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 ストーム、ストーム、ストーム、ストーム……。
 声は途切れることなく、最初のボリュームを保ったまま、いつもでも続いている。
 唐沢直人は、モニターの中のその光景を見つめていた。
 綺堂の共犯は前原さんだな。
 苦い苦笑と共にそう思う。綺堂の奴、最初からこれをするつもりだったのか。
「早く、中止のアナウンスを流したらどうですか」
 背後で、慇懃で冷ややかな声がした。
 警視庁公安部参事官、角田警視正。
 スマートなグレーのスーツに深海色のネクタイ。
 見るからに唐沢より年若い銀縁眼鏡のこの男は、おそらくキャリアと呼ばれる国家公務員上級組だ。
 随分前から、コンサートの中止を警告し続けていた男は、今日は公安三課の刑事二人を連れて、朝からドームに詰めている。
「何があったか知りませんが、随分な騒ぎになってしまったようですねぇ」
 通路ひとつ隔てて離れているこの部屋にも、ドーム内の熱狂的なコールは、まるで地響きのように伝わってくる。
 角田はゆっくりと、かけていた椅子から立ち上がった。
「このままではお客さんが可哀想でしょう。いつまでも待たせておくのも、酷というものですよ」
「……そうですね」
 ストーム、ストーム、ストーム、ストーム。
 途切れないコール、全員総立ちの観客席、場内のスクリーンが、それを俯瞰で捕らえ、アップで捕えている。
 唐沢は、わずかに沈思してから、振り返った。
 腹は、決まった。
「すいません、お願いします」
 差し出した両手を見て、角田がいぶかしげに眉を寄せた。
「なんの真似です」
「コンサートは続行します」
「ほう」
「いや、続行させてください」
 男の、官僚然とした無機質な眼がすがまる。
「私の身柄を拘束するというなら、ご自由にどうぞ。今すぐ逮捕でもなんでもしてください。でもコンサートは中止にはできない。このまま最後まで続行します」
 絶対にここで。
 終わらせてはならない。
「お気持ちは判りますがね」
 薄い唇を曲げて、男はかすかな笑みを浮かべた。
「あなた一人を拘束して、それで会場の安全が確保されるとでも思っているのですか。あなたがあくまで拒否するなら、公務執行妨害で逮捕するのは当然です。しかし、コンサートの続行は許しません」
「許可権限はあなたにはない」
「電話を一本するまでですよ」
 角田は肩をすくめ、デスクの上の進行表を指ではじいた。
「すぐにトラック一台分の機動隊がかけつけて、この会場は全面封鎖になるでしょう。観客は全員朝まで足止めされた上、厳しい持ち物検査を受けることになる。私がするのは電話をかける手間くらいです。実に簡単なことだ」
「…………」
「そうなる前に、自主的にコンサートを中止されるべきだと思いますがね」
 こいつ。
 激情を、唐沢は必死の思いで拳で押さえた。
 判っている。これは性質の悪い挑発で、乗ってしまえば、本当に最後だ。最初からずっとコンサートを中止する機会をうかがっていたこの公安参事官は、どういう理屈をつけても自身の主張を変えようとはしないだろう。
 最初から、この男の態度には結論が見えていた。
 でも――何故だ。
「あなたは」
 感情を抑えた声で、唐沢は言った。
「どうしてそこまで、私どものコンサートを中止させることに拘るのですか」
「都民の安全のためじゃないですか」
 壁に背を預け、頭の悪い子供に言って聞かせるような口調で角田は続けた。
「東京ドームクラスのイベントで、テロ行為が行われた。被疑者は一人確保しましたが、これで終わりだという保証は何もない。いわば、五万人が人質にされた状態なんです。中止は適切な判断ですよ、唐沢さん。それともあなたは、五万人の安全より、会社の利益が大切だと言いたいわけですか」
「先ほども申し上げました」
 唐沢は一度した説明を、辛抱強く繰り返した。
「発煙筒が投げられるという情報は、事前にうちの柏葉が掴んでいました。それは、断じて公安警察さんが出てこられるようなテロ行為ではありません。個人的な怨恨によるコンサートへの妨害行為です」
「どこにその証拠がありますか」
 角田は笑った。
「荒唐無稽にもほどがありますよ。何故東邦EMGのような大企業が、そのような暴力行為で、あなたがたの妨害を企てねばならないのですか」
「……柏葉が乗っていた車をお調べいただければ、判ると思います」
 悔しいが、それだけしか唐沢には言えない。過去の因縁や人間関係の泥沼を説明したところで、ますます一笑に付されるだけだろう。
「あなた方が言うところの現場に行ってみましたがね」
 携帯が鳴っている。角田はポケットからそれを取り出し、一瞥してから、再びポケットに滑らせた。
「指定のナンバーの車は、残念ながらありませんでした。おっしゃられるような暴力の痕跡も、何も」
 馬鹿な。
 唐沢は思わず拳を握りしめている。
「柏葉将といえば、以前暴力事件を起こして逮捕されたアイドルでしたね。そして今日は、あろうことか二時間以上の大遅刻」
 角田の理知的な顔に、気の毒そうな笑みが滲んだ。
「これは柏葉君のための忠告ですが、あまり下手な言い訳はされない方が身のためですよ」
 わかった。
 唐沢は唇を噛んだ。ここにも東邦の手は回っていたのだ。金融界を影で牛耳る真田一族。その圧力は企業だけでなく、政治家、官僚にも深く及んでいる。
「これが警察のやりかたですか」
 声が震えた。
「こんな風に簡単に、人の人生を賭けた夢を壊してしまう。それがあなた方のやり方ですか」
「これは、正当な職権行為ですよ、唐沢さん」
 角田の目にあわれむような色が浮かぶ。 
「本当のことを申し上げましょう。我々が事前に得た情報で、このコンサート会場に、過激派の一味が紛れ込んでいるという噂があったんです。警察として、それを見過ごすわけにはいかないでしょう」
「過激派などあり得ません、いるはずがない」
「どうしてそう言いきれます」
「じゃあ、あなたがどういった経路でそのような情報を得たか、私に教えてもらえますか!」
 角田は笑った。「守秘義務がありますから」
「…………」
 もう、何を言っても無駄だろう。
「中止の指示を」
「…………」
「あなたにできないなら、私がやります」
「…………」
 力か。
 これが、巨大な力というものなのか。
 底なしの泥に沈んでいくような絶望感。母親の葬式で、土下座した父の姿を見た時と同じものが、今唐沢を飲み込もうとしている。その時、生きていくためには力が必要なのだと痛感した。以来、その力を追うためだけに人生のすべてを費やしてきた。
 今は知っている。それよりもっと大切なものがある。が、現実には、力のない者がそれを守るのは至難の業だ。
「この歓声が聞こえませんか!」
 唐沢は必死に訴えた。
「5万5千の観衆が、今ストームを待っているんです。この日を待って待って、待ちわびて、地方から東京までやってきてくれたんです。それを今、ようやく柏葉将が合流できたその時に、中止にしろっていうんですか。お客さんに帰れと言うんですか。そんなことは絶対にできない、できません」
「それはそちらさんのご事情でしょう」
「会場の安全は保障します。今でも三百人態勢でボランティアが客席を回ってくれているんです。それに」
 唐沢はモニター画面を手で叩いた。
「この観衆が味方です。ドームを守るのは僕らだけじゃない。ここにいる全員が、コンサートを守ってくれているんです!」
「…………」
「お願いします!」
 杖を投げだし、唐沢は自由にならない膝を折った。
 リノウムの床を掴み、頭をそこに叩きつけるようにして下げた。
「お願いします!あと一時間です。たったそれだけなんです。あいつらに、最後までやらせてやってください、最後までステージに立たせてやってください!」
 磨かれた靴が鼻先に見えた。これが、何年も前に親父が見た風景かと思った。
「お願いします!!」
「無駄ですよ」
 冷やかな即答が返ってきた。
「安い涙や情熱で、警察は動きません。もう結構です。おい、ドーム事務局に行って中止のコールをするように伝えて来い」
 角田が背後の刑事二人を振り返る。
 唐沢は顔をあげる。
「待って下さい」
「抵抗するなら、お望みどおりあなたの身柄を拘束しますよ」
「そんなもの勝手にしろ、待て!」
 跳ね起きようとした。扉に向かおうとしている刑事。その眼前で扉が開いた。
 唐沢は目を見開いていた。
「身柄を拘束するなら、僕らを先にしてください」
 あっ、と刑事二人の背中が動揺したのが見えた。
 アイドルにはうとい連中でも、この顔を知らない日本人はまずいない。
 緋川拓海。日本がアジアに誇るトップスターにして、国民的アイドル。
 その緋川を筆頭に、背後にはJ&Mが育てたスターたちが並んでいる。
 マリア、サムライ6、スニーカーズ、なにわJ、河合誓也。総勢22名のアイドルが、ずらりと入口を取り囲んでいる。
「俺らも抵抗する口やねん。ここを通りたかったら、どうぞ、まず俺らを逮捕してからにしてくれへんか」
 増嶋流。
「言っとくけど、その場合の経済的損失、ハンパじゃないから」
 サムライ6の岡村準。
「日本経済に大穴があくんやないかなぁ、その責任、あんさんたちが本当に取る気なんやろか」
 とぼけた口調で澤井剛史。
「おうっ、やれるもんならやってみやがれ」
 拳を突き出して永井匡。
 お前ら……。
 バカか。
 眩暈を感じながら、唐沢は立ち上がっていた。
「何をやってるんだ、とっととここを出ていけ、お前ら、自分がしていることが本当に判ってるのか!」
「わかってま、唐沢さん」
 増嶋流が、わずかに笑ってから前に出た。
「ストームもアホやけど、俺らもとことんアホやねん。今の事務所クビになったら、また唐沢さんとこでつこうてもらえますか」
「…………」
「ここで引くような育てられ方してまへんで、俺ら」
「おうっ、J&M魂舐めんなよ!」
「こんなことで諦める奴は、ここには一人もいないんだよ」
 お前ら。
 お前ら……。
 緋川の傍らから、静かに歩み出てきた男がいた。男は無言でモニターの前に立ち、映像をテレビチャンネルに切り替えた。
<現在放送中の紅白歌合戦で、異例のアクシデントが起きました。なんと司会の貴沢秀俊さんが涙の途中降板。現在ヘリコプターで、ストームのコンサートが行われている東京ドームに向かっているということです>
 映像は東京上空。夜空を駆けるヘリの姿を捕らえている。
「もっとアホがおったわ」
 増嶋が呟き、河合が涙ぐんだ。
<中止が危ぶまれているコンサートですが、貴沢さんがNKKホールを飛び出したのを皮切りに、テレビ局に激励の電話が殺到。コンサート映像は、現在でも都内のオーロラビジョンで中継中ですが、街行く人が、固唾をのんでその行方を見守っています>
 エフテレビのナイトニュース。
「味方は、ここにいる5万5千人だけじゃない。インターネット中継を通じ、世界中の人が、今夜のコンサートを見守っています」
 テレビの前に立つ男が口を開いた。美波涼二。
「会場を封鎖したいというのならどうぞ。身柄を拘束されたいというならご自由に。ただし僕らは、たとえ最後の一人になっても、今夜のコンサートを続けます」
「できるものならね」
 角田は眉をあげ、あざけるように肩をすくめた。そして、出入り口の前で固まる刑事二人を睨みつける。
「行け、ぐずぐずするな、コンサートは中止だ!」
「いや、しかし」
 頑強な男二人の脚が止まっている。扉の向こうには、出口を塞ぐようにして元J&Mのデビュー組が立っているからだろう。
 苛立ったように、角田が腕を振り上げた。
「相手が芸能人でも躊躇する必要はない、抵抗する者は取り押さえればいいんだ」
「いや、でもですね」
 開いた扉の向こう側。
 顔をあげた唐沢の視界に、どこまでも続く人の頭が見えた。
 緋川拓海を筆頭としたJ&M元デビュー組、矢吹一哉、上村尚樹、織原瑞穂、鏑谷元会長、長身のカン、前原大成、そして元Kidsたち。その後ろに、延々と同じジャンパーを羽織ったスタッフが続いている。どの顔も、頑なな決意を浮かべ、一歩も後に引かない目をしている。
―――お前ら……。
「できるものならどうぞと」
 美波が冷やかに微笑した。「今度は僕が言わせてもらいますよ」
「ここにいる全員、逮捕できるものならしてみやがれ」
 緋川拓海がそれに続いた。「いっとくけど、この映像だって、ネット中継することができるんだからな」
 わかった。
 唐沢の視界が滲んだ。
 わかったよ、親父。親父はあの時、相手の靴を見ていたんじゃないんだ。その先にあるものを見ていたんだ。その先にある世界と、そして仲間たちを。
 その重さに比べたら。
 こんな土下座など、何千回しても惜しくなかった。
「……無駄なことを……」
 一時、唖然としていた角田は、が、すぐに冷笑を浮かべ、ポケットから携帯電話を取りだした。
「さきほども言いました。私の手間は電話をかけることだけだと」
 その意味を解し、唐沢は立ち上がろうとした。
 この男が、どんな権限を持ち、どこまで本気かは知らないが、機動隊、そんなものを呼ばれて、今夜の客に迷惑をかけることだけはできない。
「実力行使で阻止しますか。そうなれば、今度こそただではすみませんよ」
「…………」
 そんな真似はできないし、ここにいる誰にもさせるつもりはない。
 どうする。
 ためらう唐沢の前で、角田が携帯を持ちかえる。全員が緊張し、今にもそれが爆発しそうに膨れ上がる。着信音が鳴ったのはその時だった。
「またか」
 苛立ったように、男は携帯を耳に当てた。
「角田だ。……は?誰だ、貴様」
 数秒の間を置いて、その能面のような顔が、冷水を浴びせられたように蒼白になった。















 

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