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「うーん、明日はどうかな、締め切りが近くてね」
 背後の喧騒に耳を塞ぎ、ミカリはわずかに声を高くした。
「うん、真白ちゃんと凪ちゃんには連絡する、私は……今夜しだいかな、明日、また連絡するから」
 慌しい電話を切る。
 締め切り直前の冗談社。
 背後では、高見ゆうりが、鬼気迫る表情で、印刷会社に入稿の遅れの了承を取っている。
―――無理かなぁ、やっぱり。
 ミカリは、軽く嘆息して肩をすくめた。
 温泉ね、ちょっと興味深い場ではあるけれど。
 ただし、女としてではなく、記者として。
 業界中が注目しているダブルリリースの理由だけでなく、ストームの素顔が撮れる、いい機会かもしれないし。
 しかし、問題は今である。ミカリは気持ちを切り替えて、デスクに座った。
「戻りましたーっ」
 校正原稿を抱えて大森妃呂が戻ってくる。
 わずか4人の冗談社。
 締め切り前は、冗談ではなく火の車のような慌しさである。
「今夜中だけど、大丈夫?」
「はっ、はい、なんとか」
 わたわたとデスクについた大森は、そこで、はた、と顔をあげた。
「忘れてました、今日、出掛けにミカリさんに預かりもの」
「?なぁに」
「煌さんからなんですけど、ミカリさんいなかったので、受け取っちゃいました」
 ミカリはわずかに眉をひそめた。
 上の階に入っている煌探偵事務所。
 頼んでいたのは、片瀬りょうのかつての恋人の身辺調査だ。
 本当はミカリ自ら動きたかったが、締め切り前で身動きがとれなかったし、ことは多分、一刻を争う。
―――そういえば、私用って言わなかったっけ、私。
 社用で、頻繁に仕事を依頼しているから、いつもどおり、仕事上の調査だと思われたんだろう。
「ありがと」
 大きな茶封筒を、大森から受け取る。それから、背後のゆうりが聞いていないことを確認して、囁いた。
「これ、実はプライベートの調べなの」
「え、そうなんですか」
「うん、だからケイさんには、言わないでおいてくれるかな」
―――それにしても、早いな。
 まだ、調査を依頼してから、ものの一週間もたっていないのに。
 ミカリは、封をカッターで切る。
 何枚もの報告書。
 その一枚一枚を、丁寧にめくって読む。
「…………………」
 三枚目の記述で、ミカリは表情を止めていた。
 そこに記された名前と社名に、心臓が、一時、鼓動を止めてしまったようだった。
 どういう、こと……?
 これは、もしかしなくても。
「……リさん?」
 大森の声。
 ミカリははっとして顔を上げる。
「どうしたんですか、何回も呼んでたのに」
「あ……うん」
 ミカリは、ごく自然に調査票を裏返した。
「………早いな、と思って」
「煌さん?確かにあそこ、仕事は超早いですよねぇ」
「………………」
 早すぎかな。
 もう少し先だと思ってたけど。
「ごめん、明日なんだけど」
 ミカリは、パソコンに向かいながら口を開いた。
「悪いけど、1日抜けていいかしら、どうしても行きたい所があるの」
「はい………って、ええーっっ」
 大森が顎を落としている。
 ミカリは表情を変えないまま、メールを送信する準備を始めた。



                  2


「てゆっか、本当にいいんですか」
「いいんじゃない?」
 凪の何度目かの質問だったが、帰ってくるミカリの返事も何度か目だった。
「碧人君も、浅葱君も一緒だし、そんなに深く考えなくてもいいわよ」
「まぁ……そうなんですけど」
 新幹線。
 凪は、指を顎に当てる。
 昨日の夜、隣に座るミカリから連絡をもらって、急きょ決まった一泊旅行。
 東京を遠く離れた地方への旅は、学生の凪にはかなりの出費だったが、卒業旅行の代わりみたいなものだから、と、母は快く許してくれた。
 凪の隣にはミカリが、対面シートには、大阪から合流した末永真白と、そして凪には初対面となる、すらっとしたスレンダーな美人が同席している。
 観月亜佐美と名乗ったその女性は、柏葉将と同じ大学の、幼稚園時代からの友人らしかった。
 で、通路を隔てた隣の席には、家庭教師先の息子、海堂碧人と、ストーム共通の友人、浅葱悠介。
 そこでなんで碧人がついてくる?と思った凪だったが、誘ったのが父親の前原大成なのだからどうしようもない。
―――ま、いっか、前原さんちが、それで親子円満なら。
 が、碧人と浅葱悠介、どちらもそこそこイケメン大学生。
 甘い美少年系碧人と眼鏡王子系の浅葱。医学生と早大生、親は医者と大企業の社長――微妙にライバル心をむき出しにした碧人と、ひたすら寡黙な浅葱――2人の男はウマがあいそうもないのか、互いに、どうもけん制しあっている雰囲気だった。
 この、よく判らない6名で、今、ストームの一行が滞在しているという、島根の温泉旅館に向かっている。
 表向きの名目は取材と、その手伝い。が、実質は、イベントツアーの打ち上げをかねた慰安旅行のようなものらしい。
 昨日、いきなりミカリから電話があったときは、冗談だとしか思えなかった。が、今、現実に6名は、ゴールデンウイークあけの温泉旅館に向かっているのである。
「……やってる場合なのかな、マジで」
 凪は思わず呟いていた。
 自分もそうだが、ストームのことである。
 凪の見るところ、どうもストームの新曲は、分が悪い。
 いや、いままでのリリースと比べると、確かに破竹の勢いで売れている。アマゾンの予約も完売で、こんなことは、凪が知る限り初めてだ。
 が――同日にデビュー曲をリリースするヒデ&誓也はもっとすごい。
 テレビに貴沢秀俊の笑顔が出ない日はないほどで、徹底的な宣伝、まさに社運を賭けたタイアップぶりが伺える。
「どうして、貴沢ヒデのプロモは必ずワイドシショーで取り上げられるのに」
 凪は、多少の不満をこめてミカリに聞いた。
「ストームは何ひとつ記事にならないんでしょうか、実際、今回のプロモ、かなりすごい規模ですごいことやってると思うんですけど」
「……ま、これも力関係、でしょうね」
 何か含むところがあるのか、ミカリは、わずかに眉を翳らせてそう言った。
「真白ちゃんには前言ったわよね。今の報道システムに公共性は有り得ないって」
 ああ、と、対面的に座る真白も、思い出したように頷く。
「スポンサー、政治家、色んなものを考慮して、報道っていうのはなされるものなの。今回、……全くJの動きを黙殺しているサンライズテレビはさておいて、各局が一番に気を使ったのが、唐沢社長の威光なんでしょうね」
「……………」
「仕方ないわ、それが、今のストームの置かれた現実だから」
 まぁ、それも……わからなくはないけど、なんだか悔しい。
 同じ事務所なんだから、何もそこで、競うような真似をさせたり、片一方を売って残りを無視するような、そんなやり方をしなくても、と思う。
 凪は黙って、持参した蜜柑の皮をむぐ。
「みなさん、恋人っていらっしゃるんですか?」
 沈んだ場を取り繕うとしたのか、いきなりそう言ったのは観月亜佐美と自己紹介した女性だった。
 ミカリ、凪、真白が順番に咳き込む。
「ごめんなさい、いますよね、実は最近、大学の友達とちょっとした議論になってるんですけど、その話を聞いて欲しくて」
 観月亜佐美。
 少し、近寄りがたいくらい端整な顔だちをしたモデル系のお姉さんだ。
 アンサンブルに細身のホワイトジーンズといういでたちだが、その足が、犯罪的にとにかく長い。
 雰囲気は冷たそうなのに、最初から社交的で、そして見かけを裏切る砕けた態度。
 多分、初対面の面子に気を使わせないようにしているんだろう。さすが柏葉将の友人だけあって、大人だな、と凪は思う。
「恋愛って、一種の中毒じゃない?って」
 その亜佐美が、綺麗な目をきらきらさせながらそう言った。
「中毒?」
 と、不思議そうに真白。
「うん、麻薬と同じ、精神に作用し、酩酊・幸福感・幻覚症状を起こすもの」
「へぇ」
 と、楽しそうにミカリ。
「しかも、依存性や毒性が強く健康を害する恐れがある……どうです?なんかあたってる気がしません?」
 依存性。
 そして、毒性……か。
 凪は、多少、戸惑いながら、視線を下げた。
 なんか、当たってる??
 酩酊……確かになんかこう、あのキスの後、足がふらふらしてたっけ。
 幸福感……あー、その通り、なんか意味もなく幸せ感じてたし、あの時の自分。
 幻覚?そっか、あれからやたらかっこよく見えたんだよ、写真やテレビ、幻覚だとしたら全て納得。
「それ、納得です、亜佐美さん」
 凪は力を入れて頷いた。
「えー、凪ちゃんが真っ先に納得なんて」
 と、少し驚いたように真白。
「……依存性っていうのは、なんか、判るような気がするけど」
「じゃ、初めてキスした時のこと、覚えてます?」
 亜佐美はそこで、声をひそめた。
 凪は激しく咳き込んでしまっている。
「その時、心臓がぎゅーっと締め付けられるような、頭の中で、星が瞬くような、そんな不思議な気持ちになりませんでした?」
 全員が、そのときのことを思い出しているのか、押し黙る。
 亜佐美は身を乗りだした。
「多分、女性の身体って、その時に、何かの快感神経が刺激されるように出来てるんですよ。キスっていうか、男性に求められてる自分を感じた時に」
 な、なんつーことをこんな場所で。
 聞いてられない。凪は思わず隣席を見るが、男2人はけん制に疲れたのか、転寝をしているようだった。
「で、その快感が欲しくて、何度も同じ行為を求めちゃうんです。それを恋愛と錯覚する、それは一種の中毒症状なんだけど、気がつかずに」
「じゃ、」
 笑いながら、ミカリが口を挟んだ。
「亜佐美ちゃんの理屈だと、恋愛は全部錯覚ってことにならない?」
「半分は錯覚です」
 亜佐美は含んだように笑って、寝ている男2人の席をちらっと見た。
「でも錯覚って、いつかは冷めちゃうものだから」
 錯覚か。
 凪は、少し真面目に考えてしまっていた。
 いや……それは、あるかもよ、もしかして。
「冷めない錯覚が、本物だって、思うようにしています」
 亜佐美はそう言って、綺麗な歯を見せて笑った。
 


                  3


「すごい、きれいねー」
「やっぱり少し寒いですね、こっちは」
 なんだか、楽しいな。
 真白は、荷物を置きながら、窓辺ではしゃいでいる凪と亜佐美の姿を見る。
 ミカリは、仕事でもあるのか、携帯を持って部屋から出て行った。
 広々とした畳敷きの部屋。窓からは、見事な園庭が見渡せて、まさに絶景、というやつだ。
―――てゆっか、私、地元にかえってきちゃったのよね、もしかしなくても。
 実家ははるか遠くにあるから、まさかバッティングすることもないだろう。が、さすがに親と同じ県内にいると思うと、どうも居心地が悪いというか、微妙な罪悪感が湧いてくる。
 夕闇が濃い。そういえば、澪とあんな風になってから、もう随分帰宅していない。
「……………」
 ビアスのこと、話してないや。
 お父さん、怒るだろうな。
 真白は、ビアスをあける、あけない、で、姉と父が大喧嘩していたことを思い出していた。
 遠くても、やはりこの空は、故郷の空だ。
 少しだけ切ないような、胸が痛いような、そんな感傷にさいなまれる。
「真白さん、温泉行きます?」
「あ、うん」
 気を取り直して、手にとった浴衣からは、どこか懐かしい匂いがした。
 ここに着くタクシーの中から、延々見えていた海岸線。多分、浜辺が近いのだろう。
―――澪、まだ戻ってないのかな。
 部屋の扉を閉めながら、真白は、もう一週間以上会っていない恋人のことを思い出していた。
 今日は、広島、山口、島根と、三箇所でイベントが行なわれる予定になっているという。新曲お披露目イベント。一度行ってみたいな、と思ったものの、結局、時間的に無理だった。
 それに――もう新曲なら聴いてるし。
 それで十分だし、それ以外の場所で、アイドルをしている澪を、正直、あまり観たくない。
 澪から毎日届いていたメールが、ここ二、三日途切れているから、多分、今、気持に余裕がないんだろう。
 寂しかったけど……それも、もうすぐ。
「真白さん、嬉しそう」
「わかっちゃった?」
 凪の囁きに笑顔で答えた。
 今日は、会えるんだ。
 もうすぐ、会える。
 真白は、浮き立つような気持ちで歩きだす。
 今夜、この宿には、ストームだけではなく、そのマネージャー陣、イベントスタッフが勢ぞろいしているという。事情を知っていない亜佐美とも同室だし、会うといっても、二人きりのようには行かないだろうけど――とにかく、会える。
「なんか、客少なくねー?この旅館?」
 廊下の途中、いつの間にか合流した、海堂碧人という男が、凪に話しかけてきた。
 凪の紹介では、大学の先輩で、ストームのイベントスタッフの身内だという。よくは知らないが、かなりお洒落で、綺麗な顔をした男の子だ。
「ここ、もうすぐ閉鎖するから」
 凪が、その碧人に答えている。
「だから、今は、お贔屓さんとか、馴染みの人だけを対象に、最後の営業してるみたい。私、説明しませんでしたっけ」
「いや、聞いてないし」
「2回くらい言いましたけど」
「聞いてないし」
 で、結構いい感じ……?
 成瀬君、ぼやぼやしてて大丈夫かな、と、少し真白は心配になる。
 臙脂色の空が濃度を深める。
 窓から見下ろす駐車場に、大型のバスがゆるやかに滑り込んでくるのが見えた。
 そのバスの窓は、全てカーテンで覆われている。
「………………」
 真白は、自分の動悸が高くなるのを感じていた。
 恋愛中毒。
 確かに、私、澪の中毒になってるのかも、しれない……。










※この物語は、全てフィクションです。


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