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「まぁ、確かに疑惑はあったよ。特捜部も一時期目をつけてたらしい。あれだけ規模の大きな買収だからね、裏でコレが動くのは当たり前でしょ」
 指で、記者仲間で使う「金」を示し、老齢の記者は、そこでふうっと煙草の煙を吐きだした。
「おケイの気持ちはわからないでもないけどね。俺に言えるのは、まぁ、よしときなってことくらいだよ」
「ま、そうでしょうね」
 ケイはコーヒーを飲みほした。
 都内の地下にある喫茶店。水曜日の深夜、周囲の客はまばらにしかおらず、別のスペースにあるネットコーナーに、ちらほら若者の姿が見える程度だ。
「筑紫さんが消えたのは、ご存じですか」
 うん、と男は頷く。
 かつてケイが、社会部の記者をしていた筑紫の元でアルバイトをしていた時代、編集長だったこの男は、二人の共通の上司だった。定年間際で管理職の座を捨て、今はフリーの記者をしている。情報網の広さと確かさで、業界中から重宝されている男だ。
「ただ、詳しいことまでは、俺は知らないね。何を追ってたかも聞いちゃいない。したたかな男だから、危険を察して逃げただけだと思いたいね」
 男のしわがれた頬に、苦い笑みが刻まれた。
「あれも根は可愛い男なんだ、それこそ新人の頃は理想に燃えた記者だった。父親がガセをやらかして自殺した。筑っちゃんは結局、そこから一歩も動けなかったんだろうなぁ」
「………どういう、意味ですか」
 筑紫亮輔の父親は、地方新聞社の記者だった。まだケイが筑紫と知り合う何年も前、その父親が自殺していたのは知っていた。過労による労災ということで、業界でその賛否がとりざたされたケースでもある。
「古い話さ」
 男は何本目かの煙草に火をつけた。
「昭和の終りに起きた大物政治家の収賄容疑。スクープは大手新聞に独占され、筑っちゃんの親父さんがいる地方紙は、ネタ探しにやっきになってた。その政治家のお国元だったのさ。そんな中、ぶちあげたのが、現金の受け渡しを政治家の愛人がやってたんじゃないかという疑惑だ」
 苦い目で、男は溜まった灰を灰皿に落とす。
「ガセ、だったんですか」
「自殺した愛人の遺族が名誉棄損の訴訟をおこしてね。それで負けちまったってことは、筑紫のオヤジさんの方が分が悪かったってことなんだろうな」
「…………」
 自殺、か。
 筑紫亮輔もまた、かつての強引な取材の中で、対象を自殺させてしまった過去を持っている。因果はめぐるのか、それとも故意に父親と同じ道を踏襲したのか。
「政治家の息子が通ってた小学校の女先生さ。本当にそれがガセだったらひでぇもんだ。学校はクビになって親からは勘当、マスコミからはやれ淫乱女だと追いまわされてさ……よほど恨んだんだろうなぁ、首くくったのはどこだと思う。新聞社のトイレの中だよ」
 ケイは無言で眉を寄せる。
 報道の使命とは何だろう。その存在意義とはなんだろう。知る権利を満たすために、表現の自由の発露のために、いたずらに世間の好奇の目にさらされた人間の救済は、一体どうやって、誰がしていけばいいのだろう。
 それは、伝えるものにとって、永遠の課題だ。
「筑紫さんのお父さんは、それで責任を感じたんですか」
「どうだかな……どういう動機で、敗訴が決まった後、オヤジさんが終電の前に飛びこんじまったのか、それは誰にもわからねぇことだがよ」
「…………」
 苦い目をしたまま、男は吸いかけの煙草を灰皿にねじこんだ。
「人の心ってのはな、おケイ、いろんなものがしずくみたいに落ちてきて、知らない間に深く溜まってるものなんだ。それがある日いきなり、幽霊みたいに飛び出してくる。人間はこええよ、俺にとっちゃ、何がはいってるかわかんねぇブラックボックスだ」
「悪いものばかりが、たまってるとは限らないですよ」
 暗く陰りそうな気持ちを抑えて、ケイは言った。
「馬鹿にされるかもしれないけど、アタシは芸能記者やってて、いろんな夢の現場に立ち会ってきた。人って、そんなに捨てたもんじゃないと思ってますから」
 男は眉をあげ、少し不思議そうに笑うと、わずかに肩をすくめてみせた。
「闇も光も、どちらも同じ人間の心にある。不思議なもんだな、人って生物はよ」
 最後に、ちょいと忠告しとくぜ。
 時計を見ながら、男は老いた腰をあげた。
「東邦の真田さんに関しちゃな、この業界でネタをあげんのはタブーだと思っときな。真田一族は今でも日本金融界に多大な影響力を持っている、その意味はわかんだろ」
「マスコミも、企業ってことですか」
「その通りだ」
「…………」
「しかも、東京地検特捜部が動こうとした時、天の声がかかってる、それ以上言わせるなよ。今の日本でな、真田の爺さんを検挙するのは、絶対に不可能なんだよ、おケイ」
 絶対に、不可能。
 絶対に不可能、か……。
「その若いADさんにも、目立った真似はしない方がいいって忠告しときな」
 一人で地上に出たケイは、無言で拳を唇にあてる。
 絶対に、不可能。
 それは、ここ数日、ケイが昔のつてを頼り、報道にたずさわる知人から聞きこんで得た反応とも一致している。
―――正攻法から攻めるのは、どうも無理かもしれないね。
 大森には、真田会長の経歴、過去、家族構成等を徹底的に洗わせ、ミカリは独自に、消えた大澤絵里香の行方を追っている。2人にも、忠告した方がいいかもしれない。
 ふと気づくと表通りはクリスマス一色だった。街路樹をかざる電飾が、師走の街に瞬いている。風は冷たく、今週に入って一気に冷えた外気は、たちまちケイから体温を奪っていった。
「うわ、お客さん、薄着ですね」
 乗り込んだタクシーの運転手が声をあげる。
「気をつけた方がいいですよ。暖冬暖冬っていわれてますけど、急に冷え込んできましたからね」
「そうみたいだね」
 確かにこの寒空の下、スーツ一枚でうろうろしていた自分は、ひどく奇異に見えていたのかもしれない。 
「もしかして、来週は雪かなぁ。今年はクリスマスが平日なんですよね。雪が降ればいいですねぇ」
「…………」
 来週は、もうクリスマスか。
 その前日、クリスマスイブには、お台場で、ストームのコンサートの最終リハーサルが行われる。
 そのコンサートが成功するかどうか、2005年の先に一体何が待っているのか、今のケイには、予想さえできない。
 ケイは携帯を開き、直人に連絡を取ろうとして、やめた。
 久しぶりに飲みに行きたい気分だった。けれど、男の心に別の女の影を見つけてからは、行きつけのバーからも足が遠のいている。
―――真咲……しずくか。
 ケイの心に、もう一つ。
 大きな影を落としている存在。
 読んですぐに捨ててしまった報告書。今でもケイは悔いている。自分は何がしたかったんだろう、どんなに許せないと思った人間にも、決して暴いてはならないものがあるはずなのに。
 それに、あの会見を見たときから、薄々判っていたはずだ。あの女が、本当は――。
「…………」
(ご推測のとおりですよ。彼女は今、帰国して日本にいます)
 弁護士の榊青磁を訪ねたのは、例の報告書を読んだ翌日のことだった。
(故郷の病院で療養中です。本来、パリの病院で彼女は手術を受ける予定でしたが、それを延期して戻ってきたんです)
(手術を受ければ、コンサートに間に合わないと思ったんでしょう。あの人にとって、東京ドームは、格別の思い入れがある場所ですから)
 四十前になってもまだ、独身を貫いている男の本心が、垣間見えるような口調だった。
(彼女がどれだけ素晴らしい人か、僕に守秘義務がなければ、あなたに全て説明したいくらいです。誤解されるのが生きがいのような人ですから、僕には何も言えませんが)
 それも、だいたいは判っている。
 成瀬雅之とのスキャンダルで追い詰められた梁瀬恭子を救ったのも、故郷でひきこもっていた末永真白に手を貸したのも、彼女だ。
 個人資産は全て売却され、国内外の医療、介護施設に寄付されていた。
―――つか、そこまで出来過ぎだとさ、ますますあんたが嫌いになるしかないじゃないか、あたしとしては。
(僕が、唯一あなたにお願いしたいのは)
「…………」
(彼女の病気のことを、少なくともコンサートが終わるまでは、絶対に柏葉君に話してもらいたくないということです)
「…………」
 どうするかね。
 さて……あたしは、どうすりゃいいのかね、柏葉将。



              82


「すいません、お忙しいのに、ずうずうしく訪ねてきちゃって」
 丁寧に頭を下げる。
「いいの、本当に来てくれてうれしいんだから」
 ミカリは、その前に淹れたてのコーヒーと、大森が引き出しに隠していた菓子を出した。
 末永真白。
 数か月ぶりにミカリの前に姿を現した真白は、黒いニットにパンツという落ち着いた服装のせいか、随分大人びて見えた。
 最後に会った時、まだ顎のあたりではねていた髪。それが今は長く伸びて肩先に垂れている。あの頃、彼女は幸福のただ中にいて、声にも仕草にも、全身で愛し、愛されている幸せがにじみ出ていた。
「……元気そうで、安心した」
「ミカリさんも」
 冗談社。
 折よく、といったら悪いけど、ケイも大森も外出している。携帯に連絡を受けたミカリ一人が慌ててタクシーで戻ってきた。一人、部屋の隅に根付いている高見のことは、あまり問題にしなくていいだろう。
「いつから、こっちに来てるの?」
「昨日です。お店の改装で年明けまで休むことになって、母と一緒に」
 一口飲んだコーヒーを置いて、真白は透き通った笑顔になった。
「母の実家、こっちなんです。こんなに休めるの何年ぶりかしらって、すごく喜んでました。本当は父も来るはずだったんだけど」
「お仕事?」
 ミカリの問いに、少し考える眼になって、真白は首を横に振った。
「多分違うと思います、私と母の2人だけで行かせたかったみたい」
「素敵なお父様ね」
 ミカリが微笑すると、はじめて真白は嬉しそうな笑顔になった。
「いつまでいるの?年末のドームには行くんでしょ?」
 なにげなく聞いたつもりだった。
 片瀬りょうと末永真白の顛末なら、聡から聞いて知っている。ただし、聡もあまり詳しい事情は知らず、ただ「りょうはもう、完全にふっきってるみたいだよ」とだけ聞いていた。
「残念だけど、25日には戻らないといけないんです。姉の結婚式が26日だから」
「まぁ、おめでとうだね、それは」
「本当はクリスマスに式をあげる予定だったんですけど、相手の方の仕事の都合がつかなくて」
 そこで言葉を切って、真白は綺麗な笑顔になった。
「コンサートは、行きます。りょうから家族分のチケットが届いたから。父が本当に行くかどうかは疑問なんですけど」
 憎しみ合って、別れたわけじゃないんだな。
 ミカリは、多少の寂しさを噛みしめながら、そんな真白の笑顔を見つめる。
 大森が実家から送ってもらったというストーブが、しんしんと音をたてている。窓には水蒸気がこもり、外を雪景色のように見せていた。
「……片瀬君と、どうして別れたの?」
 残酷な問いかと思ったが、そう訊かずにはいられなかった。
 聞かれることは最初から覚悟していたのか、真白は動じずにわずかに笑った。そのまま、言葉を探しているような沈黙が続く。
「……私が訊くのもおかしいね。私だって、結局は別れたのに」
 ミカリはうつむいて苦笑した。
「自分のことはあきらめといてなんだけど、それでも真白ちゃんとこには、上手くいってほしかったな……、難しいとは思うけどね、大変だとは思うけど」
「…………」
 うつむいた真白は、何も言わない。
「私には無理でも、……なんていうのかな、同じ立場の女として。真白ちゃんと凪ちゃんは、私にとっての希望だったのかもしれないね」
「りょうと……一緒に島根にいた頃」
 下を見つめたまま、真白の唇が呟いた。
 ミカリは顔をあげている。
「嬉しくて楽しくて、夢みたいに幸せなのに、胸のどっかが苦しくて、いつもいつも苦しくて、りょうと別れる時間が近づく度に、陽が傾いていく度に思うんです」
 真白ちゃん。
「明日なんて来なきゃいいのに、永遠に来なきゃいいのに」
 うつむいた瞳が揺れている。
「ずっとずっと来なきゃいいのに、時間がこのまま、止まったらいいのに」
「………………」
「……別れたくなかった」
 涙が、ぽつりと机を濡らした。
「本当は、行かせたくなかった、ずっと傍にいたかった、アイドルなんかに戻ってほしくなかった……!」
 激しい感情を吐露し、そのまま、唇を震わせて両手で顔を覆う真白を、ミカリは黙って見続けていた。自然に自身の目からこぼれたものを、そっと指で払う。
 しばらく肩を震わせていた真白は、けれどすぐに、潤んだ笑みを浮かべた目でミカリを見上げた。
「ごめんなさい。すっきりしちゃった、いい子ぶって胸の中にためてたもの、思いっきり吐き出しちゃいました」
 最後の涙の残滓を拭い、真白は自身のバックから厚みのある紙袋を取り出した。
「何……?」
「写真です。沢山とったから、全部りょうしか写ってないんですけど」
 差し出されたそれを、ミカリは黙って手に取った。アルバムに丁寧に貼られた写真は、島根で、ひと時を過ごした片瀬りょうの素直な表情が映し出されていた。
―――こんな笑い方も、できる子なのね。
 多分、世界中で、この表情を撮ることができるのは、末永真白しかいないだろう。
 この世界でただ一人めぐりあった愛する人。その人と過ごす、奇跡のような美しい時間。それが切り取られ、今、ミカリの目の前に並べられている。
「この写真、よかったらもらってください。いつかミカリさんの手で、世に出してもらいたいんです」
 真白の声には、先ほど乱れた余韻は、もう残っていなかった。
「りょうの時間は、私だけのものじゃないんです。最初から……私にはそれが、判っていたような気がします」
 何を言ってあげたらいいんだろう。何を伝えたらいいんだろう。
 ミカリ自身も、まだ東條聡とのこれからが、見いだせないままでいる。互いに逃げないでいようとは決めた。でも、そこから先のことは、まだ何も決めてはいない。
「これから、真白ちゃんはどうするの」
「仕事しながら、学校に行くつもりです。笑わないでください、写真」
 真白は手を目元まであげて、シャッターを切る仕草をした。
「姉のだんなさんになる人が、雑誌関係の仕事をしてるんです。不思議な運命感じました。……私、もっともっと、人でも、風景でも、色んな写真を撮りたいと思ってたから」
 それには、ミカリは微笑んでいた。彼女なら、いい写真家になるだろう、風景も人も、その奥底にひそんだ美しさを知っている人だから。
「どこの雑誌の方?もしかして、私も知ってるかもしれない」
「さぁ、地方紙だから、多分ご存じないと思います」
 真白は腕時計をみて、少し慌てた風に立ち上がった。
「そろそろ行かなきゃ、こっちで友達と待ち合わせてるんです」
「……後悔、しない?」 
 バックを手にした真白に、それでもミカリは声をかけていた。
「このままで」
 このまま。
 最愛の人と、別々の道を行くことに。
 真白は、静かな眼差しになって、頷いた。
「……子供だって笑わないでくださいね。私、この先、もう絶対誰も好きにならないと思うんです」
「……………」
 横顔を見せた真白を、ミカリは黙って見つめていた。儚いくらい、それはきれいな横顔だった。
「例えばあのまま、りょうと島根で結婚して一生一緒にいたとしても、別れて別の道をいったとしても、どの道を選んでも同じことだと気付きました。もう、私の人生で、あんなに人を好きになることなんて、絶対にないから」
「……………」
「だから、別れても大丈夫だと思いました。離れていても、一緒にいても、私がりょうを好きでいることに、なんの変りもないことだから」
 それでも、深く一礼して顔をあげた真白の瞳は潤んで見えた。
「また、会えるわよ」
 ミカリが言うと、真白は笑った。
「学校が終わったら、東京に出ていらっしゃい。その時はうちで採用してあげるから」
「ありがとうございます」
 ミカリは無言で、去っていく真白の背中を見送る。
 それでも真白の目は、もう2度と会わないと、そう言っているように見えた。
「…………」
 静けさに包まれた部屋で、ストーブだけが鳴っている。
―――真白ちゃん……。
 今日の真白は、昨日までの自分だとミカリは思った。だからこそ、99パーセントの本音の下、抑制された悲しみの深さが痛いほど判る。
 断ち切ることでしか、次へ進めないのが、末永真白と片瀬りょうだったのだろう。
 自分も一時期はそう思った。でも今は、繋がりを持ち続けながらでも、それぞれが自分らしく生きていければいいのではないかと思っている。
 しぱらく迷っていたミカリは、やおら携帯を持ち上げる。鹿児島で別れてから初めて呼び出す番号。けれど最後のキーが押せないまま、ミカリは真白にとって何がいいのか、迷うような気持ちで考え続けていた。











 

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