1
「省吾の奴、……くそっ」
何度か目の舌打ちを繰り返す父の横顔を、真咲しずくは不思議な気持ちで見上げていた。
外は雨なのか、進行方向に沿って、車窓には行く筋もの雨粒が流れていく。
どこに行くんだろう。
夕暮れ間際の薄暗い車内。
凍てついた鋼色の空、褪せた土色の稜線が足早に形を変えていく。
東京駅を出て、いくつかめに乗り換えた列車は、席を埋める客もまばらで、外の暗さを反映してか、どの顔も一様に憂鬱そうに見えた。
再び目を閉じ、眠るふりをするしずくの隣で、父親が深いため息を吐く。
――――どこ……いくのかな。
遠足とか、旅行とか、そんな気楽な旅でないことだけは確かだ。
新幹線を降り、在来線に乗り換えて――まだ六歳のしずくに正確な場所は判らないけど、すでに東京を遠く離れていることだけは間違いない。
今日、滅多に早く帰宅しない父親が、まだ陽の高い夕刻前、血相を変えて戻ってきた。その尋常でない表情を見た時から、何かあったのだとは思っていた。
「泊まりになる、しずくは俺が連れていく」
と、いつも面倒を見てくれる隣家の女主に挨拶してから、すぐに父は、しずくの手を引き、待たせていたタクシーに乗りこんだ。
半年前、離婚した母が故郷に帰ってから、父と遠出したことなどない。しかも、明日はまだ学校があるのに、泊まりだという。
ここ最近、ずっと感じていた得体のしれない不安。家中を重苦しくしていた見えない影みたいなものが、ふいに実体になって飛び出してきたような気持ちだった。
しずくは、幼心に察している。
母がいなくなったのも、父が最近目に見えて痩せたのも、多分――かなり緊迫して、仕事が上手くいっていないからだろう。
今も、青みを帯びた父の横顔は、ひどく深刻な事態が起きつつあることを予感させるようだった。
終点駅、ようやくしずくは葬送車のような車内から開放される。
外は、小雨が降りしきっている。寒々とした駅構内は無人で、ばらばらと降りる人を掻き分け、父はすぐに公衆電話に駆け寄こんだ。
「ああ、俺だ、見つかったか?いや、こっちはついたばかりだ」
同じ駅で降りた人たちが、時折父を振り返っている。
どこにいても、人目につくほど綺麗な男、それがしずくの父親――元一斉を風靡したロックバンドのスター、真咲真治だった。
もう何年も前、ブラウン管より、むしろステージを中心に活躍していたスターは、音楽に興味のない一般人にはさほど顔は知れていない。
が、ハイネックのセーターにコート、そんなありふれた姿をしていても、切れ上がった妖艶な眦、玲瓏とした長い睫、白皙の額、鳶色の瞳と茶褐色の髪は――実際、怖いくらいよく目だっていた。
「いいか、直人君には何も言うなよ、省吾は絶対、俺が見つける」
―――直人君、
唐沢直人。
よく遊んだ少年の名前に、しずくは、黙って自分の足元を見た。
温厚で無骨な父親に似ず、妙に理屈っぽい、青白い秀才面をした少年。
年はしずくよりいくつか上のくせに、どこかひ弱で、しずくに言わせれば、情けないほどのファザコンだ。
―――じゃ、唐沢のおじちゃん、どこかに消えちゃったんだ。
父の電話で、ようやく事態が飲み込めた。
父が省吾――と言っている唐沢省吾は、父が創設したJ&Mという会社を経営している、たった4人きりの社員の一人である。
社員といっても、父を含めその4人は幼馴染であり、親友でもある。創立者、社員とは名ばかりの立場で、むしろ同志のような関係に近い。
そして、直人は、その中の1人、唐沢省吾の一人息子。入院中の母親と三人家族で、今は、会社があるビルの近くで暮らしている。
電話をしている父の傍を離れ、しずくは駅舎の外に出た。
庇の下から雨が降りしきる錆色の空を見上げると、灰色の曇天、尽きることなく落ちる雨だれが、しずくの髪を濡らし、頬に滴る。
―――パパの会社……倒産しちゃうのかな。
もともと無鉄砲な男たちの寄せ集めみたいな貧乏会社だったから、今までだって、「倒産騒ぎ」は何度もあったし、夜逃げも一度経験している。
が、ここ最近の深刻さが普通ではなく、子供心に、ひどく「やばい」状態だということは理解しているつもりだった。
父をはじめとするJ&Mの4人の男たち――時々、しずくの家に来ては、飲んだり騒いだりする陽気な人たちが、かなり深刻な顔で夜中まで話をしているのを、しずくは度々聴いている。
頑張ったがここまでだな
とか、
問題は、借金をどうするかだ
とか――
大抵話が煮詰まると、
「ま、なんとかなるさ」
と、呑気に締めくくるのは父親の真治の役目だったが、最近ではその声も聞こえない。
「しずく」
雨の中、ひとつの傘を差して歩きながら、父がおもむろに呟いた。
11月、すでには吐く息は白かった。
肌に感じる空気は刺すようで、外気は東京よりも随分寒い。
「お前、しばらく母さんとこ行ってみるか」
「………ママの?」
それって、フランスのパリとかいうところ?
「あんま、気乗りしないなぁ」
「行けよ、たまにはママに甘えてこい」
勝手に離婚しといてよく言うよ。
とは思うものの、しずくはただ、父の冷えた手を握り締めた。
最後の最後で、父親を選んで日本に残ることを決めたのはしずくである。空港で、泣いている母親を見送ったのは、まだ半年前のことだ。
人形のように綺麗だったけど、故郷を恋しがって泣いてばかりの辛気臭い母親より、しずくは強く――しなやかな青竹のように凛と逞しい父親が好きだった。
「お金ないなら、あたしが働いて稼いであげるよ」
「頼もしいけど、微妙にしゃれになんねえから」
ぞっとするくらいの美形のくせに、ざっくばらんで男気溢れる父は、どこかで人間の腹をくくっているのか、たいがい、どんな時でも平然としている。
が、今日は――というより、ここ数ヶ月は、どう無理を繕ってみても、憔悴を隠せない目をしていた。
「行かないよ、フランスになんか」
「貧乏は辛いぜ」
「慣れてるよ」
「どうかな、これでも、お前が生まれてから、ずっと景気がよかったんだ、お前は本当の貧乏をしらねぇよ、しずく」
「…………行かないよ、私」
父も、父を取り巻く三人の友人たちも、しずくは大好きだった。
ぎすぎすした痩せっぽち、心配性で神経の細かい――けれど、誰よりも心優しい唐沢省吾。
お相撲さんのような巨体、おっとりとして、無口だが、酒が入ると別人のように陽気になる古尾谷平蔵。
何をしても格好よく、頭の回転が速くて社交的、我侭なのが玉に瑕だが、4人のリーダー的な存在でもある城之内慶。
そして――真咲真治。
4人の中では最年長だが、肝心の発言権は、全て一つ年下の城之内慶に委ねている。
白熱する議論には常に蚊帳の外を決め込むくせに、問題が膠着すると「なんとかなるさ」の一言ですませてしまう。
そのいい加減さとざっくばらんさに、何故か三人は、安心して最後には従う。それはしずくも同じで――父の「なんとかなるさ」は、本当になんとかなりそうな、不思議な魔法の言葉だった。
この4人が、芸能事務所を経営している。
東京、六本木の雑居ビルに賃貸している事務所、「Office J&M」
設立当初は、城之内慶をボーカルにして、全員で「ジャムズ」というロックバンド組んでいたようだが、それは、多分、全然売れないまま活動停止になってしまった。一時、家のあちこちに在庫レコードが山積みになっていたから、それはしずくも察している。
今は若いロックバンドを全国から探し歩き、育てては売り出している。
しずくの記憶ではずっと生活は苦しいが、ここ二年くらいは、それでも事務所の羽振りはよかったらしい。時々家に遊びにくる若い男の子たちが、事務所に所属するアーティストで、彼らがそこそこ売れているのも知っている。
が――今年になって、彼らはぱたっとこなくなった。多分、辞めたのだ。しかし彼らの顔は、グループ名を変えてテレビには出てくる。つまり、よその会社に移ったということなのだろう。
多分、そんなことが重なって――元々の弱小事務所は、一気に凋落の一途を辿ってしまったらしい。
以前済んでいた家を引き払い、小さなアパートに移り住むようになった時から、しずくも薄々理解している。今、相当ひどい状況なんだな、と。
「弱音吐くなんて、パパらしくないね」
歩きながらしずくは言った。多少の憤りもあったが、本心は別にあった。
どうしても、父の一言が聞きたかった。
でないと灰色の凍える世界で、心までも頼りなく揺れてしまいそうになる。
「強がりにも限界ってもんがあらぁな」
「限界なの?」
「ま、そんなとこだろうな」
「だから、唐沢のおじちゃんがいなくなったの?」
「………………」
それには、父は答えてはくれなかった。
いつもみたいに、「なんとかなるさ」
そう言ってもらえないことに、しずくは初めて、胸の底にまで雨がしみていくような寒さを感じていた。
2
「……そうですか」
そう呟く父の横顔にも、声にも、はっきりと落胆の色がある。
「お役にたてなくて、もうしわけないです」
外の寒さで凍てついた身体が、生き返ったような暖かな室内。
しずくの傍らでは、橙に燃えるストーブの上、ヤカンが音を立てて蒸気を噴出し続けている。
―――ここ、どこだろ。
父の隣で黒い長いすに腰掛けたまま、しずくは所在無く室内を見回した。
去年まで通っていた幼稚園の事務所に似ている。灰色の書棚、薄汚れた机、息苦しいほど狭い室内。何もかも塵ひとつなく綺麗に片付けられているのが、かえって物悲しい。
―――……前もきたかな?
記憶があるような、ないような、不思議な感覚。
「いきなり、たずねてきて、もうしわけありません」
「いえいえ、懐かしいお顔でしたから、驚きましたけども」
父と対面で話しているのは、化粧気のない顔に、深い皺を刻んだ老女だった。
「それにしても、ご心配なことですねぇ」
高齢のせいか、表情の動きがどこか鈍い人だった。半分白く濁った髪は、後ろでひっつめに結んで、眼鏡のレンズ越しの目が、妙に大きい。
ゆったりとした青緑のドレスのような衣服を着て、顔立ちは品性のある優しげなものだが、引き締まった唇だけが、意思の強靭さを滲ませているようにも見えた。
「真咲さんや城之内さんには、随分お世話になりまして……あの当時、子供たちがどんなに喜んだか」
「ずっとご無沙汰していて、申し訳ない」
「いいえ、あなたがたは、私どもの希望の星ですわ」
そんな会話の最中、ふいにしずくは、強い視線を背後に感じた。
振り返ると、狭い出入り口の引き戸、ぱっと顔が引っ込むのが見えた。
「少し、待たせてもらってもいいですか」
思い出話が途切れると、出されたお茶を飲み干した真治は、そう言って顔を上げた。
「なんの根拠もないカンですけど、どうも――省吾の奴、ここに来そうな気がするんです」
「いいですよ、なんでしたら、泊まっていかれても」
対面に座ったままの婦人は、そう言って眼鏡ごしの――ぎょろりとした優しい目でしずくを見下ろした。
「本当に綺麗なお嬢様だこと、随分大きくなられたのですね」
「性格も俺に似て、おおざっぱで」
隣の父が、そう言ってしずくの頭に手を載せる。
「今日は、誕生会で特別な催しもあるのですよ、子供たちも喜ぶと思いますし……よかったら見ていかれませんか?」
「いや、それはまた次の機会に」
父は、余裕のない顔で立ち上がった。
その父が、がらり、と、すり硝子の引戸を開ける。中庭に面した渡り廊下、寒さが一気に全身に襲いかかってきた。
「ここ……前も来たの?」
やはり誰かの視線を感じつつ、しずくは部屋を出た父の後を追って歩いた。
雨が降りしきる園庭には、錆びた遊具が点在している。その傍を延々と続く木張りの廊下。廊下は半ば濡れていて、三分の一が黒ずんで腐食していた。
学校――とも違う。塾……でもない。
コの字型の廊下行く先には、塗装の剥げた緑色の三角屋根。かなり朽ちた木造二階建ての、小学校の校舎のような建物がある。
気がつけば、しずくと同じ年頃の子供がいたるところにいて――窓からも、柱の影からも、ひっそりとこちらをうかがっているようだった。
「来たな、昔はここでチャリティライブ…って意味わかんねぇか、そんなことしてたんだ、お前もいっぺんだか、連れてきてやったことがあったよ」
「……ふぅん」
「ここはな、慶と静馬が育った施設なんだよ、親のいない子供が暮らす家だ」
「………………」
慶。
城之内のおじさんのことだ。
そして静馬とは、しずくは写真でしか見たことがないが、城之内のおじさんの弟。
「昔、話してやったろう、ここは慶と静馬の家で、俺たちにとっては思い出の場所なんだ」
「なんで?」
しずくが聞くと、真治は、今日始めての笑顔を見せた。
「ここが、俺たちハリケーンズが生まれた場所だからさ」
「……………」
ハリケーンズ。
父が、城之内のおじさんと、そして今はいない、静馬というおじさんの弟と――三人でやっていたというロックバンド。
しずくは、それを、八ミリフィルムと、レコードの世界でしか見聞きしたことがない。
静馬という人が、何故、会社にいないのかは判らない。が、彼が――父でさえ一目置く存在だということだけは知っていた。
父だけでなく、J&Mを経営しているメンバー全員――城之内慶、唐沢省吾、古尾谷平蔵、その全員が、誰より慕い、頼りにしているのが静馬という男だと。
「ここで、初ライブをやったんだ、いってみりゃ五人の結成式みたいなもんだ」
父の目は、当時を思い出したのか、わずかだが優しくなる。
「五人?」
「その時の、メンバーは5人だった。俺と、慶と、静馬と、……それから省吾と平蔵だ」
「なんで三人になったの」
それは、初めて耳にする話だった。
レコードのジャケットにも、フィルムにも、ハリケーンズのメンバーは三人しかいない。
「さぁな、デビューが決まって……ま、説明が難しいよ、それに最初は、ハリケーンズって名前でもなかったしな」
「どうして?」
「最初のグループ名は静馬がつけたんだ、それを俺が、かっこ悪いってんで強引に変えた。静馬は、あの時のことをしつこく根にもってたけど」
父が、ひどく楽しそうにそう言った時だった。
「真ちゃん!」
背後から声。
振り返ると、靄のような空気の中、渡り廊下の向こうから、息せきって巨体が駆け寄ってくる。
古尾谷平蔵。
縦にも横にも大きな男は、細い目をすがめて苦しげにせきこんだ。
しずくの手を離した父の顔が、目に見えて厳しくなる。
「ばかやろう、お前までここに来てどうする」
「心当たりは全部探した、やっぱり俺も、ここじゃないかと思ったんだ」
「直人君はどうした」
「慶ちゃんとこに預けてきた」
2人の会話を聞いていたしずくを、真治は、はじめて怖い顔で見下ろした。
「しずく、さっきの部屋に戻ってろ」
「……うん」
かなり――事態は深刻なんだろう。
いったん、父の言いつけどおりにしようと思ったしずくは、しかしそのまま、こっそりと彼らの背後に戻っていた。
「………奥さんの話だと、遺書も残してるらしい」
「警察に通報するか」
「………あの、ばかやろう……っ」
柱の影に立つしずくに、そんな会話が、きれぎれに聞こえた。
「会社は清算して、とにかく、借金はなんとかして返そう」
「しかし、働いて返せる額じゃないぞ」
「仕方ねぇさ、他にどうしようもねぇだろう」
心臓が。
ドキドキする。
こんな怖い、父親の横顔は初めて見た。
「今回のことでよく判ったよ、この世界で何をしたって、しょせん、あいつに潰されるんだ」
悲痛な声でそう言った古尾谷が、拳を握り締めて真治を見下ろした。
「暖かく見守るって……そういうことだよ、俺たちが低迷してる内は、がんばれだのなんだの甘いこと言っても、いざ出ようとしたらこうやって潰しにかかる」
「……………」
「真ちゃん、あいつの狙いは昔も今も静馬なんだ、静馬の居所が判らない内は、何をしたって俺たちを追い詰める、借金だってあいつの口車で」
「借金と静馬は関係ねぇだろう!」
初めて聞くような、父の、怒った声。
しずくは身体を強張らせたまま、その場から動けないでいた。
なんか、辛い。
音楽は奇蹟を起こすって、それ、パパの口癖だったけど。
今、その音楽に、追い詰められているような気がするのは何故だろう。
ふいに、暖かなものに手を包まれたのはその時だった。
※この物語は、全てフィクションです。
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