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「いやー、もう全然連絡ないよ。ほんっと、ここ十年くらいはさ。年賀状も来なくなっちゃったし」
「そうですか」
 ミカリは、かすかに息を吐いて、丁寧に一礼した。
「わかりました。ごめんなさい、忙しいのにお邪魔しちゃって」
 正午の開店を間近に控え、カウンターの中では白衣を着た職人たちが、忙しなく動き回っている。築地の魚河岸近くにある寿司屋。東京に出てしばらく、ミカリはこの店の二階で下宿していた。
 一緒に上京した親友大澤絵里香の、親戚筋にあたる家。
 二人して、親の反対を押し切って東京に就職を決めた時、この店の世話になることが、親が出した絶対条件だった。
 楽しかったな。
 昔と少しも変わらない老舗寿司屋の店内を見回し、ミカリはふと、かつて親友だった女のことを思い出している。
 家が近所で、幼稚園の頃から「親友」だった。小学生になってはじめた交換日記は、中学二年、絵里香が引っ越す前日まで続いた。
 引っ越しの前夜は二人してわんわん泣いて、八年間続けた交換日記を、校舎の裏に埋めにいった。
 大学は同じにしようね、と約束して、その約束どおり大学で再会。家族より親密で恋人より深い、いつも一緒にいた友達。
―――いつから私は、あの子の心が見えなくなっていたんだろう。
―――いつから二人の心は、すれ違いはじめていたんだろう。
「なんにもないけどさ、食べてってよ」
 気のいい亭主が、立ちあがりかけたミカリの前に、寿司皿と茶を差し出してくれる。
「えっ、いいですよ」
「いいのいいの。まかないの残りだから、気にしないで」
 ミカリは微笑して、手をあわせてから、箸を手にした。
 店内には、いかにもつけたしたようなクリスマスの装飾が施してある。12月25日、今日はクリスマス。ミカリは腕時計を見た、一時までには冗談社に戻らないといけない。
「それにしても、ほんと久しぶりだねぇ、ミカリちゃん」
「ご無沙汰してて、すいませんでした」
 消えた大澤絵里香の手がかりを探して、十何年ぶりに訪ねた場所。
 思い当たる全ての場所を当たり、東京では、ここが最後の繋がりだった。
 同じく姿を消してしまった筑紫亮輔の行方も、依然として判っていない。
いきなり姿をくらませたようで、その実2人は、会社も仕事もある程度の後始末を済ませていた。事件性があるともないとも、どちらとも言えない。むろん、ミカリの立場で警察に訴えることもできない。
「絵里はあれかい?何かやっかいごとにでも巻き込まれてるのかな?」
 帰りがけ、のれんをくぐって外に出た時だった。見送りに出てきた亭主が、ふいに声をひそめてミカリに囁いた。
 振り返ったミカリに、男は「しっ」と、唇に指を当てて見せる。背後の妻に聞こえないよう気を使っているのだろう。ミカリはようやく気がついた。狭い郷里の噂は、東京の親戚にも伝わっている。
 絵里香は、一時のミカリ同様、古里での居場所をすでになくしてしまっているのだ。
「絵里香、やっぱりここへ来たんですね」
 ミカリがそう言うと、気弱げな男は、少し困惑したように首を横に振った。
「実は妙な電話があったんだ。女房には言ってないんだけどね」
「いつですか」
「……2、3日前だったかな。絵里ちゃんじゃないよ、知らない男の声だった。仕事のことで至急連絡が取りたいから、連絡先を教えてくれって」
「…………」
「そんなもの知らないし、そもそも絵里ちゃんとは十年以上も音信不通なのにさ。なんでうちにかけてくるんだろうって、ちょっと気味悪く思ってたら、今日いきなりミカリちゃんが来たから」
 ミカリの背に緊張が走る。
 絵里香の関係者として、この店を知っている者は、そうはいないはずだ。
「どんな声でした」
 ミカリは、身を乗り出すようにして訊いた。
「えっ、さぁ、どう言っていいかわかんないけど、少し関西訛りが混じった、若い感じの」
 筑紫さんじゃない。
「絵里ちゃん、もしかして借金取りにでも追われてるとか」
 いぶかしむ亭主を、適当な言い訳で誤魔化しておいて、ミカリは店を後にした。
 灰色にかげる師走の街を歩きだす。
 絵里香が姿を消したのが、今月の初めのことだ。
 多分、間違いない。
 少なくとも絵里香は、自分の意思でこの街から消えたのだ。そしてそれを、今、ミカリとは別の誰かが追っている。
 


             95


「きた……」
 世界中に網を張って、ただ、ひたすら待ち続けたこの数日。
 ようやく聞こえた相棒の声に、ケイは思わず立ち上がっていた。
「白ウサギかい?」
「今、確認しています」
 ディスプレイに、ケイには全く意味が判らない記号が打ち込まれる。それは画面を埋め尽くし、変換され、そして一本の線になって消えた。
 暗い画面に、メッセージボードが浮かびだす。



 白ウサギ:なんの用だ。


「間違いありません」高見が囁いた。
 白ウサギ。
 ケイはわずかな戦慄を感じている。
 警視庁と公安が、長年に渡ってずっとその行方を追っている男。ケイが知る限り、男はかつて高見の恋人で、そして組織と公安警察のダブルスパイだった。いってみれば、双方の弱みを知りぬいており、ゆえに絶対的な安全圏に立っている。
 高見は即座にキーを叩いた。

 オオカミ:最近、大きな箱を壊さなかった?

 しばらく待っても、なんの返事も返ってこない。
 高見は再びキーを叩いた。

 相手は侵入されたことを知っている、大きな企業、軍事クラスの
 プロテクト。


 白ウサギ:それは一年も前の話だ。

 ようやくメッセージが返ってきた。

 あの時は抜け穴だらけだったが、ごちそうもなかった。
 今はごちそうがあるが、同じ手では二度と入れない。


 オオカミ:もう一度、できる?
 白ウサギ:できなくはない。


 ケイを見上げ、再びパソコンに向き直ると、高見はものすごいスピードでキーを叩き始めた。

 オオカミ:その箱の中には、次期総裁候補の収賄容疑を裏付け
 るデータが入っている可能性がある。ジャパンテレビには、まだ
 東邦に対する反対派が多数残っており、反撃の機会をうかがっ
 ている 。あなたにとっても、損な話にはならないと思う。
 白ウサギ:おかど違いだな、俺はそういう面倒なことには関わら
 ない。
 オオカミ:リスクが大きすぎるということ?相手はあなたが最も
 嫌う資本主義経済の権化みたいな存在。リスクは大きくても、
 あなたのイデオロギーに反してはいないと思う。
 白ウサギ:そのために首をかけるほど若くはないって話だ。お前
 にのせられるほどにもな。
 オオカミ:だったら私が侵入するから、協力だけしてほしい。


 しばらくの間、カーソルだけが点滅している。

 白ウサギ:断言するがお前には無理だ。
 オオカミ:あなたが掴んだ、末端のパスワードだけでも教えても
 らえればそれでいい。
 白ウサギ:パスワードは毎週変更されている。そこに入り込めた
 としても、問題はその先だ。システムアローン、ネットワークから
 完全に独立したシステムがある。俺が一年前に、ミスをおかした
 のもそこだ。
 オオカミ:入り込めなかったということ。
 白ウサギ:たった一回の入力ミスで追跡ソフトが起動する仕掛け
 になっている。
 無線傍受から入り込んで、14の衛星を経由してアクセスしたが
 あやうく全て突破されるところだった。確かにあの仕事は、俺に
 とって唯一の汚点だ。しかも向こうの仕掛けは、さらに厳しくなっ
 ているだろう。
 オオカミ:どうにもならないということ。
 白ウサギ:ならないこともない。

 ケイと高見は、顔を見合わせている。

 白ウサギ:教える前に聞きたい。こんなことをして、今のお前に
 いったいなんの利益がある。


 なんの利益が。
 ケイは高見の横顔を見る。私にはある、ミカリにもある、もう肉親より深い感情という絆でつながれたストームを、そこで戦っている男たちを、少しでも助けたいと思っている。でも。
 けれど高見は、少しも迷うことなくキーを叩き始めた。

 オオカミ:ウサギと離れたオオカミは、ずっと一人ぼっちだった。

 オオカミ:今は、ひとりじゃない、私はその場所を守りたいと思っ
 ている。


 白ウサギのカーソルが、点滅する。
 長い間、相手は反応を返しては来なかった。

 白ウサギ:期限はいつまでだ。

 高見が即座にキーを叩く、12月31日。

 白ウサギ:やってもいいが、二つだけ条件がある。
 オオカミ:できることなら、なんでもする。
 白ウサギ:まずは、パスワードを入手してほしい。東邦ネットの
 中枢部に隠れている独立システムに入り込めるのは、真田会
 長とその側近だけだと聞いている。
 俺が去年入手した際利用した男は、今は出向先の窓際だ。もう
 同じ手では入り込めない。

 今からか。
 ケイは唸るように唇を噛んだ。
 入り込むすべさえ分からない東邦内部の秘密を――あと数日で、どうやって。
 それに、ケイには、高見に犯罪行為をさせるつもりはない。条件によっては、この会話に入り込んで、交渉をさえぎるつもりでいる。
「白馬の騎士の線から、攻めてみるか」
「どうでしょう、彼がパスワードを所持しているなら、何もこんな手のこんだ真似をする必要はないと思います」
 さすがの高見も指をとめ、眉を寄せている。

 白ウサギ:お前にも無理だということは、俺にも無理だというこ
 とだ。言っておくが、警戒を強めている周囲を攻めるのは不可
 能だ。やるなら、最初から本丸を狙うしかない。
 オオカミ:真田会長?
 白ウサギ:そういうことだ。

 わずかな間をおいて、白ウサギが言葉を綴る。

 白ウサギ:真田会長は高齢で、そもそもパソコンの扱いに不慣
 れだと聞いている。それでも東邦のシステム上、情報はすべて
 真田会長の耳にはいる仕組みになっている。そこが、あの鉄壁
 のブロックの、唯一の泣き所だ。
 オオカミ:どういうこと?
 白ウサギ:どんな高性能なソフトでも、それを使う人間がぼんく
 らじゃ、用を為さないってことだよ。
 オオカミ:けれど、東邦の中枢に、そもそもどうやって入ってい
 けばいいか。
 白ウサギ:お前にも教えたはずだ。優れたクラッカーは、決して
 パソコンの操作にたけている者を言うのではない、それは一種
 の社会工学だ、いかに人の心を読み、心理の裏の裏をかくかと
 いうことにある。
 白ウサギ:最初に言った。お前に無理なものは、俺にも無理だ。
 チャンスはたったの一回で、それに失敗すれば後はない。一文
 字でも入力を誤れば、即座に追跡されて、待っているのはこの
 先何年も出られない檻の中だ。


 ケイは、高見の動かない横顔を見ている。

 白ウサギ:これは、それほど危険なゲームだ。考えろ、70に手
 が届く老人が、毎日打ち込むパスワードだ。一文字のミスで、
 ファイルは全て凍結されるが、今のところ、それが作動された形
 跡はない。それは彼にとって間違いようのない、非常になじみ
 が深い単語だということだ。


 誕生日、名前、それこそ選択肢は無数にある。そんなものとは無関係な、ただの数字の羅列かもしれない。
 無理だ。
 それを知るためには、真田孔明の懐深くまでもぐりこむ必要がある。

 白ウサギ:最大のヒントは、そのパスワードが六文字からなる
 大文字を含まない英字だということだ。ただし、一年前と変わっ
 ていなかったらの話だが。


 六文字、英単語、人名か、それとも彼にとって馴染みのある何かの固有名詞か。

 白ウサギ:そこまでは俺も掴んだが、それ以上絞り込むことはで
 きなかった。繰り返すが、チャンスは一回しかない。
 オオカミ:もうひとつの条件は?


 その前に、高見の手をおしのけて、ケイがキーを叩いていた。

 バンビ:はじめまして、バンビです。

「ぶっ」
 高見が吹き出したが、気にせずに続ける。

 バンビ:オオカミの相棒で、一緒にこの情報を追ってます。その
 前に、私の方からお願いがあるんだけど、いいかな。
 白ウサギ:第三者がいるとはルール違反だな。


 一瞬ひやりとしたが、すぐに続きが打ち込まれる。

 白ウサギ:まぁいい、言ってみろ。

 ケイは、続けた。

 バンビ:すごく危険なこと頼んでおいて、勝手なこと言うようだけ
 ど、これが万一成功しても、出てきた情報を売るとか、ゆすりの
 材料にするとか、そういうことだけはやってほしくないんだな。
 もう入り込んじゃった時点で犯罪成立なんだろうけど、私もオオ
 カミも、動 機はすごく純粋で単純なものだから。
 バンビ:あたしたちはただ、守りたいだけ。大切な人やものや、
 人の心や、信念や愛情、そんなものを金とか力で踏みにじろう
 としているやり方に、一矢報いてやりたいだけ。それ以上のこと
 は望んじゃいない。それにあたしは、オオカミを二度とあんたの
 世界に戻すつもりはないから。


「ケイさん……」
 高見がつぶやく。ケイはその頭を軽く叩いた。

 白ウサギ:もうひとつの条件を言う。

 二人は緊張して画面を見つめた。

 白ウサギ:小鹿に言われるまでもない。でてきた情報は、そもそ
 も使いようがない。今の日本で、力関係で東邦真田に勝てる相
 手など、どこにも存在しないからだ。
 俺のもうひとつの条件は、それがいかなる情報であっても、決し
 て口外しないこと。新聞でもテレビでも、政治家でも検察でもだ。
 リークした途端、それは闇に葬りさられ、俺もお前たちもおしま
 いってことになる。



            96


「でも、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫」
 隣から、呑気な声が返ってくる。
 タクシーの後部座席。道路は少しばかり混んでいる。ラジオからはお昼のニュース
「今夜中に戻れたらいいんだし、お父さんに駅まで向かえにくるように言っとくから」
「いや、……てか、普通の時じゃないんだよ?」
 真白は首をかしげている。明日の二時からは、地元の神社で、姉の結婚式が行われる予定なのである。
 確かに急に予定を変更して、式を東京行きの日程にぶつけてたきたのは姉の方だった。が、母にしてみれば、初めての娘の結婚式、普通であれば、前日は一緒にテーブルを囲むとか、「いままでお世話になりました」とか、それなりのセレモニーがあってもいいのではないだろうか。
「だって、今日だって普通じゃないもん」
 妙に浮かれて母は言った。
「お母さんが、将君に誘われたんだもん。真白が行かないならいいよ。お母さん一人で行くから」
「……いや、それはまぁ、送っては行くけど」
 いくらなんでも、母一人を六本木に行かせるわけにはいかない。
 それにしても、いつの間に、そういうことになったんだろう。
「でも、本当に来ていいって言われたの?」
「うん」
「コンサートのリハーサルでしょ。そんなのに、本当にお母さんが行ってもいいの?」
 今朝から何度も訊いた質問。さすがに母は、うんざりした目になった。
「だからいいの。今日は、ストームさんだけで内々にやる練習会みたいなものだし、お客さんの反応みたいから他にも知り合いを何人か呼んでるみたいだし、お母さん、何度もそう言ったじゃない」
 練習会。
 クラブ活動じゃないんだから。
「コンサートの余興でやる、なんていってたかしら、えーと」
「マイクコーナー」
「そうそう、そのお稽古なんですって。滅多に見られるものじゃないから、ぜひ来てくださいって言われたわよ、お母さん」
「で」
 いまだ信じられない事実。これがなければ、真白は迷うことなく、母を送って外で時間を潰すつもりだった。
「ほんっとうに、りょうが、その」
「コスプレっていうの?ファンのリクエストが一番多かったんですって。きれいでしょうねぇ、片瀬君の花嫁姿」
「………………」
 りょう。
 ど、どうしちゃったの??
 まさか、追い詰められてるからってやけくそになってんじゃ。
 まぁ、ステージにあがってしまえば、りょうの人格は別ものになる。なんだってやるだろうし、お客さんが喜ぶなら、さほど苦にもしないだろう。
 世論のバッシングを浴び、どこか贖罪ムードが漂うコンサート。そんな中で、馬鹿馬鹿しいMCを企画するなんて、やっぱりストームっていいな、と思ってしまう。
「真白は外で待ってるのよね」
 妙に、挑発的な口調だった。
「言っときますけど、お母さん写真なんかとらないからね。もしかすると本番ではやらないかもって言ってたから、見られるの、今日だけかもしれないからね」
「………………」
 なんなのよ。その言い方。
 他にも人が来るなら、別に、私が行かなくてもいいわけだし、むしろ私が行けば、りょうがますます嫌がるだろうし。
 でも……。
 綺麗だろうな。見ないとかなり後悔しそう……あー、何考えてんだろ、私。きっちり別れた今になって、そんなふざけたこと考えてる場合じゃないのに。
 それでもしばらく外を見てから、真白は思わず呟いていた。
「遠くで、」
「え?」
 わざとらしく、母が耳に手をあてる。さすがにむっとして眉をあげる。
「……のぞくだけなら」
「え??」
「もう、知らない!」
 くすくすと、隣の母が笑っている。
「行けばいいじゃない。無理しないで」
「別に、無理してるわけじゃ」
「だって真白のお友達でしょ。片瀬君だって柏葉君だって」
「…………」
「お友達なら、自然に顔出して、ちゃんとお別れ言ってくればいいのよ」
「…………」
 友達。
 友達、か。
 不思議なほど、拍子抜けした気分だった。
 もう二度と会わないつもりで、米国行きを決めたのに。こんなにあっさり、再会の時が迫っている。
 結局は逃げていたのかもしれない、と真白は思う。そんなつもりはなかったのに、これからのりょうから目をそらさないつもりだったのに、それでもやはり恋人ではなく、友人としてりょうと接していくのが怖くて、逃げていたのかもしれない。
 せっかく封印した思いが、また解けてしまうのが怖いから―――
 もう二度と、あんな風にりょうと別れたくはない。
「お母さん、柏葉さんに会ったんだ」
 外を見ながら、真白は言った。
 会おう、心はもう決まっていた。これは、いずれ、どうしたって乗り越えなければならない壁だ。
 笑顔で、友だちとして、さよならを言おう。
「うん、だって一度お店に来てもらったし、あんたのことも、色々面倒みてくれたんでしょ?ちゃんとお礼も言いたかったから」
「事務所まで訪ねていったの?」
「そ、あんたも誘おうと思ったけど、絶対ついてこないと思ったから」
「…………」
 本当におせっかいな柏葉君。
 元気かな、人のこと心配してる場合かな。
 会おう。
「えっ、なに、いきなり化粧直し?」
「だって、最後くらい綺麗な顔で会いたいもん」
「あんたも立ち直り早いわねぇ」
「だから、別に落ち込んでないんだって」
 会おう。
 これが最後なら、笑顔でりょうと、さよならしよう。
 見上げた空は、灰色の雲が重く垂れこめている。雨が降るかな、と真白は思った。故郷はもう雪だろう。同じ空でも、こんなに違う。多分、もう二度と見ることのない、東京のクリスマスの空―――。



             97


 また電話が鳴っている。
 いつになったら鳴りやむのだろう。
 仕事関係で使っている番号だから、事務所の人間からだろう。
 美波涼二は、ゆっくりと立ち上がり、いったん受話器を持ち上げてから、それを切った。
「J&Mサイドは強行にコンサートを開催する構えですが、地元警察では警戒を強めています。また、昨日行われたリハーサルでは、演出の一部を巡って、消防の許可が下りなかったとも伝えられています」
 意味もなくつけているテレビからは、ワイドショーのリポーターの声が聞こえてくる。
「いい意味でも悪い意味でも、日本中の注目を集めているビックイベント。新生J&Mの命運がかかったコンサートだと言っても過言ではありません。しかしそんな中、ジャパンテレビ、TBCテレビが共同でストームの報道自粛を発表し、それが他局へどう波及していくか、非常に注目を集めています」
「…………」
 もう。
 もう、俺には関係ない世界の話だ。
 テレビを切って、ソファに横たわる。
 まだかな、と思っていた。
 まだお前は、俺を呼びにこないのか、愛季。
 俺はもういつだって、お前のところに行けるのに。
 薄曇りの空。からっぽの空。この世界を映しだした灰色の空。
(星、きれい)
 何もない空を見上げて、笑っていた恋人。
(想像力のない人だなぁ)
 そうだな、星は想像してみるものだったな。
(そ、想像すれば、ここだってロマンティックな宮殿に早代わり)
(涼ちゃんが王子様で、私がシンデレラ……)
(今は、不可能な夢だけど、かなったらいいな)
 もうすぐだ。
 もうすぐ、それが叶うんだ、愛季。
 だから早く、俺のところに迎えに来い。
 机の上には、開いたばかりの手紙がある。
 美波はそれを取り上げ、しばらく見つめてから、ゆっくりと引き裂いた。
 

 帰ってこい、涼二。
 みんなが君が戻るのを待っている。君の助けを待っている。
 唐沢さんのことを、許せないのは判る。俺たちのことを許せないというのも判る。
 ただ、もう君にも判ったと思う。愛季ちゃんのことは、東邦プロが仕組んだ罠だ。君という才能を、いってみれば唐沢さんと東邦が、汚い手で奪い合った結果なんだ。
 それでも、もちろん唐沢さんの罪は消えないし、あの人も言い訳するつもりはない。その気持ちは、僕も同じだ。
 それを承知で、やっぱり僕は、君に帰ってきてほしいと思っている。
 もちろん僕らのためでもある。でも、なによりも、君のためだ、涼二。
 君が作って、君が育てた場所だ。J&M、ここが、君の居場所なんだ。
 ここを離れた君に、行く場所なんてどこにもないじゃないか。

 このコンサートが終われば、ストームはおそらく解散することになるだろう。J&Mも、どうなるかは判らない。
 みんな、それでも一生懸命、奇跡を信じて頑張っている。

 涼二。
 僕も、僕らの奇跡を信じている。




 裂いた手紙を、そのまま丸めてダストポックスに投げ込む。
 美波はソファに背を預け、ぼんやりと重く垂れこめた空を見上げた。














 

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