「ねぇねぇ、君、可愛いね、大きくなったらJ&Mに入らない?」

「お前、もしかしてショ、とか言うやつだろ」














 もしかしたら。
 神様が少しだけ、私の時間を止めてくれたのかもしれないね。

 君に、もう一度めぐり逢うために。









2006年 春










             1


「じゃ、来週には東京に戻ってこられるんだ」
「本当に長い間、ご迷惑をおかけしました」
 松葉杖でひきずった右足が痛々しい。けれど美貌で優秀な部下は、以前よりふっくらとした笑みで、ケイを見上げた。
 右大腿骨の複雑骨折。完全に元通りになるまでは、それでもあと半年のリハビリが必要だという。
「はじめて来たけど、いいとこだね、熊本」
 最初に挨拶に出た母親が、コーヒーのお代りを持ってきてくれた。その女性に一礼を返して、ケイは思わず微笑している。
 生きた火山に見守られた、閑静な町。
 穏やかな時間が流れる家庭。
 壁際の棚には、家族の写真が並べられている。一番新しいものに、初老の男性と一緒に笑う、車イスのミカリの笑顔があった。
 よかったね。
 あんたはようやく、自分の場所に帰ることができたんだね、ミカリ。
「元気だったら、色々観光名所を案内したいんですけど」
「またみんなで押しかけるさ」
 言いさして、ケイは、少し真顔でミカリを見つめた。
「でも、本当に戻ってきてもいいのかい?」
「え?」
 不思議そうな目で、ミカリは静かに瞬きをする。
「忙しいから戻ってこいって言ったの、ケイさんでしょ」
「いや、まぁ、それはそうなんだけどさ」
 ここに、このまま残った方が、あんたにはいいような気がするから。それは――ミカリが決めることなんだろうけど。
「大変なんでしょうね、J&Mも」
 コーヒーをケイにすすめながら、ミカリがそこだけ口調を落とした。
「まぁね、柏葉将があんなことになっちまったからね。そうでなきゃ、今頃アーベックスとの共催で全国ツアー真っ最中、のはずだった……、ま、言ってもしょうがないことだけどさ」
 ケイも、それには、わずかな慙愧をにじませて呟く。
「それにしても、大きく変わりましたね、日本の音楽業界は」
 ミカリは遠い眼差しを窓の外に向けた。ケイはコーヒーを飲みほして肩をすくめる。
「今はまだその過渡期さ、過去形にするにはまだ早い」
 そう、今、芸能界は蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。東邦EMGプロの崩壊、オフィスネオとニンセンドープロの解散、アーベックスの内乱劇、音楽業界の勢力地図は年明けと共に大きく塗り替えられ、まだその激動の余波は収まっていない。 
「確かに大変そうですけど」
 ミカリは柔らかな笑顔で、日に日にやさしくなる日差しを見つめた。
「これで、この業界も、随分風通しがよくなるんじゃないでしょうか。私は、この新しい流れがこの先どうなっていくか、それを見守っていきたいんです」
「だね」
 ケイも苦笑して外の日差しに視線を向ける。
 長かった冬はようやく終わった。これから、本格的な春がきて、そして新しい夏が始まる。
「結局、大澤エリカは」
 ケイの問いに、ミカリは、そこだけ視線を伏せて首を横に振った。
「せっかく絵里香が残してくれたものを、私、開くこともなく無駄にしてしまいました。結局はケイさんたちが暴いてくれたんでしょうけども、なんだかそれが心残りで」
「いいんだよ、それで」
 あんたが今、生きて笑ってここにいる。それに勝るものなんて、この世には何もないから。
「筑紫さんも大澤絵里香も、蛇みたいに執念深くてしつこいんだ。またいつか戻ってくるよ。あんたはせいぜいスクープされないように気をつけな」
「了解です」
 花のように笑うミカリの細い指には、先月見舞いに行ったときにはなかったシルバーのリングが輝いている。
「ゆうりさんと大森は、どうしてます?」
 立ち上がって帰り支度をはじめたケイに、背中からミカリの声がした。
「高見はさ、聞いて驚かないでおくれよ、どうも今日はデートらしい」
「へぇ………えーーーっっっ」
「驚きすぎだよ、バカ」
 立ち上がりかけて、あいたたと足を押さえるミカリの頭を、ケイは軽くはたいている。
「で、あ、相手は」
「驚くならここだよ、ミカリ。なんと相手は白馬の騎士」
 こと篠田真樹夫。
 真田会長の、戸籍上唯一の相続人で、そして―――これは、ケイと高見の胸だけに収めていることだが、おそらく、柏葉将にとっては血をわけた実の兄。
 その出産にいたるまでの経緯は、さすがの煌探偵事務所にも判らなかった。
 ひとつだけ確かなことは、柏葉将の母親である真中多香子は、将を産む前に――いや出所した城之内静馬と暮らす前に、ひそかに子供を身ごもっていたということだ。
 空欄のままの戸籍。そこに記されるべき父親は、城之内静馬だったのか、それとも、後日その子を、母親から引き離す形で強引に奪い去った真田孔明だったのか。
 後者だろうとケイはみている。そこにどんな悲劇が隠されていたのか知る由もないが、だからこそ城之内静馬は、真田を殺そうとまで思いつめ、その動機を死ぬまで口にしなかったのだ。
 篠田真樹夫は、自らの出生の秘密をどこまで知っていたのだろうか。
 東邦幹部全てを欺いたあざやかな内乱劇。父とその一派を追放し、新生東邦EMGを立ち上げた男の動機もまた、わからないままだ。実母の復讐だったのか、それとも純粋なビジネスマンとしての野心、もしくは良心だったのか――それも、想像するしかない。
 しかし、篠田真樹夫が、相当食えない男だということだけは、確かなような気がした。
「今回の騒動で、一番の狐は篠田真樹夫だったってわけだ。ぼんくらのバカ社長を装いながら、その実、東邦に根強く巣食う真田一派を一掃するために、ひそかに暗躍してたんだからね」
 最も、それなりの葛藤はあっただろうけど。
 バスワードを教えることは、実質、男の実親を破滅させることを意味している。だから――。
 それもまた、ケイと高見の胸ひとつに納めている。
「てゆっか、目茶目茶かっこいい人でしたよ??」
「そりゃ、あんたにはね」
 拉致されて監禁。危機一髪のところを、颯爽と駆けつけて助けてくれた、まさに地を行く白馬の騎士。
 東京から九州まで社用ジェットでひとっ飛び。冗談社を巻き込んだ責任を自分で取ろうとしたのだろうが、こういうところは、さすが柏葉将のお兄さんだ。
「やくざみたいな連中を一発で締め落としちゃって…………フリーなら、かなり危なかったです、私」
 そこも、さすが柏葉将の血を引く男。
「でも、しょせん、中身は高見と同じサイバーオタクだからね。新会社設立の時に、高見と二人でインタビューに行ったんだけど、まぁ高見と、くだらない話題でもりあがることもりあがること」
「そ、そうだったんですか」
「誓ってもいいね、高見と同じ星の生まれだよ、あの男は」
 ま、それはどうでもいい余談だけど。
「で、大森なら、今日は記者会見に行かせたよ。知ってるだろ、緋川拓海の結婚会見」
「ああ」
「またしばらく、業界はにぎやかになるよ」
 ケイは、微笑して、置いていた上着を取り上げた。
 ここは芸能界。 
 嘘を承知でだまされる夢の世界。
 あたしたちもまた、その夢の世界の一端を担う住人だ。
「さっ、東京戻ってスクープ取るよ!」





              2



 春の風が、無人になったベッドに、カーテンの陰を躍らせている。
 凪は、ぼんやりと、そこで眠っていた人のすきとおるような横顔を思い出していた。
「あれから騙し騙し頑張ってきたけど、もう心臓が限界でね」
 海堂倫の声がした。
「本当は随分前から、美波君には覚悟するように言ってたの。このまま無意味に延命を続けても、心臓も内臓も弱ってきて、あんな――綺麗なままじゃいられなくなるから」
 凪は黙ったまま、白いシーツにそっと手を触れた。
 腎臓の機能が低下すると、排出できない水分が体内にたまり、身体も顔も膨張する。凪の祖母が同じ状態で、二ヶ月の延命治療の果てに死んだ。そのむごたらしい死に顔を見ながら、人の尊厳とはなんだろうと、考えさせられたこともある。
「ご両親の了解も得て、昨日で全ての機械を止めたの。もって1日か、2日か、それくらいかな」
「美波さんも」
 凪は初めて口を開いた。
「消えたんですか」
「昨日の夕方、車椅子に愛季さんを乗せて海岸に出たの。それっきりよ」
「…………」
「車イスはそのままで、美波君の車だけがなくなってた」
 初めて、倫の毅然とした横顔に、涙が伝った。
「警察には届けないことにしたわ。もう、本当にこれが最後だから。美波君の好きにさせてあげようって」
「…………」
「美波君が、妙な気にならなきゃいいって、それが心配なんだけどね」
「大丈夫です」
 あふれそうな涙を唇を噛んで堪え、凪は拳を握りしめた。
 もう、美波さんは一人じゃない。
 あんなに沢山の人が、美波さんを必要としているし、待っている。
 もう、あの人には帰る場所があるから。
 J&Mという場所が。
「美波さんは、帰ってきます」
 自分に言い聞かせるように、凪は言った。
「絶対に帰ってきます」






               3





 灰色の曇天。
 沖から吹く生ぬるい風が、海面を撫でている。
 潮騒が泣いている。
 
 どこか遠くから、子供の歓声が聞こえてくる。
 波の音だろう、美波は思った。まだ海水浴にはほど遠い季節。
 いつもの――波が惑わせる幻聴だ。
 海だよ、愛季。
 結局、ここ以外、どこにも行くところがないんだな、俺たちは。
 厚い雲に覆われた空。でも、南から吹く海風は、わずかだが春の湿り気を帯びている。
 どこかで海鳥が泣いている。
 灰色の砂、墓標のように突き出した黒い岩、永遠のような波の囁き。
 風になぶられた髪が、美波の頬を小さく叩く。
 腕の位置をずらすと、力ない身体がゆらりと揺れて、そのまま胸元に倒れこんできた。
 抱き支え、元通りに頬を肩で支えてやる。
 うつむいた愛季の横顔は、まるで幸福の微笑を浮かべているように見えた。
 涼ちゃん。
 今にもそう呟いて、笑いだしそうな唇を、美波はそっと指で撫でる。
 肌に触れる呼吸は、もう限りなく弱い。
 あとわずかで、この世から旅立とうとしている恋人。
 俺を、許してくれたのか。
 厚い雲の切れ間から、夕陽の欠片が一筋の光の束となって差し込んだ。灰色の空に、そこにだけ、まるで天の祝福が与えられているかのようだった。
 冷えた髪を撫でながら、美波は海に落ちる光の粒を見つめていた。
 こんな俺を、本当にお前は―――。
(別れよう、涼ちゃん)
(私なら全然大丈夫。涼ちゃんには、涼ちゃんの好きなことを思いっきりやっててほしいんだ。だから別れよう、私たち)
 判ってたんだ、愛季。
 いつの間にか、涙が頬を伝っていた。それを拭うことなく、美波は目をすがめたまま、今日一日の終りの景色を見続けていた。
 判ってたんだ、愛季。
 それでもお前が、俺を必要としていたことを。
 あれがお前の精一杯の強がりで、本当はあの時、誰より俺を必要としていたことを。
(何で涼ちゃんが謝るの?悪いのは私だよ、私があんなものに、うかうか出ちゃったのが原因なの。涼ちゃんには全然関係ないんだから)
 最後まで。
 誰も責めずに、誰の責任にもしなかった。
 全部、自分一人のせいだと言い切って、植村の名前さえ、一言も口にはしなかった。
(―――あなたも同類でしょ?売れるためならなんだってできる人)
 結局はシンデレラアドベンチャーの時と同じだった。俺は――全ての真実を知っていたのに。愛季を守る手段なら、いくらでも知っていたのに。
「………………」
 それをするかわりに、愛季の言葉に頷いた。
 別れよう。今、その言葉に頷いてしまったら、愛季は本当に何もかもなくして一人になる。それが判っていて、頷いた。
 まだギャラクシーの人気が低迷していた頃だった。相次いで報じられたトップスターのスキャンダルは、美波がマスコミに真っ向から反論したのを皮切りに、脆弱だった事務所の株価を暴落させ、屋台骨までをも揺るがす騒動に発展しはじめていた。
 当時、唐沢にもまだ、マスコミを御しきれるほどの力はなく、不条理な非難の矢面に立たされる所属タレントを、ただ歯がみして見ていることしかできなかった。後年、唐沢が、筑紫亮輔とあれほど激しくやりあったのも、全てその時の無念が原因だったと美波は思っている。
 ずっと疑問に思っていた真実を、はっきりと突き付けられたのもその頃だった。
 初めて美波の前に現れた死神が、愛季がどうやってあのビデオに出演することになったか、そのからくりを親切に耳元で囁いてくれた。
 その時の、煮えたぎるような怒りと臓腑がねじれるような葛藤を、どう表現したらいいのだろうか。
 判っていた。一番にすべきことは唐沢の所業を全て公にして、愛季を窮地から救うことだ、でも。
 そこで、もし、全てはJ&Mが仕組んだことだったと暴露してしまえば。
 愛季は救われても、事務所は実質的な終焉を迎えてしまうことになる。
 その頃には、ギャラクシーの下にマリアもいた。今のサムライのメンバーもいた。まだものになるかならないか判らない原石たちが、明日のスターを夢見ていた。
 ぎりぎりまで迷って、血を吐くほど悩んで、結局は、美波自身の意思で決めたのだ。
 事務所ではなく、愛季を切り捨てることに。
「………………」 
 潮風が頬を撫でる。
 片手で目を覆い、しばらく美波は、歯を食いしばって泣き続けた。
 全てを失った後。
 初めて気づいた。
 この世界に、愛季以上に大切なものなどなかったということに。
 自分の選択は、取り返しのつかない過ちだったということに。
 まだ、それが、純粋に事務所のためだと言いきれたなら、自分を許せもしただろう。しかし美波の中には、あの時確かに、わずかではあったが自己保身の思いもあった。実際美波は疲れていた。マスコミの対応にも、愛季がみせる空元気にも、いつもなら癒されるはずの笑顔にも――全てに。
 愛季が、トラックの前に飛びこんでしまった後。
 狂うような慙愧の中で、美波はただ血の涙だけを流し続けた。どうやったら愛季は元に戻るだろう。どうやったら、またあの笑顔に会えるだろう。もうどうにもならなかった。もう、何をしても、どうしても、時計は元に戻らない。
(状況的にみて自殺でしょう。しかし、加害者というのは自分に都合のいい主張しかしないものでしてね。もしかすると、事故の可能性も、あるのかもしれませんが)
 そう言った警察に、自殺だと言い切ったのは、悲嘆にくれていた恋人の両親ではなく、美波自身だった。
 愛季は、自殺です。
 僕が、こうなるまで愛季を追い詰めてしまいました。全ては僕の責任です。
 それでも、どんな非難も呪詛も憎悪も、美波を救ってはくれなかった。
(―――奇跡でも起きない限り無理でしょう)
(―――まるで希望がないわけじゃないんです。が、それは、そういうレベルの希望でしかないんですよ)
 後悔と慟哭の夜があけてから今日まで。
 その時間をどうやって生きてきたのか、美波には、明確な記憶がない。 日々の思い出は、いつも曖昧に濁ったベールで覆われて、はっきりと判っていたのは、これだけだった。
 罪を犯した者は、罰を受けなくてはならない。
 決して許してはならないものは三つある。
 愛季を罠にかけた唐沢直人と、彼が作り、その存在ゆえに愛季を苦しめたJ&Mと、そして。
 自分自身。
 この三つだけは、何があっても、絶対に許してはいけないのだ――。
 死神の囁きに、美波の中に育っていたもう一人の自分が頷いた。
 唐沢を憎み、J&Mを憎み、自分を憎み、憎み続けて裏切ることで、ようやく生きてこられた十数年だった。
 後輩への愛情や事務所への愛着さえも、裏切ることの苦しみを増す試練のひとつにすぎないと美波は思った。思おうとした。自分はそれを乗り越えなければならない。乗り越えて、最高の形で、最高のタイミングで、この事務所ごと唐沢を地獄に叩き落とさなければならない。それが、自分への最大の罰だから。
 全てが終わった後、待っていたのは底なしの虚無だった。
 暗い闇の中で、美波は過去の思い出にすがりながら待ち続けた。愛季と自分が、手を取り合ってこの世界から旅立つ日を。その日がいずれ来ることだけが、自身のたったひとつの救いであり、赦しだったから。
 一人の少女が、その甘美な思い出の殻を、外から強引にこじあけてくれるまでは。
 俺を。
 涙を飲み込み、美波は恋人の髪をそっと撫でた。
 俺を許してくれたのか、愛季。
 こんな俺を、それでもお前は。
(映画でもドラマでも、舞台でもね、現場で……名前も出ない沢山の人たちが、必死になって頑張ってるの見ると、すごく元気になれる気がするの。小さなものでも、力を合わせれば、ひとつの大きな星になる)
「……………」
(信じられない奇跡も、おきそうな気がするの)
 起きたんだ、その奇跡が。
 小さな星屑が、ひとつの大きな星になったんだ。
 誰よりお前に見てほしかった。
 お前に、喜んでほしかった。
 俺がしてきたのは、こういうものだって。
(涼ちゃんは、奇跡だよ)
(神様が、たったひとつ、私にくれた宝物……)
 お前に……
「しんちゃん、いつまでも見てないの」
「だって」
 ふいに、背後で声がした。
 美波はわずかに視線だけを向けている。
 束の間、母親に手を引かれている幼げな少年と視線があう。
 苦笑して、美波は指で涙を拭い、再び海に顔を向けた。
 もうじき、日が沈んでいく。
 波音が高くなる。
 もうじき、この時間も終わる。
 耳元で、幻聴のように、愛季のはしゃいだ笑い声が聞こえた気がした。
(私、あの歌が好きなんだ) 
(ミュージカルのクライマックスで……美波さんが歌うやつ、ほら)
 思いっきりベタな歌。思い出すのも恥ずかしかった。
(歌って)
(やだね)
(歌ってよ)
(お断りだ)
 あれから、何度もせがまれた。
 結局は一度も歌ってやらなかった。
 あの程度の願いを、どうして聞いてやれなかったんだろう。
 まだ二人には、長い時間があると思ったから。この日々が、いつまでも当たり前にように続くと思ったから。
 もう一度零れた涙を拭い、美波は息を吐いて、空を見上げた。
 かすれた歌声が、何年もそれを封印していた唇から出た。
 
 君は、僕の光
 神様が僕にくれた奇跡

「………………」
 いつのまにか握っている手が、冷たくなっていた。
―――愛季……。
 その手に、最後の接吻をして、美波は動かない女の身体を、背負うようにして立ち上がる。
 もう日が沈む。
 次はどこへ行こうか、愛季。
 どこへでも行けるんだぜ、もう。
 耳元で、波が奏でる幻聴が聞こえた。
(涼ちゃん……)
 もう一度聞こえた。
 足を止め、苦笑して歩き出した美波の耳に、今度は鮮明にそれが聞こえた。
「……涼ちゃん」
 膝をついた美波は、背負っていた愛季の身体を横抱きにし、その顔をのぞきこんだ。
 自分の心臓が、早鐘のように脈打っていた。風の音だろうか、波の声だろうか。まさか、でも。
 伏せられていた睫毛が震え、唇が、風のような音を立てた。
 それはもう、空耳ではない。
「愛季、」
 美波は震える手で、その頬を抱いた。そして、唇が次の言葉を囁くのを待ち続けた。
 
 



「もうっ、しんちゃん、行ったらダメって言ってるでしょ」
 それでも少年は急な斜面を駆け下りていた。
 あのお兄ちゃんはどうなったろう。
 どうして死んじゃったお姉ちゃんと一緒に、あんな場所にずっと座っていたんだろう。
 息を切らし、少年は足を止める。
 雲が切れ、赤い夕陽が海面を濃く染めている。汗ばんだ額を、冷たい海風が吹きあげる。
 砂浜には、大きく砂を蹴った足跡だけが残されていた。
 二人の姿はどこにもなかった。























 

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