PM5:05 東京ドーム控え室



「無理です、できません」
 居並んだ5人が青ざめている。
 それはそうだろう。嘆息しながら、聡はそれでも、強い視線で5人を見上げた。
「それでもやるんだ」
 うなだれて、蒼白な表情を強張らせている5人の少年。
 新生J&Mの、彼らがおそらく第一期生になるだろう。
 相馬瞬
 月島蓮
 仲間陸
 沖田南
 鳥羽希
 5人の前には、今、赤修正だらけの新しい振り付け表が束になって置かれている。
 着替えや移動、最終打ち合わせの時間を除いたら正味3時間弱で、この新しい振りつけと流れを、5人には全てマスターしてもらわなくてはならない。
「無理ですよ、俺ら、そもそも自分のパートだけでいっぱいいっぱいだったのに」
 精一杯の強がりをこめた反抗的な声で呟いたのは、東大生の鳥羽希だった。
 雅之曰く、流川凪を思いっきり生意気にしたらこうなるらしい。見た目可愛いファニーフェイス。
「それに……柏葉さんがいないからって、僕らにその穴埋めろって言われても」
 おどおどと仲間陸が口を挟んだ。ついたあだ名がプチ聡、お姉さんに勝手に履歴書を送られたという、ひたすら受け身で大人しい少年。
「まぁ……何もかもいきなりすぎて、すぐに対応しろって言われても、な」
 普段活きのいい相馬瞬も、妙に気遅れて目を泳がす。
 理由は判る。アクシデント続きの舞台裏、スタッフの苛立ちや焦りが、何もかも初めてでテンパっているこの新人たちに、見えないストレスと畏怖を与えているのだ。
 それに加えて、完成した巨大なステージを目の当たりにした。眩暈がするほど広大な観客席、ドームを取り巻く熱気と歓声、その何もかもにのまれてしまったに違いない。
「だったらやめろ」
 聡は言った。
 言われた瞬だけではない、全員が驚いたように顔を上げる。
 聡は、冷たい目で立ちあがった。
「言っとくが、これは特別なことでもなんでもない。土壇場になっての振り付け変更なんて日常茶飯事、俺らがキッズに入った頃は当たり前にやらされていたことだ。30分で振りを移して、ステージに立ったこともある。それができて初めてのプロだ。できない奴は、ここにいる資格はない、とっとと荷物をまとめて家に帰れ!」
 しん、と空気が静まりかえる。
 背後にいた音響スタッフも、動きをとめて凍りついている。
「動かない以上、やるんだな」
 聡はスタッフに手で合図を送った。
「今から通しで振りを移す。悪いけど、俺も自分の練習があるから、一時間しかつきあえない。行くぞ」
「なんでそんなに冷静なんですか」
 かかった曲を遮るように、東大生が口を挟んだ。
「知ってますよ、柏葉さんが来てないんでしょう?来る見込みもないんでしょう?信じられないですよ、今夜のステージ、ほとんどの人が復活した柏葉さんを見たくて来てるんだ。なのに、その主役がこないなんて」
「……で?」
 聡は静かな目で希を見る。
「でって」
「慌てりゃいいのか、落ち込んでりゃいいのか、それで何かが変わるのか」
 ぐっと、希が言葉に詰まる。
「言っとくが将君は絶対に来る。それまでステージを壊さずに温めておく、そのための最大限の準備をする、それが、俺らが今しないといけないことじゃないのか」
 ふいに、背後でぱらぱらと拍手がきこえた。
 えっと、聡は振り返っている。
「立派やなぁ」
 呑気な声に、緊張が一気に解ける。
 扉の影から複数の人の気配がする。というより、この聞き覚えのある関西弁は。
 全開した扉の向こうから、現れた人。
「見間違えたで、東條。いっつもめそめそ泣いてたお前が、なんちゅう啖呵切るようになったんや」
「まっ」
 聡は、唖然と口をあけていた。「増嶋さん??」
「聡君、悪いけど、こっちも振りがわかんなくてさ。ちょっと見てくんねーかな」
 別の扉が開いて、憂也が顔を出したのが同時だった。
「えっ、増嶋さん??」
 と、その憂也も口をぽかんとあけている。いや、そこに立っているのは増嶋流一人ではない。同じMARIAの今井智紀、永井匡、沢口樹、大河創。
「うそ、増嶋さん?」
「えっ、増嶋さんってMARIAの?」
「ほかにどの増嶋さんがいるんだよ」
 りょうと雅之も、憂也の背後から顔を出す。
 居並ぶストーム4人の顔を見回して、増嶋は楽しそうに両腕を腰に当てた。
「なんやなんや、どんだけ落ちこんどるか思うたら、全員まるっきしいつもどおりやないか」
「いやー、すげー見せ場ができたなって思って」
 にやっと笑ったのは、憂也だった。
「正義の味方は、最後に登場するって相場が決まってるしね」
 りょうも、落ち着いた声でそう言って、わずかに笑う。
「結局主役は将君なんだよなぁ」
 少しすねたように雅之。
「お前ら、やっぱ、真正のバカだわ」
 あきれたように永井匡が首をひねった。
「流のアホに急かされて、ここまで飛んできた俺らがバカだった。まぁいい、後は俺らに任せて、お前らはとっとと行け」 
「え、行くって」
 聡は戸惑って、予想外の事態に立ちすくんでいる新人たちを見る。
「おう、ワン公、久しぶりだな」
 増嶋たちの背後から、厭味な声がしたのは、その時だった。
「憂也、お前まだ、雅とつるんでんのか。マジでホモってんだな、お前らは」
 今度、絶句したのは憂也だった。
「き……」
 隣立つ雅之も言葉を失っている。
 北川ナオ。そして、その背後に居並ぶのは、ストームがキッズ時代、いつもいびってくれていた先輩たち。
 北川と憂也はことさら折が悪く、ここに立つMARIAのコンサートで、殴り合いになりかけたこともある。
 呆然とする聡の前に、すいっと長身の男が割り込んできた。
「よーう。雅、りょう、元気だったか」
 甲高い声で陽気に手を振っているのは有栖川晃。
 当時はアリちゃんと呼ばれていた、顔はひどく端正なのにセンスがやたらと悪い男。
 昔、流川凪との仲を誤解して、雅之が嫉妬したこともあった。
「あーーーっアリちゃん!!」
 雅之が歓声をあげ、そこで糸が切れたように室内が再会の喜びで爆発した。
「なんだよ、アリちゃん、まだドクロのGジャン着てんのかよ」
「北川さん、とめてやんなきゃ」
「お前ら、相変わらず礼儀とかそういうのゼロだな」
「ドームなんて百万年早いんだよ」
 嘘だろ、と聡は背中や頭を叩かれながら思っていた。嘘だろ、これ。
「時間ないんだろ、東條」
 背後で静かな声がした。
 北川ナオ。元々不健康な美貌の持ち主だったが、今はほどよく肉がついて、面差しはどこかやさしく見える。
「パックは俺らがやってやるから安心しろ。このガキどもの振り付けはMARIAさんがつけてくれるってさ」
「……北川さん」
 聡は、言いさして絶句する。目に、痛みにも似た熱い塊がこみあげる。
「時間は……あと、3時間か、準備には長すぎるくらいだな」
 北川が呟くと、「余裕だよ」と、 有栖川が肩をすくめた。
「J&M魂を舐めんなよ。ガキの頃から、何万人の前で踊ってきたんだ。幕間十分で振り移しなんて当たり前、俺らの中にはな、この程度の舞台やアクシデントでびびる奴なんて一人もいないんだよ!」
 それは、立ちすくんだまま動けない、5人の新人に向かって言っているようだった。
「おう、東條君」
 駆けだそうとした時、前原大成の声がした。
 極限状態がずっと続いているせいか、その声は妙なほど上ずって甲高い。
 丸めた紙を手にした前原は、そのまま怒鳴るような声で言った。
「悪い、再度変更だ。曲のアレンジ部分は今までどおり、柏葉君がいない部分のみの変更でいってくれ!」
「どういうことですか」
 足を止めた聡が訊き返す前に、その答えが前原の背後から現れた。
「よう、アイドル」
 ぬっとそびえたつような巨体。闇から現れたような肌色を持つ男。
「REN……さん?」
 聡も、雅之も、憂也もりょうも、言いさしたきり、言葉が出ない。
 まさか、夢でも見てるんだろうか。
 ジャガーズのREN。「奇蹟」騒動の後、マスコミの前から姿を消して、今は行方不明だったはずだ。そのRENが、今、四人の目の前に立っている。
 短く刈った頭にサングラス、つなぎの迷彩服にミリタリーブーツを履いている男は、会話することさえ面倒そうに、背後に向けて顎をしゃくった。そこからぞろぞろと、シャツにジーンズ姿の男たちが現れてくる。
「いなくなっちゃったんだってね、アイドルラッパー」
「将君、僕の好みだったのに、残念だよ」
「可愛かったよねー、彼」
 聡の記憶が確かなら、それはヒロト、セイ、カイト。解散した元ジャガーズのメンバーだ。
 将を、いや、J&Mを思いっきり侮辱した連中。
「お前ら……」
 案の定、それまで唖然としていた永井匡が、目をいからせて前に出た。
 RENに敬愛する緋川拓海を侮辱された時から、キレやすい永井だけではない、MARIA全員がジャガーズには強烈な反感を抱いている。
「一体何しにきやがった。邪魔しにきたんなら、ただじゃおかねぇ!」
「天下の元ジャガーズが、アイドルのバックバンドをしてやろうっていうんだよ」
 ふざけた口調でそう言ったのは、赤いキャップがトレードマークのカイトだった。
「せいぜい、遅れないようについてきなよ。レベルが違いすぎてむしろ大変だと思うけどね」
 セイ。
「そっちこそ」
 今にも爆発しそうな永井を遮り、いたずらめいた笑みで切り返したのは憂也だった。
「アイドルのノリは半端じゃねーよ。たかだかラッパーについてこれっかなー」
「なんだと、コラ」
「いってくれっじゃねぇか、アイドル」
 唖然とする聡の前で、元リーダーのヒロトが困惑の苦笑を浮かべながら、手を差し出した。
「みんな口は悪いけど、君たちのこと認めてるから、他の仕事をキャンセルしてここまで来たんだ」
「……あ」
「アレンジ部分はウッディがよく判ってるから、問題ないよ」
「…………」
 やっぱ、これ、夢かもしれない。
 温かな握手をかわしながら、聡は目の奥が熱くなっている。
「RENさんは筋書きのないライブが大好きなんだ。今夜は燃えるよ、あの人。で、もちろん柏葉君は来るんだよね」
「来ます」
 涙を手のひらで拭いながら、聡は言った。
 聡だけじゃない、憂也も雅之も、りょうも、本当は全員、不安で怖くてしょうがなかった。
 将の遅刻は、単なるアクシデントではない。深刻な事故か事件に巻き込まれた可能性が大きいことは、口には出さないが、全員が薄々察している。
 もう、昔の俺たちじゃない。
 空を睨むりょうも、多分涙をこらえている。
 雅之はもう泣いている。
 憂也は目で笑って、でも唇を噛んでいる。
 でも――もう、絶望を、ただ受け入れるだけの俺たちじゃない。
「将君は、必ず来ます」
 聡は言った。
「それまで、絶対に、ステージを4人で盛り上げて見せます!」
 将の帰ってくる場所は、俺たちにしか作れないから。







PM5:45 東京ドーム音響編成室


「…………」
 難しい。
 矢吹一哉は、舌打ちをして、進行表を投げだした。
 あと十五分でタイムリミットだ。開場時間、このドーム内に、五万五千の観衆が、一気になだれこんでくる。そうなればリハーサルのやり直しは不可能だ。あとは、どんな事態にもアドリブで対応するしかない。
「どうだ、なんとかなりそうか」
 背後の扉が開き、唐沢直人の声がした。
「柏葉はどうです」
 それには答えず、矢吹は訊いた。「どうにもならないんですか、もう」
「できる限りの捜索をしているが、行方は依然わかっていない。俺が言えるのはそれだけだ」
 目をそむけた唐沢の声には、疲労と落胆が滲んでいる。
 唇を噛み、矢吹はひとつ息を吐いた。
「振り付けの変更はなんとかなりそうですがね、問題は演出と曲順だ」
「大きな変更は、無理だ」
 唐沢の背後には、不安気な面持ちをした植村尚樹がついている。
 警察への捜索依頼、そして柏葉家への連絡、一日中都内を駆け回っていた唐沢は、いつも以上に痛々しく足をひきずっていた。
 疲れたように椅子に座りながら、唐沢は続けた。
「演出を変えれば、音響、照明も大幅な変更を余儀なくされる。今からそれをするとなると、全体がぎくしゃくする。火薬を使った演出は特にそうだ、一歩間違うと怪我人を出すおそれもある」
「わかってますよ」
 矢吹は声を荒げていた。
「でもこのままじゃ、アクシデントが起きたことが観客にもろに伝わってしまう。柏葉がいつ来てもいいように、いつ来てもスムーズに溶け込めるように、4人のファーストシーンはあくまで演出だと、観客にアピールする必要があるんです」
 言葉を切り、矢吹は両拳を握りしめた。
 しかも、観客はドームに押し寄せた五万五千人だけではない。インターネットを通じて、コンサート映像は世界中に配信される。
「幕があいた瞬間、舞台裏で問題が起きていることが観客に伝わってしまったら、それだけでこのコンサートは失敗です。お客さんが不安をかかえたままじゃ会場の空気が熱くならない、妨害者の思うつぼだ」
 口惜しさを噛みしめながら、矢吹は言った。
 むろん、それは、黙っている唐沢にも判っているはずだった。
 判っているゆえに、矢吹も、唐沢も、苦渋の決断を強いられている。柏葉不在を謝罪した上で予定どおりの演出でいくか、到着を信じて演出変更で乗り切るか。
 常識で考えれば、前者を選択すべきだろう。しかしそうすれば、その時点で不満と不信が噴出し、コンサートの意義の大半は失われてしまいかねない。今日の主役はストームだが、その中でも特別な意味を持つのが柏葉なのだ。
「演出を変更するなら、タイムリミットはあと30分程度です」
 それを超えてしまえば、唐沢の言うとおり、音響や照明の変更が追い付かなくなる。
「が、残念ながら俺には、今の構成をこれ以上上手くいじるだけの才覚がない」
 矢吹は強く、卓上を叩いた。
「悔しいですが、お手上げですよ」
 重い沈黙が室内に満ちた。
 矢吹は唇を噛みしめたまま、考える。
 あとは――ストームの4人に、現場のアドリブで乗り切ってもらうしかない。
 絶対に、柏葉将がいないことが、アクシデントだと判らないように。
「いまさらですが、ネットの世界中継がうらめしくなってきましたよ」
 矢吹は呟いて苦く笑った。
 鏑谷プロの全面協力を得て撮影された映像は、ライブライフのピーテレを通じて世界に向けて発信される。
 何があっても撮り直しのきかない生中継。
 もし、そこで、致命的な失敗をしてしまったら――。
「あ、」
 最初に口を開けたのは植村だった。その眼は呆けたように、開きっぱなしの扉の向こうを見つめている。矢吹は眉を寄せ、その視線の先に顔を向けた。
「見せてみろ、矢吹」
 黒いタートルに同色のレザーパンツ、一分の隙なく引き締まった体、男でも嫉妬するほどの、玲瓏とした美貌。
 靴音を立てて歩み寄ってきた美波涼二は、矢吹が卓上に投げ出した構成表を持ち上げた。
 美波――、唐沢の唇が、言葉にならない声を吐く。
 植村はただ唇を震わせ、矢吹は何も言えなかった。
「すいません、唐沢さん」
 美波は、以前より鋭くなった面差しをあげた。穏やかな声だった。
「十五分、いえ、十分時間をください。すぐに構成を組み直します」
「涼二、」
 はじめて矢吹の口から言葉が出た。言ってから気がついた、何年ぶりに呼ぶ友の名だろうかと。
 美波は資料のすべてを卓上にざっと広げる。
「矢吹、植、フォローを頼む。俺は細かいことまで理解していない。おかしいと思うところがあれば、すぐに指摘してくれ」
「わかった」
 即座に頷いた植村の目が、不自然な瞬きを繰り返している。
 その気持ちが矢吹にも判った。植、そう呼ばれたことが嬉しかったのだろう。
 もう何年も、他人行儀な付き合い方しかできなかった三人だから。
「それから、前原さんをすぐに呼んでもらえないか、あの人の意見を聞きたい」
「俺がやろう」
 唐沢が、携帯を持って立ち上がる。
「それならもうひとつ、お願いしてもいいですか」
 美波が、静かな目で唐沢を見上げた。
「これを」
 立ち上がった美波は、ポケットの中から一枚の紙片を取り出した。
「今日のチケットです。本来の持ち主に返してあげてください。相手は成瀬が知っていると思います」
 不思議そうな眼になった唐沢に、美波は穏やかな笑みを返す。
「僕をここへ来させてくれた女性です。成瀬の彼女ですが、僕にとっても大切な友人です。どうか、2人を暖かく見守ってやってください」
 


「開演時刻は予定どおりのようですね」
 控え室を飛び出した唐沢は、背後から聞こえた声に足を止めていた。
 理知的で慇懃、なのに神経を汗ばんだ手で逆撫でされるような声。振り返った唐沢の視界の五メートル先、声の主は、背広姿の三人の男の先頭に立っていた。
 長身で肩幅が広い、美丈夫と言ってもよかった。短く刈り込まれ、丁寧に撫でつけられた硬質の髪。色白の肌、きれあがった一重の瞼、鼻がやや大きく、唇が極端に薄いという欠点をのぞけば、なかなかの美貌の持ち主だとも言えた。
 しかし、眼鏡の下からのぞく男の眼差しには、原始的な嫌悪を感じさせるものがある。唐沢は無言で眉をしかめた。
「お会いするのは初めてになりますね、唐沢さん」
 予感にも似た不吉な胸騒ぎを感じ、身構えたままの唐沢は、歩み寄ってきた男と目礼を交わす。
 身長は、わずかに男の方が高い。それを誇示するように、男は薄い唇に微笑を浮かべた。
「初めまして、警視庁公安部参事官、角田といいます」
 名乗られる前に、もう唐沢には男の正体が判っていた。
「私の部下です」
 背後に立つ、いかにも刑事然とした屈強の男二人が、目も合わさずに頭だけをわずかに動かす。
「入場ゲートをチェックさせてもらいましたがね。ボランティアまで使って、随分ものものしい警戒をなされているようだ」
「何かあってからでは、取り返しがつきませんので」
「そう、何かあってからでは取り返しがつかない」
 何故か嬉しそうに、男はそう繰り返した。
 警視庁公安部。
 電話で所属を聞いた時から、不審には思っていた。交通課ではなく、公安部。たかだかアイドルのコンサートに、どうして国家の治安機関が出張ってくるのか。彼らのターゲットは右翼、左翼などの思想集団、そしてテロ組織や北朝鮮などの海外諜報であるはずだ。
「なにしろ五万規模の観客が集結するビックイベントだ。万が一、ここがテロのターゲットになったとしたら、どれだけの被害が出るか判らない」
「おっしゃる通りです」
「インターネットの掲示板で、何度か爆破予告があったそうですね」
 何が言いたい。
「事務所に火をつける、スタッフを帰り道に襲う、もっと凄まじい脅迫はいくらでもありましたよ」唐沢は肩をすくめた。「ただ、どれひとつとして、実行されたものはありませんでしたけどね」
「ま、じっくりと観覧させてもらいますよ」
 爬虫類を思わせる眼をすがめて男は笑った。
「私は事前に警告しました。コンサートは中止にすべきだと。あなたは残念なことにそれを無視した。いいでしょう。確かに私には権限がない。何か、事が起こるまでは」
 何かが――起こるまでは。
「そんなもの、起こりませんよ」
 唐沢は言った。実際は、そんな保障はどこにもなかった。しかしそれは、どのイベントにしても同じことだ。決して、このコンサートだけが特別というわけではない。
「起こらなければ、もちろんそれで結構です」
 男の笑顔は、権力を持つ者特有の余裕に満ちていた。
「けれど、起きてしまえば、以後は絶対に、私の指示に従ってもらいます」
 柔らかいが、反論を許さない口調。他人を見下し、服従させることに馴れた眼差し。
 唐沢は黙って、男の冷笑と対峙する。
 何も、起きない。起こさせない。
 そのために、三百人規模のボランティアが手荷物チェックと警備を担当し、青いリボンまで考案して、そのような妨害行為をおこしにくいムードを作ってくれているのだから。
「無事に、コンサートがフィナーレをむかえられることを祈っていますよ」
 最後にそう言い、警視庁から来た死神は、悠然ときびすを返した。








             *



 鼻歌が聞こえる。
 時々途切れては、また聞こえる。
 ミカリは、暗闇の中、聴覚だけを研ぎ澄ませていた。
 考える。激痛で思考が途切れそうになる。それでもじっと考える。
―――ここは、どこだろう。
 どうすれば、ここを逃げだすことができるだろう。
 逃げようにも、右足の感覚はほとんどなかった。しかも目隠しをされ、口は布で覆われている。両手は後ろで縛られている。
―――うかつだった。あれほど注意しろと、ケイさんに言われていたのに。
 自業自得だ。東京で、ケイや高見がどれだけ心配しているかと思うと、気が気でならない。今日は――ストームのコンサートだというのに。
 昨夜。
 夜の路上、クラクションに驚いて振り返った時には、もう黒い車が間近にまで迫っていた。
 右の腿をしたたかにぶつけ、うずくまっている所を複数の男に抱き抱えられた。車の後部シート、目隠しをされ、後ろ手に柔らかな布で縛られ、口をふさがれた時には、これで終わりかもしれないと覚悟もした。
 どれだけ走ったか、視覚を奪われていたミカリには想像でしか判らない。
 車の中で、一度だけ口の戒めを解かれ、家に電話をいれるように強要された。
 ためらっていると「殺すぞ、ねぇちゃん」凄味のきいた声で囁かれた。相手の声を聞いたのはその時だけだ。少しだが関西の訛りが滲む若い声。 もしかして、絵里香の叔父に電話をしてきた相手なのかもしれない。
 車が止まると、再び担がれて、別の場所に移された。目隠し越に光が感じられるから、きっと室内なのだろうと思った。わずかに階段を上がり、エレベーターに乗ったのも判った。
 固いベッドに投げられ、上から自分を見下ろす複数の視線を感じた時には、また別の覚悟を決めなければならなかった。しかし、確かに視線に淫猥なものを感じたものの、それきりミカリは放っておかれている。
―――私を……どうするつもりだろう。
 腫れあがった右腿は、パンツの下で膨れ上がり、動かすだけで激痛がする。
 放置していい怪我ではない。が、自分を拉致した者たちが、病院に連れていく気がないのも明らかだ。
 バックはもう手元にはない。携帯もその中だ。絵里香が遺したCDロム、あれは――どうなったのだろう。
 考えるまでもない。
 もう、とうに破棄されたか、もしくは彼らの雇い主に届けられているのだろう。
 もう……だめかもしれないな。
 息苦しさにむせながら、ミカリは仰向けに体勢を戻した。
 ミカリをここに閉じ込めた連中は、きっと、なんらかの指示を待っているのだろう。
 だから、手を出すこともなく、手当することもなく、動けない女を放置しているに違いない。
 その指示がどんなものでも、ここを無事に生きて出られる可能性は、ほとんどないような気がした。
「まだかよ」
「女の賞味期限がきれちまうな」
 鼻歌がとぎれ、そんな声が聞こえてくる。
 ミカリは、唇を噛んで、目を閉じた。
 聡君、ごめんね。
 潔白を守るって……できそうもないや。妙な真似をされるくらいなら、いっそ殺してほしいけど、そうもいかないだろうし、多分。
 ああ、私ってバカ、こんなことになるなら、もっと素直になってればよかった。
(―――ミカリさんの花嫁姿、見たくなった。)
 あの時だって、本当は嬉しくて、泣きたいくらい嬉しかったのに、へんに大人ぶって、このままでいいなんて強がって。
 九州に、迎えに来てくれた時も。
「………………」
 もう一回、会えたら。
 それが奇跡みたいにかなわない夢でも、もう一回会えたら。
 もう迷ったりためらったりしない。
 聡君が迷惑だって言っても、傍から離れないし、他にはもう何もいらない。
 人が生きて、そして誰かと愛しあうことに勝るものなんて、この世界に何もないと判ったから。
 ノックの音がした。
 ミカリは身体をすくめている。
「移動だ」
 扉の蝶番が軋む音がして、低い、男の声がした。
「ボスの指示だ。ここから出る」
「ようやく来たかよ」
「お楽しみタイムだな」
 下卑た声が頭上でした。
 扉が開く音がする。入り乱れた足音が近づいてくる。
「ケガがひでぇようですぜ」
「問題ない」
 複数の影に覆われる。大きく息を吐き、ミカリは全身に力をこめた。














 

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