92


 ピアノの音が聞こえてくる。
 それはひどく音がはずれて、けれどぎこちない旋律の中で、確かなメロディを伝えてくる。
 君がいる世界。
 歌は心よ。下手でもいいの、心で伝えればそれでいいの。
 昔聞いたその言葉のとおりだと将は思った。
 多分、壊れたピアノだろう。音が全て狂っているのに、それは今まで聞いたどの曲より深く、心に沁み通っていく。
 雲の切れ間からのぞいた月光が、ピアノの前に座る人を照らしだした。
「よっ」
 鍵盤から指を離すと、真咲しずくは片手で敬礼の真似をした。
「捕まっちゃったか」
「言ってる場合かよ」
 壁に背を預けていた将は、ゆっくりとその傍に歩みよる。
 歩く度に、腐った床が軋み、つもった埃が月明かりに舞い上がる。取り壊し前の老朽建物。
「まだ、このピアノが残ってるなんて思わなかった。……嬉しかったな」
 笑ったしずくは、鍵盤の蓋をそっと下ろす。それは軋んだ音をたて、ゆるやかな埃を舞いあげた。
「ここで、君のお父さんが育ったの」
「……知ってるよ」
「君のお父さんと、お母さんが出会った場所よ」
 取り壊しは年明け早々だと、電話でこの場所を教えてくれた唐沢直人の父親が言っていた。建て替え後、市がこの土地家屋を買い取ったものの、なかなか用途が決まらなかったらしい。
 養護施設はばたき。
 あと一週間で、この世界から消える場所。
「不思議ね」
 将を見上げて、しずくは笑った。血管が透けるほど、白く、透き通った肌をしていた。
 何か言いたいのに、言葉が何もでてこない。
 言えば、考えないようにしていたことで頭の中がいっぱいになって、そのまま冷静さを失ってしまいそうになる。
 将は奥歯を噛みしめた。
 嘘でも、意地でも。
 俺はこいつを、支えていくんだ、これからずっと。
「私が、さっきまで君が立っていた場所にいたの。……まだ七つか八つだった。そして、君のお父さんとお母さんが、ここにいた」
 立ちあがったしずくが、今まで自分が座っていた場所を指さした。
「あの日、私ね」
 月光がその頬を青白く照らしている。
「運命に出会ったんだと思ってた。だとしたら、なんて皮肉な運命だろうって」
「なんで?」
 将が踏み出すと、しずくはからかうような目で、その分だけ後に下がる。
「私の初恋は、最初からかなうはずがないものだったから。だからすごく不思議な気がする。今、ここに、君がいるのが」
 また逃げるかと思ったら、しずくは足を止める。そのまま、真っ直ぐ見つめられた。
「もう、会わないつもりだった」
「……なんで?」
 将もまた、見つめられたまま、一歩も動けなくなっている。しずくは笑った。
「君に、あれ以上本気になられると困るなって思ったから」
「…………」
「すっごく無責任なことしてる気になったから。まぁ、ほかにも色々無責任なことやっちゃったんだけどね」
 将は、一歩踏み出していた。しずくは逃げない。影が重なり、そのまま頬に手を添えて、唇を重ねた。冷えた、冬の匂いがした。
 唇を離して、額をあわせた。冷たい指先。まだ、しずくに頑なな殻があることを、将は感じた。
「不思議だね、今夜は君に会いたかった」
 額を寄せあったままで、しずくは言った。
「すごくすごく会いたかった……」
 吐息が触れる。将は目を閉じていた。
 ようやく――ようやく、捕まえた。十年も続いた、長い長い鬼ごっこ。
「多分、今日じゃなかったら、私はやっぱり逃げてたと思う。十二時まで待って、もし君が来なかったら、きっと永遠に会うことはなかったと思う。……でも、もし会えたら」
「会えたよ」
 髪を撫でる。うん、としずくは頷いた。
「……話さなきゃいけないと思ってた。いろんなこと、全部」
「親父のことなら、もういいよ」
「…………」
「もういいんだ。もう親父は関係ない」
 動かない睫毛。
 しばらく黙っていたしずくは、静かに首を振って、将の腕をおしやった。
「やっぱり聞いて。それは私のことでもあるから」
 将は黙って、しずくの翳った横顔を見つめる。
 何も言わなくていいし、言われるなら、それが何であっても受け止めるつもりでいた。
 しずくは将を見ないまま、元の椅子に腰を下ろす。青白く陰った横顔が、まるで見知らぬ女のように冷たく見えた。それでも将は平静でいられた。
「君のお父さんはね」
 わずかな沈黙の後、ようやくしずくが口を開いた。
「逮捕されてから一切曲が作れなくなったって言われているし、私も君にそう説明したけど……本当は違うの」
 風が、少しだけ窓を揺らした。
「彼はね、釈放されてから、すぐに音楽活動を始めようとしたの。だから多香子さんを迎えにいった。彼の頭の中には、新しい生活への希望と、新曲の構想が溢れるほどあったんだと思う……。だって彼は、七歳の私にこう言ったのよ。曲ができたら会いに行くって」
 曲ができたら会いに行く。
 それは、昔の仲間たちのことだろう。兄である城之内慶、真咲真治、唐沢省吾、古尾谷平蔵。元ハリケーンズの四人の仲間。
「曲……できなかったのかよ」
 結局は、城之内静馬は、実の兄と会うことなくこの世を去ったと聞いている。
「そうじゃない」
 しずくはわずかに唇を噛んで、首を横に振った。
「私もそう思ってた。でも、違ってた、できなかったんじゃない……彼は作れなかったのよ」
「どういう意味だよ」
「真田さんが、すぐに彼を訪ねてきたから」
 ひやり、と背中に冷たいものが落ちた気がした。
 真田孔明。
 城之内静馬を、最初から最後まで追い詰めた男。
「君に対する脅しと同じことを、真田さんは彼に要求したの。哲夜のように、一生東邦の犬として生きるか、それとも軌道に乗り始めたばかりのJ&Mを潰されるか」
「…………」
 将は、東邦の応接室で、真田の言っていた言葉を思い出していた。
(今の君と同じ眼差しで、静馬はここに座っていた――)
(君は知らずして、父親と同じ道を踏襲している――)
「彼はどちらも選ばないかわりに、二度と曲を作らないことを真田さんに約束したの。彼はね、自分で、自分の才能に封印をしてしまったのよ」
「どうして」
 思わず口を挟んだ将を遮るように、しずくは静かな眼差しを将に向ける。
「J&Mが、東邦EMGの支援を得ることと引き換えに」
「な、」
 なんて馬鹿なことを――。
 一時愕然としながらも、飛び出しかけた感情は、かろうじて飲み込んだ。そうだ、俺だってそのバカなことを、つい先日するところだった。
 あいつらに、助けられなければ、多分そのまま。
「彼はなんで……そんな不条理な契約にサインしたと思う?」
 しずくは初めて悲しそうな目で将を見つめた。
 将は、何も言えずに唇を噛む。
 苦い思いが胸に込み上げる。音楽だけが全てだった人に、それは、なんと残酷な選択肢だったろう。
「会社を、……助けるためだったんだろ」
 納得できないまま出てきた言葉に、けれどしずくは沈んだ目で首を横に振った。
「そうだけど、それだけじゃない。君だって思ったでしょう? 彼の仲間はその時どうしてたんだろうって、どうして、彼の馬鹿な決断を、誰も止めてあげなかったんだろうって」
 どうして――。
 将は黙って目をすがめる。
 同じ軌跡をたどっていたはずの親父と俺の運命を、決定的に別けてしまったもの。
「地位とか名誉とか、お金とか……そんなことに頓着する人じゃなかった。会社を守るため……たったそれだけのためなら……彼は決してサインなんかしなかったと思う」
 理由の読めない嫌な予感がした。胸苦しさを感じたまま、将はしずくの言葉の続きを待った。
「あの時ね、静馬さんにサインするよう土下座までして頼み込んだ人がいたの。静馬さんは、決してその人に逆らえなかった。……死ねと言われれば、彼は命さえ絶ったかもしれない。貧乏のどん底だった子供の頃から、親も同然に面倒をみてくれた人だったから」
 たまったものを、一気に吐露するような口調だった。
 将を見つめるしずくの目に、激しい感情が揺らいで消えた。
「その人が……私に全ての真実を話してくれた。私が知らなかった、想像さえしていなかったことを、全部」
「誰だよ、それは」
 思わず、しずくの肩を掴んでいる。
「彼のお兄さん、城之内慶」
「…………」
 城之内慶。
 将は、さすがに衝撃を感じて、そのまま言葉を失っていた。
 J&Mの創始者の一人。
 城之内静馬の――実の兄が。
「君は言ってたね。奇蹟の映像に、どうして城之内慶が写ってないのかって。私にも最初は判らなかった……判ってからは……悲しくて辛くて、見なおすことさえできなくなった」
 将の手に、しずくの手が重ねられる。冷えた指先は、わずかに震えているようにも思える。すがるような感情を察し、将はその指を握りしめる。
「きっと、呼びたくても呼べなかったんだと思う。だって慶おじさまに話してしまえば、それがいつ真田さんの耳に入るか判らなかったから」
 将はただ、しずくの手を握りしめる。
「……すごく、悲しいことだと思う。すごく、すごく、静馬さんにとっても、慶おじさまにとっても」
 言葉を切ったしずくは、将を見上げて微笑する。
 手をそっと振りほどき、立ちあがったしずくは、ピアノに肘をつき、そのまま片手で目のあたりを押さえた。
「……ここからは、私の話」
 将は黙って、その傍らに膝をつく。将を見下ろしたしずくは、沈んだ微笑を唇に浮かべた。
「私が、どれだけひどい女かって話」
「……いいよ、話せよ」
 少しだけ笑ったしずくが頷く。将はその手を握りしめた。
「静馬さんが死んだと聞かされた時……その死に方を聞かされた時……頭では理解できても、どうしても心の一点で、私は、腑に落ちなかった。信じられなかったし、その思いは時間がたてばたつほど強くなっていった。……彼はずっとアルコールを断っていたし、断絶していた昔の仲間と会う直前だったのよ。これからという時に、どうしてあんな亡くなり方をしたのか」
 それは、将も感じた疑問だった。
「静馬さんが亡くなった前夜、東邦の真田さんが彼を訪ねてきたと聞いたわ。……そうね、それが私が、真田さんの名前を知った最初だったのかもしれない。調べてみて、真田さんと彼の因縁が判ってくるうちに、私の中に、……どうしても、ある疑問が消せないくらい深く、広がっていって」
「…………」
 しずくの言いたいことを理解して、将もまた、嫌な動機が胸を満たしていくのを感じた。
「復讐したいと思っていたのかもしれない。私はまだ若かったから……まだ、青二歳で、人の心の底にあるものなんて、何も判ってなかったから。悔しくて、苦しくて、それを忘れたくてがむしゃらにぶつかって、それが正義だって信じ込んで……結局は、壁のひとつも壊すことができないまま、慶おじさまだけを傷つけてしまった」
「…………」
「今のおじ様は、もう言葉さえ喋れない。記憶は少年時代、一番いい時代で止まったまま。……彼はずっと待ってるの、消えてしまった弟が、いつか奇跡みたいに戻ってきて、そして五人で再びステージに立つ日がくるのを。病院のベッドで死んだように眠ったまま、ずっと夢を見続けているのよ」
 静かな、そして冷ややかな眼差しで、しずくは将の目を見つめた。
「それは全部私のせい。私がおじさまを問い詰めて、責めて、そして追い詰めてしまったせい」
 膝をついたまま、将はしずくの手の暖かさだけを感じている。 
「……唐沢のおじさまに、日本に戻ってきてほしいと言われた時」
 将から目をそらし、しずくは続けた。
「静馬さんの息子である君が、ストームとして五人の仲間と輝こうとしていると判った時……私は思ったのかもしれない。今が、その時かもしれない。彼に預けられた曲を世に出す、千載一遇のチャンスなのかもしれない。私の手で、静馬さんや慶おじ様の無念を晴らせる……今が、最初で最後の機会なのかもしれない」
「……それで?」
「どんなえらそうなことを言っても、何をしても、どんな夢を見ても、私の底には、いつもそんな、暗くて黒い感情があったってことよ」
 寂しげな苦笑を浮かべ、しずくはピアノに手を掛けた。
「それは、どんな綺麗事を並べたって否定できない。私はやっぱり君たちを利用したの。この醜くて苦しい感情から早く解放されたくて、そのために、君や仲間たちを利用したのよ」
「これは私の戦いじゃないって、お前言ったよな」
 将は、しずくの目を見ていた。
「やっと意味が判ったよ。そう、これは俺たちの戦いなんだ、お前はもう関係ない、親父だって関係ない」
 しずくが表情を止め、不思議そうな眼差しで将を見る。
「お前が何考えてようと、何企んでようと、俺にも他の連中にも、もう何も関係ない。――見に来いよ、東京ドーム」
 どこか、ぼんやりしているしずくの肩を強く掴んだ。
「城之内会長、ひきずってでも一緒に来い。俺が奇跡を見せてやるから」
「…………」
 もう、何も考えなくていい。
 いっさいがっさい、俺がまとめて面倒みるから。
「まいったな」
 しずくは笑った。目元が初めて潤んで見えた。
「君がかっこよく見える」
「かっこいいんだよ、アイドルだから」
「今までは、そうでもなかったんだけど」
「………おい」
 手を頬に当てると、しずくはそのまま目を閉じた。キスの後、肩に寄りかかってくる。
 困ったな。耳元でしずくが呟いた。
「もう、どこに逃げていいのか、わかんなくなっちゃった……」



              93


「もう少し、話さない?」
「……いいけど」
 照明を落とした部屋を、静かな月明かりだけが照らしている。
 薄く開けたカーテンの前に立つ女は、このまま、月光に吸い込まれてしまいそうなほど儚く見えた。
 隣に立った将は、ふいに理由のない不安を感じて、痩せた肩を抱き寄せている。
「髪、まだ濡れてる」
 笑いながら、しずくの指が前髪に触れた。
 互いの身体から、同じ匂いがする。それが不思議で、将はしずくの髪に頬を寄せた。
「不思議だね、焦らなきゃいけないのは、むしろ私の方なのに」
 髪に、そっと手のひらが当てられるのが判った。
 愛しさで、胸がいっぱいになっていく。
「このまま、……ずっと、このままでいたいような気がする……」
「…………」
 将の肩に頬を預け、しずくは本当に動かなくなる。
「話すんじゃねぇの?」
「うん……もう少し」
 この状況で。
 何も気のきいたことが言えない俺は、やっぱ、すげー子供なのかもしれないけど。
 こいつが絶対みせない孤独や不安も、判ってるようで、実は何も判ってないのかもしれないけど。
「いいよ、別に」
 呟いて、髪にキスする。
「ずっとこのままでもかまわない。なんなら朝まで話してようか」
 無理しなくたっていい。一緒にこうしていられるだけで、俺はすごく幸せだから。
「朝まで?」
 が、ふいにしずくは顔を上げて将を見た。その目がひどく訝しげだったので、将は戸惑って眉をあげる。
「なに? 私ってそんなに魅力ない?」
 え?
 しずくのすわった目に、将はたじたじと後ずさる。
「いや……お前が、このままでいたいっつったから、それで」
「へーえ? 優しいんだ。じゃ、本当に朝まで、茶飲み友達みたいに喋ってましょうか」
「いや……」
 な、なんなんだ、この攻撃的な態度は。
 俺は、その、お前の身体が心配だから。
「だって、このままがいいんだろ。俺だって、準備してきてるわけじゃないし」
 言い訳がましく将は言った。
 同じ部屋に泊まるからといって、今日退院したばかりの女に、無理を強いるつもりはない。そりゃ、そんなムードかなって思ったけど。そんな、いきなり下ごころありありってわけでも。
 が、しずくは、疑念に満ちた眼で将を見上げる。
「その余裕はどこから来るの?……ああ、判った。君は女性に不自由してないもんね」
「な、なんだよ、それ」
 将は目を白黒させる。
 つか、どうやったら、発想がそこへ飛ぶ?
「いや、いい、考えたら腹が立ってきた」
「ちょっと待てよ」
 腕をすりぬけて、しずくは背を向けて歩き出した。将は唖然としつつ、その後を追う。
「ちょっと待てって。意味わかんないし、どうしてそうなるんだよ」
「だってそうじゃない」
「そうって何が」
「いつだったか、夜にホテルで偶然会ったし」
 はぁ?
 将は顎が落ちそうになっている。
「いつだよ、いつ!」
「そういや、イタちゃんが言ってたわ。柏葉の女関係だけは、いつも上手く誤魔化されて始末に負えないって」
「……あのさ」
「見せてもらったわよ、容疑者リスト。びっくりしたわよ。成瀬君の彼女も片瀬君の彼女もまじってるじゃない」
 なんなんだ、その適当なリストは!
 片野坂……。
 と、怒ってる場合じゃない。
 つか、ここまで来て、何やってんだ、俺ら?
「じゃ、言うけど、お前だって結婚してたじゃないか」
 将は開き直っていた。たちまちしずくが、冷やかな眼で振り返る。
「だから何?」
「は? だからなにって、お前、人のことは一方的に責めておきながら」
「だって、君は、私のことがずっと好きだったんでしょ? 私は違うもの。以前のことを責められても、なんだかね」
「………………」
 唖然と言葉も出ない将。
 しずくは平然と髪を揺らして背を向けた。
「それに私の結婚はビジネスだって言わなかった? 君の遊びと一緒にされてもね」
 ひくっとこめかみが痙攣する。将もまた、皮肉な笑みを浮かべていた。
「へー、そうかよ。お前は仕事で結婚できる人間なのか。理解できない、つか、俺には到底真似できないね」
「遊びよりましだと思うけど」
「心があるだけ、俺の方がましだね」
「あらあら、すいませんねぇ、最低の女で」
「………………」
 どうでもいい言葉から発展した、売り言葉に買い言葉。
 馬鹿馬鹿しいと思いながら、将も後に引けない気分になっている。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
 しずくがベッドにもぐりこむ。
「来ないでよ」
「いかねぇよ!」
 なんなんだ、この女は。
 性格がひねくれてるのは判ってたけど、なんだって、よりによってこんな夜に、ひねくれパワー全開なんだ?
 憮然とした怒りをもてあましたまま、将はソファに腰かけてテレビをつける。意味もないニュースを聞き流し、苛々と髪をかきむしり、リモコンを投げだした。
 しばし、唇を引き結んで、空を睨む。ここで引いたら俺、一生こいつに頭があがんねぇんじゃないか?
「……あのさ」
 ベッドのふくらみは動かない。背を向けてもぐりこんだままである。
 将は両拳を握ってから、立ちあがった。大人になれ、柏葉将!
「すいません。俺が悪かった……んで」
 てか、何が悪かったのか、いまひとつ判らないけど。
 それでも動かない背中。将は嘆息して、ベッドの端に腰を下ろした。
「悪かったよ、いつまでも怒ってんなよ」
「……怒ってるなら、もうとっくに出て行ってるわよ」
 シーツからのぞく綺麗な目は笑っている。
 少し驚いた将の視線をかわすように、するりとベッドから抜け出したしずくは、そのまま窓辺に歩いて行った。
「私が悪いの……判ってるんだけどね」
「なんだよ、わざと喧嘩売ってたのか」
 さすがに将は憮然とする。しずくの横顔がわずかに笑んだ。あれほど怒っていたのが嘘のように、静かで寂しげな横顔だった。
「……急に怖くなったのかな。……子供みたいだったね、ごめん」
「…………」
 怖い……。
 わずかに目をすがめた将は、ふと胸の痛みを感じ、その視線を下げていた。
 しずくの怖いという意味はよく判らなかった。判らないけれど、底の部分で、理解できるような気もした。同時に、気を使われていることに――将が無意識に、病気のことを気にして、「このままでいい」と言った言葉に、しずくが傷ついたことも理解できたような気がしていた。
「……ごめん」
 背後から抱き寄せる。甘い匂い、もうこの腕を離したくなかった。
「正直言うと、我慢できそうもない」
「……うん」
 将の腕に、そっとしずくの手が添えられる。
「でも、マジで無理させるつもりもない」
「…………」
「それは、お前のことが大事だから……」
 言葉が、もう出てこなかった。
 何よりも大切だから。
 絶対に、絶対に失いたくないから――。
 少しうつむいて、唇を噛む様に笑うと、しずくはそのまま、将の首に腕を回してきた。
「ごめんね」
「なんで?」
「ううん……」
「…………」
「……もう少し、このままでいさせて……」
「……………」
 俺より、ずっと大人で。
 俺なんかが想像もできないほど、重いものを抱えてるこいつに。
 今、なんて言っていいかわかんね―俺は、やっぱ、子供なのかもしれないけど。
「実は、見てほしいものが、あるんだ」
 顔をあげたしずくが、不意に楽しそうな声で言った。
「何?」
「驚くよ」
「だから、何」
「なんでしょう」
 将からわずかに身体を離し、しずくはいたずらっぽい目で笑っている。
「もうたいがいのことじゃ驚かねぇよ」
「そうかなぁ」
 しずくの指が、自身のガウンの紐にかかる。
 えっ?
「ちょっ、まっ、まて」
 将は思わず後ずさっていた。直感めいた嫌な予感が、頭の中で閃いて消える。
「まさかと思うけど、男っつーオチじゃねぇだろうな!」
「……その発想、ある意味尊敬に値するなぁ」
 タオル地のガウンが、細い足首にからむように落ちた。
 将はそのまま、視線を見なれない一点で止めていた。
「ないんだ、片っぽ」
「…………」
「君の年の時に取っちゃった。ちぇっだね、こんなことになるなら、意地でも残しとけばよかったのに」
 ああ、そっか。
 気づいてもよかったんだ、俺が。
 この部屋についてからのしずくの行動や気持の全てが、ようやく胸の中に落ちてくる。
「怖くない?」
「……なんで?」
 むしろ、愛しさで胸が溢れそうになっている。
 初めて目にする大切な人の全てを、将はただ、惜しむ様な気持で見つめ続ける。
「私は鏡で見るたびに、こわって、のけぞってたけどな。今ならもう少し綺麗に処理できてたんだろうけど」
「綺麗だよ」
 失笑するように、しずくは笑う。
「君は口が上手いから、絶対にそう言うと思ってた」
 将は無言で、白い肩に指で触れる。
 瞬きをしたしずくは、驚いたように、身体を震わせる。
 少し、腰をかがめて、透き通った肩に唇を寄せた。
 肩から、胸に。
 しずくが何も言わなくなる。ひどく緊張しているのがよく判る。判れば判るほど、全てが愛おしくなってくる。
 スリップで再び胸元をおおったしずくを、将は抱き上げてベッドに運ぼうとした。
「こわっ、ちょっとこんな状況初めてなんですけど」
「う、動くなよ、重いんだから」
「そんな、無理しなくても」
「ほんっと、空気読めない奴だな、お前」
 ベッドに横たわった姿を上から見下ろすと、まるで別の女を見ているような気がした。
 もう自身を覆う殻を全てなくした、無防備な素顔。
 将が、胸元に手で触れると、しずくは観念したように眼を閉じる。
 月が陰り、部屋が淡い闇で覆われた。




「何?」
 うつぶせになっているしずくの横顔が笑っている。仰向けになっていた将は、その表情の意味が気になって、ふと口に出して訊いていた。
 身体に甘い余韻が残る。満たされているのに、不思議に物足りない曖昧な幸福を抱いたまま、将は隣のしずくを抱き寄せた。
「何って?」
 目だけで、将を見上げてしずく。
「いや、何笑ってんのかと思ってさ」
「別に」
「別にってなんだよ」
「だから、なんでもないんだって」
 笑いながら逃げようとする。
「気になるだろ」
「もう、本当になんでもないのに」
 組み伏せようとした将の腕をすりぬけるように、しずくの身体が上になる。
 そのままキスをした。
 何度も、何度も。もう、何ひとつためらうものがない口づけ。
 上から見下ろすしずくの髪が、将の胸に落ちてくる。
「……今度は、私がキスしてもいい?」
「……いいよ」
 その意味を解し、将は身体から力を抜く。
 くすぐってーな。
 少しだけ、動悸がした。
 経験は、確かに少なくはない方だが、こんな真似をされたのは初めてだ。
 というより今までの将は、セックスの時でも、他人に、自分の無防備な姿を見せたことがない。
 肩に、首に、胸に、柔らかいキスがゆっくりと降りてくる。
「すごい腹筋」
「鍛えてるから」
 吐息、指先、髪が流れていく音。
 それから。
「……ちょっ、タンマ」
「何、ちょっと早すぎ、」
「う、うるせぇよ」
 腕を掴んで引き起こすと、今度は将が上になる。
「……ん……」
「大丈夫か」
「うん」
 薄く汗の浮いた額にキスをした。
 背中に両手が回される。
 闇の中で、吐息と呼吸が混じり合って溶けていく。




「もう寝た?」
 隣から聞こえる囁き声に、将は少し笑って、身体の向きを変えた。
 ベッドの電子時計は、深夜三時を回っている。
「まだ寝てない」
 首までシーツをひっぱっているしずくも、いたずらっぽい目で笑っている。
「寝なきゃ」
「眠れない」
「子供だね、私たち」
 お互いに腕を延ばして、腰に手を回すように抱き合った。
 将は、もう自分のものになったその額に口づける。
「明日のこと、考えてた」
「……今日?」
「そっか、そうだな」
 不思議な感慨を噛みしめて、将はしずくの頬に唇を当てた。
「東京に戻ろう、一緒に」
「…………」
 綺麗な笑顔が、わずかに陰った気がした。
「りょうと末永さん……りょうの彼女なんだけど、今日、ちょっとしたイベントを企画してるんだ。見ないと絶対後悔するから」
 それには答えずに微笑して、しずくはそっと、将の唇にキスをした。
「コンサートより、すごい?」
「……まぁ、ある意味すごい」
 くすっと笑って、しずくはそのまま目を閉じた。
「寝よう、本当に」
「俺は、起きてるよ」
 しずくの額に零れた髪を、将は撫でた。
「寝るのが惜しい」
「……子供だね、本当に」
「いいよ、本当に眠くないんだ」
 しばらく目を閉じていたしずくは、それでもわずかに薄眼を開ける。
「寝て」
「なんで」
「見られてると思うと、眠れないから」
「…………」
 髪を撫でながら、瞼に、額に口づけた。
 目を閉じたまま、しずくの手が将の背中をゆっくりと撫でる。
「一緒にはいかないけど、そのイベントには、ちゃんと顔だすから」
「本当だな」
「うん……信じて、大丈夫」
 それでも、将には判っている。
 多分、こいつは、もう二度とこんな時間を俺にくれる気はないんだろう。
 じゃあねって、いつものように俺の前から消えて、それきり、二度と、姿を見せないつもりかもしれない。
「……身体、辛くない?」
「大丈夫、心配性だね」
「もうちょっと、起きてろよ」
「もう、眠れなくなっちゃった」
 それでも俺は、今夜のことを忘れない。
 例え、今日が最後で、こいつと二度と会えなくなったとしても、この先何年も同じ時間を過ごせたとしても。
「好きだよ」
「……うん、」
「好きだ……愛してる」
「……うん」
 忘れない。
 今日の一瞬が、俺にとっては永遠に残る奇跡だから――。














 

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