「直人……ありがとね」

 憂鬱で陰鬱な春の雨。
 全ては――捨て去った過去の思い出。




                      1


「ストームの取材?」
 唐沢直人は眉をあげ、目の前に座る優男をまじまじと見た。
 学生とも見まがう若々しさ、実際男は、つい数年前までは大学生だった。東京大学理工学部中退、それが最終学歴である。
 東京、六本木。
 J&М仮設事務所。
 春の終わり、今日は午後からずっと雨が降り続いている。
 唐沢はあらためて、受け取った名刺を見た。

 株式会社 ライブライフ
 営業担当取締役 織原瑞穂

 女みたい名前だが、目の前に座っているのはれっきとした男。
「先日のTAミュージックアワード、拝見しました」
 その織原が口を開いた。
 茶髪の髪は、流行のアシンメトリー、色白で、目鼻が中央に寄り気味の、少し癖のある顔だちだが、いかにも、今時の若者といった風情である。
「正直、一番僕の印象に残ったのが、ストームさんのパフォーマンスでした。アイドルは、僕にとって、それまでさほど関心のある分野ではなかったんですが」
「なるほど」
「その印象を覆すほど、強烈な、なんともインパクトの強いパフォーマンスでした」
「…………」
 唐沢は無言で、事前に秘書から取り寄せさせた資料を見る。
 
 織原瑞穂
 東京大学理工学部中退
 仏教美術カメラマン
 「現代仏教史」に多数寄稿
 現、ライズライフ営業担当取締役
 
 理工学部で、仏教美術のカメラマン?
 で、今はインターネット企業の取締役。
 わけのわからない経歴である。
―――ま、頭がいい奴ほど、変人が多いというからな。
 脚を組む唐沢の脳裏に、真咲しずくの顔がよぎる。
 実際、目の前に座る男は、ある意味、そのしずく以上の変わり者には違いなかった。
―――ライブライフね。
 織原個人のことは知らないが、会社「ライブライフ」のことならよく知っている。
 インターネット関連企業。いわゆるITブームの走りにのって急成長した会社。近年日本経済で最も成長を遂げた分野の、草分け的存在だ。
 しかし、時代の寵児でもあったその「ライブライフ」は今、実のところ、倒産寸前の危機に瀕している。
 それは全て、約二年前、ここに座る織原瑞穂の父親――ライブライフの創業者が引き起こした、分不相応な野心のためだった。
 その点に興味があったからこそ、唐沢は、結論ありきのこの会談を受け入れたといっていい。
「それから、J&Mさんのコンサートビデオをいくつか拝見させていただきまして、これを女子中高生だけに独占させるのはもったいない、間違いなく日本を代表するエンターテイメントだと確信しました」
 織原は熱心に続ける。
「ははは」
 唐沢は乾いた笑いを浮かべていた。
 持ち上げられるのは慣れているが、「日本を代表するエンターテイメント」は笑わせる。
「まぁ、お話はよく判りました」
 唐沢は両手を挙げて、若者の饒舌を遮った。
 話というか、この来訪者の思惑が。
 「ライブライフ」は、今や、会社更生法の一歩手前まで追い詰められた崖っぷち企業である。
 彼らは、二年前、社運をかけた企業買収に失敗したのだ。
 当時の日本のメディアと経済界を震撼させた、テレビ局買収。
 インターネット企業で成功し、巨額の富を得た「ライブライフ」は、あろうことかメディア買収という日本経済最大のタブーに打って出た。
 そのターゲットは、J&Mと長年蜜月関係を続けているエフテレビ。収益では日本一の最大キー局である。
 しかし、その買収劇は、思わぬ形で幕を閉じた。
 ライブライフの前社長だった織原の父親が逮捕されたのである。容疑は違法株取引と粉飾決算。今でもそれは、政界の圧力による灰色の逮捕だといわれているが、無論真偽は定かではない。結果、買収は失敗し、世論の支えを失ったライブライフは急激に失速した。
 あれから二年。
 裁判中の父親の判決も、そろそろ下るころだろう。
 死に体の会社を、ここまでよく持たせたな、と唐沢は思う。
 現取締役陣が、会社存続のため、提携企業探しに奔走しているというから、今日のこの男の来訪も、会社建て直しのための営業のひとつなのだろう。
「しかし、これは、個人的な……腹を割った部分の話ですが」
 コーヒーを持ち上げながら、唐沢は薄く微笑した。
「あなたのような、特殊な才能がある方が、言ってみれば全く分野の違う……お父様の創られた会社にお入りになったのは、一体どういう了見ですか」
 しかも、倒産寸前の。
 織原が暗に持ちかけているのは「ライブライフ」と「J&M」の業務提携だ。
「まぁ、写真は、才能というより……ほとんど趣味の領域なので」
 織原は苦笑して髪に手を当てる。
「ライブライフは……せっかく親父が創り上げたものなので」
 織原は「いただきます」と断ってから、コーヒーを持ち上げる。
「このまま終わらせたくはない、それに、株主に迷惑をかけた責任を取るなら、息子の僕かな、と、そう思いました」
「父親思いでいらっしゃるんですね」
 唐沢は、冷めた感情のまま、相槌を打つ。
 織原は、わずかに苦笑して、ほとんど飲んでいないコーヒーをソーサに置いた。
「僕の父は、昔テレビマンを志したものの、学歴のため、エフテレビの入社試験さえ受けられなかったという過去を持っています」
 それはそうだ。唐沢は内心肩をすくめる。
 高卒だという父親に、天下のエフテレは、門戸さえ開かないだろう。
「その時捨て切れなかった妄執のような夢が、父をテレビ局買収などという愚行に走らせたのだと思います、全く、愚かなことですが……エンターテイメントの発信者になりたい、それが父の、生涯を賭けた夢でしたから」
 その父親の夢でもあったプランを継続させようと、今、織原は、必死になって奔走しているのだろう。
―――馬鹿だな。
 父親の夢など捨てておけばいい。
 せっかくの才能と将来を、棒に振ったようなものだ、この若者は。
「まぁ、エフテレほどの巨大組織になると、しょせん、小さな個人では動かせません。動かすには金だけでない、そこには、強力な力がいりますからね」
 唐沢は、忠告のつもりでそう言ってやった。
 力だ、力、力が全てだ。
 J&Mと、そして東邦プロダクションの、長年にわたる悲惨な闘争を見て育ってきた唐沢は、それを身を持って知っている。
 正義も信義も、友情も夢も――才能さえも、巨大な力の前では、なんら、何一つ意味をなさないことを。
「……雨ですね、今朝はよく晴れていたのに」
 窓辺を見て、ふと織原が呟いた。
 どこか陰鬱な春の雨、唐沢は無言で立ち上がり、ブラインドを下げる。
 病身だった母が死んだのも、丁度こんな、憂鬱な雨の日だった。
 当時は貧乏のどん底だった。家計のため、父の仕事のために、満足な治療を受けることを自ら放棄した母は、病院に担ぎ込まれた時、すでに手遅れの状態だった。
 痩せた母の口元に水を差し入れながら、唐沢は1人、声さえたてずに涙だけを零して泣いた。
 その葬式の日、訪れた東邦EMGの社長を、父は、頭を床にすりつけんばかりにして、歓待していた。
 誰が悪いのか――何がいけなかったのか。
 幼心に唐沢が、自問して、自問して、考え抜いて、そして出た答え。
 誰も悪くはない、そう、誰も。
 力だ、この世界は、全て力関係で成り立っている。
 力の正義は真田にあり、父にはなかった、それだけだ。
 だったら、より巨大な力をつければいい、誰でもない、俺自身が。
 憂鬱で陰鬱な春の雨。
 全ては――捨て去った過去の思い出。
 唐沢は、来訪者に向き直り、静かな微笑を口元に浮かべた。
「あなたの来訪の意図はよく判りました、しかし、冒頭でも述べましたとおり、わが社は、タレントの映像を一切ネット上に載せないことを方針としています」
「唐沢社長、僕は、いずれ、テレビなど誰も見なくなる時代が来ると思っています」
「そんな時代がきますかね」
 若者の熱心な言葉に、唐沢は失笑をかみ殺す。
「今は、オーエスをマイクロソフトが独占している、ハードの値段がなかなか下がらないのはそのせいです。しかし、ハードが更に購入しやすくなれば、家庭用のPCが、必ずメディアのメインウィンドウになるはずなんです」
「…………で?」
「僕らがやっているのは」
 織原は、机の上のカラフルな企画書を指で指し示した。
「簡単に言うと、完全無料のパソコンテレビです。広告主を募り、ドラマ、アニメ、スポーツ、音楽、あらゆるジャンルを盛り込んだ総合的なネットワークサービスを提供する」
「知っています、利用はしていませんが」
 国内では最大級の無料動画サイト。
 それが、ライブライフの、残された最後のヒット事業だ。
「僕の、いや父の夢は、日本の文化を、日本だけでない、世界に向けて発信することなんです」
 唐沢は無言で、企画書に視線を落す。

 無料動画配信サイト「P−tele」
 J&M専用チャンネル、2006年元旦配信開始予定。

 ピーテレのことは、無論、唐沢も知っている。
 が、契約済みの番組は、殆どが版権切れのアニメか海外ドラマ、さほど面白そうもないオリジナルドラマにオリジナル企画番組。
 見る限り、視聴者の興味を引くような目玉はない。
 確かに配信開始時は画期的な試みとも言えたし、それなりのユーザーを掴んではいるだろうが、近年は、動画投稿サイトが乱立し、隆盛を極めている。このままだと、ネットに多々ある動画配信サイトと、さほど変わらないものになってしまうだろう。
―――それで、うちか。
 唐沢が黙っていると、織原は、真剣な目で膝を進めた。
「ピーテレの、エンターテイメント部門のメインとして、ぜひ、J&Mさんのコンテンツをもってきたいんです。J&Mさんの情報を、動画という形で、ぜひネット配信させていただきたい。今回、ストームさんが一年ぶりのシングルをリリースされると聞きまして」
「……………」
「配信開始の目玉企画として、ぜひともストームさんを起用させていただきたい。これから冬にかけての彼らの活動を、密着、という形でカメラに収めさせていただければと」
「………………」
 しぱらく考えてから、唐沢は静かに立ち上がった。
「残念ですが」
 ストームに目をつけたか。
 まぁ、つけ所がいいというか、悪いというか。
「繰り返しますが、当社に所属するタレントの映像は、ネット上で一切使用させないのがうちの方針です。いいお話だとは思いますが、そもそも土壌に乗れない以上、話し合いは時間の無駄でしょう」
 織原もまた、焦れたように立ち上がった。
「情報の主体はネットです、いずれそうなる。その先に広がっているのは世界です。視聴率至上主義は、唐沢さん、日本テレビ界だけの意味のない幻想だ」
 誰に向かってものを言っている。
「お引き取りください」
 所詮、メディアの世界では、ネットは外道だ。
 誰でも気軽に参加し、配信できるだけに、その情報に価値はない。
 唐沢は、怒りを微笑でかみ殺し、扉の方を指し示した。

 

                  2


「どうしたの?」
 扉を開けて入ってきた人を見て、ミカリは驚いて顔をあげた。
 別に驚くような相手ではないけれど、彼が1人で、ここを訪ねて来たのは初めてだ。
 片瀬りょう。
 深夜十時、今から帰宅するところだった。
 最後の電気を消そうとしていたミカリは、少しためらってから、室内の電気を灯す。
「……なに?今、私しかいないんだけど」
 答えない片瀬りょうは、ただ曖昧に微笑する。
 その不思議な表情に、何かあったな、と察しがついた。
「今日、撮影じゃなかったの?」
 来客用のソファに向かって歩きながら、ミカリは言った。
 NINSEN堂、極秘扱いのCМ撮影。その情報は聡からオフレコ扱いで聞いて知っている。
「さっき終わったばかりです」
「すごく疲れた顔してるわよ」
「実際、ものすごく疲れたから」
 互いに、ソファに向かい合って腰掛けた。
「コーヒーでも」
「いいです、マジで食欲なくなるほど疲れたから」
「……………」
 一体、どういう撮影だったのだろう。
 まぁ、恋人と違って、どう考えても口の難そうなこの少年は、簡単に話してくれそうもないけれど。
「………私に話?」
「…………………」
「私1人って知ってて来たの?」
 そう聞くと、片瀬りょうは、長い睫を伏せて頷いた。
 翳りのある照明が、この類まれなる美少年を、まるで本当の女性のように見せている。
 てゆっか、本当に今日の片瀬君って。
 ミカリは、不思議な印象に首をかしげた。
 顔かたちは変わらない、ジャケットにジーンズ姿、なのに、妙に女性的に見えるのは何故だろう。
「イタジさんに……九石さんと高見さんが、唐沢社長の取材におしかけで来てるって聞いたから」
 うつむいたまま、片瀬りょうは囁くように言葉を繋ぐ。
「で?」
「………………」
 なんだろう。
 あまり、いい話では……ないんだろう、多分。
「これ」
 しばらく黙っていた片瀬りょうは、やがて、鞄の中から、一通の白い封筒を差し出した。
「………?」
 ミカリは、眉をひそめながら、それを受け取る。
 そして、受け取った瞬間、気がついた。
 もしかして。
「今朝、玄関に落ちてて、彼女は気づかなかったんだけど」
「………真白ちゃん、昨日も泊まったんだ」
「…………俺が、帰るなって言ったから」
「……………」
 気持ちは判る。一秒でも惜しいほど、今の2人は互いが愛しいに違いない。
 ミカリは無言で、封筒を開いて中の便箋を取り出した。
 どちらも無地、真っ白な便箋の真ん中に、綺麗な女文字が記されていた。

 彼女の帰り道に気をつけて


「……………………」
「どう、思います」
「真白ちゃんは?」
「今朝、タクシーで帰しました、メール入ってて、無事に大阪に戻ったみたいですけど」
「この手紙のことは、知らないのね」
「話してません」
「前の写真のことも?」
「…………はい」
「この文字に見覚えは?」
 少しためらってから、片瀬りょうは首を横に振る。
「……覚えがないっていうか……文字のことまでは、多分、そんなに覚えてないから」
 多分、誰かを想定して言っている言葉。
「柏葉君はなんて?」
 ミカリが、眉をひそめながらそう言うと、しばらくの間の後、意外な言葉が返ってきた。
「話してないんです、将君には」
「え?」
「……今、色々あって、将君も余裕ないみたいだし、あんま……心配かけたくないっつーか」
「……………」
「今日の話も、将君には黙ってて欲しいんですけど」
 それは、本心には違いないだろうけど、どこか言い訳がましいような気もした。
(―――りょうの奴、俺が末永さんの話したら、ソッコーで機嫌悪くなるから)
 とは、以前ここに来た柏葉将が、苦笑交じりに言っていた言葉だった。
 多分、今、片瀬りょうは、ようやく心を一つにした恋人との付き合い方について、誰にも干渉されたくないに違いない。
 将とりょう。以心伝心で、互いの気持ちが判るから、余計に2人は、敬遠しあっているのだろう。
 それも――よく判るんだけど。
「………この手紙、少しの間預かっててもいい?」
「はい」
「心あたり、あるんでしょ」
「…………………」
 少しの間黙っていた片瀬りょうは、「多分、違うと思うけど、」という前提で、机上の書類の端に、1人の女性の名前を記した。
「調べてみるわ、どこまでできるかわからないけど」
「すいません」
「言いにくいけど、……真白ちゃんとは、事がはっきりするまで、会わない方がいいと思う」
「………………」
 それには、片瀬りょうは無言で視線だけを下げる。
「片瀬君、本当に彼女のことが大切なら」
「判ってます」
 少年は、少し苦しげに息を吐いた。
「そういうの、全部判ってんだけど……将君が心配してるのも、全部」
「……………」
「じゃ、俺、どうすればいいのかな」
 少し苛立ったような声だった。
「正直、時々、マジでわかんなくなるんです、………俺、いっそ」
 そこで、片瀬りょうは言葉を途切れさせる。
「片瀬君、言いにくいと思うけど、柏葉君でも誰でもいい、メンバーに相談するなり、本当の気持ちを言うなり、してみたら?」
 ミカリには、この手紙云々より、こうやって片瀬りょうと柏葉将の間に、溝ができかけていることが、より深刻なような気がした。
「あなたは1人じゃないんだから……もう少し、周りを信頼しても、大丈夫だから」
 視線を下げたまま、何度か頷く少年に、本当の意味で言葉が届いているかどうか判らない。
―――なんにしても、早急に調べてみないと。
 今、ストームの置かれた立場、そして時期。
 ここでのスキャンダルは、最悪の事態を招きかねない。
 ミカリは、険しい目のまま、立ち上がった。
 





※この物語は、全てフィクションです。


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