58


「りょう、実家に戻ってんだろ。うん……メールしてっけど、返事なくてさ。聡君は?」
 滝のように流れる汗を拭いながら、雅之は話の合間にペットボトルの水をがぶ飲みにした。
 幕が降りたばかりの客席からは、まだわずかなカーテンコールの拍手の音がする。
 心地よい疲労の中、通り過ぎるスタッフや出演者が、「おつかれ」と肩を叩いてくれる。
 12月2日。雅之の初主演舞台「どついたろか」は明日がいよいよ千秋楽だった。
 外では、まだストームは目茶苦茶に叩かれているだろう。契約した会社のキャンセルが相次ぎ、コンサートの開催が危ぶまれているのも知っている。それでも、雅之がいる舞台という別世界は、暖かな拍手があり、声援があった。こんな暖かな人たちが、一体今までどこにいたのかと思うくらい。
「……そっか、ないのか、うん……」
 知らず、暗い声になる。
 携帯電話を握りしめながら、雅之は、わずかに唇を噛んだ。
 正直、どうしてりょうばかりが、と思う。雅之も聡も憂也も将も、叩かれてはいるが、それはあくまで本人のことだ。りょうのように、父親の過去の醜聞まで暴きたてられたらたまらないだろう。
「実家も大変じゃないのかな……落ち着いて休めてるんなら、それでいいけどさ」
 時間できたら、一回島根に行ってみようよ、という聡の言葉に大きく頷く。そして雅之は、勢い込んで続けた。
「大丈夫だよ。あのさ、やっぱライブだよ。ライブやれば、りょうも絶対元気になる。お客さんの前に出れば大丈夫。つか、出なきゃダメなんだよ、俺たちは」
「どうしたんだよ、急に」
「前も言ったじゃん、俺らもお客さんに力あたえてっけど、俺らだってお客さんに、ものすげーパワーもらってんだって。その交換会がライブなんだよ。今の俺たちだからこそさ、絶対にやらなきゃいけねーんだ、ドーム」
 電話の向こうで聡が楽しそうに笑っている。
「状況最悪なのに、すごいね、雅は」
「もしかして馬鹿だから?」
「正解」
「今から会おうぜ、聡君」
「あはは、そろそろ全員集合したいよな」
 りょうのこともそうだが、あれから連絡の取れない憂也のことも気がかりだ。電話の向こうで笑っている聡も、多分同じ思いを抱いている。だからこそ笑っているのだろうし、雅之も笑う。そうしないと――また夏の二の舞になってしまいそうだから。
 CMスポンサーの撤退が正式に決まり、映画どころか全ての仕事がなくなった憂也は、今、事務所社長でもある水嶋と共に、完全に表舞台から姿をくらませている。
 何度かけても携帯には電源が入っていない。が、何故か先日、冗談社あてに憂也本人から電話があった。
 電話を受けたケイの話では、今憂也は、水嶋と共にロサンゼルスにいるという。ほとぼりが冷めるまでの海外逃亡――そう報道されていたが、本当にその通りだったのかもしれない。
「携帯なくして電話できないけど、元気でやってるし、近々戻れそうだから、心配しなくていいってさ」
 ケイからもたらされた伝言はそれだけだった。
 携帯電話は……なくしたのではなく、取り上げられているのかもしれない。
 柏葉将事件の被害者がテレビに出て以来、憂也の処遇を巡っては、唐沢と水嶋の間に埋まらない相違ができたらしく、両社はすでに、話し合いさえできない状況だ。
 スポンサーに映画降板の件を隠していたことも、結局はJ&Mのせいにされてしまった。唐沢がそれを否定しなかったのは、ひとえに憂也のイメージを守るためだろう。
 憂也なら、大丈夫だ。
 憂也なら、自分で窮地を切り開いて、絶対に帰ってくる。
 雅之は、そう自分に言い聞かせる。それでしか、もう自身の平静を保てない。
 雅之からすれば最低だとしか思えない水嶋と行動を共にしているのも、憂也なりの考えがあるのだろう。コンサートの稽古が再開されれば、また絶対に戻ってくる。
 逢坂らは努めて明るく振る舞っているが、ストームを取り巻く状況は最悪だ。それもよく判っている。世間がコンサートの中止を求めているのも知っている。その流れを受け、今まで協力を申し出てくれていた企業が、次々撤退を決めていることも。
 それでも――と、雅之は思う。
 自分のどこにそんな太い根が生えたのか、雅之自身にも判らない。
 前原大成や鏑谷会長、迷惑をかけてしまった人には、一生かけて、歯を食いしばってでも、借りを返していかなければならないと思う。
 でも――それでも、ドームに立ちたい。
 文化祭のノリでも素人演芸場のノリでも構わない。観客が来なくても、これが最後になってもかまわない。ライブがしたい、ドームで五人で歌いたい。
「あ」
 聡の声がした。
「今気づいたけど、将君からメール入ってる。まめだよなー、相変わらず」
「毎日だもんな。俺、彼女になりてーよ、マジで」
 雅之も携帯画面をのぞきこむ。メールマークが点滅している。通話前はなかったから、今、話している間に入ったのだろう。
「じゃ、切るよ、また連絡すっし」
「うん、千秋楽、頑張れよ」
「おうよ、その後はみんなで島根に乗り込もうぜ!」


 雅、おつかれ。
 明日は楽日だな、本当におつかれさん。
 いっぺんくらい観たかったけど、結局は行けなかったよ、ごめん。
 もしよかったら、俺らがやったミニコンサートみたいにさ、関係者だけ集めてまた再演してくれよ。なんだったらお前一人で。


 できるかよ。
 雅之は苦笑して新しく流れる汗を払う。
 そしてふと思う。
 今日のメール、いやに長いな。


 奇蹟の成功、覚えてるか。
 あの曲がヒットしたのは、何も真咲さんのプロデュースのせいじゃない。 むろん、俺の親父の作った曲が最高だったからって言う気もない。
 あれはさ、五人がそれまでがんばってきたことの結晶なんだ。
 積み重ねなんだよ、雅。
 思い出せよ。
 それまで俺ら、一人一人がピンで、ありえねー仕事、一生懸命してきたじゃないか。
 聡はセイバー。
 雅はサッカー部。
 りょうは舞台。
 憂也は声優。
 俺は昼ドラ。
 一人の輝きが、結局は全員の輝きになるんだ。

 がんぱれよ、雅。
 その仕事だって、結局はストームにつながってるってこと、絶対に忘れるな。


「…………」
 一人の輝きが。
 みんなの、輝きか。
 胸が暖かくなるのを感じ、雅之は笑顔を押し殺して立ち上がった。
「雅君、今日の舞台だけど」
「はいはい、もう、なーんでも言ってくださいよ!」
 あまりにハイテンションなリアクションに、周囲のスタッフも苦笑している。
「ま、とにかく反省会するから着替えてきてよ」
 普段厳しい演出家も、どこか和んだ目をしている。
 携帯を持って立ち上がった雅之は、ふと、不思議な違和感にとらわれる。
「…………」
 なんだろう。
 それが何か分からないまま、雅之は首をかしげて歩き出した。



                59


「よっ」
 どこか鼻に抜けた軽い声。
 振り返ったケイは、さすがに「あっ」と声をあげた。
 開いたままの扉。そこで片手をあげて笑っている、キャラメル色のレザーコートを着た男。
「いやー、悪いね、特に土産はないんだけどさ」
 綺堂憂也は、まるで温泉旅行から帰ってきたかのような気楽さで、傍らの椅子に腰を下ろした。
「さむー、日本の冬は寒いけど、ここはその中でも格別だね」
 憂也ははぁっと息を吐き、その息の白さにわざとらしく驚いている。
 東京、神田、冗談社。
 大森とミカリは自宅待機。事務所には今、ケイと、そして相も変わらずパソコンを睨みつけている高見しかいない。
 ケイは、口を開いたままで、立ちあがった。
 綺堂憂也。
 映画降板をスポンサー企業に隠匿していたことをマスコミにすっぱ抜かれ、以来、一切の消息を絶った。雲がくれ、海外逃亡、と、散々叩かれていた憂也である。
「あんた、今まで何してたのよ」
「だからあっちで、営業みたいなこと」
 ひょい、と首をすくめながら憂也。
「この大事な時期に?今、こっちがどうなってんのか、知ってんの?あんた」
「ネットは世界どっからでも見られるからね。なんとも便利な時代じゃん」
「あんたねぇ……」
「いいじゃん。どうせ日本にいたって、将君みたいに隠れるしかなかったんだから」
「あんた、最初から騙すつもりで隠してたの」
「どうだろ、微妙?」
「…………」
 つめよっても、所詮のらりくらりと逃げられる。そのくせ、決してふざけているわけではないから性質が悪い。
 ケイは、憂也を問い詰めるのを諦めた。
「で、結局、戻ってきたのね、あんた」
「だーかーら、戻るも何も、別に逃げたわけじゃないんだって」
「水嶋のヤローはどこ行ったのさ」
 そう、問題は水嶋大地だ。
 この大騒動の最中、自らの失態を唐沢直人におしつけ、とっとと海外にとんずらを決め込んだ男。
 結局、後の始末は、全てJ&Mが負うことになった。オフィス水嶋の代理人として、借財の整理、違約金の示談までやらされて――しかも、表向き、映画降板の隠匿は、J&Mが主犯扱いになっている。直人の制止がなかったら、ケイ自らがスクープしてやりたかったほどだ。
「水嶋さんなら」
 憂也は立ち上がりながら、上を指さす。
「上?」
 上階にあるJ&M事務所。
「唐沢さんと話し合い。どういう風の吹き回しかしんねーけど、やっとまともに話す気になったみたいだよ。コーヒーもらうね」
 ケイは無言で、上階を睨みあげた。
 今月に入ってから、唐沢は再びJ&M事務所に戻ってきた。ただし、もうそこに、以前のような活気はない。今朝訪ねてきたのは鏑谷プロのカン・ヨンジュで、その来訪の意図は容易に察せられた。
 昨日、鏑谷プロ会長の鏑谷創が、正式に引責辞任したのである。
「じゃ、やっぱりあの野郎は、意図的に逃げてたんだ」
 上を睨みながら、ケイは言った。
「サイテーのチキン野郎じゃん。あんた、なんだってそんな奴の傍にいたのさ」
 どうしたって許せない。水嶋の身勝手な行動が、結果的にJ&Mをここまで追い詰めたのだから。
「あんただって知ってたんでしょ。あの後J&Mが、どんなひどい目にあったのか」
 コーヒーをカップに注いでいる憂也の背中は答えない。
 ケイは苛立って机を叩いた。
「今回ばかりは、あんたらしくないよ、綺堂憂也。マスコミの反応くらい、読み切れないあんたじゃないでしょ!」
「…………」
 不思議な表情のまま、憂也はカップを抱いて席につく。
「なんかあった?」
 そして、ケイの顔を見上げてそう言った。
「はっ?」
 逆にケイが、眉を上げている。
「何って?なんかあったっていうならもう、数えきれないくらい何かあったわよ」
「いや、そういうんじゃなくてさ。ここ二三日前くらいに」
 二三日、前。
 ケイはわずかに思案する。
 それが何だというのだろう。
「……別に、特別に何かあったっていうほどの記憶はないけど」
「ふぅん」
 と、憂也は興味をなくしたようにコーヒーを一口すする。それから思いついたように顔をあげた。
「将君の携帯、わかるかな」
「番号?あんた、自分の携帯どうしたのよ」
「なくしたんだ。悪いけど貸してもらえたら助かる」
 携帯を無くした。
 どうも嘘臭いような気がした。この、携帯がなければ何もできない今の時代、しかも綺堂憂也のような芸能人が、何日も前に携帯電話をなくして、いまだ新しいものを手にしていないとは考えがたい。
「あいつ、暇してるみたいだから、一回繋がったら長いわよ」
 それでも携帯電話を開きながら、ケイは言った。
「そうなんだ」
「長い長い、アタシなんて一晩無駄話につきあわされたんだから」
「んじゃ、将君元気なんだ」
「ストームの連中は、片瀬以外、そこそこ元気にやってるみたいよ」
 番号を選んで、ケイは携帯を耳に押しあてる。
 呼び出しコールは、すぐにメッセージに切り替わった。
 圏外――か、電源を切っているか。
「今、ちょっと無理みたい」
「元気にしてんなら、もういいよ」
 わずかに考え込むような眼になったが、憂也はすぐに、いつもの調子でおどけたような微笑を浮かべた。



                 60


 いい加減ホテルの飯も飽きちまってさ。
 しかもカロリー無駄にたけーし、俺、ドームじゃもう脱げない身体になってっかもしんねー。
 部屋で筋トレしてるけど、まるで明日のジョーにでもなった気分だ。


 相変わらずだな。
 携帯メールの字を目で追いながら、聡は自然に苦笑している。
 本当にまめだよ、将君は。
 暇なせいもあるかもしれないけど、殆んど一日と欠かさずに、こうやってメールを入れてくれる。内容は、本当にどうでもいいことばかりだけど。
 でも、そのどうでもよさに、辛いことや、やりきれなくなるほど嫌なことも忘れられるんだ。明日も頑張ろうって思えるんだ。
 いつになく長いメール。
 聡はボタンを押して、画面をスクロールさせる。


 ドームでさ。
 もし俺が暴走したら……いや、俺じゃなくて、他の誰でもいいから暴走したら。
 聡、お前がきちんと止めてくれよ。
 これから五人がバラバラなこと思うようになっても、お前がきちんと要になって押さえてくれよ。そうすれば、どうなったって、ストームはストームなんだから。
 期待してっからな。
 頼んだぞ、聡。



「………………」
 不思議な胸騒ぎがした。
 なんだろう。
 蜃気楼みたいに淡くよぎって、そしてすぐに消えていった感覚。
 文面はいつも通りなのに、いつものようにどうでもいいことや、将君らしい説教めいたことが書かれているのに、何かが、心に引っ掛かっている。
 ひどく――大切なことを見落としているような。
 なんだろう。
 まぁ、多分、気のせいだろうけど。
 気分を取り直して、返信を打ち始める。着信音が鳴ったのはその時だった。
―――えっ……?
 ウインドウに表示された名前を見て、聡は思わず立ちあがる。
 そして、もどかしく指でキーを押して、携帯を耳に当てていた。

 
 固く閉じていた目を開き、将はゆっくりと立ち上がった。
 最後のメールをりょうに打ってから、しばらくそのまま動けなかった。
 もうとっくに割り切ったと思っていたのに、意外なほど未練がましい自分が、不思議でもあり、おかしくもある。
 すでに、携帯の電源は切っている。今日はもう、入れることはないだろう。わずらわしい契約を、全て終わらせてしまうまでは。
 おかしなメールに、なってねぇかな。
 普通に打ったつもりだけど、女々しい内容になってたらみっともねぇな。
 綺麗に片付いた部屋を、再度見まわす。別に愛着があるわけではないが、もう二度と、ここに戻ることもないだろうと思うと、少しだけ風景が心が沁みた。
 過ぎてしまえば、通り過ぎてしまえば、二度と戻れない時と場所。
 憂也、ストームのこと、頼んだぜ。
 聡、憂也とヒデは絶対喧嘩するからさ。それ、上手くまとめてくれよ。
 雅、もっかいお前と、一緒にサッカーやりたかった。
 りょう……。
 お前のことだけが、本当の意味で気がかりだよ。できることなら会いたかった。会って、別れが言いたかった。
 女々しくていいのなら、悟られていいのなら、みんなに礼が言いたかった。
 ありがとう。今まで本当にありがとう。
 最後に、ホテルの電話を使って、指が覚えている事務所の番号に電話を入れた。
 案の定、留守番電話のメッセージが流れだす。
「柏葉です」
 将は、できるだけ明るい声で、切り出した。
「今から行ってきます。ホテルはチェックアウトをすませておきますので、後のことはよろしくお願いします」
 電話の向こうからは、当然のように沈黙が返ってくる。
「今まで、……ありがとうございました」



                



 

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