6


「いいの……本当に」
「いいよ、今、誰もいないんだ」
 そんなこと言われても。
 真白は躊躇したが、周囲を見回した澪に腕を引かれ、そのまま部屋の中に引き入れられる。
「鍵、俺が持ってるから、誰も入れない」
「………澪、」
 笑う澪が、というより、こんな大胆な真似をする澪が、真白にはまだ信じられない。
 殆ど同じつくりの部屋。綺麗に並べられた四組の布団。
 真白は緊張して、澪から離れて、窓辺に立った。
「ここ、澪の部屋?」
「うん、雅と聡君と、小泉君が一緒」
「他の人たちは、どこ行ったの?」
「打ち合わせ、雅は将君たちの部屋でだべってる」
「本当に戻ってこないの?」
 近くなる体温。背後で、澪がかすかに笑う気配がした。
「さっきから質問ばかりだね」
「だって……」
「大丈夫だよ」
 背中から腕が回され、抱きしめられる。
 あ……
 澪の匂い、澪の体温。
「……つか、俺がもう狂いそう」
 少し掠れた、澪の声。
「ずっと真白のことばっか、考えてた」
「澪……」
 唇を合わせながら、澪が窓の障子を閉める。
 あ……この感じ。
 背中がぞくぞくして、胸が、しびれるほど痛くなって。
(初めてキスした時のこと、覚えてます?)
―――私……それ、澪じゃないんだ。
 互いに唇を開き合って求める、甘いキス。
「澪……」
「ん?」
「初めてのキス、覚えてる?」
「覚えてるよ」
 見下ろす目が笑っている。
「真白がすごく可愛かったから」
 そういう、意味じゃなくてね。
 私以外の人と……澪は、きっと、何回もキスしてると思うけど。
 感覚の差ってあるのかな。私は、少なくとも。
 背中に回った澪の手が、浴衣の紐を解いて引き抜く。
 仰向けに倒されて、真白はようやく我にかえっていた。
「ま……、って」
「何?」
「だって、ここ」
 このお布団で、もしかしたら、成瀬君かマネージャーさんが寝るかもしれないのに。
「俺的には、もう待てない」
「やだ、お願い、今日はやめようよ」
 多分、避妊の用意だってない。この部屋で、シャワーを浴びるわけにもいかないし。
「だめ、やめない」
「やっ……」
 ささやかな抵抗は、すぐに意味をなさなくなる。
(多分、女性の身体って、その時に、何かの快感神経が刺激されるように出来てるんですよ。キスっていうか、男性に求められてる自分を感じた時に)
 亜佐美の言葉を思い出し、真白は頬を赤くして顔をそらした。
―――私……。
 宴会の席で、澪の目を観たときから、ずっと、こんな風になりたかった。
(で、その快感が欲しくて、何度も同じ行為を求めちゃうんです。それを恋愛と錯覚する、それは一種の中毒症状なんだけど、気がつかずに)
 これは錯覚なんだろうか、私にとっても、澪にとっても。
 体が覚えこんだ甘い味を、まるで中毒のように、何度も繰り返し求めているだけ。
―――でも……私は、
「……澪……好き……」
「俺も、」
 忙しない結合、唇で必死に互いを求めあう。
 真白は、澪の浴衣を掴む。
 もどかしげに澪がそれを肩から下ろし、互いに半裸のまま抱きしめあった。
 あったかい。
 心臓の音……私と、澪の。
「来てくれて……うれしかった」
「うん」
「ごめんな、嫌なのに無理させて」
「ううん」
 かぶさってくる澪の顔、長い前髪を、真白は指で払ってやる。
 そのまま、そっとキスをした。
「まだ、ファースト?」
「え?」
「ピアス」
「うん……もう少し」
「俺がつけるから、自分で外すなよ」
 子供みたい。
 苦笑して、もう一度唇を合わせた。
 私、初めてじゃなかったけど、澪。
 誰かとキスして、こんな気持ちになったのは、澪が本当に初めてだよ。
 まるで体全体が、その瞬間知ったみたい。
 私がずっと待っていたのは、この人なんですって――。
 

                  7


「何の用ですか」
「いや、そんなにつっけんどんにしなくても」
 どこか気まずそうに髪に手を当てた海堂碧人は、少しの間、妙に視線を泳がせていた。
 温泉にでも入った帰りなのか、浴衣の髪が濡れている。
「ちょっと、いい?」
「部屋、私1人なんで、今、出られないんですけど」
 鍵をかけてしまえば、同室の三人が戻ってきた時、困る。
 てゆっか、そもそも何の用?
 凪は、微妙に不信感を抱いたまま、目の前に立つ男を見上げる。
「……んじゃ、まぁ、ここでいいけど」
 碧人は、ふてくされたような目で嘆息した。
「あのさ」
「はい」
「………あのさ」
「………はい?」
「……………」
「……………」
 何、この間。
「……ま、色々言ったけど、とりあえず謝っときたくてさ」
「………はぁ」
 え?
 何の話?
「……つか、何言ってんだ、俺」
 と、ふいに逆ギレしたかのように、怖い目になる碧人。凪はびびって後ずさる。
「あのさ」
「はい」
「……………」
「……………」
 おいおい、またこの繰り返しかよ。もしかして。
「……俺、名医になるし」
「はぁ」
 今日の飲みの席で、碧人は、ずっと父親と話し込んでいたようだった。いい兆候かな、と思っていたのに、もしかしてそれは、おかしくなりかけている兆候だったのかもしれない。
 碧人は、怒ったような目をそらしつつ、続ける。
「今は、ちっぽけだよ、負けてる……のかもしれない、まぁ、有り得ないけど、もしかして」
「……………?」
「ちょっとだけ……ミクロくらいは、負けてるのかもしれない」
「はぁ……」
 何に?
 悪いけど、意味不明。
「でも、将来の伸びしろは、俺の方が絶対に上だから!」
「………はぁ」
「以上」
「……………」
 え?
 そのまま、背を向け、すたすたと廊下を歩いていく碧人。
 え?
 なんなの、それ?
 おーい、と、むしろ呼び止めてその真意を問い正したいが、そんな雰囲気でもない。
「……酔ってた?」
 それにしても、一方的に言って一方的に出てくってのもどうなんだろう。
 首をかしげながら、扉を閉めようとした時だった。
 外から、それをぐっと掴まれる。
―――げっ、戻ってきた?もしかして。
 焦って、強く扉を引く。
「ちょ、ちょい待って、俺」
「………………」
 え?
「つか、何だよ、今の」
 扉から手を離した凪は、今度こそ本当に驚いた。
 そこに立っているのは、微妙に不機嫌な目をした雅之である。
「今の、前ちゃんの息子?」
「えー、ああ、あれは」
 凪の説明を遮るように、その雅之が、ぐっと身体を割り込ませてきた。
「なんであんな奴、部屋にあげんだよ」
「いや、」
 あげてないし。
 予想外の剣幕に、凪はびっくりして、言葉を失う。
「無用心にもほどがあるだろ、今、1人だって言ってたじゃん」
「あ、それは、誤解っていうか」
 あげてないどころか、話の意味さえわかんなかったのに。
 廊下の向こうから声が聞こえる。知り合いの声だったのか、雅之が、ぎょっと背後を振り返ったので、凪は咄嗟にその腕を引いていた。


                 8


「そっか、やっぱ、片瀬さんと東條さん、戻らないんだ」
「つか、ずるいよなーって、憂也と将君とも散々愚痴ったんだけどさ」
「ふぅん」
 窓際に備えられているテーブルと二つの椅子。
 凪は、淹れたお茶を、雅之の前に出してやった。
「そだ、一緒に来てた亜佐美さんって人がいるだろ、彼女、悠介君の彼女だって知ってた?」
 そのお茶を両手で持ち上げつつ、雅之。
「あー、知らないけど、確かに時期を同じくして、消えたかも、彼女も」
 凪は、自分も椅子に座って湯のみを持ち上げる。
「でもさ、亜佐美さん、むしろ柏葉さんといい感じだったけど」
「あー、それそれ、実は俺らの間でも、結構話題になっててさ」
「マジで?」
「実は、将君の元カノじゃないかって疑惑なんだよなー」
 てか、何普通に茶飲み友達してんだろ、私たち。
 凪は、少し首をかしげて立ち上がる。
 で、何しに来たの、この男も。
「ポテチ、あるけど食べる?」
「うん、食う食う」
 このまま、部屋に真白さんたちが戻っても、すっごくナチュラルに迎えられそう。
 ま、それはそれでいいんだけど。
「花火って、本当にやるの」
「うん、十時にはイタちゃん戻るし、そっからになるけどさ」
 凪は時計を見る、9時少しすぎ。結構待ち時間があるから、寝てしまいそうな気もする。
 というより、雅之をはじめストームの5人、元気すぎやしないだろうか。ハードさでは、凪など比較にならないくらいの日々を送っているだろうに。
「それにしても、本当に仲いいんだね、5人」
「え?」
 ボテチの袋をテーブルに置く。
「だって、あの人たちといる時の成瀬、本当に楽しそうなんだもん」
 軽く嫉妬もあったのか、少し嫌味っぽい口調になっていたのかもしれない。
「は、ははは」
 妙に気の抜けた笑い方をした雅之は、何故か曖昧な目で視線をそらした。
「変わんなきゃいいんだけどさ」
「え?」
「でも変わるんだ、……もう変わってんのかもしんねーし、俺も、みんなも」
「………?」
 独り言のような口調。悪いけど意味がよく判らない。
「このままがいいって、そう思うのって、我侭なんだよな、やっぱ」
 そこまで呟いて、雅之は、自分に戸惑うように顔をあげた。
「あっ、ごめ、あんま気にしないで、俺も意味よくわかんねーでいってっし」
「………………」
 そうっすか。
「うおっ、コンソメ味」
「のりしおって書いてない?」
「これ食っていい?夕飯、殆ど食えなくてさ、俺」
 満面の笑顔でポテチに手を伸ばす男。
 ま、いいんだけどさ。
 基本、笑っている顔好きだし。意味不明なのもいつものことだから。
「浴衣、似合うね」
 席についた凪は、何気なく、宴会の席でも思っていた言葉を言口にした。
 骨格が、いつも以上に綺麗に見える。
 がにまたで、どこか三枚目に見えるジーンズ姿より、俄然、今の方がかっこいい。
「そ、そっか」
「うん、いつもの服より似合ってる、和服が普通に似合うのかも」
「流川も似合ってる」
「あ、そ、そう?」
 自分では何気に言った言葉だったが、逆に言われると困ってしまった。
困るというか、微妙に照れる。
 沈黙。
「あのさ」
「あのさ」
 同時に発声。
「あ、流川から」
「成瀬から」
 重なる言葉。
―――ああ、なんか、もしかしてマジで似てきたのかも、私とこいつ。
 凪は、いつだったか、真白に言われた言葉を思い出し、軽い落ち込みを感じていた。
 だとしたら、一体どうやって責任とってもらおうか。
「あの……さ」
 凪が黙っていると、雅之が再び口を開く。
「今日は、………嬉しかった」
「あ、うん」
 すごい引っ張って、そんなことか。
「あのさ」
「……………」
 おいおい。
 まさかこの男も、さっきの碧人のパターンに入ってるんじゃないだろうか。
 が、雅之の目は、意外にもどこか沈んでいた。
「ちょっと……話しておこっかな、って、思うことがあって」
「……………」
 何故か凪は、自分の心臓が高鳴るのを感じた。
 凪自身が、今、雅之に話していないし、話す気もないことを抱えている。
「昔、俺がつきあってた……人のことなんだけど」
「あ、うん」
 即座にその名前も顔も浮かぶ。
 放送作家の梁瀬恭子さん。
「……詳しいことは、あれだけど、その人の娘さん、今重い病気でさ」
「…………うん」
 思いもよらない、深刻な展開。
「海外で移植するとかって……今、募金活動みたいなの、してて」
「そうなんだ」
 海外移植が、どれだけ大変でどれだけの費用を要するか、それは凪も知っている。
「俺、できれば……自分の出来る範囲で、その、助けてあげられればって思ってる」
「うん、いいと思うよ」
 そこで怒ったり泣いたりするほど、馬鹿でも鬼畜でもないし、私。
 でも。
 そっか――。
 じゃ、もう一回、会っちゃったりするんだろうな、その人と成瀬。
 で、オー……なんだったっけ、最近ネットで検索して仰天した言葉。
 あ、なんだか、少し腹たってきた。
「りょうがさ」
 凪が黙っていると、雅之が席を立つ気配がした。
「妙なこと言うの、俺が流川に、その……なんつーの、ちょっと言いにくいんだけど」
 そのまま、座っている凪の前に膝をつく。
 身長差があるから、こうして初めて目線があった。
「……何……?」
 その目線の近さに、少しだけ動悸がした。
 やだ、まただ。
 もう忘れてたと思ったのに、また、この感覚。
「なんか、有り得ないことやらせてるって………その、無理矢理、」
「………?」
「なんか、話してんの、末永さんたちと」
「…………………………ああ」
 ま、まさかと思うけど、あの話だろうか。
 そういや、話した。ミカリさんのマンションで三人が顔を揃えた時。適当に話をあわせただけだけど。
「すっげ、誤解されてるみたいで」
 前髪に、大きな手が添えられる。
 凪は、動けないままだった。
 動悸がして、手も、足も、固まったように動けない。
「俺が、まだ、そんなんじゃねぇって言っても、信じてもらえねーの」
「…………ごめん」
「いいよ」
 もう片方の手が、頬に添えられる。
 もう、雅之の表情を確認することさえできない。
 あ、キス――。
 凪は、咄嗟にうつむいていた。
 どうしよう、今は、ちょっと、怖いんだけど。
「……本当に、しよっか」
「…………………」
 どうしよう。
 胸が、痛い。しびれて――ドキドキして。
 亜佐美さんの言うとおりだ、これは麻薬、そして幻覚、はまりこんだら、もう抜けられない恋愛中毒。
 私――私のキスは、確かにこいつが始めてだったんだけど。
 なんていうの、びっくりして嬉しかったけど、そんな、こう、ぎゅーっとなるほどでもなくて、あの時は。
 私が、初めて、そんな感じになったのは。
 美波さんの部屋で、
「ま……」
 凪は顔をそむけていた。
「流川、」
「や、ちょっと、タンマっ」
 あまりにもありすぎる体格差。多少、じたばたしても、目の前の男はびくともしない。
「……………っっ」
 椅子に、押し付けられるようにしてキスされた。
 思いもよらない力と、いつにない強引さ、凪は吃驚して抵抗することさえ忘れている。
「………や、だ」
 心臓、壊れそう。
 胸がぎゅーってなって。
 合わさった唇が、わずかに開く。
 息遣い、少し濡れた感覚が唇の上に触れる。
「……………っ」
 こ、これ、大人のキスじゃん!
 嫌だって言ったのに。で、嫌なはずなのに。
 身体……言うこと、きかないっていうか。
 頭、ぼーっとして、なんだか、このまま……。
「………………」
 流されてる、場合じゃないんだ、今の私。
 雅之の胸を押すようにして、顔を離す。まだ心臓は、別の人のもののように高鳴っていた。
「成瀬、やだ」
「……………」
「ごめん、悪いけど、ここまでで」
「……………」
 素直に頷くと思っていたのに、そうではなかった。
 どこか、暗い目をした雅之が、そのまま凪を抱えあげる。
 布団の上に下ろされた凪は、ほとんど驚愕したまま、自分を見下ろす男を見上げていた。
 


               9



 窓から見える暗い海、その一点に、淡い光が瞬いてる。
―――みんな、楽しんでんのかな。
 将は、それを横目で見送ってから、浴場ののれんをくぐった。
 深夜ゼロ時少しすぎ。
 全員で行った花火に同行しなかったのは、そこに、真咲しずくも参加すると聞いたからだ。
―――ぶっちゃけ、楽しいムードぶちこわしだし、俺らが会うと。
 頬に巨大なもみじマークをつけていた雅之のことだけが、少しばかり気がかりではあったのだが。
―――ま、凪ちゃんも普段通りだったし、大した喧嘩じゃねぇんだろ。
 気を取り直した将は、衣服を脱ぎ、身体を洗ってから、人気のない露天風呂に入る。
 深夜、さすがに空気は冷えていた。
 白い湯気がたちこめる中、将は、湯の中に鼻先までつかり、空を見上げる。
 明日がCD発売日。
 予約枚数にどうしようもないほど差がつけば、そこで全てはジ・エンド。
 無論、翌週火曜、発表ぎりぎりまで諦めるつもりはないけれど。
 どうなるんだろ、俺ら。
 さすがに、ここから先の展開は読めない。
 ソロになるんだろうか、それとも、解雇されるんだろうか。
―――全員そろって残れなきゃ、独立かな。
 内心、その覚悟は固めているものの、東邦とJ&M、この二つの巨大組織に、ではどうやって対抗すべきか、それは将にも判らない。
 俺1人ならな。
 なんとでもなる。
 賭けみたいなことだってできる。
 でも、5人だ。
 5人の運命と、大げさではなく人生がかかっている。
 風がすーっと吹き抜けた。
 湯気が消え、一時クリアになった視界。
 将は、奥まった岩陰に、先客がいたことにようやく気がついた。
―――ん……?
 向こうもこちらに気づいたのか、わずかだが会釈される。
―――え?
 もしかしてりょうかな、と思った。
 男にしては、妙に華奢で色が白すぎるから。
「………………」
 まさかね。
 いや、まさか。
 水を弾く音がする。
 将は、咄嗟に立ち上がり、背後の人が身を沈めている場所に向かった。
 つか。
 つか、ありえねーだろ、これ。
「あれ……?」
 と、訝しげに瞬きしている女。
「………なんだって、君がいるの」
 それ、思いっきり、俺のセリフなんだけど。
 しかし、首まで湯に使っている真咲しずくは、それこそ、本当に驚いているようだった。












※この物語は、全てフィクションです。


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