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「そろそろ教えてくれてもいいんじゃねーの」
 半分倒した助手席。腕を首の後ろに当てて、憂也はあくびをしながら運転席の男を横眼で見た。
「一体どういう話になったのさ。俺、ストームに戻れるわけ?」
「…………」
 ハンドルを握る、むっつりと黙った男は答えない。
「水嶋さんさ」
 溜息をつき、憂也は少し真面目な声で言った。
「いいかげん、俺のこと信用してくんねーかな。俺は水嶋さんから離れる気はないし、裏切る気もない。携帯だって、自主的に預けてるじゃん」
 それでも男は喋らない。
 恐れていた柏葉将への再バッシング、そして続いて暴かれた自身の失策。
 クールで優秀だった男は、そこで、自身の何かが壊れてしまったのかもしれない。憂也が見る限り、自らが破滅への道を、それしか見えない愚直さで走りだしている。
「……いいよ、もう」
 憂也は首をすくめ、視線を窓の外に馳せた。
 水嶋を壊してしまったものは、もう一つある。
 内心、猛烈に意識していた唐沢直人への、敗北感だろう。
「今度はどこいく?ドームには出るけどさ、それまでだったら俺、どこへでもつきあうから」
 俺のせいだ。
 流れる景色を見ながら、憂也は思う。
 ここまで水嶋を追い詰めたのも、彼が私財を投げ打ってたちあげた「オフィス水嶋」を、実質倒産にまで追い込んだのも。
 正式な届出はしていないが、すでに事務員は全員解雇。名前だけは残っているが、芸能事務所「オティス水嶋」は、もうこの世界から消えてしまったのだ。
 わりーな、みんな。
 自分の奇妙な立場を思い、憂也は少しおかしくなる。
 どっちが大切かって、それはもう考えるまでもないのに。折しも将があんなことになって、今自分が消えることが、メンバーにどれだけ動揺を与えるか、それもよく判っていたのに。
 いつから自分は、こんな甘っちょろい男になったのかな、と憂也は思う。
 それでも、自分のせいで人生を棒に振ってしまった男のことを、どうしても見捨ててはおけない。
―――信じてるからな、雅。
 俺がいなくても、絶対にこのピンチを乗り越えて行けるって、みんなのこと、信じてるから。
「温泉なんかどうかなー。男二人ってのが、なんとも妖しい気はすっけど」
 憂也は明るく言って、男を見上げる。
「俺と死ぬか」
 空に目を向けていた憂也は、そのまま視線を止めていた。
 今、なんて言ったんだ、この人。
「俺と死ぬかと言ったんだ。前も言った、俺はもう、首を括るしかないほどに、追い詰められている」
「…………」
 少し考える。いや、少しじゃなくて、もっと考えないといけないかも、と思いつつ、やはり少しだけ考えて、憂也は顔を上げていた。
「いいよ」
「冗談じゃないんだぞ」
「んー、まぁ、本気で考えると怖いんで、ひとまず直前までは冗談ってことで」
 本気で死ぬ気もなかったが、答えたことは、別に嘘でも強がりでもなかった。
 水嶋が強行にそれを望んだら、なんとなくつきあってしまうような、投げやりな気持ちもある。が、おそらく本気ではないだろう。
 水嶋は――嘘でも、「いいよ」と言ってほしいだけなのだ。
「どうして、逃げない」
 それでも不機嫌な声のまま、水嶋は呟いた。
「俺は本気で、この世界から消えたいと思っている。一人じゃ寂しいから、お前を道連れにしたいとも思っている」
「…………」
 身勝手だなぁ。
 いや、俺が言うことでもねぇけどさ。
「今だって、ハンドルを右に切ってあの電柱に突っ込めば、俺とお前はおしまいだ」
「だったら、やれば?」
 さすがにわずかな怒りを感じ、憂也は助手席のシートに倒れこんだ。
 そんなに俺を試したいのか――そう思うと、虚しくもあり、悲しくもある。
 多分今日、唐沢が申し出てくれた支援も全て断ってきたのだろう。誰も信じられなくなる心理とは、一体どういうものなのだろう。
「眠いから寝る。やるんなら、起こさなくていいからさ」
 運転席からは、沈黙が返ってくる。
 車の速度が、わずかに増した気がした。
「お前がそんなに落ち着いていられるのは、戻る場所があるからか」
「…………」
 そうじゃないって。
 でも、反論したところで、ムダなことは判っている。憂也は黙って、寝たふりを続ける。
「仲間は絶対に自分を裏切らないと信じているからか。甘いな、憂也、お前が信じているストームは、もうこの世のどこにも存在しないぞ」
 何が言いたいんだよ。
 自分が人信じられないからって、頼むから俺まで巻き添えにすんなよ。
「ドームには出してやる。もう条件面で折り合いはついた。でも、お前はどう思うかな」
「…………」
「唐沢さんは、柏葉将を切り捨てた」
 わずかに薄眼を開けていた。
「柏葉が抜けて、代わりに貴沢ヒデがストームに入るそうだ。柏葉が出なければ、うちは最初からなんの問題もなかった。バカバカしくて、正直笑いが止まらなかった。今決断するなら、どうしてもっと早く決断しない、そのためにうちは」
「おい!」
 憂也は跳ね起きていた。まだ運転中の男の襟首を掴みあげる。
 車が軋んだブレーキ音を立てる。背後から続けさまのクラクション。かろうじて路肩に止められた車中で、憂也は水嶋の喉をしめるようにしてのしかかった。
「ばっ、馬鹿野郎、死にたいのか」
「死にたいつったのはあんただろ。それより今、なんてった」
「なんだと?」
「なんてったっつったんだよ。将君がどうした、なんでヒデの名前が出てくんだよ!」
 充血した目で、水嶋は憂也を睨みあげる。
「もう、手遅れだ」
 手遅れ。
 憂也は、自身の胸騒ぎが決して杞憂ではなかったことを理解した。
 あれだけストームには二度と戻さないと言っていた水嶋が、急に帰国して唐沢と話し合うと言い出した時――何か、言葉にできない不安を感じた時のことを。
「柏葉は、もうサインを済ませただろう。俺が事務所を出る少し前に連絡があって、一人で東邦に赴いたそうだ」
 あの。
「柏葉はお前らを捨てて安全圏へ逃げたんだ。どんな気持ちだ、憂也、それでもお前は、ストームに戻りたいか」
 あの、馬鹿野郎!
 ここ、どこだ。憂也は忙しなく視界を巡らせる。東邦本社はここからどれだけの距離がある。タクシ―を拾って、いや、間にあわない、まずは電話だ。
 一番てっとり早く、将君にいきつく方法は。
「携帯、どこだよ」
 憂也は、水嶋の胸倉を掴んで持ち上げた。
「今は、持っていない」
「出せよ」
「出せないな」
「いいから出せ!」
 激情が、掴んだ指を震わせる。
 水嶋が、不思議な眼差しで憂也を見上げた。
「……出してもいいが、条件がある」
 条件?
「お前が、ストームに戻らないことだ」
「…………」
「年末のドームを諦めることだ」
「…………」
「そうすれば、携帯を返してやる」
「…………」
「自分か、柏葉か、好きな方を選べばいい。普段お前らがやっている友情ごっこがどの程度のものか、俺にじっくり見せてくれ、憂也」
 


               62


「よく来てくれたね」
 すぐに席を立って出迎えてくれた人に、将は丁寧に一礼をした。
「一人かな、受付ではそう言っていたようだが」
「一人です」
 将は、そう答えて、肩を抱いてくれた男を見上げる。
 真田孔明。
 170センチを超える将を見下ろすほどの美丈夫である。間近でみるとますます年齢が判りにくいが、男からすれば、将は孫のような年代だろう。
 家族とか、いんのかな。
 ふと将は、今まで考えもしなかったことを思っている。これだけ密接に人生をリンクさせながら、将は、この男のことを何もしらない。
 先日と同じ応接室で、男は同じ表情をして将を待っていてくれた。完全なる、勝利者の目をして。
「座りたまえ」
 促された席の前には、数枚の書類が並べられている。
 それを手にした将の前に、入室してきた秘書風の女性がコーヒーを出してくれた。
「じっくりと目を通してもらって構わない。君の一生がかかった契約だからね」
 甘い匂いのする煙草をくゆらし、真田はゆったりとソファに身を沈める。
 眼差しには、自己愛ともとれる慈愛が滲んでいた。
 彼が今、ひどく満足していることを、将は察した。不思議だった。一体自分のどこに、この世のすべてを手に入れようとしている男に執着される要素があるのか。
「今夜にでも、君には私の屋敷に移ってきてもらいたい」
 テーブルの前で指を組み、真田は言った。
「二年……その程度は謹慎が必要だろうね。その間、しっかりと私の元で勉強をしなさい。ほとぼりがさめたらアーティストになるのもいい。しかしいずれは、東邦の経営に携われる程度のスキルを身につけてもらいたい」
「…………」
「ストームはその頃、どうなっているだろうね。君がプロデュースすればいい。もう君は、使われる立場ではなく、使う立場なのだから」
 使われる――使うか。
 そういうもんかよ、タレントと会社って。
 けれど今、そんな不毛な議論を振っても仕方がない。
「……ひとつ、訊いてもいいですか」
 ぎっしりと文字で埋まった契約条項を見ながら、将は言った。
「なんだろう」
 ゆったりと、真田。
「ここにいるのが親父だったら」
 城之内静馬だったら。
「どうしたと思いますか。俺は親父のことを何もしらないから」
「なんのための質問かは知らないが」
 真田はシガーを灰皿に落とした。将にも何故、この土壇場でこんな質問をしてしまったのか判らない。
「答えるのは簡単だ。彼は迷うことなくサインしていただろう。実際彼はそうしたのだから」
「…………」
 実際、そうした。
 将は、眉を寄せて、対面の真田を見つめる。
 白皙の老人は、憐れむ様に微笑した。
「もう何十年も前の話だ。今の君と同じ表情で、同じ眼差しで、静馬は私の前に座っていた」
「…………」
「君は知らずして父親と同じ道を歩んでいる。そしてそれは、君にとっても仲間たちにとっても正解だ。今、J&Mがこの世にあるのはどうしてだと思う」
 もういい。
 将は息を吐いて、こみあげる激情に耐えた。もう、いい。もう聞く必要はない。
 父親も自分も、結局はこの巨大な力の前にひれ伏したのだ。
「サインします」
 将は言った。「ペンを貸してもらえますか」



               61


「来られていたんですか」
 室内にいる人を見て、前原大成は、少し驚いた声をあげた。
 電話だけが鳴っている無人の事務所。電話はすぐに留守番メッセージに切り替わる。
 すでに芸能事務所としては、用をなさなくなった、九石ビル三階、J&M。
「お久しぶりです」
 織原瑞穂はそう言って立ち上がり、丁寧に一礼した。
 夏でも折り目正しいスーツを常に身にまとっている理知的な男は、冬の最中でも、矢張り同じスタイルで通している。
 織原瑞穂。株式会社ライブライフの社長であり、こう言っていいなら、J&Mのスタッフの一人。
 同じく別会社社長である前原大成が、自らをすでにJ&Mのスタッフだと言い切っているように。
「唐沢社長は、留守ですか」
 室内を見回してから、前原は言った。暖房のない冷え切った室内は、吐く息さえも白く見える。
「そのようです。いや、実はつい先ほどまでおられたのですが」
 織原は苦笑して、卓上の缶コーヒーを、前原に差し出してくれた。
 少し温い、唐沢のために用意したものなのかもしれない。
「電話を受けて、……なんですかね、その後、しばらくは平静に話をしていたのですが、急に立ちあがって、出て行かれました」
「なんの、電話だったんでしょう」
「さぁ」
 織原は首をすくめる。前原は少し迷ってから、その対面に腰かけた。
 ストーム復活公演を一緒に準備してきた運命共同体、織原瑞穂もまた、マスコミの猛バッシングを一身に受け、今の会社での地位を危うくしている。
 なのに男は、騒動の前とまるで変わらない落ち着いた態で、コーヒーの缶を唇にあてていた。
「……実は、今日は、降りようと思って、ご挨拶に伺いました」
 膝の上で拳を握り、うつむいたままで、前原は言った。
「コンサート、ですか」
 頷く。
 織原は何も言わなかった。
「昨日、唐沢さんから大幅なプラン変更の打診を受けまして……正直、もう僕が出る幕ではないと、判断しました」
「東邦さんの件ですか」
「ご存じだったんですか」
 前原は顔を上げる。織原は静かに頷いた。
「私もその件で、最終的な確認に伺わせていただいたんです。柏葉君が抜けて、貴沢秀俊君がストームに加入すると、そういう話になったと聞きました」
「…………」
 前原は、何かを言いかけて、そのまま横を向いていた。
 言葉にすると、堪えていたものが壊れそうになる。
「これが……結末だったんでしょうか」
 かろうじて、それだけを言った。
「これがあいつらの、結末だったんでしょうか」
「…………」
「誰も責めることは、できないと思います。……ただ……」
 さすがに、声が途切れていた。
「自分の無力さが、悔しくて……」
 世論という大きな波に飲み込まれ、前原も自身を守ることで精いっぱいだった。ひがなかかってくる理解不能の苦情電話。犯罪者を応援するのか、犯罪者の味方をするのか、売名行為はいい加減にしろ。――いや、そうではないんです、柏葉君はもう法的に罪を償っているんです、たとえ犯罪歴があっても、それを受け入れるのが社会のつとめではないんですか。
 正論も理想も、大きな波に飲み込まれ、踏みにじられ、嘲笑された。
 業務は停滞、音楽業界からは完全に干されたレインボウは、すでに解散するしかないところにまで追い込まれている。
「……前原さん」
 織原が、立ちあがる気配がした。
「柏葉君の被害者がテレビにでた時から、僕にはこうなることが、ある程度予想できていました」
「…………」
「正直に言えば、もっとうまく立ち回る方法はあったと思います。僕は不思議だった。真咲さんにしろ、唐沢さんにしろ、もしかして意図的にJ&Mを潰そうとしているのではないかと思ったほど」
「唐沢さんは、ともかく」
 ここ数週間の激変の日々を思い、前原は苦く呟く。
「真咲さんは……僕にもよく、判りません。性別で判断するつもりはないですが、やはり女性には耐えられなかったのでしょうか。ああいう状況で、会社を去っていかれたというのは、どうも」
 体調のせいだと言い訳のように説明されたが、今でも前原には理解しがたい。彼女が企画したテレビ番組が、いってみれば仇になって、今の惨状を招いたのだ。
「……彼女は」
 うつむいたままでいると、窓辺に立つ織原の、呟くような声がした。
「2005年の先の世界をみていたんじゃないかと思います。僕らにとってはコンサートの成功がすべてでしたが、彼女にはそうではなかったのかもしれない」
 眉を寄せ、前原は顔をあげる。
 2005年の先の世界。
「そして唐沢さんは、無意識のうちにそれを理解していたのかもしれません。柏葉騒動が起きて以降の唐沢さんの動きをみると、僕にはそうとしか思えない」
「……どういう、意味でしょう」
「僕にも上手く言えません。ただひとつ言えるのは、コンサートが終われば物語が終わるわけじゃないということです。彼らには、この先何年も、長い長い人生が待っているんです」
 それは……判る。しかし。前原は拳を握りしめていた。
「コンサートが失敗すれば、そこで芸能人としては、何もかも失うことになるんですよ」
 思わず口調が強くなっている。
 それには答えず、織原はコーヒーを一口含んだ。
「……そうかもしれません。僕には、いや、誰にだってこんな危険な賭けはできない。それが愛する人なら、なおさら」
 愛する人なら。
 その意味がわからず、前原は目をすがめて瞬きをする。
「大きな……全てが包括された、素晴らしい世界」
 独り言のように、織原は続けた。
「そこには、善も悪もない。全ての罪が赦され、僕たちが生きてきたこと、してきたこと、その全ての意味を知ることができる」
「…………」
「僕たちは決して一人ではなく、支え、支えられ、憎み、憎まれ、そして愛し、愛されてこの世界に存在している。赦すことで人は癒され、憎むことで愛を知ることができる。不条理なことも、耐えがたいと思うことも、全てはひとつの輪として繋がっている」
 言葉を切り、織原はまっすぐな目で前原を見つめた。
「そんな世界に住むことができたら、人生はどれほど生きやすいかと思いませんか」
「……理想ですね」
 前原にはそれしか言えない。というより、今、こんな話をする織原の意図が判らない。
 織原は苦笑し、そして遠い目を窓の外に向けた。
「それは現実に、誰の心にも存在している世界なんです」
「…………」
「誰でも持っている世界なんですよ。前原さん」
「…………」
「真咲さんは口癖のように言っていました。歌は、その世界へ続く扉を開く、唯一の、そして絶対のものなんだと。僕は彼女が、決して意味のないことをしたとは思わない。彼女はストームに、扉を開く鍵になってほしかったんじゃないかと思います」
 鍵。
 扉を開く――鍵。
「その光は……あらゆるものを包括し、跳ね返すほど、強く、大きくなければならない」
 ようやく織原の言いたいことが判ったような気がした。
 前原は視線を下げる。
「ストームは光です。そしてその光がきっと、彼女がいう世界を開く鍵になる」
光――光、か。
「これから先、彼らがどうなっても、……僕はそれを、信じていようと思います」

                



 

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