63
背後で勢いよく扉が開く。
真田が眉をあげ、将は、ペンを持つ手を止めて振り返っていた。
「申し訳ありませんが」
声の主は、明らかに怒りを押さえた声で、足音を荒げて将の傍をすり抜け、自らのボスである――しかも、絶対的なボスである、真田孔明の傍らに立った。
貴公子然とした後姿。色を抜いた明るい髪色。
「正式に話を決める前に、僕に説明くらいあってもいいんじゃないですか」
ヒデ。
将は心の中で呟いていた。
事務所移籍を決めてからは、ついに会うことが叶わなかった。
ストームとの勝負に負け、事務所を去り、東邦EMGプロに移籍を果たしたヒデ、こと貴沢秀俊である。
相変わらず少女漫画の主人公みたいな綺麗な横顔は、けれど怒りのせいか、薄赤く染まっていた。
「何の話だね」
真田は、明らかに不快そうだった。稼ぎ頭とはいえ一介のタレントごときが自身の領域に踏み込んできたことに、むしろ淡い怒りさえ滲ませている。
「僕が、」
貴沢は、しかし、一向にひるむことなく口調を荒げた。
レザーのジャケットにジーンズ姿。仕事中だったのか、オフだったのか、いずれにせよ、将にもいきなりヒデが乱入してきた意図が判らない。
「僕がストームに、どれだけ不愉快な思いをさせられてきたか、真田会長もご存じだと思ってましたよ。なんのためにJ&Mを出たのか、それは全部、このふざけた連中と一緒にされたくなかったからじゃないですか!」
激しい怒りの吐露に、将も驚いたが、真田もさすがに戸惑っているようだった。
まだ――話してなかったのか。
将は、複雑な思いで貴沢秀俊の背中を見る。
確かに、そうだろう。ストームの中でも反発があるだろうが、ヒデの衝撃はそれ以上だ。すでにヒデはアイドルというカテゴリーを抜け、俳優として、マルチなタレントとして、確固たる地位を築きつつある。
「マネージャーを通じて、説明はあったと思うがね」
「聞いてないですね。いや、今日聞きました。ただ、それで納得できると思いますか」
「……ふむ」
「ストームに入るのだけは、絶対にお断りです」
強い口調で言い切る。そして、電話に手を伸ばした真田を遮るように、ヒデは一歩前に出た。
「どうしてもとおっしゃるなら、僕は、紅白の司会を辞退させてもらいます」
それでもどこか他人ごとのようだった真田の眉が、初めて強く寄せられた。
蛇のような眼でねめつけられても、ヒデの背中は微動だにしない。
「何様だと思っている」
威圧するような声を放ち、真田は椅子を軋ませて立ち上がった。
「そんなわがままが、この世界で通用すると思うのか」
ゆるがないヒデの背中が、その言葉でわずかに揺れた。
「勘違いするな。お前程度のタレントなら掃いて捨てるほどいるということを忘れるな」
これが真田という男の本性の一角なのか、寒気がするほど酷薄な目で言い放ち、指を扉に向かって指し示す――出ていけ。
「だったら、」
しかし、貴沢はそれでも動かなかった。
初めて、将を振り返る。
「せめて柏葉の口から、釈明なり謝罪なり、今ここでさせてください」
無念さが滲んだ声だった。握った拳が震えている。
将は目を逸らしていた。迂闊にも、ヒデの立場や気持ちなど、考えもしなかったことに、今更ながら気づいている。
「俺だって芸能人生がかかってるんだ……それくらい、……してもらってもいいと思います」
真田が、無言で将を見る。
将は頷いて立ち上がった。
「2人にしてもらえますか」
そして、憎しみさえ感じられる、ヒデの眼差しの前に歩み寄った。
64
「くそ……っ、あの大バカ野郎」
「もう、そんなこと言ってる場合じゃねぇんだよ」
追い越された憂也に頭を叩かれる。
雅之は拳を握りしめた。
将君の馬鹿野郎、どうして、どうしてそんなバカな決断をした。
信じていたのに、信じられていると思ったのに、それは全部、俺の一人合点だったのか。
「信号、変わるぞ」
背後から聡の怒鳴り声。
渋滞に巻き込まれたタクシーから飛び降りて、全速力で走ること五分。どれだけ早く走っても、焦燥で足が止まっているように感じられる。
時間がない。
将がホテルを出た時刻を推定して、それからゆうに一時間以上はたっている。
「本当に今日、契約すんのか!」
「みたいだね!」
雅之は唇を噛んだ。
これで、間に合わなければ。
サインをしてしまえば、もう本当におしまいだ。
「将君、まだうちの事務所と契約してなかったのか」
走りながら、聡が言った。
いつも温厚な聡の、いまにも爆発しそうなほど険しい顔が、今の尋常でない怒りと苛立ちを物語っている。
「ホームページには正式に名前出してんだ。なんだって……契約してなかったんだよ!」
拳を握りしめている。
慙愧の中で、雅之もきつく、両拳を握った。
もしかして。
もしかして、将君は、最初から――こうなることを予想していたのかもしれない。
最初から。
もしもの時は、いつでもストームを抜けるつもりで。
「将君……」
「泣くな、バカ!」
再び憂也に頭を叩かれる。
その憂也も、何があったのか、左頬に青あざを作っている。時々アスファルトに血混じりの唾を吐いているから、口の中も切れているのだろう。
いきなり帰ってきた憂也から、それこそいきなりかかってきた電話。
まるで悪夢でも見ているような気持ちで、雅之は楽屋から飛び出した。
将君が。
東邦EMGプロに、移籍する。
ストームを脱退する。
将君。
将君、将君。
頼むから、待っててくれ。
頼むから、俺たちが行くまでサインなんかしないでくれ。
頼むから、神様。
地震でも火事でもなんでいい、将君を止めてくれ。
雅之は、滲みそうな涙を噛み殺し、憂也の後を追ってガードレールを飛び越える。信号のはるか手前、国道を突っ走って横断する。
クラクションが盛大になる。最後の聡がようやく追いつく。
「……ここだ」
凍えるような冬空の下。額から、髪から、滴るほどの汗を流した憂也、聡、雅之の前には、巨大なビルがそびえたっていた。
「間にあうかな」
「…………」
怖い目で憂也が、その建物を睨む。
東邦EMG本社ビル。
ストームの前に立ちふさがる、最大にして最強の敵。
「いくぞ」
憂也が先に立って走り出す。
正面から入ることなどできるのだろうか。
しかし、そう思っても、それ以外に方法がないことは、雅之にも判っている。
ガラス張りのエントランス、その前には制服姿の警備員二人。今、日本中の注目を一身に浴びている企業が、そのセキュリティーに手を抜いていてるはずがない。
「どうすんだよ」
聡。
「とにかくなんとか入り込むしかないだろ」
憂也。
「いっぺんくらい、留置所に入ってみたかったしさ」
唇は笑んでいる、が、その目はまるで笑っていない。
というより、最初から最後まで、こんな無茶な憂也を見たのは初めてだ。
三人の前に、ふいにどこかで見た車種が滑りこんできた。大型のセダン、見憶えがあるはずだ――飛び降りてきたのは唐沢直人、片野坂イタジ、逢坂真吾。
それから。
「だから、車で行けといったんだ」
立ちすくむ三人を見下ろし、唐沢は当たり前のようにそう言った。
初めて憂也の目に、溢れるような笑みが浮かぶ。
「唐沢さんは、絶対来てくれると思ってたよ」
そして、歩き出した唐沢直人の後を追い、その背中を思いっきり叩いた。
65
「……お前には、本当に迷惑かけたと思ってる」
二人きりになった応接室。
壁に背を預けて視線を横にそらしたまま、貴沢秀俊は先ほどから一言も口を聞かない。
将は居ずまいを正し、頭を下げた。
「……すまなかったと、思ってる」
返事はない。
「ヒデ、俺は」
「そんなもんかよ」
続く言葉を遮るように、初めて、冷ややかな声がした。
将は、ゆっくりと顔をあげた。
貴沢は端正な顔に、憐れみにも似た冷笑を浮かべている。
「お前の誠意は、そんなもんかって言ってんだよ。単細胞の暴力アイドル」
「…………」
黙る将から目を逸らし、貴沢は両手を首の後ろに回した。
「あーあ、まいったよ。よりにもよって、この俺がストームかよ。マジ最悪。社会の敵みたいな最低のお前らに、なんだってこの俺がまじんなきゃいけねぇんだよ」
言い返そうとして、将はそのまま口をつぐむ。
何を言っても、今のヒデには通じないだろう。それに、言わなくてもすぐに判る。ストームが最高で、いつかこの男にとっても、最高の場所になると。
「俺がさ」
黙っている将を横眼で見て、貴沢は、ソファに腰を下ろした。
何故か目が笑っている。
「俺がストームに入るのが、そもそも絶対条件なんだろ?ストーム存続の」
そうかもしれない。
その辺りの契約は、唐沢に一任しているから、将には正確には判らない。
「俺がさ、絶対いやだっつったら、どうなんのかな」
将のために用意されたコーヒーを押しやり、面白そうな声で、貴沢は続けた。
「はっきり言えば、どう考えても嫌で嫌でしょうがねぇんだけど、俺。真田会長はおっかないけど、弁護士でもなんでも雇って、徹底抗戦してみようかな」
「……無駄だと思うけどな」
「そうかな」
何故か余裕の表情で、貴沢は、爪をぱちりと弾いた。
「さっきはあんな言い方されたけど、真田会長は、今、国営放送に恩を売りたくてしょうがないんだ。俺が本気で紅白降りるって言い出せば、マジで慌てるはずだよ、あの爺さん」
「何が言いたいんだよ」
「土下座しろよ」
切り返すような声だった。
「そこに土下座して、頭すりつけて頼んでみろよ。お願いします、ストームに入ってください、そう言って犬みたいにしっぽでも振ってみろよ」
「…………」
「そうすりゃ、頭くらい撫でてやるよ、ワン公」
「…………」
「はは、そういや野良犬でさえないか。お前は真田の爺さんのペットだもんな」
しばらく黙ってから、将は着ていた上着を脱いだ。
「やるのかよ」
貴沢の声があきれている。
「やってほしいんだろ」
足で椅子を払う。
片方の膝をついた。
「ば、」
逆にヒデが、唖然としたように立ちあがった。
「ばっかじゃねぇの?お前、そこまでプライドなくしたのかよ。そこまで飼い犬になり下がったのかよ」
そうじゃない。
「みっともねぇな。がっかりしたよ。よくそんな真似ができたもんだ。それもストームのためか。みんなのためか。バカみてぇな偽善だな。俺には死んでも理解できない」
……そうじゃないんだ。
「お前には……本当にストームに入ってほしいと思ってんだ、俺」
将は、静かな声で言った。
ヒデは無言で、眉を寄せる。
「俺の、命より大切なストームだ。正直言えば、新しいメンバーがお前じゃなかったら、俺は絶対にうんとは言わなかった。逆にお前だから、もう大丈夫だと思ったんだ」
俺がいなくても、もう。
考え方は違うし、衝突はするだろうけど、同じJ&Mのパッションを分けあってきた、最強のライバル貴沢秀俊なら、絶対に。
絶対に、これからのストームは大丈夫だと。
「バカな奴らだけど……よろしく頼む」
両手を冷たい床についた。
「この通りだ」
貴沢の足は動かない。
光沢を放つ床が自身の陰で暗く陰る。
「ストームを、頼む」
頭上からは、なんの反応も返ってはこない。
むろん、ヒデがこの程度で納得してくれるとは思えなかった。それでも、今の将にはこれだけしかできない。
ふいに、背後からノックがして、扉ごしのくぐもった声がした。
「もういいかね」
真田孔明。将は立ち上がろうとした。その襟首を、いきなり獰猛に掴まれる。
「……?」
驚いて顔を上げると、ヒデの怒った顔が目の前にあった。
「俺がなんで、こんなくだらない真似をやってると思ってんだよ、このクソ野郎」
「………え?」
「いちいちいちいち、むかっ腹の立つ奴らだよ、お前らは」
なんの話だ。
将を突き放して立ち上がり、ヒデは、はき捨てるような口調で言った。
「そこに将君が来たら、ひっ捕まえて、ボコにして、蹴りの二三発でも入れといてくれってさ」
「………………」
「憂也から。悪いけどこっから先は、俺には何の関係もないからな」
憂也から。
憂也から……?
貴沢は最後に、心底嫌なものでも見るような眼で将を見て、きびすを返した。
真田が出て行ったのとは、別の扉から退室する。
「ちょ、ヒデ」
廊下から、入り乱れた足音が聞こえのはその時だった。
将は跳ね起きる。
「将君!」
「将君!」
口ぐちに叫んでいるのはまさしくその憂也と、雅之。
「馬鹿野郎、聞こえてんなら、とっとと出てきやがれ!」
憂也の悪態に、将は固まっていた口をようやく動かした。
「じょ、」
冗談だろ、おい。
どういう悪夢だよ、これ。
さ、真田のおっさんが、今扉の向こうで待ってるはずなんだけど。
その扉が乱暴に開かれる。
真っ先に駆け込んできたのは聡だった。
「さ、」
立ちすくんだままの将が、口を開きかけた時、獰猛な衝撃が顔の半分で弾けた。
背中をソファにぶつけ、床に腰を打ちつけて、初めて将は、今自分が殴られたのだと理解した。
「契約書!」
雅之が叫んで、テーブルの上に置いたままになっていたそれを、掴み取る。
「まだ柏の、しかも木しか書いてねーよ。すげーっ、間に合ったんだ、俺たち」
「馬鹿野郎」
聡の声。動けない将は、襟首を掴まれ、持ちあげられた。
「ふざけんな!いいかげんにしろ、この野郎!」
聡だ。
本当に――聡だろうか。
「何一人でいいかっこしようとしてんだ。それで俺たちが喜ぶとでも思ったのか。それで俺たちを助けたつもりだったのか。だったら勘違いもいいとこだ」
―――聡……
「一生後悔するぞ、一生だ。俺も雅も、憂也もりょうも、一生後悔して、一生悔やみながらステージに上がり続けるんだ。誰がそんなステージなんか見たいかよ。誰がそんなストームなんか見に来るんだよ!」
泣くなよ、聡。
「何がスーパーキング将だ、お前は最低の弱虫野郎だ、ストーム一の大バカ野郎だ」
泣くな。
「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな馬鹿野郎!」
頼むから、泣くな。
聡の嗚咽を聞きながら、将はわずかに唇を震わせて、目を閉じた。
涙が初めて頬に落ちた。
それは、もう理性では抑えられず、幾筋も頬を流れた。
「……ごめん」
本当はそんなに、強くねぇよ、俺。
無理なんだ、もう。
最初から判ってた。こうすることが、一番いいんだ。
「……俺はさ」
こみあげる嗚咽をこらえながら、将は言った。
「ストームを、元の場所に戻したくて、帰ってきたんだ……」
両手で目を覆う。それでも、堰を切った感情は止まらなかった。
「そうだよ、だから俺たち今まで一緒にやってきたんじゃないか、これからも一緒にやっていくんじゃないか!」
雅之。
将は、目を覆ったまま首を横に振った。
「……俺のせいなんだよ、何もかも」
ストームが解散するまで追い込まれたのも、J&Mが消えてしまったのも。
「俺がバカな真似をした。俺がみんなの夢を台なしにした。……だから俺の仕事は、みんなをストームに戻すことだと思った」
新しく零れた涙を、将は掌で払った。
「最初から、そこに俺が混じってるなんて、思ってなかったし、それだけはやっちゃいけないことだと思ってた。俺がお前らの未来を全部ダメにする。そんなことは、絶対にできないし、絶対にやっちゃいけないと思ってた」
なのに。
まるで夢みたいに幸せで楽しかった。最高にハイテンションで濃密な日々。
「……ありえねー夢、いっぱい見てるうちに、俺もここにいていいのかなって思うようになってきた。最初は覚悟決めてたのにさ、……だんだん怖くてしょうがなくなってきた。この時間がいつか終わって、俺がお前らの前から消えるのが、怖くて寂しくて……、どうしようもなくなってきた」
「だったらいろよ、いたらいいんだよ!」
聡の声は、嗚咽で掠れ、揺れている。
いたい。
いつまでも、みんなといたい。
でも。
「頼むから、信じてくれ」
聡。
「俺のこと信じてくれ、雅のこと信じてくれ、憂也のこと信じてくれ、将君が思ってるよりな、俺たちはずっとずっとずっと強いんだ、強くなったんだよ」
聡――。
「俺たちは将君に助けられるだけの仲間か、支えられるだけの存在か、そうじゃない、そうじゃないだろ。俺たちだって、助けられるし支えられるんだ」
「…………」
聡。
「その覚悟があるから、成田まで迎えに行ったんじゃないか」
もう涙で、声が上手く出ていない。
「俺たちが幸せにするって決めたんだ、将君」
聡。
「わかれよ、将君、わかってくれ」
肩を激しく揺さぶられる。
「ストームに戻るって、そういう意味じゃないか!」
将は、がっとその肩を抱いて、抱きしめていた。
「わかった……」
そう呟くと、聡が、声を殺して泣き始める。
聡の肩を抱いたまま、将は流れる涙を手のひらで拭った。何度も拭った。
もう駄目だ、俺。
どんなに重荷になると判っていても。
もう、一生、二度とこの手を、離せない。
「帰ろうぜ、将君」
憂也の、優しい声がした。
「俺がぶんなぐりたかったけど、聡君に先越されちまったな。てゆっか、いいのかよ、そのラプシーン。さっきからりょうが見てんのに」
―――りょう……。
「……えっ」
りょう?
さすがにがばっと顔を上げる。
膝をついている憂也の肩越しに、見なれた姿が立っていた。
「……いや、いいんだもう、俺なんて……」
横を向いて寂しげに笑うりょう。それが、一転して優しい笑みに変わる。
「てか、びっくりした。つきあい長いけど初めて見たよ、将君が泣いたの」
りょう。
将の上着を椅子から取り上げ、りょうはそれを、肩にかけてくれた。
「ただいまって言おうと思ってたけど、お帰りも言わなきゃいけないんだ、俺」
おどけた声で言うその目が赤い。憂也の目も潤み、雅之は両手でしきりに目をこすっている。
りょう……。
それでもまだ、目の前の光景が信じられず、将は何度も瞬きをする。
りょうが、
りょうが、帰ってきた。
しかも、ひどく落ち着いた笑顔を浮かべて。
「りょうが、俺に電話してくれたんだ」
涙を拭いながら、聡が口を挟んだ。
「将君からメールが来たのに、すぐ電話いれたら電源切れてるからおかしいって。別におかしくはないだろって思ったけど」
「将君の癖だからさ」
将の腕を引いて立たせながら、りょうが言った。
「昔からそう。一人で暴走してる時は、絶対電話に出てくれないじゃん。そのくせ、やたら人のこと心配してくるし。あ、このパターン、なんかやべーな、と思ったよ。俺が何も言わずに出てったから、そのせいかなって」
「よっ、さすが恋女房」
「うるせーよ」
そんな癖が、俺に。
将は半ば、唖然としている。しかもそれを、りょうに見抜かれていたなんて。
静かな咳ばらいがした。
真田孔明。扉の前に立っている男は、爬虫類にも似た冷ややかな目で見下ろしている。
全員が動きを止め、将は緊張して顔を上げた。
「……どうするつもりかね、将」
口調にはあきれたような、静かなさげすみが含まれていた。
「決めるのは君だよ。そしてそれが、最終的な結論になる」
最終的な結論。
その意味を察し、将は顔をこわばらせる。右から聡、左からりょうが、腕を強く掴んでくれた。真田はますます冷やかな目になる。
そして、ゆっくりとテーブルの前まで歩み寄ると、卓上に置かれたままになっている無記名の契約書を指で叩いた。
「これは決して脅しではないが、忠告として言っておこう。民放、国営共に、もうストームは決してテレビでは起用されない。君らは今後一切、国内メディアを使っての芸能活動ができなくなるだろう」
将が何か言う前に、ざっと全員が立ち上がった。
憂也。
雅之。
りょう。
聡。
誰も、何も、喋ろうとしない。
そのまま、しばらく、立ち向かうにはあまりにも巨大な敵と対峙する。
「これが、結論ですよ、真田会長」
落ち着きはらった声がした。
それが、唐沢直人のものだと判り、将はますます言葉を失った。
憮然とした真田の背後から出てきたのは、唐沢直人、片野坂イタジ、逢坂真吾。
唐沢は前に出ると、真田の前で、深々と頭を下げた。
「うちのタレントを連れて帰らせてもらいます。今日はご迷惑をおかけしました」
「判っているのかね、その意味が」
顔をあげた唐沢は、笑顔で再度、目礼する。
「年末のドームには、ぜひ会長もおいでください」
66
「これで、本当に終わりですね」
ハンドルを切りながら、片野坂イタジが呟いた。
窓から見える空は、臙脂と群青に染まっている。
「地獄の釜の中に、自分からダイブしちゃったってとこですか」
助手席の逢坂が、そう言って肩をすくめる。
それでも、夕陽に染まる二人の横顔には、満足の色が浮かんでいた。
「ま、今更、後にはひけないだろう」
後部シートにもたれたまま、唐沢はゆっくりと流れる国道沿いの景色を見る。
五人の若者たちが、飛んだり跳ねたり、ふざけあいながら、もつれあって駆けて行く姿を見る。
「あいつら、本気で走って帰るつもりなのか」
同じ光景を目にしたのか、片野坂イタジが眉をあげる。
「いいんじゃないっすか。今はそんな気分なんでしょ」
信号が青になり、三人を乗せた車用社が、五人の傍らを通り過ぎる。イタジが軽くクラクションを鳴らし、それに気付いた五人が、一斉に手を振るのが見えた。
「まるで子供だな」
「おーいっ、今夜はちゃんと部屋に帰れよ!」
ウインドウを下げて、逢坂が叫ぶ。
手を振る五人が、みるみる夕暮れの街に溶け込んでいく。
しばらくの間、社内に幸福な沈黙が満ちる。
なんだろう、ハンドルを切りながら、片野坂イタジは考えている。こんな情景を俺はどこかで見たことがある。どこだろう、子供の頃、公園で日が暮れて互いの顔が見えなくなるまで、夢中で友達と遊んだ記憶。胸が切なくなるほど遠い、甘いノスタルジー。
そして思う。こいつらの時は、多分ここから先、きっとどこへも進まないだろう。彼らもいつか年を取り、自分たちと同じ年齢になる。それでも、時はこの時代で止まったまま、きっと永遠に光を放っているに違いない。
―――奇蹟か……。
それはもう、現実に目の前で起きているのかもしれない。
「ドーム、絶対にやりましょう」
逢坂が言った。
外に向けられている眼差しは潤み、薄く滲むものがある。
「やりましょう、何があっても、これで会社が最後になっても、ドームだけは絶対にやり遂げましょう!」
「真田の爺さんには特等席をご用意しよう」
唐沢の目が笑っている。
「前原さんに電話しますよ」
イタジは言った。ここからだ、ここからが本当の戦いだ、そうですよね、真咲さん。
「とりあえず、ゲネプロ先をなにがなんでも探します。絶対にやりますよ、東京ドーム」
67
「気持ちは判るけどさ」
最初に足をとめたのは、案の定というか、一番体力のない憂也だった。
「なんだって、こっからマンションまで走って帰んなきゃいけねーんだよ」
憂也の不平に、将は怖い目で振り返った。
「トレーニングだよ、体力づくり。お前らずっとさぼってたろ」
「忙しかったんだよ、将君と違って……」
唇を尖らせて雅之。
しかし結局は五人一緒に、抜かし、抜かれつしながら、国道沿い、踊るように、跳ねるように駆けている。
「そのスーツ、もう駄目だね」
「いいよ、二度と着ないからさ」
言葉には出せない、全身を満たしてもなお足りない幸福をもてあましながら。
前を行くりょうの、聡の、雅之の、憂也の背中を見ながら将は思う。
待っているのは、人からみれば最悪の未来かもしれない。
それでも、俺たちにとっては、最高の未来。
誰が決めるのでもない。それは、俺たち自身にしか判らないことだから。
どうしてそれを、そんな当たり前で単純なことを、今まで忘れていたんだろう。
「てか、憂也、ずっと気になってたけど、その怪我なに?」
憂也の前に回り込んだ雅之が言った。
将も、それは気になっていた。やっかいごとからは上手く逃げる憂也らしからぬ、いかにも喧嘩をした名残のような痣が、綺麗な顔に滲んでいる。
「まぁ、ちょっと……なんつーの、あんまりわけのわかんねーこと言いだすから」
「水嶋さん?」
聡の問いには答えず、憂也は軽く肩をすくめた。
「ま、かーるい愛情表現ってことで、二三発殴って、携帯と財布ゲットだよ」
「…………それ、まずくねー?」
「かもね」
それでも憂也の横顔には、深刻さの欠片もない。
少し沈んだ空気を察したのか、憂也はおどけたように全員を振り返った。
「あの人のことは、俺に任せてくんねーかな。そこまで悪い人じゃないんだ。ただ少し、余計なプライドが高いだけでさ」
「……でもさ」
物言いたげに、聡。
「迷惑かけたのは知ってるし、あの人にもその程度の自覚はあるよ。大丈夫、水嶋さんの性格なら、俺が一番よくしってっから」
大丈夫だよ、憂也は再度繰り返す。
そうだな、と将も思う。
本当に助けが必要になったら、憂也は自分で言うだろう。だから、本当に大丈夫なんだろう、今は。
「それよりさ」
憂也は、あっけらかんと話題を変える。
「びっくりしたのは唐沢さんだよ。俺らがどうやって、東邦の受付突破できたと思う?」
「……いや、どうやって?」
将でさえ、受付でアポを確認され、電話でいくつかのセクションの了解を得てからエレベーターホールまで進むことができたのである。
「俺すっかり忘れてたよ、入所した当時の唐沢さんの噂。キッズを何人も食い物にしてたっての、あれマジだね、本当の話。つか、あの人は天性の落としなんだ。受付のお姉さんなんか、もうメロンパンナのメロメロパーンチ状態」
憂也は楽しそうにまくしたてる。
「…………へぇ……」
いや、想像もつかないけど。
その前に、その例えの意味も判らない。
「すっかりいいムードであちこち電話を入れさせている最中に、背中で俺らにゴーサイン。あとは全員、エレベーターまでダッシュだよ」
そんな、目茶苦茶な。将は思わず、脱力しそうになっている。
「よ、よく掴まんなかったな」
「イタちゃんと逢坂君が犠牲になった。まぁ、どうなるかと思ったけど、唐沢さんは芸能人ばりの有名人だからね。なんとかなったんじゃねぇの?」
「俺、みてみたい。将君と唐沢さんの落とし対決」
りょうが、ぼそりと呟いた。
「俺、唐沢さんに千円」
「俺は将君」
「俺は唐沢さん」
くだらねぇ……。
そんなことを思いながら、将は自然に笑っている。
聡がいる。雅之がいる。憂也がいる。りょうがいる。
それから、俺がいる。
この時間が、ひと時が、今は何にも耐えがたいほど愛おしい。
だからなおさら、この時間が引き裂かれてしまうことが、想像するだけで辛く、耐えがたくなる。
「……本当に、いいんだな」
信号で足が止まる。全員の背中を見ながら、将は言った。
「俺はもう揺れたりはしない。俺たちのことはそれでいい。でも、唐沢さんや、織原さん、前原さんの会社は……これで、本当に終わりになっちまうかもしれない」
現実は夢とは違う。
今、こうしている間にも、現実の時は残酷に、そして冷酷に進んでいる。
「……なんとかしようよ」
雅之が呟いた。そして強い目で顔をあげる。
「いや、絶対になんとかなるよ。俺らが頑張って、一生懸命頑張ればさ、絶対、判ってくれる人はいるんだよ、出てくるんだよ。前ちゃんにも、他の人にもさ、いつか俺たちの手で恩返しできる時がくるよ、絶対に」
「戦おう」
聡が言った。
「絶対に逃げずに戦おう。もう隠れたり逃げたりする必要はない。俺たちを信じて、待ってくれている人のために、俺たちは全力で戦っていこう」
「わかった、もうそれでいこう、少年ジャンプで」
憂也。
「…………」
将は、苦笑して視線を下げた。
多分、現実はそんなに甘くない。
努力が、全て報われるわけじゃない。
夢を抱いたまま、消えてしまった将の父親――城之内静馬がいたハリケーンズのように。
「……そうだな」
将は思った。
それでも、もう、俺は親父とは違う道を行っている。
「そうだな」
力強く言って、夕陽に照らし出された全員の顔を見回す。
不思議だった。もう将の人生に、あれほど重くのしかかっていた真田孔明の陰はない。
過去の因縁のループは断たれた。ここからが、俺の本当の戦いなのかもしれない。
「河原いこっか」
聡が言った。
「久しぶりに全員がそろったんだ。やろうよ、コンサートのリハーサル」
「……見つかったらすごい騒ぎに……ま、いっか」
憂也。
「そうそう、どうにでもなれってことで」
「芸能人は騒がれてナンボだしね」
「よっしゃ、行くか!」
「てゆっか、オイ、お前、明日が楽日なんじゃ……」
一番に駆けだした雅之に、将の声は届いていない。
「しょうがねぇなぁ」
「将君」
りょうの声が、駆けだそうとした将をそこで、呼びとめた。
暮れていく空、三人の背中が薄闇の中に溶け込んでいく。
立ったままのりょうは、ひどく静かな目で将を見ていた。何かそこに、思いつめたものを察し、将はわずかな胸騒ぎを感じる。
「……ごめん、勝手にいなくなって」
「いいよ」
なんだろう、りょうの表情を不思議に思いつつ、将は軽くその肩を叩く。
「よく戻って来てくれたよ。何があったか知らないけど、もう吹っ切れたんだろ」
「……うん」
曖昧に、頷くりょう。
「言いたくなかったら、別に言わなくてもいいよ」
「…………」
無言のまま、りょうは静かな横顔を見せ、かがみこんで靴の紐を結び直した。
その背中が言う。
「今夜、少し時間いいかな」
「いいけど、なんだよ」
「話があるんだ」
「話?」
「うん」
頷いて立ち上がる。りょうはそのまま、綺麗なフォームで、将を置いて走り出した。
―――話……?
一瞬首をかしげた将は、ある予感に眉を寄せた。
まさか。
まさかな。
68
「なーおっ、あんたいつまでぐだくだしてんのよ」
うっせぇなぁ。
寝返りを打って、テレビを消す。
もともと見る気もなく流していたパラエティ番組。時折、昔馴染みの顔が出る。けれどそれは、もうよく知っていた頃とは別人の顔になっている。
階下では、母親がまだわめいている。
成人をとうに超え、それでもまだ就職のひとつもせず、バイトさえ長続きしない息子のことを、「まさか、今流行りの引きこもりなんじゃないかしら」と、無駄な心配をしているのである。
別に、引きこもってるわけじゃない。
あくびをして起き上がる。身体全体がなまっていた。何年か前までは、食べても食べても、太るどころか、むしろ痩せすぎを心配するほどのオーバーワーク状態だったのに。今では、そんな日々が自分の人生にあったのが嘘のようだ。
朝から晩まで踊っていた。夢を追って、いつか、あの光の下に立てるかもしれないという夢を追って、追い続けていた。
がらりと引き戸が開かれる。
立っていたのは、洗濯物を抱えた母親だった。
「いまさらだけど、あんたをJ&Mなんかに入れたのが間違いだったわよ」
「うるせぇよ」
「今はもうなくなったんでしょ?おそろしい、詐欺みたいな会社だったのねぇ。今でも損害賠償って請求できるのかしら」
そんなんじゃねぇよ。
そんなんじゃねぇんだ。
あの場所がどんなところで、頑張ってた俺たちがどんな気持ちだったか、それは絶対に、あの時間を共有した仲間にしか判らない。
J&Mバッシングが起きてから、昔のキッズとかいう連中が、顔を隠して音声を変え、いかにもJ&Mが金儲け主義のひどい所かということを声高にテレビで訴えていた。
けれど、そもそも、それが、芸能界を支える経済の仕組みというものではないのだろうか。
その土台に乗って、夢を見ていた。
全員が、光の下に立てるわけではない。いってみればそのチャンスを、人生を賭けたリスクと引き換えにもらっただけなのだ。
そんな理屈も判らないカス共が、平然とテレビに出て、被害者面で訴えている。
そんなクズの泣きごとを真に受けて、元キッズで多少名が売れて、それでもデビューに至らなかった連中が、憐れだの騙されていただの、人生を棒に振っただの言われている。
余計なお世話だ。
「コンビニ行ってくる」
「あんた、干すのくらい手伝いなさいよ」
母親もそうだった。
昔は「うちの子、J&Mに入ってるんですよ!」と、聞かれもしないのに声高に語っていた母親は、今となっては息子の過去をひた隠しにしている。
「むかつくよ、マジで」
リタイアしたことに後悔はしていない。しているとすれば、何故もう少し、あと少し、チャンスを信じて頑張らなかったのか、ということだけだ。今でもその後悔なら、多少はひきずって生きている。何をしても、長続きしないのはそのためだ。
現実的に、仕事はしようと思っている。働くのも嫌じゃない。でも、どうしても比べてしまう。あの苦しいほど濃密な、甘く、切ない、夢と希望と絶望と挫折に満ちていた日々と。
そしてあの頃、クソ生意気で、どうしても好きになれなかった後輩たちに、今は、むしょうに会いたいと思っている。
どん底の中で、今でも激しいバッシングにさらされながら、それでもJ&Mを再興しようとしている連中に。
玄関を出ると、バイクが止まる音がした。
路上、ヘルメットを被った郵便局の職員が、手紙を片手にポストの方に歩み寄ってくる。
「北川さん?」
苗字を呼ばれたので、はいと答えた。
「郵便です」
ダイレクトメールと共に、一通の封書を差し出される。
北川ナオ様。
「………………」
本名ではない、カタカナでの名前は、昔、J&Mに登録していた頃だけ使っていた芸名だ。
直は手紙を裏返す。見憶えのない名前。
いや、そう思ったのは一瞬で、すぐに、どこかで聞いた名前だと眉を寄せる。住所は千葉、綺麗な文字で書かれた名前は、流川凪。
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