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「わかりましたよ、東邦の思惑が」
 飛びこんできたのは取材に出ていた大森だった。ケイは、書類を急いで引き出しにしまう。
「どうしたの」
 立ちあがったミカリの声を遮るように、頬を赤くして大森は続けた。
「BPOです、BPOが、ストームのことで近々報告書を出すそうなんです」
 BPO。
 放送倫理・番組向上機構。
 放送番組による人権侵害を救済するため、1997年、国営放送と民放により設立された「第三者機関」である。
 放送事業者及びその関係者以外から選ばれた理事長と、民放・国営放送から選ばれた8人の理事からなる、いってみれば、放送界の自立機構。
「ストームのことで……?」
 ケイは眉を寄せている。
 BPO加盟の放送局は、放送倫理上の問題を指摘された場合、具体的な改善策を含めた取組状況を一定期間内に報告し、BPOはその報告等を公表することになっている。
 問題となるのは報道による人権侵害、一アイドルユニットが、そこで取り上げられることなどあり得ない。
「だから」
 大森はもどかしく続けた。
「柏葉将報道をめぐる人権侵害問題ですよ。聞いて驚かないでくださいよ。この場合、報道被害を受けたのは柏葉君でも片瀬君でもないんです。例の道徳って野郎と、それから真田会長だっていうんですよ」
「はぁ?」
 さしものケイも、すっとんきょうな声をあげている。
「ちょっと待ってよ、どういう理屈で、そうなるのさ」
「なんの根拠もなく、事件加害者である柏葉将、城之内静馬を、実は被害者であったと視聴者に思わせるような偏った報道を繰り返し、それが、実際の被害者への人権侵害にあたったと――そういうことみたいなんですよ」
「…………」
 なるほど。
 ケイはうなって唇を噛んだ。こじつけのようではあるが、確かに納得できないでもない。道徳も真田も、ある意味報道被害者といわれれば、その通りなのだ。
 ミカリが、傍らからケイの腕を掴む。
「国営放送の平原剛三は現BPO理事です。もしかすると、BPOに働きかけたのは」
 ケイにもその続きは判っている。実際そうでなければここまで東邦よりの指摘がでることなどないだろう。
 もし、これで、柏葉将に不利になる形でBPOの報告書が出てしまったら。
「BPOで最終的な報告書が出れば、それがこの騒動の結論になってしまう可能性があります」
 きつい声で、ミカリは続けた。
「…………」
 ストームを、テレビから締め出し、芸能界から永久追放する。
 それが、今、民放連のトップに立ち、そして国営放送でさえ我がものにしている真田孔明が描いているシナリオだ。
「仮にBPOで、テレビ局の報道姿勢を正すような指摘が出たら、真田会長は真っ先に宣言すると思います。被害者感情を考慮して、今後一切ストームはテレビでは使わないし、使うべきではないと」
「…………」
「それにTBCテレビが同調するのは目に見えています。国営放送も同じです。紅白で貴沢ヒデを使い、来年の大河も貴沢が主役。国営放送に、この関係が切れるはずがありませんから」
 ケイは、軽く嘆息した。
 エフテレ、サンテレなど他のキー局は、今でも世論の動向を見極めている感があり、どう動くか未知数だ。そう簡単には真田の言いなりにはならないだろうが、それにも―――どんな罠が仕掛けてあるか判らない。
 そうなれば、ストームは、本当に終わりだ。
「急がなきゃ、ならないだろうね」
「報告が出るのはいつなの」
「早くても今週には出る見込みだそうです」
「もうひとつ、気になるニュースがありますよ」
 ふいに、高見の声がした。
 数日ぶりに聞く相棒の声。
「あんた、生きてたんだね」
 うつむく高見の顔は、白蝋のように色褪せ、頬もこころなしかやつれて見えた。
 最近、高見はパソコンに向き合うでもなく、何をするでもなく、ぼんやりと頬杖をついたり、虚ろな目で一日中空を見ていることが多くなった。まるで初めて会った頃のような相棒の態度に、正直言えば、ケイはわずかな不安を感じている。
 しかし、口を開いた高見の声はいつも通りだった。
「来年早々、真田会長は東邦EMG会長を退任し、BPOの理事に就任する予定なんです」
 BPOの、理事。
 どこまでも上に登らなきゃ気がすまない爺さんだ。そう思いながらケイは、まるで死人のような顔でパソコンと向き合う高見の背後に立つ。
「それは確かなネタなのかい」
「この程度の情報収集なら、コンビニで雑誌を立ち読みするより簡単ですから。それに先駆けて12月31日の夜、真田会長は、国営放送、民放各社のおえら方を招いて、ホテルプリンスで大規模なパーティを行う予定です。おそらくそこで、就任披露があるんでしょう」
 12月31日。
 大みそかだ。
 なんだって、そんな日に。
 ミカリと顔を見合わせたケイは、しかしすぐにその意味を理解した。
 そうか。
 そういうことか。
「わかったよ」
 陰鬱な目で、ケイは呟いた。
 今度こそわかった。真田孔明のシナリオの全容が。
「……真田の爺さんは、その場で、ストームをテレビで使わないよう、民放各局へ号令をかけるつもりなんだ」
「どういう意味です」
 ミカリ。
 ケイは、唇を噛んで、眉を寄せた。
「わかんないかい?その夜はストームのコンサートがあるんだ。真田の爺さんのシナリオでは、それは失敗する予定になってんだよ。しかも、とんでもない形での、大失敗だ」
 集められたメディアの代表者が、のきなみ呆れて、見放すしかないような。
「………そんな」
 絶句したミカリが呟く。
「でなきゃ、いい年したオヤジ連中がカウントダウンパーティなんてするもんか。呼ばれた方もいい迷惑だ。間違いない、東邦サイドは確信してるんだ、ストームのコンサートは、100パーセント失敗するって」
「目標ができたじゃないですか」
 高見が言った。
「私たちのリミットも、12月31日、ストームのコンサートの日にしちゃえばいいんですよ」
「しちゃえばいいって、あんた……」
「白ウサギに連絡を取ってみます」
 白ウサギ。
 白馬の騎士のメッセージ。
 脱力していたケイの顔色が変わる。
「あんた、何かわかったのかい?」
「判るも何も、最初から知ってたんです。ただ、白馬の騎士がどうしてそれを知っていたのか。正直、上には上がいるもんだと、目の前が真っ暗になりましたけど」
 ちらり、と背後のミカリと大森を見て、高見は続けた。
「1998年、警視庁公安部が摘発したとある中核派のアジトから、とんでもない資料が見つかりました。当時の警視庁のデジタル方式無線を完全傍受した盗聴テープです。ご存じの通り、デジタル方式無線の解読には相当な時間と高度なコンピューター技術が必要です。しかも、暗号コードは定期的に変更され、二重、三重の防護措置が施されている、まさに警視庁の威信をかけた難攻不落のシステムを、当時、全て解読した一人の男がいたんです」
 そこで、高見は言葉を切った。何かを振り切るようなわずかな間だった。
「以来、公安警察は、面子をかけ、血眼になってその男を探しています。名前も経歴も一切不詳のその男は、仲間内ではこう呼ばれていました――白ウサギ」
「えっ」
 と、大森が背後で絶句する。
「て、てか。ちゅ、中革派って、あれですか、その、革命とかそういう過激なことをする」
 少し黙ってから、高見は額を指で掻いた。
「ちなみに私も、当時は同じグループに所属していました。白ウサギは彼の識別コード、私の識別コードは、オオカミです」
 多分。
 高見は続けた。
「この世界で、白ウサギを探し出せるのはオオカミだけです。白馬の騎士は、最初からそれを知っていたんでしょう」



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「……は?」
 名乗った男の役職を聞き、唐沢は思わず声をあげていた。聞き間違いだろうか。確かに今。
『もう一度、申し上げますがね、唐沢さん』
 柔らかく慇懃な、なのに、背筋が粟立つような嫌な口調だった。生理的に受け付けない喋り方があるとしたら、今の電話の相手を指すのかもしれない。
『観客の安全の観点から、あなたにコンサートの中止を要請します。むろんこれはまだ、私一人の判断にすぎませんがね』
「カドタさんと、おっしゃいましたか」
 唐沢は電話を持ち上げた。ゆっくり真偽を正す時間はなかった。今から、ライプライフに赴くことになっている。コンサートの中継スタッフとの打ち合わせ。主催者が遅刻することは許されない。
「ご忠告ありがとうございます。しかし、コンサートの中止はできません。水上橋警察さんからも、十分注意するよう言われておりますので、当日は我々も、万全な対策で臨むつもりです」
『この世界に、万全などというものはありませんよ』
 人をバカにすることに馴れきった口調だった。
 唐沢は無言で、眉だけをあげる。しかし、警察関係者相手に反論することが、愚か以外のなにものでもないことも、同時によく知っている。
「大変申し訳ありませんが、今の時点で、我々が言えるのはそれだけです。警察の方にもご迷惑をかけると思いますが、どうかよろしくお願いします」
『私は、確かに警告しました』
 やんわりとけん制するように、男は言った。
『どうか、それをお忘れなく』
 電話が切れる。
 なんなんだ、一体。
 唐沢は手元のメモを見る。自身の字で書かれたなぐり書き。相手の名前をメモしたものだ。
 カドタ警視正。
 階級は随分上だ。本庁の課長級か、副署長クラス、しかし問題はその役職だった。
 聞き間違いだろうか。
 唐沢は、影のような不安を感じながら、自身の書いたメモを見る。
 警視庁公安部、参事官。
 公安部。
 公安が――どうしてわざわざ、うちに電話をかけてくる。



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「なに、君もしかして、ストームのファン?」
 ふいに声をかけられ、凪は少し驚いて振り返る。
 目の前に立っていたのは、全く面識のない少年だった。金色の髪を目もとまで垂らし、きりっと伸びた眉に、黒眼がちの潤みを帯びた瞳。
「だったらよせよせ。あの人たちって全員二十歳超えてんの。オヤジだぜ?」
 声は明るくて、可愛げがある。重ねたシャツにジーンズ姿、まだ高校生かな、という感じがした。
 なんだ、こいつ。
 凪は思わず後ずさっていた。
 渋谷のスタジオ。
 片野坂イタジに呼ばれて打ち合わせに来たものの、肝心のイタジがまだスタジオに来ていない。とりあえずすることもないので、時間を潰していたところだった。
 とりたてて意識する必要はないと判っていても、ここに雅之がいると思うと、微妙に落ち着かない凪である。が、いまや「J&M支援ネット」の代表の一人としてコンサートスタッフとの連携が欠かせない立場では、そう言ってもいられない。
 だったらいっそ、「わーっ、久しぶり」と、出会いがしらを狙って適当に声をかけてみようと、リハーサルルームの前を、うろうろしていた所だった。
 この、妙に自信にあふれた少年に声をかけられたのは。
 言っては悪いが、初対面の碧人と同じ匂いがする。「オレって、超いけてるだろ」オーラを全身から発散させているような男。
「あ?俺?俺、ソウマシュン、瞬間の瞬で、シュンって読むから」
 いや、名前なんて聞いてないし。
 凪は無視して歩き出そうとした。
「ねーねー、君の名前なんてーの?俺が名乗ったんだからさ、もう教えても大丈夫だよ」
 どういう理屈?
「なんだよ、俺が声かけてんのがわかんないのかよ!耳でもいかれてんのか!このブス!」
 しかも、逆切れのオレ様ですか……。
 凪は嘆息して足を止めた。やれやれ、なんだって極秘でリハが行われているはずのスタジオに、こんなへんなのがまじってるんだか。
 しかし、振り向いた視界に、傲慢少年の姿はなかった。あれ、と思って視線を巡らせると、少年は両手をあげて、蜘蛛みたいに壁に張り付いている。その前に、バットを振り上げて立ちふさがっているのは。
「き、綺堂さん?」
 思わず声をあげた凪だったが、綺堂憂也は振り向かない。
「……おそれおおくも俺たちの凪ちゃんに、とんでもねー暴言はいてくれちゃって」
「ちょっ、まっ、暴力反対!」
 青ざめてソウマ瞬。
「てめー、いっぺん生まれ変わって出直してこい!」
「綺堂さん!」
 憂也が、バットをふりあげる。
 一瞬青ざめた凪だったが、それは、ポカン、と気の抜けた音をたてて、最低男の頭を軽く揺らしただけだった。
 あれ?と本当に気の抜けた凪の前で、ポカンポカンと、立て続けに音が響く。
「えっ、な、なんすか、綺堂さんの彼女ですか、これ」
「女性に向かって、これはねぇだろ!」
 再び、ポカン。
 唖然としている凪を振り返り、ようやく手をとめると、憂也は初めて面白そうな眼になって笑った。
「心配しなくても、MCで使う玩具だから。でもこれ、軍曹さんが持つと、みょーにリアルで恐ろしいんだよね」
「……?」
「てゆっかなんだよ、マジ久しぶりじゃん、元気だった?おーい雅、凪ちゃん来てっぞー!」
「あっ」という間もない。「違うんです、綺堂さん」と言っている間に、その背後の扉が開く。どやどやと顔を出したのは、東條聡、柏葉将、片瀬りょう、それから。
 うわっ、なんだろ、この目がまともにあわせられない感じは。
「うわぁ、本当に凪ちゃんだ」
 何故かのけぞって聡。
「どうしたんだよ、いきなり」
「つか心の準備ゼロじゃん、俺」
 片瀬さん、私に会うのに心の準備って……
 それでも凪はほっとしている。ミカリから聞いて知ってはいた。それでも、あの事件があってから現実に笑っている五人を見たのは初めてだ。昔と何ひとつ変わらない、まるで兄弟のような、恋人のような、長年連れ添った家族のような、一緒にいるのが自然な5人。
 多分ダンスレッスンの最中だったのだろう、タオルを手にする全員の顔が、汗で濡れて光っている。どの顔にも疲労と、輝きと、充実があった。彼らが今、とても濃密で幸福な時を過ごしていると、凪にもすぐわかるほど。
「つか、やっぱりこいつか、相馬瞬」
 まだ床にへたりこんでいる傲慢男、その襟首をつかみあげて引き起こしたのは雅之だった。相馬瞬と名乗った男は、むくれているのか返事さえしない。
「ほんっとバカでさ。世界中の女の子が自分のこと好きだって思いこんでんだ。凪ちゃん、何もされなかった?」
 心配そうに聡が囁く。
 てゆっか。
 凪もまた、首をかしげて囁き返していた。
「あの……そもそも、なんなんですか、彼」
「あれ、知らないんだ。うちに新人入ったの」
 え?
 新人?
「んじゃ、丁度いいから紹介しとくよ。これからも流川には、色々世話になっからさ」
 そう言ったのは雅之だった。凪と目があっても動じない、こだわりのない笑顔。そのまま歩み寄ってきた雅之に背をおされ、凪の緊張も解けている。
 扉の向こうは広い広い稽古場。壁には鏡が一面に貼られ、その前に、凪にも面識がある植村尚樹が立っている。他に数人、凪が知らない顔が一斉にこちらを振り返る。
「美波さん、いないせいだろうなぁ」
 背後で、憂也が楽しそうに呟いた。
「マジで問題児ばっかなんだ。ホント、将来が不安になるよ、俺」



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「そっか、じゃあもう大学って休みなんだ」
 うん、と凪は頷いた。
「来年からは少し真面目に勉強しなきゃ、マジで単位が危なくなりそう」
「すげー、なんかいいね、その単位って言葉」
「……そう?」
「大学生って感じがする」
 暖かい冬晴れの午後。
 スタジオの裏、凪と雅之は、戸外のベンチに少し離れて座っている。
「食う?」
 と、ふいに思いだされたようにサンドイッチを突き付けられたので、「いい」凪は笑って手を振った。
 このわずかな休憩時間が終われば、雅之は再び、過酷なレッスンへ戻っていくのだろう。それが、少し残念に思えるほど、今、二人は、昔と同じ時間を穏やかな気持ちで共有している。
「MCでバットって何するの?」
 ふと、玩具のパットを持っていた綺堂憂也のことを思い出し、凪は訊いた。
 MCとは、コンサートの合間にあるマイクコーナーのことで、休憩とファンとの交流を兼ねたものである。概ね30分、トークと企画で持たせなくてはならない大切な時間だ。
「さぁ?ぶっちゃけ、色々案出してるけど、まだきまんねーんだ。俺は、将君とりょうの結婚式でもやったらどうかって言ったんだけど」
 それには、凪は吹きだしていた。
「いや、ファンのリクが多いんだ、マジで。でも当の2人が猛反対でさ」
「当たり前でしょ」
「俺と憂也じゃ新鮮味に欠けるし。かといって聡君と将君じゃ認知度が薄いし……」
 真剣な目でくだらないことを言っている雅之に、昔のような愛しさがこみあげてくる。凪は微笑して目をそらし、空を見上げる。
 そのまましばらく、穏やかな沈黙があった。
「すげー面子が揃ってるだろ」
「新人君?」
 凪が言うと、雅之は唇をへの字に曲げて頷いた。
「唐沢さんと矢吹さんのセンス疑うよ、一体どういう選考基準で選んだものやら」
「そう?おもしろかったけどな、私」
「面白けりゃいいってもんでもないだろ。瞬なんて、とりあえずJ&Mで顔売って、潰れたら他に移りますって、いけしゃあしゃあと言ってんだぜ」
 最初に自己紹介されたのは、最悪の出会いをした相馬瞬、十六歳。高校を中退したストリートダンサー。本人曰く、ダンスの腕はプロ並らしい。
「それから、ひとっことも口きかなかった暗い男がいたろ」
「うん、一番いい男だったね」
「…………」
 それには雅之がむっとした風だったが、凪の感覚として、正直な感想を言ったまでである。
 二人目として紹介されたのは月島蓮、定時制高校に通う十七歳。
 暗い面差しが印象的な、端正な顔だちをした少年だった。野生の翳りを帯びた瞳が、どことなく緋川拓海を連想させる。見上げるほど高い身長といい、バランスのとれた体格といい、デビューしたら即ファンがつきそうな気がしたが、雅之の言うとおり、男は挨拶はおろか、笑顔さえ見せず、凪の傍を通り過ぎて行った。
 アイドルとしては、少し、難ありかもしれない。
「あとさ、プチ聡君。お姉ちゃんに勝手に履歴書送られたって、泣きごというなら、とっととやめればいいんだよ」
 プチ聡、と言われたのは、三人目に紹介された仲間陸、十七歳の現役高校生だ。
 あがり症なのか、赤面症なのか、凪の顔さえまともに見られない少年は、「僕……なんだって、こんなところにいるのか」と終始不安そうだった。
「でも、最悪なのはあいつだよ、一番背の低い東大野郎。アイドルを舐めてるとしかいいようがない」
 四人目。
 鳥羽希。
 聞いてびっくり、現役東大生である。凪と同い年の十九歳。多分、アイドル候補生としては、相当年がいっている部類だ。が、年齢を感じさせないファニーフェイスと可愛らしい身長は、ちょっとした小悪魔系の女子に見えなくもない。
「あんな可愛らしい面していきなりの高学歴自慢でさ。しょっぱなから将君に喧嘩売ってんだ。早大ですかー、僕も滑り止めで受けましたよ。ふざけんなあの野郎」
 凪は思わず笑っている。
「最後の一人はまともだったね」
「ああ、南?名前がいいよな、美波さんと同じだし」
 最後の一人。
 沖田南、現役高校生、新人の中では最年少の十五歳だ。
 色白の美少年で、睫毛の長い潤んだ目元は貴沢ヒデ、どこかセクシーな身のこなしは、片瀬りょうを連想させる。
「南はなんも問題なし。言うことなしの優等生だけどさ、なんつーのかな、りょうもそうなんだけど、ああいうのに限って、実はすごい爆弾だったりするんだよな」
 難しい目をして唇をつきだしている雅之。それでも、その横顔は、何日ぶりかに見る雅之らしいものだった。
「でも、よかった」
 空を見上げながら、凪は言った。
「コンサートが終わったら、もしかすると事務所もストームも終わっちゃうんじゃないかって思ってたんだ。でも、続けていくつもりなんだね」
「…………」
 返事がない。
 凪は雅之の横顔を見上げたが、その顔は、どこか困惑したような、曖昧な微笑を浮かべていた。
「ありがとな、流川」
 少しうつむいて、雅之は言った。
「唐沢さんから聞いてるよ。ネットで動いてくれてんだろ。将君とも話してたけど、一度ちゃんとお礼言いたいと思ってたんだ」
「何もしてないよ、私なんて」
 凪は、慌てて両手を振る。
「運営は他の人に任せてるし、あれだけ規模が大きくなったら、学生の身じゃとてもとても」
「……J&Mネット、俺も暇な時のぞいてんだ。時々掲示板が荒れてるけど、ただ削除するんじゃなくて、管理者が間に入って、双方納得するまで話あうって姿勢、すげーと思う」
「…………」
「ネットのコミュニケーションも捨てたもんじゃないなって、生まれて初めて思ったよ。読んでて、絶対にあきらめないってお前の姿勢が伝わってくるみたいでさ……。すぐ、わかったよ」
 うん……。
 今度曖昧に笑ったのは、凪の方だった。
……でもやっぱり、私は何もしてないよ、成瀬。
 あれはただのきっかけ。眠っていたファンを本当の意味で呼び覚ましたのは、私じゃない、片瀬りょうであり、柏葉将であり、ストームだと思うから。
「すげーな」
 ふと、雅之が笑顔になった。
「いや、俺のこと。すげー普通に会話できてるからさ。なんか、それが嬉しくて」
「……うん」
「実は最初、がっちがちに緊張してた」
 私も。
 くすっと笑いながら、凪は思う。
 もしかして、期待してもいいのかな。
 もう一度、昔みたいな友だちに戻れるって、そう思ってていいのかな。
「美波さんの方は、どうなったわけ?」
 友達なら。
 少し迷ってから、凪は頷いた。
 友達なら、それも、正直に話してもいいのかもしれない。
「知ってると思うけど……彼の、昔の恋人のお父さんに、会いにいったの」
「うん」
 凪にとっては辛い、そして言いにくい話を、言葉を時折途切れさせながら、それでもなんとか説明した。
 理解しているのか、できていないのか、雅之は相槌ひとつ打たずに神妙な顔で聞いている。
「今はね、碧人さんと二人で、愛季さんが昔の出演したCMや雑誌……そんなものを探しては、お父さんとお母さんに送ってあげてるんだ」
「マジで?」
「最初は突き返された。当たり前だよね。でも……今は、ちゃんと見てくれてるみたいんなんだ」
 そんなことで、彼らが長年閉じ込められて苦しんできた心の檻から、解放されるとは思えないけど。
「娘さんの活躍してるとこ、何も知らないなんて悲しすぎるじゃない。それでも、伝わらないかもしれないけど、もう、それでいいかなって思ってる」
「あきらめるってこと?」
 凪は、少し考えてから、首を横に振った。
「もともとね、私みたいな子供が口を出すようなことじゃなかったの。背のびしたって何もできないし、人の気持ちは動かせない……」
「…………」
「最初からね、私は、私にできることだけをすればよかったんだって思ったの。自分にできることをやるだけやったら、あとのことは、なんていうのか」
 首をかしげ、言葉を探してから、凪は言った。
「もう、神様の領域だから」
「…………」
 雅之の横顔は動かない。
 自分の言った言葉に照れて、凪は少しおどけて肩をすくめた。
「神頼みとは違うんだけど、そういう謙虚さも必要なのかなって、思っちゃったかな」
「……うん、わかるよ、なんとなく」
 風が、涼やかに2人の額を撫でていく。少し冷えたな、と凪は雅之のむきだしになった腕を見る。そろそろ、戻らなければならない時間だ。
「あのさ、俺の話も……少し、いい?」
「……いいけど」
 わずかに陽が陰りを帯びた。
「絶対に許せないって思ってる女がいてさ。そいつは二回も、俺らを無責任に持ち上げといて、いきなり裏切って姿をくらますような女でさ」
「…………」
 真咲さんのことだ。
 二度消えたというのは、真咲しずくのことしかありえない。それ以前に、女性には滅法甘い雅之がそんな言い方をする相手は、あの人しかいない。
「俺が、昔……その……、つきあってた人のこと、覚えてる?」
 それには返事をせずに、凪はただ頷いた。
 梁瀬恭子さんのことだろう。
「彼女からこないだ、電話があったんだ。心配かけたけど、子供さんの心臓移植も成功して、もう大丈夫だからって」
「そうなんだ」
 ふいに現れた過去の亡霊。
 嬉しいのか、動揺しているのか。そんな自分に嫌悪を感じながら、それでも凪は自然に笑顔になっていた。
 梁瀬恭子の娘のことは、他人事ながらずっと気にはかかっていた。結局は上手くいかなかったが、病院関係者のつてを通じ居所を探そうとしたこともある。
「よかった、手術って海外で受けたんでしょ?じゃあ募金が集まったんだ」
 雅之は暗い目で首を横に振った。
「覚えてるだろ、あの時の大騒ぎ」
「…………」
「募金活動なんて、もうできるような状況じゃなかったんだ。それを、……それをさ、転院先から、向こうの生活まで、一切の面倒をみてくれた人がいてさ」
 わかった。
 雅之が、何に葛藤を感じているか。
 その人が、真咲しずくだったのだろう。
「絶対に言うなって言われたって、会社から出る慰謝料みたいなもんだから、気にしなくていいって。でも、どうしてもお礼が言いたいから居場所を教えてくれって恭子さん言うんだ。知らないって言ったよ、俺。実際本当に知らないし」
「……それで?」
 雅之は黙っている。
 やがて、その唇がゆっくりと動いた。
「恭子さん、帰国してから、自分でも真咲さんの居場所、随分探したみたいなんだ。……その過程で、判ったみたいなんだけど、……真咲さんってさ、どっか悪くしてんのかな」
「……どっかって?」
「いや、はっきり言われたわけじゃないんだけど」
 それきり、雅之は再び、口を閉ざす。
 凪は思いだしていた。
 今年の夏にいった温泉旅館、真咲しずくと相部屋になった夜のことを。
「柏葉さんに、言うべきか、どうかってこと?」
 凪が問うと、雅之は、黙って頷いた。
「……将君、最近、ちょっとおかしくてさ。いや、将君はいつもどっかおかしいんだけど」
「…………」
「明るくしてっけど、内心ものすごく悩んでんの、よく判る。夜も時々一人で起きて、ベランダに出てるみたいだしさ。正直言えば、それは俺らも同じでさ。俺らはよくても、このまま俺らの巻き添えになって、何もかも失う人に、これから何を返してあげられるだろうって思ったらさ」
「………………」
 雅之はそのままうなだれ、膝の上に頭を落とした。
「真咲さんのこと、言ってあげなきゃいけないことは判ってる。でも、今、これ以上将君を、苦しめたり悩ませたりするのは……」
 そのまま、動かない頭に、凪はそっと、手を置いた。
「自分の思うように、してみたらいいと思うよ」
「…………」
「ごめん、こんな言い方しかできなくて。でも私、絶対になんとかなるような気がしてるから、成瀬たちのことは」
「…………」
「柏葉さんのことも、成瀬のやれることだけをやって、後は神様に任せてみようよ」
「…………」
「大丈夫だよ」
 大丈夫――絶対に。
 絶対に大丈夫だから。







 

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