、よくなりかけてるの、悪い時はあなたなんかの手に負えないわ、痛い目に会う前に、とっとと出て行った方がいいわよ」
16
「あれ、なぁに」
洗濯物を取り入れる手を止め、しずくは思わず背後の人に聞いていた。
夜の街、薄っすらと浮き上がっている巨大な白影。
河をまたいだ遠景、その異様な形態は、どこか独特の印象をかもし出している。
「東京ドームだ」
「そうなんだ」
しずくははしゃいだ声をあげた。
昨年開場され、大規模な杮落としが行われた、日本初のドーム型球場。
「今まで全然気づかなかった、ここから見えるんだ、行ったことないんだ、まだ」
「へぇ」
壁に背を預け、雑誌をめくっている静馬は、興味なさげに答える。
「杮落としのオープニングコンサートにさ、うちの事務所が名乗りをあげたんだけど、速攻で却下、こういう時、アイドルの扱いって悲しいくらい低いのよね」
結局、東邦プロの新鋭アーティストが、その名誉の座を射止めた。
「パパ、でっかい祭りが大好きだからさ、……悔しがってたな、あの時は」
日本にも、あんなでかいキャパができた、これはすごいことだぜ、しずく。
元気になったら、二人で行こう、いつかJ&Mで、あのビッグエッグを満員にしてやろう。
その約束も、結局は果たされることはなかったけれど。
「…………………」
パパは、もしかして。
J&Mというより、袂を分かってしまった元の仲間たちと、あの巨大舞台に立つ夢をみていたのかもしれない。
「……戻ってこないの?」
しずくが呟くと、雑誌に目を落としていた男は、ん、といぶかしげな目をあげた。
「けっこう楽しかったな、今まで」
しずくは呟いた言葉をごまかして、室内に戻ると、空になった湯のみを持って立ち上がった。
「色んなこと教えてもらった。こんな言い方しても怒らない?」
壁に背をあずけ、無言で雑誌を読んでいる男からは、なんの返事もない。
「バーテンダーより、音楽学校の先生が向いてるんじゃないかしら」
「……………」
それか。
「誰か、………プロデュースしてみたら?」
彼の音楽理論と、知識、なにより歌に対する信念を、彼一人の世界で終わらせるのは、惜しいと思う。
彼がもう、自分で歌うつもりがないのなら。
「東邦プロの人と、色々……もめてるのは知ってるけど」
「……………」
「昔の話じゃない。今は、うちの事務所にも力がある。簡単にはつぶれないし、潰させないわよ」
「用がすんだら、帰ってくれ」
にべもない言い方だった。
「言われなくても帰るけど」
言い返しながら、しずくは、ようやく、決意を固めた。
「私とやらない?」
眉を寄せる男の前に、しずくは膝をついて座った。
「うちの事務所の大改革」
「バカバカしい」
「あなたとなら、できると思う」
一人じゃ、絶対無理だけど。
「言ったはずだ、はなから人を頼るくらいなら、手を出すな」
男は、しずくを押しのけて立ち上がろうとする。しかし、その手を、しずくは逆に掴んでいた。
「今、あなたがここにいるのも、生き方のせい?」
「………?」
「最初に言ったわよね、行動は今までの生き方で決まるって」
「……………」
「みんな、待ってるわ、何年も前から」
まちくたびれて、一人死んじゃったけど、もう。
「引き止められても、渇望されても、二度と戻らないのがあなたの生き方?それともハリケーンズって、そんなにどうでもいいグループだったの?」
「お前には関係ない」
ハリケーンズの名前を出した途端、男は目に見えて不愉快そうな目になって呟いた。
「前科があるから?そんなもの、百も承知でみんながあなたを待っていたのに」
「お前に一体何が判る」
煩げに腕を振りほどかれる。
「もう、曲が作れなくなったから?」
静馬は無言のまま、上着を羽織る。
玄関に向かう彼は、そのまま出て行ってしまうのだと思った。
「もう、前みたいに輝けないから?だから逃げてるの?みんな、あなたの男気を信じてる、でも本当は、今の自分に自信がないから戻れないだけなんでしょう?」
返事はない。
扉が閉まり、足音だけが遠ざかった。
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