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「……これ」
 そっと差し出された包みを、将は少しためらってから受け取った。
「返していただきたいんです。コンサートが終わってからでも、あなたの手で」
「……これは」
 将は、目の前に座る痩身の女性を見下ろした。
「以前うちの子が、片瀬君からいただいたものです。多分、あの子からは返せないから……持っておくこともできないでしょうし」
 12月24日。最終リハーサルの時間が迫っていた。
 東京、お台場。工事中のエフテレビ新社屋。やがて日本最大級の展示場としてお披露目されるはずの大ホールでは、今、前原らレインボウのスタッフが、音響の最終リハーサルをやっている。それが終わってからが、ストームの出番である。
 今、将が対面している相手から事務所に電話があったのが、今朝の十時のことだった。
 相手が相手とあって、事情を察した片野坂イタジが、なんとか面会の時間を作ってくれた。将を名指しで呼び出したのは、もう二度と会うことのないと思っていた末永真白の母親である。
 大ホールの裏手にある中庭のベンチ。かつての恋人の母親が訪ねてきていることを、りょうはまだ知らない。
「今、彼女も、東京にきてるんですか」
 将の問いに、母親はわずかに頷いた。
「片瀬君と会ってきたらって、何度も言いました。でも、うちの娘は頑なで……一度思い込んだら、それを絶対に変えようとしないんです。そういうところ、父親とそっくり」
「…………」
「それがなんだか辛くって……。主人は、まだ子供だって言いますけど、真白はもう大人です。本気の恋だったってことは、私にも判りますから」
 将は頷く。
 子供かもしれない、りょうも、末永さんも。
 でも、だからこそ、本当に純粋で真剣だった。真剣すぎたゆえに、別れるしかなかったほどに。
「私は楽天家で安直だから、好きだったら結婚でも駆け落ちでもしちゃえばいいじゃないって思いますけど、そうも、いかないんでしょうね」
「駆け落ちは……顔、売れてますから」
 思わず苦笑すると、娘とよく似た笑い方をする人も、はにかんだような笑みを返してくれた。
「ごめんなさい、お忙しいのにへんなことお願いしちゃって。私が片瀬君に会うと、なんだか気を使わせちゃうような気がして」
「…………」
 どうだろう。
 確かに動揺するだろうが、もう昔のりょうとは違っている。
 それに、思い違いではなかったら。
 将は、目の前に座る人の顔を見る。この人は、もう一度りょうの手からこれを渡して欲しいと思っているのではないだろうか。諦めているようでも、心の底では。
「いつまで、こちらに」
「明日には戻らないといけないんです。島根で上の子の結婚式があるので」
「……そうですか」
 明日か。
 末永さんも、当然一緒に戻るんだろうな。
 スケジュール的に、年内は難しい。それ以前に、ある意味末永真白より頑ななりょうもまた、容易に自身の決断を覆そうとはしないだろう。
 2人で、決めたことだ。
 本当はもう、俺が口をだすことでも、考えてやることでもないんだろうけど。
「年があければ、りょうも少し気が楽になると思うんで」
 荷物を持って立ち上がった女性に、それでも将は声をかけていた。
「その時にあらためて、末永さんと会わせてあげることはできないですか」
「…………」
 母親の目元に、迷うような、いぶかしむような、不思議な感情が滲みだす。
「あの……聞いては、おられないんですね」
 なんだろう。
 将は眉を寄せている。
「真白は、年明けすぐに渡米することになってるんです。年末のコンサートを観て、翌日には成田から旅立ちます。仕事も決まりましたから、もう当分、日本には戻らないと思います」



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「本日、BPO、放送倫理向上委員会から、人気アイドルユニットのメンバーが起こした不祥事報道について、正式な報告書が公開されました。報告は、暴力行為を犯した人気アイドルをテレビに出演させ、さも被害者のように報道したあり方を強く非難したもので、」
 出番まであと30分。
 最終リハーサル前の控え室。
 全員が、みじろぎもせずにそのニュース映像に見入っている。
「これを受けまして、ジャパンテレビが今夜にも会見を行う予定となっております。柏葉将に起因したストームをめぐる騒動については、いまだインターネットで議論が白熱しており、31日に東京ドームで開催されるコンサートについても、大混乱が予想されています。地元警察では、警戒を強めるとともに、万一トラブルが起こった場合、主催者に即時中止を求めていく方針です」
 いきなり扉が外から開いた。
「音響オッケー、そろそろスタンバイ入ってくれ!」
 丸めたペーパーを手にした片野坂イタジ。
 その目が、テレビに止まって、一瞬で暗く陰る。
 報告が出たのが今日の正午だから、もう別のニュースで知っていたのだろう。
 が、イタジは、すぐにその影を消すと、5人の前に立ちふさがるようにしてテレビを消した。
「まぁ、もう今更、何がでても関係ないだろ」
「ま、そうですね」
 立ちあがって、将も言った。イタジは大きく頷き、全員を鼓舞するように手を叩く。
「それより今は、今日のリハを成功させることだ。言っとくが音響はバグだらけだ。前原さん、相当あれてるから覚悟しとけよ」
 午後一時から、ストームをまじえた最終リハーサルが行われる。
 控え室だけはかろうじて完成したブロックを使わせてもらっているが、まだ壁紙のないブロックはコンクリがむき出しになっている――エフテレビの新社屋。
 悠介が、自身の未来と引き換えにくれた場所だ。
「時間は予定どおりで大丈夫ですよね」
「もう五分くらいしたら出て来てくれ。付き人なんて悠長なもんはいないからな。長丁場になる、各自タオルとお茶は持参していけよ」
 それだけ言うと、イタジは慌ただしく控え室から出て行った。
「イタちゃんはああ言ってたけど」
 立ちあがりながら、口を開いたのは聡だった。
「他のスタッフは、結構動揺してたよ。相当まずいってことなんだろうね、このBPなんとかっていうとこが出した報告書」
 憂也が、軽く嘆息して肩をすくめる。
「真田のとっつぁんが言ってたじゃん。今後ストームは、どのメディアでも使われないだろうって。これがそういうことに繋がってくんじゃねぇの?」
「いいじゃん、もうそんなのどうでもいんだからさ」
 りょうが、少し笑って膝を抱える。
「そう思ったら腹もたたない。不思議なもんだね、人間なんて」
 それでも、このニュースは。
 将は静かな気持ちで思っている。
 解散へ続く、確実なカウントダウンへの始まりなのだろう。
 ストームを抹殺しようと東邦が戦いをしかけてくるのなら、こちらは逆にストームを封印して、個々の力で戦っていくしかない。
 今の5人なら、それができる。絶対にできる。そしてJ&Mは――唐沢直人は、こうやって灯された火を、きっと未来の先まで守り抜いてくれるだろう。
 不思議なすがすがしさと、寂しさが混在している。
 もう、これが最後だ。
 そう思ったら、なんでもできるような気がした。
 本当になんでも。
「りょう」
 正直言えば、なかばやけくそで、将は立ち上がったりょうの肩を抱いた。
「結婚すっか、俺たち」
「ぶほっ」
「はぁああ??」
「げっ、げほっげほっ」
 唖然とするりょうをのぞき、全員が呑みかけのお茶にむせかえった。
「本当にじゃねぇよ、バカ、MCでだよ、MCで」
 背後の三人を叱り飛ばし、将は再びりょうに向き直る。
「やだね」
 説明の前に拒否が返ってきた。
「絶対やだ、冗談じゃない、なんだって俺が、最後の最後で、そんな恥かかなきゃなんねーんだ」
「まぁ、確かに、リクが一番多かったんだよね。りょうと将君のラブシーンが見たい」
「だーーっ、冗談じゃねーっ」
 と、思わず叫んだ将は、いやいや、とそれを手を振って否定し、再度りょうに向き直る。
「まぁ、つまりあれだよ。雅の言うとおり、お客さんのリクに答えるってことだ。リハは極秘で別の日にやるからさ。そういうことで、りょうは安心して」
「できるかよ」
「しよう」
「やだ、将君、頭どうかしちゃったんじゃない?」
「俺の嫁さんになってくれ」
「やだ、絶対やだ」
「絶対、嫌な思いはさせない」
「…………」
「絶対、約束する」
 りょうの目が迷っている。しかしそれは、やってもいいかな、の迷いではなく、こんなことを言いだす将に対して、リアクションに迷っているのだろう。
「よし、判った」
 何故か、憂也がそう言って立ち上がった。
「そのケンカ、俺が買った!」
「つか………ケンカじゃねーよ」
「いやいや、双方の主張を丸く収める方法があんのよ、ひとつだけ。とにかく、ここは俺に任せてさ、MCのリハは明日にでもやんねー?」
 憂也が、将に向けて目くばせする。
 将は、多少の驚きと共に、その意味を理解した。
「で、場所はどうするよ、将君」
「あ……あー、事務所なんてどうだろ。昼くらいから四階の空き部屋で、どうせ誰も使ってないしさ」
「いいね、じゃ、そゆことで」
「いやいや、まて、肝心な俺の意見は」
 りょうが慌てて口を挟む。
「まぁまぁ、いいじゃない、もしかしたら最後のMCになるかもしんないんだしさ」
 その腕を聡が掴んで、りょうをドアの向こうに引っ張っていく。
「ちょっとまて、俺はやだ、絶対に嫌だからな!」
 バタン。
 扉が閉まった後、将は憂也を振り返った。
「知ってんのか」
 将が訊くと、憂也は「まぁね」と頷いた。その隣で、雅之も気まずげに頷いている。
「聡君に、ミカリさんから連絡あった。どうすっかなぁって、雅と三人で迷ってたとこ」
「なんだよ、だったら俺に言えよ」
「……ま、そだね、悪かった」
 妙に歯切れが悪い言い方だった。しかし憂也は、すぐに呆れたように眉をあげる。
「つか、将君の発想って、絶対どっかおかしくねー?りょうの女装を餌に末永さん呼び出そうって腹だろ?俺、顎が落ちそうだった。そんなんで2人が喜ぶのか、すんげー疑問なんだけど」
「まぁ……時間ねぇしな。りょう説得する自信もねぇし、咄嗟の機転だよ、機転」
 末永真白もりょうも、普通のやり方では、絶対に乗ってはこないから。
「それにさ、会わせるのは簡単だけど、ただ会わせてやるだけってのも、どうだかな、と思ってさ」
 将は軽く嘆息して、額に落ちた髪を払った。
「島根で、きっちりけりつけて戻ってきたんだ。同じ別れを、無意味にもう一回繰り返させたってしょうがねぇだろ」
「ま、だから俺らも迷ってたんだけどね」
 頷きながら、憂也。
「2人の結論を尊重するのもありなのかなって、思ったりもしたよ」
 雅之。
 そう、それでいいんだろう。
 確かに、それでいいんだろうけど。
 将はわずかに頷いて続けた。
「たださ、別に嫌いになって別れたんじゃないなら、やっぱ最後は、楽しく笑って別れてほしいんだよな。りょうの花嫁姿でも見て、馬鹿みたいに大笑いしてさ。じゃあまたねって、いつでも気軽に会えるようにさ」
 問題は末永さんだ。リハの合間におふくろさんに連絡とって、なんとか時間を作ってもらうしかない。あと、ミカリさんの協力も不可欠だろう。
「…………そこに、りょうの女装が出てこなきゃ、いい話だと思うけど」
 憂也があきれたまま首をひねる。
「まぁ……、でも、やっぱいいのかな。確かにりょうには、いっそ死んだほうがマシみたいな再会だろうけど、末永さんは笑うしかないだろうし、うん」
 雅之は、もう納得しているようだった。
「とにかく、そのことは後で話そう」
 そろそろ、時間だ。
 将は、タオルを頭に巻いて、上着を脱いだ。
「あのさ、将君」
「ん?」
 雅之だった。憂也はさっさと出て行って、気がつけば雅之と二人になっている。
 鏡越しの目が、いつになく暗い。背中に手を回し、妙にもじもじしている風でもある。
「なんだよ、気色わりーな」
「これ」
「……?」
 ようやく手が前に回って、差し出されたのは分厚い茶封筒。
「なんだよ」
「あっ、あけんのは、ゲネプロの後で」
「はぁ?」
「く、九石さんに、そう言われたから」
「…………」
 なんだろう。
 意味が判らない。
 将は憮然としたまま、固く封がされた封筒をひっくり返す。
「お、俺が相談したんだけど、でも、調べてたのは九石さんで、俺も中みてねぇけど、殴られるのは覚悟してるからって」
「誰が」
「九石さん」
「…………?」
 ますます意味が判らない。
「将君、早くしろよ、前ちゃん、ガンガンに怒ってっぞ」
 廊下から憂也の声がした。
「おう、今いくよ」
 ひとまず、封筒は脱いだ上着の下に入れておいた。
―――なんだろう。
 将はわずかに首をかしげて、それから疑念を振り切るように駆け出した。


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 これで、二度目だな。
 照明の落ちた受付前のソファに座りながら、将はぼんやりと電光掲示板を見る。
 ナースルームから、ワムのラストクリスマスが聞こえてきた。受付のカウンターにも、小さなツリーが飾られている。
 そっか。今夜はクリスマスイブだ。そんなことさえ忘れていた。
「お待たせしました」
 ようやく最初に出てくれた看護婦の声がした。将ははじかれたように立ちあがる。
 ガラスで仕切られたカウンター越し、まだ若い看護婦は、少し気の毒そうな眼で将を見上げた。
「大変申し訳ありませんが、その患者さんなら、今日の午後、退院されました」
「…………」
 なんとなく、そんな予感はしないでもなかった。
「連絡先、判りますか」
「ご家族の方ですか」
「婚約者です」
 ためらったように、看護婦の視線が逸らされる。
「トラプルの責任は、全て僕が持ちます。お願いです、教えてください!」
 どうしよう、と、若い看護婦の眼差しが、助けを求めるように背後に向けられる。しかし巡回の時間なのか、ナースセンターには、他に誰の人影もなかった。
「……あの、申し上げられません」
 ぎこちない声が、返ってきた。
「少しご事情のある患者様のようで、外から問い合わせがあっても絶対に連絡先等は答えないよう、ドクターに言われてるんです。申し訳ないですけど」
「なんとかなりませんか」
「私には、無理です」
「…………」
 これ以上ねばっても、迷惑になるだけだろう。
 将は苦渋の思いで、カウンターで拳を握りしめる。
「せめて、僕がここへ来たと、彼女に伝えてもらえないでしょうか」
 ポケットから手帳を出すと、将はそれに、自身の名前と今夜泊まる予定のホテルを書いた。
 最初から、どこか不審げだった看護婦の目が、大きく見開かれて、もう一度まじまじと顔を見られる。
「よろしくお願いします」
 無駄だろう。それは判っている。将の携帯番号ならあの女は知っているし、何度もかけた携帯は、一度として繋がらない。
「……退院されましたけど、その、遠くにはいかれてないと思います」
 背を向けた時、ためらったような声がした。
「明日の朝、もう一度、おいでいただくことになってるんです。それだけです」
 振り返ると、もう看護婦の姿はそこにはなかった。
「ありがとう!」
 大きく礼を言って、将は夜の街に駆けだした。
 この街は、これで二度目だ。
 最初は唐沢直人を追ってここまで来た。そして今、真咲しずくを追って同じようにここにいる。
 まだ、いるんだ。
 この街のどこかに、あいつはいる。
 待ってろ。
 今度こそ、俺が捕まえてやる。



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「お戻りになっていませんね」
「確かに、こちらに宿泊しているんですね」
 将は念を押した。カウンターの制服姿の男が頷く。
「夕刻に外出されたきり、まだお戻りになっておられません。行先まではちょっと……」
「…………」
 ロビーで、待つか。
 将は拳を唇にあてて、男の背後にある時計を見る。
 午後十時、一体こんな時間まで、病人がどこをほっつき歩いてんだ。
 小さな町、真咲しずくが泊まるようなホテルは限られていた。何軒か手当たり次第に電話して、ようやく見つけてここまで来た。まるで、鬼ごっこでもしている気分だ。
 いや、もしかすると。
 あの女のことだから、意地悪く将の動向を見越して、裏へ裏へと先回りしているのかもしれない。今更ながら、病院で自身の連絡先を教えたのが悔やまれる。あの女の性格なら、逆に逃げてしまう可能性の方が高かったのに。
 少し迷ってから、将は先ほどの病院でメモしてきたナースセンターの番号をコールした。
 出てきた声ですぐに判った、先ほどの看護婦だ。
「申しわけありません。さきほど伺った、柏葉です」
 は、はい、と緊張した声が返ってくる。
「真咲さんとは、あれから連絡がとれたのかと思いまして」
「取れました」
 心臓が跳ね上がっていた。
「柏葉さんのこと、お伝えしました。そうしたら、その」
「その?」
 焦って、携帯を壊しそうなほど強く握りしめる。
「待ちあわせしてるから、大丈夫よって」
「………………」
 は?
「待ち合わせって、そう言ったんですか」
「はい、確かに」
 待ち合わせ?
 街ち合わせだと?
 言うにことかいて、何適当なこと言ってんだ、あのバカ女!
 丁寧に礼を言って、将は携帯電話を切った。即座に、真咲しずくの番号をコールする。が、返ってくるのは、もううんざりするほど聞きあきた留守電のメッセージだけ。
 苛立った将は、思わずソファの手すりを拳で殴っている。
 逃げてんのか、俺から。
 そうとしか思えない。病院からの電話には出た。でも、俺からの電話には一回もでない。
「ふざけんな、これじゃ本当に鬼ごっこじゃねぇか!」
 思わず口に出している。
―――でも……もし、逃げているのなら。
 逃げる場所とはどこだろう。
 最後に行きつく場所とはどこだろう。この街で、あの女が、もし隠れているとしたら。
 この街で。
 真咲しずくと、唐沢直人の生まれた町で。
(待ち合わせしてるから、大丈夫よって)
 待ち合わせ……。
 だったら、それは。
 俺も知ってる場所ってことなんだろう。



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「とりあえず、準備、オッケー」
 電話を切った聡は言った。
「りょうにはばれてねぇよな」
 不安そうに、雅。
「ま、思いっきり不審には思ってるだろうけどな」
 憂也は片腕を首の後ろに回し、ソファの上に寝そべった。そして、ちらっと腕時計を見る。まただ、と聡は少し不思議に思う。今日一日、憂也はずっと時間を気にしている。
 いつものマンション。ただし、今夜は三人しかいない。
 りょうは、矢吹との演出の打ち合わせから戻らない。
 将は――ゲネプロが終わってすぐに飛び出していった。その行き先は、全員が知っている。多分、今夜は戻らないということも。
「もどってくるかな、明日までに」
 雅がぼんやりと呟いた。
「戻るよ、真咲さんと一緒にさ」
 聡はそっとその肩を叩く。
 一人、重い責任を背負わされていた雅之は、辛かったろう。ここ数日、ない頭でずっと迷っていたに違いない。それを思うと気の毒になる。
 真咲しずく。
 あの人とは、色んなことがあったけど。
 それでも今は、戻ってほしいと心から思う。ストームのマネージャーとしてではなく、親友の大切な人として。
「将君いないと、そもそも計画がおじゃんになる。絶対に帰ってくるよ」
 まだ落ち込んでいる雅之の肩を、聡は再度、励ますように強く叩いた。
 ふいに、憂也が天井を見上げたまま、呟くように歌いはじめた。
 ジョンレノンのハッピークリスマス。
―――そっか、今夜はクリスマスイブだ。
 聡はあらためて気がついた。忙しすぎて忘れていた。2005年のクリスマスイブ。
「雪、とうとう降らなかったなぁ」
 立ち上がった雅之が、暗い空を見上げて、少し残念そうに呟いた。
 聡も、その視線を追って、窓越しの空を見る。
 あと少しで、今年が終わる。
 あと少しで……ストームも、終わる。
 BPOの報告を受け、まずジャパンテレビが視聴者へのお詫びと称して会見を行った。少なくとも民事訴訟が終わるまでは、ストームは一切テレビでは使わないと、はっきりその場で宣言された。
 正式な会見ではないものの、TBCテレビの社長も、ジャパンテレビの措置は妥当だと思う、という旨のコメントを発表した。世論の動向はまだ未知数だが、やがてエフテレも、サンライズテレビも、それに従うようになるだろう。なにより、ストームという名前では、もう二度とスポンサーがつかないに違いない。
 そして、これは聡だけが逢坂から聞いて知っていることだが、今日の午後、例の道徳という被害者が、裁判所に民事訴訟の届けを出した。将が否認するのは判り切っているから、和解などあり得ないこの民事裁判は、長引くことが予想される。
 将は――それが、わかっていたんだろう、と聡は思う。
 だからこそ、芸能界を休業するという結論を出したのだと。
 でも、それでいい、聡はそう思っている。将は必ず戻ってくる。それがもう判っているから怖くはない。寂しくもない。
 将には、ストームより、今しかできないことを大切にしてほしい。
 J&Mの火は、必ず俺たちが守っていく。
 一人一人が輝くことで、ストームの居場所を守り続けていく――絶対に。
 ふいに、憂也の歌声が途切れた。
 聡が振り返ると、また、時計に目をやっている。
「なんかあんの?今夜」
「んー、ちょっとね」
 雅之の問いにも、曖昧に誤魔化して笑う横顔は、何故か不思議なほど、幸福そうに見えた。
「おっ、きたかな」
 振動がしたのか、憂也がポケットから携帯を取り出した。そして、寝ころんだままそれを耳にあてる。
「おう、元気か?よかったじゃん、うん、男?」
 何の話だろう。
 聡は雅と顔を見合わせている。
「どっちも元気なんだ。はは、よかったなー。いや、ぜんっぜん、心配するとしたら、この世に余計な遺伝子もった奴が一人増えるってことくらいでさ」
 赤ちゃんが産まれたんだ。
 聡はようやく理解した。
 憂也の幼馴染で、今年の春に憂也のお兄さんと結婚した千秋さんだ。
 結婚式の時、すでに何か月かの身重だった。すっかり忘れていた、もうあれからそんなに時間がたってるんだ。
 憂也が――初めて本気で好きになった、初恋の人。
「うん、じゃあな。あ、来なくていいよ、全部ネットで見れるんだ。うん、……ありがとな」
 天井を見上げたまま、憂也が携帯を切って、その手をぱたん、と下に落とす。
 唇が、再びハッピークリスマスを口ずさみはじめた。
「……憂也」
 雅が、その足元に、腰を下ろす。
「俺さ」
 歌い終えた憂也が呟いた。
「もう、誰も好きになんねぇ」
「ま、今はな」
「本気だよ。もう雅でいい、女はこれで終わりにする」
「……憂也」
「もういいんだ。すげー幸せだから、今。別に無理してるわけじゃなく、マジな話」
「…………」
「ハッピークリスマス、最高の夜だよ」













 

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